いつもならば油屋に疲れを癒しに訪れる八百万の神様のために美味しい匂いを漂わせている町の店は、夜がやってくるにもかかわらずその扉をピシャリと閉めていた。静まり返った町の真ん中を、あるひとつの影がゆっくりと移動している。雨でけぶる景色の中、大きな影は真っ直ぐ突き進む。
「汚い……苦しい……早く……」
その目の前に聳え立つのは……暖かな煙が立ち上がる、油屋であった。
「お帰りください!お帰り下さいませ……ぐふっくさっ!」
「くう……何だこの臭いは……耐え切れない……!」
とうとう橋を渡って目前にまで迫ってきたものすごい臭いを漂わせる影を、油屋の従業員達が必死に追い返そうとするが、皆その臭いにバタバタと倒れてしまう。奥から駆けつけてきたヴァンに、皆が縋るような視線を寄越した。
ヴァンは少し不可解そうに眉を寄せる。
「おかしいな、クサレ神の気配ではなかったのだが……まあ来てしまったものは仕方が無い、さっさとおもてなしして早くお帰り頂くのだ」
「しかし誰に相手をさせましょう」
「ルーを呼べ。大釜にご案内させろ」
理不尽な人選をされているとは思いもよらないルークはその頃、番台から貰ってきた札をシンクに手渡している所だった。よくこんな高価な札を渡してくれたなと呟きながら受け取ったシンクは、壁の中に垂れ下がる一本の紐にその札をぶら下げた。紐はすぐにヒュッとどこかへ消えた。と思ったらすぐに壁の一部が音を立ててひっくり返り、汚れた大釜へと傾いたのだ。
大釜へと登ったシンクがそこに下がる紐を手に持って、ルークを呼んだ。
「この紐引っ張ってみな。お湯が出てくるから」
「うっうん……うわっ?!」
「本当、呆れるほどどんくさいよねルーって」
足元がつるりと滑るせいで紐を手に持ったとたんずり下がってしまったルークを、シンクがどこか感心する様に眺める。文句を言いたいが反論する言葉が思い浮かず、紐にしがみつくようにして何とか立ち上がったルークは大釜の中を覗き込んだ。すごく濁ったお湯が傾いた壁の一部を伝って大釜へと注がれていく。
「これが薬湯。これだけ濁ってればこすらなくても同じだね」
「えっいいの?」
「いいのいいの。さて僕はご飯取ってくるよ。ルーはお湯の様子見てて」
「わ、わかった!」
そのまま立ち去りかけたシンクは、すぐに足を止めてルークを見上げた。
「ああ言い忘れた、もう手離していいよ」
「え?!あ、うん」
「湯を止める時はもう一回引っ張ればいいから。じゃ」
「ありがとう、いってらっしゃい!」
ひらひらと手を振って歩いていってしまったシンクの言葉通り、ぎゅうぎゅう握り締めていた紐を放してもお湯は止まらなかった。ほっと息をついてお湯が溜まる様子を眺めていたルークは、ふと背後に気配を感じる。シンクが帰ってくるには早すぎる時間だ。不思議に思って振り返れば、そこにいたのはさっき番台で見たあの金髪の男であった。
「あっあんたは!さっきはありがとう」
大釜から飛び降りてそばに寄ってきたルークに、男は微笑みながら両手を差し出してきた。首をかしげながら見つめるルークの目の前で男はその手を軽く振ってみせる。すると手のひらにみるみるうちに薬湯の札がいくつも溢れてくるのだった。手品を通り越してまるで魔法のようであった。言葉を失って驚くルークに、男はまるで取れと言わんばかりに山盛りの札が乗った手を差し出してくる。
しかしルークは、首を横に振るだけであった。
「……?」
「ご、ごめん。それもういらないんだ」
「………」
札を断るルークに男は悲しそうな表情になる。悪い事をしてしまっただろうかと思っているうちに男は一歩後ろへと下がった。するとルークが声をかける暇も無く、男はあっという間にその姿を消してしまった。男の手に乗っていた札だけが、バラバラと音を立てて床にこぼれてしまう。ルークは慌ててそれを拾い上げながら辺りを見回した。もちろん、男の姿はどこにも無い。
「あの人、一体何なんだろう……。ん?あ、ああっお湯!忘れてたー!」
大釜から溢れて足元まで零れてきたお湯にようやく気がついたルークがアワアワしている間に、ひょこりと顔を覗かせて声をかけてきたのはアニスであった。いつものニヤニヤ笑いではなく、どこかこちらに同情するような表情だった。
「ルー!ヴァン総長が呼んでるよ、早く来て!」
「え、ええ?でもまだシンクが……」
「いいから早くー!ちょっとさすがに気の毒だけどー……あたしにはどうすることも出来ないんだよねえ」
「?」
早く早くとせかすアニスの後にお湯を止めてから慌ててついていく。そうして辿りついた油屋の入り口で、ヴァンがルークを待っていた。
