心地よい疲労に身をゆだねながら、ルークは月明かりの下で揺れる水面を見つめていた。皆で雑魚寝する寝室のベランダに腰かけ足をぶらぶらさせながら、先ほどまでの出来事を思い出す。
ルークが初めて接客した神様(ヴァンが言うには、あれは名だたる川の主だったらしい)が去った後、その場は大混乱になった。お駄賃代わりだったのだろうか、その神様が残していった砂金を競い合うように皆拾い始めたのだ。ルークは心の余裕が無くてぼーっと突っ立っていただけであったが、あの勢いを見る限り参加しなくてよかった所だろう。結局ほとんどの砂金はヴァンが回収していってしまったが。
「台所からかっぱらってきた。ほら」
「あ、シンク。ありがとう」
そこにやってきたのは、饅頭の乗った皿を持ったシンクだった。大きな饅頭を両手で持ち齧り付けば、あんこの甘さが全身に染みわたっていく。ごろんと横に転がったシンクと並んで饅頭を齧っていれば、足元を水しぶきを上げながら電車が通り過ぎて行った。
そうしてルークは今更気付く。足元まで水面が広がっている?
「……海?」
「雨が降ったんだから、海ぐらい出来るさ」
ルークが驚きの声をあげるが、シンクは何てこと無い口調であっさり答える。そういうものなんだろうか、気にするだけ無駄だろうとルークは考えないことにした。夜の暗がりの中ゆらゆらと揺らめく水面の向こうには、小さくではあるが明りが見えた。この油屋にやってくる神様たちは船に乗ってあの向こう岸からやってくる。向こうが一体どんな所なのかルークには分からないが、いくら手を伸ばしても届かない明りはどこか遠い異国を思わせた。
「僕さ、いつかあの街に行くんだ。こんな所絶対にやめてやる」
饅頭を頬張りながらシンクが言う。仕事もできるし強かなシンクはどこででもやっていけそうだ。それに比べて俺は大丈夫かなあと自分の将来が若干不安になったルークは、ふと手元を見つめる。そこにあったのは、あの神様がくれた(と思う)固い団子であった。チップみたいなものだろうか。本当に何の気もなしにそれを少しだけ齧ってみたルークは、すぐに自分の軽率な行動を後悔する事になる。
「……?!!!」
「ん?どしたの?」
「っ苦……!苦いっ……!!」
シンクの疑問の瞳に答える余裕もないまま慌てて饅頭を口いっぱいに詰め込むが、しばらくこの信じられない苦さは忘れられそうになかった。
しかしこの苦団子、神様からの授かりものである。何だか魔法みたいな効力がありそうだ、とルークは密かに心を躍らせた。もしかしたら……これを食べさせれば、両親は元の姿に戻る事が出来るのではないか?