ルークが目の前にやってくるのを待ってから、ヴァンがその鼻先に指を突きつけてくる。
「いいか、これがお前の初仕事だ。いまから来るお客様の相手を務め上げてみせるのだ、分かったな」
「あの、でも……」
「口答えをするな、石炭にしてしまうぞ。……ほうら、来たぞ」
ルークが何か尋ねる前にそのお客とやらはやってきた。周りの従業員が全員ザッと音を立てる勢いで遠ざかる。のれんを押し上げながら油屋へと入ってきたのは、今まで見たことの無いような汚らしい物体だった。強いて言うならものすごく汚れた泥の塊のようなものだった。辛うじて目と口のようにくぼんだ部分が見える。そう、それは確かに神様なのだ。オクサレ様だ、と誰かが呟くのが聞こえた。
しかしルークは見た目のインパクトに驚く暇も無かった。姿を見たすぐにものすごい臭いが襲い掛かってきたのだ。
「っううっ?!」
「こ、こら、鼻をつまむな、お客様に失礼だ。よっようこそいらっしゃいました」
耐えられなくて鼻をつまむルークを叱りつけたヴァンは、顔を引きつらせながらもオクサレ様を迎え入れた。ものすごく怖い人だが、こういう所は立派なものである。オクサレ様はゆっくりと、手らしき部分をこちらへ差し出してきた。
「あ、お、お金!ルー、早くお受け取りしろ!」
「はっはい……!」
身体を硬直させながらも前に踏み出すルーク。その手にぼとりとお金が落とされた。一緒に泥みたいな猛烈な臭いの何かも落とされたのだが。ブワワッと鳥肌を立てるルークだったが、固まっている暇は無かった。ヴァンが気が遠くなりかけたルークにすかさず声をかけたのだ。
「ルー!何をしている、早く風呂へご案内するんだ!」
「はいぃー……!こ、こちらへドーゾ」
臭いのせいで感覚を麻痺させながらもぎこちない動きでルークが歩き出せば、その後をオクサレ様がゆっくりとついていく。途中でシンクが驚いた顔でルークを呼んでいたような気がするが、気にする余裕がルークにはまったく無かった。とにかくこのオクサレ様を案内して、大釜に入れてやらなければ。
皆が青い顔で見守る中何とか大釜へと辿り着いたルークが隅によけると、オクサレ様は大釜に真っ直ぐ近づき、その中に身を投げた。並々と溜まっていたはずの湯は一瞬にして泥となりルークを襲った。
「ぎゃーっ!あっあわわわ滑る溺れる……!」
さっき金髪の男が落としていった札の入った桶を手に持ち、ルークは転ばないように必死に耐える。大釜に入ったオクサレ様はしばし自分の身体を見下ろした後、何かを求めるようにルークを見た。目が合ったルークはハッと思い当たる。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
体中を泥まみれにしながらも、ルークは必死に移動した。その様子を高台のほうからヴァンがリグレットと共に眺める。壁に取り付いて必死に何かを探り上げようとするルークの姿に、リグレットが顔をしかめてみせた。
「ああ、あんな汚い手で壁に触って……!」
「ふふふ、さて、一体どうするつもりだろうか」
遠く離れたおかげか余裕を取り戻したヴァンが見つめる中、とうとうルークは壁の一部を開くことが出来た。そこに垂れ下がる紐に、さっきシンクがやってみせたように札を下げようとする。ヴァンが首をかしげた。
「む?ルーに薬湯の札をやったのか」
「い、いえ、そんなはずはありません。そんなもったいない事……」
上で戸惑っている間に、手を滑らせながらも何とかルークは札を紐にくっつけることに成功した。どこかへ札が消えると同時にガコンと壁の一部が動き出し、大釜に沈むオクサレ様へ向けられる。
足元の泥にこけないようにゆっくりと釜へ近づいたルークは必死の思いで目の前の紐に手を伸ばした。あの紐を引っ張ればお湯が出てくるのだ。そうすれば、泥まみれになってしまったこの場が少しでもマシになるはずだ。あと少し、もう少し手を伸ばせば……。
オクサレ様の臭いに負けじと手を伸ばすルークの指先に、とうとう紐が触れた。
「っ届いた!……うわ?!」
ぎゅっと紐を握り締めたとたん、油断したためだろうかルークは身体を滑らせて大釜の中へと落ちてしまう。しかしその衝撃で引っ張られた紐に誘われるように、勢い良くお湯が噴き出してきた。湯気を立てる熱々のお湯がオクサレ様の頭上から降り注いでいく。
あたりに湯気が立ち上る中、大釜の中から抜け出せずじたばたともがくルークを、オクサレ様が持ち上げ助けてくれた。
「っぷは!あっありが……ん?」
とっさにオクサレ様にしがみついたルークは、手に硬いものが触れた事に気付いた。オクサレ様の身体はほとんどドロドロしたものが覆っていたはずだ。これは刺さっているのだろうか?
「何だろ、これ……」
「ルー!ルー、無事?!生きてる?!」
「あっシンク!」
ルークが振り返れば、そこには掃除用具を手にしたシンクが立っていた。準備を整えて駆けつけてきてくれたらしい。
「眼鏡のおっさんに頼んできたよ、散々嫌味言われたけど最高の薬湯をおごってくれるってさ!」
「シンク!ここに何かトゲみたいなのが刺さってるんだけど!」
「トゲぇ?」
「硬くて全然抜けないんだっ」
ルークがどんなに力を入れて引っ張っても、その硬い何かはまったく抜けなかった。その様子を上で眺めていたヴァンが、少し考え込んでからすぐさまルークの元へ駆けつけてきた。
「ルー!どうやらこの方はただのクサレ神ではないぞ!」
「え、ええっ?!」
「この紐をその出っ張りに結びつけるのだ!」
どこからともなく取り出した縄をヴァンが渡してくる。縄を受け取ったルークは、駆けつけたシンクと共に薬湯が流れる中とげのようなものにきつく結びつけた。その間にヴァンはその場にいた従業員を長い長い縄の元へありったけ集め始めた。
全員が縄を手に取り、準備は整った。傍らに立つヴァンが、合図の声を張り上げる。
「それでは油屋一同心を込めて!そーれ!」
「「そーれっ!そーれっ!」」
油屋皆の声を力を合わせて、縄が引っ張られた。あんなにびくともしなかった出っ張りが、ぐっぐっと少しずつ抜け出てくる。根元のほうでシンクと一緒に懸命に引っ張っていたルークは、ずるりと出っ張りが抜けるのを感じた。次の瞬間、縄は沢山の大きなゴミをオクサレ様の中から引きずり出したのだった。驚きながらもなおも引っ張れば、ゴミはどんどんあふれ出てくる。さっきの出っ張りは使えなくなった自転車の持ち手の部分だろうか。出てくるものの中には、ルークもよく知っているものが沢山あった。
やがて周りがゴミだらけになる頃、オクサレ様につながるものはとうとう釣り糸のような細い糸一本となった。仕上げとばかりにルークがそれを引っこ抜けば、ポンと良い音が鳴った。途端に弾けるように大釜の中のお湯が溢れ、傍らに立っていたルークを包み込んだ。シンクがルークの名を呼ぶが、ルークは返事も出来ずにただ目を開けたままじっとしているしかなかった。
その時ルークはお湯の向こうに何かを見た。それはさっきまでそこにいた汚らしいオクサレ様ではなかった。気持ち良さそうに目を閉じてお湯につかる、美しく光り輝く誰かであった。
「……よきかな……」
ルークの耳に、とても満足そうな声が聞こえた。ポカンとしている間にルークの周りにあったお湯はすべて消えていた。ふとルークは、その手の中に今まで無かった何かを握り締めていることに気がつく。見下ろせばそれは、固い団子のようであった。
一方ルークの背後では縄を引っ張っていた皆が床に光る粒を発見していた。それも無数であった。粒を手にとって誰かが言った、砂金だと。
「嘘、砂金?!これ全部!」
「すごいこんなに!」
「こら!まだお客様がそこにいるんだぞ!」
一気に騒ぎ出す周囲をヴァンが叱り上げた。ルークの目の前にある大釜は今や静まり返っていた。しかしそこから何かが競りあがってくるのが分かる。ヴァンがルークに声をかけた。
「ルー、下がるのだ、お客様のお帰りだ。大窓を開けろ!」
ルークがお辞儀をして慌てて大釜から離れれば、中から勢い良く何かが空中へと飛び上がった。それは竜にとてもよく似ていた。とっさにルークの頭に、少し前に見たあの赤い竜の姿が思い浮かぶ。
「はははは!あーいい湯だった!すっきりした!あそこまで汚れるとは思っていなかったからものすごく焦った所だった!ありがとう!ではサラバだ!」
軽快に笑い声を上げた光り輝く竜は、そのまま大きく開けられた窓から気持ち良さそうに外へ飛び出していった。ルークの初めてのお客様が、お帰りになられた瞬間だった。
10/03/16
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