今度試してみようと決めて、ルークはもう一口、饅頭を齧った。少しの希望を抱きながら食べた甘い味は、ことさら美味しく感じた。
客もいない、従業員も寝静まっている時間。拾い損ねた砂金がどこかに落ちたりしていやしないかと、寝床からこっそり抜け出して浴場の床に目を凝らす銀髪が一人。小さい粒が隙間に挟まっていやしないかと必死に探すその目の前に、ころりと音を立てて何かが転がり落ちてきた。その金色の輝きに瞬時に飛びつく。
「さっ砂金だ!……あれ?」
拾い上げてからどこから落ちてきたのか見渡してみれば、風呂釜に腰かけてこちらを見下ろす男がいた。本来ならば従業員でさえここにいるはずはない、それに男は見覚えのない者だった。
「あ、あんた何者ですか、お客さんじゃあ、ないですよ、ね?!ここは立ち入り禁止になっているんですけど!」
ビビりながらも声をかければ、男は無言で手を差し出した。と思ったら、その手の平に何と見る見るうちに砂金が湧き出てくるのだ。思わず大声をあげてしまいそうになるほど驚いた。
「さ、砂金を出す事が出来るんですか……?!」
キラキラと沸き出す砂金の山に魅了された足取りで男に近づく銀髪。それを見ていた金髪の男は、しめしめとばかりにほくそ笑んでいた。
「……っ!」
ルークはハッと目を見開いた。全身に汗をびっしょりとかいているのがすぐに分かった。乱れた息を整えながら、目に入る太陽の光にまだ起床時間では無い事を悟る。そう、本来ならば日が暮れ出してから皆仕事のために起き出すのだ。それなのに今目を覚ましてしまった原因は、先ほどまでルークが見ていた夢にあった。
神様から貰った苦団子、あれをブウサギ小屋に持っていった夢であった。あれを両親に食べさせて、人間に戻そうとした。しかし出来なかった。ブウサギ小屋にはもちろん大量のブウサギが飼育されている。その中から父と母だけを見つける事が、夢の中のルークには出来なかったのだ。
せっかく生まれた僅かな希望が摘み取られたような気がして気分の落ち込むルークだったが、ふと辺りを見渡して飛び起きた。確かにまだ仕事時間では無い。そのはずなのに、周りの布団は皆もぬけの殻で、誰もいなくなっていたのだ。
ふすまを開けて部屋から這い出せば、外はとても良い天気だった。ベランダから見下ろせば、夜の闇でよく見えなかった青い水面もよく見えた。
「本当に海になってる……それに煙が。ジェイドがもう働いてるのかな」
ボイラー室からの湯気にそんな事を考えるが、一瞬のうちにありえねーという結論に達した。しかしいくら考えられなくても青空にたなびく湯気は消えない。どういう事だろうと下に降りかけたルークは、そこでばったりシンクと出会った。
「あっルー、ちょうどよかった、今起こしに行こうと思ってたんだ。まっそのまま寝かしておいても良かったんだけど、後で恨まれても困るし」
「え、何かあったのか?」
「ほら、これ見なよ」
シンクが差し出してきたものは、砂金の粒であった。確か砂金は昨日のうちにほとんどヴァンが回収してしまったはずである。ルークが驚いていれば、シンクがにやりと笑った。
「今すっごく気前の良い客が来てるんだ、もう砂金ばらまき放題なんだよ。ヴァンの奴は今出掛けてるからさ、今がチャンスって訳。ルーもきなよ」
「あ……俺、ジェイドの所にいかなきゃいけないから」
正直、砂金にはあまり興味は無かった。それよりも隙があればブウサギ小屋の方へ行ってみたかったのだ。ルークが首を横に振れば、シンクはふーんと呟くだけだった。
「ま、いいけど。今あそこには近づかない方がいいよ、叩き起こされたジェイドが怒り狂ってるはずだから」
「シーンクー!次の砂金貰いにいこーっ!」
「あ、うん。それじゃ」
声をかけられたシンクは手を振ってから駆けて行ってしまった。それを見送ったルークはベランダへと戻る。本当はボイラー室に行ってここから抜け出したかったが、ジェイドが怒り狂っていると聞いてそこに飛び込む勇気はあいにく持ち合わせていなかった。平常時でさえ鬼のような譜術を放っていたのだ、怒っている時なんて……想像したくない。
逃げ出す事も出来ないサフィール達がどんな目に合っているか想像しながら心の中で合掌したルークは、ベランダの手すりに凭れかかった。あのブウサギ小屋の屋根がここからも見えた。
「お父さんとお母さん、大丈夫かな……特にお父さん、ブウサギでの生活が病みつきになってなきゃいいけど……」
昔からブウサギ大好きだった父の心配をしながらルークは大きなため息をついた。
そうやって何となく外を眺めていたルーク。その目に異様なものが飛び込んできたのは、それから少しも経たない頃だった。
「……?何だ、あれ」
水面を、いや水面の上を何かがこちらに向かって猛スピードで飛んでくる。細長く見えるその何かは、太陽の光を反射させて赤く燃え上がる炎のように見えた。そこでルークは以前橋の上で見た不思議な生き物と、昨晩出会ったあの川の神様を思い出す。
「!あの時の赤い竜だ!それと……あれは何だろう、鳥?」
泳ぐように空を移動する竜に、まとわりつく無数の白い影が見えた。一見それは鳥のように見えたが、すぐに違うとわかった。紙であった。人をかたどったたくさんの紙が、竜を追いかけているのだ。まとわりつかれた竜は紙から必死に逃げているようだったが、逃げ切る事が出来ない。水中に逃げても、空高く飛び上がっても紙はどこまでも付いてきた。
空中でもがくように暴れる赤い竜に、気づけばルークは身を乗り出して呼びかけていた。
「こっちだよ!……アッシュ!」
(アッシュ?)
今何故自分はアッシュの名前を呼んだのだろうか。ルークは困惑すると同時に、理解した。そうだ、あれはきっと、アッシュなのだと。あの美しい赤い竜は、アッシュだ。
「っアッシュ!」
ルークの呼び声が聞こえたのだろうか。赤い竜は身をくねらせうっとおしい紙を身体から振りほどいてから、真っ直ぐルークの方へと向かってきた。声をあげてルークが避ければ、赤い竜はそのままの勢いでベランダを抜け寝室へと突っ込んでいった。
もちろん後からあの紙も追いかけてきている。ルークは慌ててガラス戸を閉めようとしたが、僅かに間に合わず締め切れなかった隙間から大量の人型の紙がルークへと襲いかかった。
「うっうわああああ!……あ、あれ?」
無我夢中で顔や体に張り付く紙たちを払いのけたルークは、自分が一切怪我をしていない事を知る。ガラス戸や壁やルークにぶち当たった紙は、そのままひらひらと床へ落ちてしまっていた。さっきまでの勢いがまるで嘘のようだった。ルークがぽかんと立ちつくしている間に、やがて紙たちはふわりと宙に浮き、ゆっくりと外へ飛んで行ってしまった。破れたり千切れたりしたものだけが飛び立つ事が出来ずに床へ落ちている。一体、何だったんだ。
呆然としていたルークがハッとなったのは、奥から苦しそうな唸り声が聞こえてからだった。慌ててルークが寝室をのぞきこめば、床に敷いてあった布団をぐちゃぐちゃにしながら身もだえる赤き竜がいた。良く見ればその全身が血で染まっている。元々の美しい赤が血で汚されてしまっているのだ。
「あ、アッシュ?アッシュなんだろ?怪我してるのか、痛いのか?」
話しかけながらルークが近づけば、竜は威嚇するように睨みつけてきた。それにルークが怯んでいる隙に、竜は部屋から飛び上がった。
「アッシュ!」
竜は床へ、手すりへ血の道を作りながらも外へと這い出し、フラフラになりながらも空へと飛び出していった。手が血で汚れる事も気にせず身を乗り出してルークが上を覗き見れば、竜は油屋の上へ上へと飛んで行ってしまったらしい。最上階はヴァンの部屋があるはずだ。もしかしてそこへ向かったのだろうか。
「アッシュ……!待ってろ!」
ルークは駈け出した。己の中にあの竜がアッシュであるという確信が何故かあった。そしてあの竜がアッシュなのであれば、助けなければと思ったのだ。ルークが今ここでこうしているのは全てアッシュのおかげである。恩返し、という訳でもないが、今度はルークがアッシュを助ける番なのだ。
形振り構わず走り出したルークの背後で、床に落ちていた欠けた人型の紙がひとつ、音も無く浮き上がってルークの背中に張り付いた。その事に気づく余裕のないルークの瞳は、ただただ上へ目指していた。
アッシュが無事であることを祈りながら、ルークが走る。
10/05/06
←
→
□