アッシュが作ってくれたおにぎりを見事完食したルークは、すっかり元気を取り戻していた。来た道を引き返し花の道を抜け出したところまで送ってくれたアッシュを、ルークは笑顔で振り返る。


「アッシュ、ありがとう。俺頑張るな!」
「ああ」


微笑むアッシュに手を振って、油屋へとルークは歩き出した。あの長い橋を渡りきり、裏口へと入る前に、ルークはふと空を見上げる。そして思わず目を見開いた。


「わあ……!何だ、あれ」


ルークの目に飛び込んできたのは、空へと駆け上がる真紅のとても長い生き物だった。美しく赤く輝きながら、その生き物は空の向こうへと泳いでいってしまった。ルークはポカンと呆けながらそれを見送る。ルークの頭の中に、生き物の名前が浮かび上がるが、それはこうして実際に見る事が叶わないはずの生き物である。この世界に来てから信じられない者たちばかり見てきたルークだったが、信じられない気持ちで呟いた。


「今のは……竜?」


あまりに驚いたルークは、橋の向こうからすでにアッシュが姿を消している事に、気付かなかった。





「ちょっと今までどこ行ってたのさ、いきなりいなくなってるからこっちはいらない心配したんだけど」
「ごっごめん、ちょっとそこまで出てたんだ」


寝ていた部屋まで戻ると布団を片付けていたシンクに睨まれてしまった。慌ててそれを手伝いながらも、シンクが自分の事を本気で心配してくれていたのが分かったルークはこそっと笑っておく。
本当は抜け出したことに気付かれないためにもっと早く戻るつもりでいたのだが、ボイラー室まで辿り着いた所で力尽きて眠ってしまったのだ。何せ気を張り詰めさせていたおかげでまともに眠っていなかったのだ、気分が上向きになったとたんにどっと眠気が襲ってきてしまった。そうして時間になりジェイドに叩き起こされるまでぐっすりと眠っていた、という訳だ。「サンダーブレード」とやらで焼き焦がされる所だったが、きちんと起こしてくれるジェイドはやっぱり怖いけど優しいのだろうとルークは思った。


「さあ、仕事行くよ。手加減はしないから死ぬ気でついてきてよね」
「はいっ!」


気合を入れなおしたルークは、元気良く返事してシンクの後についていった。ルークにとっての、人生初めての仕事であった。

ルークに与えられた仕事は、お客さんが来る前の掃除と、お客さんのお世話だった。シンクにビシバシ指導される中、慣れない仕事ながらもルークは一生懸命に取り組んだ。単純な仕事に思える雑巾掛けでさえ、ルークが端から端まで進む間に他の者たちは往復してずっと先に進んでしまっているのだった。それでもルークは、自分が出来うる限りの範囲で懸命に頑張る。
約束したのだ、頑張ると。

そんな中、シンクに言われてルークが桶の水を外へと捨てに行った時の事だった。外はいつの間にか雨が降っていて、それを眺めながら汚れた水を外へと流し捨ていたルークは、庭先に誰かが音も無く立っている事に気付いた。とっさにルークは、油屋はまだ開店していなかったがその人(人ではないかもしれない)が客だと思った。


「あの、そこ濡れませんか?」


頭上に屋根の無い庭の隅に立つその人に、ルークは声をかけていた。しかし金髪を雨に濡らしながらもその人はそこから黙ったまま動こうとしない。後ろからはシンクがルークの名を呼んでいる。早く戻らなければ優しいけど厳しいシンクに思いっきり怒られてしまう。ルークは水を捨てた窓を開けたまま、桶を持ち上げる。


「ここ、開けときますね」


とりあえず濡れない場所に移動してくれればいい、とルークはにこりと微笑んでから急いでその場を離れた。ルークが去っていくのを静かに見送ったその人は、やがてゆっくりと足を踏み出し、音も無く油屋の中へと入り、そして消えていった。

自分が招き入れた者の正体を知る由も無いルークがシンクと共に掃除の仕上げに取り掛かっていると、そこにどこかニヤニヤ笑いながらアニスがやってきた。


「シンクー。今日はあんたたちが大湯場担当だからね!」
「はあ?聞いてないんだけど。それってそっちの仕事じゃなかった?」
「ぶー、上からの命令だから文句言わないの!ほら早くしないとお客さん来ちゃうよ!」


言うだけ言ってさっさと行ってしまったアニスに、シンクは思いっきり顔をしかめながら悪態をついてみせた。


「くそ……露骨な嫌がらせを……。行くよルー」
「え?あっ待ってくれよ!」


ズンズンと歩き出したシンクに訳が分からないながらも慌ててルークは後をついていく。数々のお湯釜を通り抜けて辿り着いた先は一番奥、大きくて、そしてものすごく汚い風呂釜の前だった。他の従業員たちに覗き見されてクスクス笑われながら、シンクは最高に不機嫌な様子だった。


「これは、ずいぶんと掃除されてないな……。ここは所謂汚れた客専用の風呂なんだよ、だからこんなに風呂釜が汚いって訳」
「こ、ここ、本当に掃除するのか?」
「今すぐにでも帰って寝たい気分だけど、仕方ないだろ」


行くよ、と背中を押されて、ルークは風呂釜へと足を踏み出した。汚れきった釜の中に、汚れを磨いて落とすために嫌々ながらも入り込む。しかし懸命に擦っても汚れは一向に落ちる気配は無い。


「やっぱり駄目だ、汚れがこびりついてる。擦るだけ無駄だねこれは」


早々に諦めたシンクは、ルークの肩をポンと叩いた。


「という事でお使い行ってきて」
「どこに?」
「札取ってきて。番台に行って頼めばくれるから多分。薬湯だからね」


風呂釜の中からシンクの手によってポイっと放り出されたルークは、とりあえず言われた通りに薬湯の札とやらを貰いに駆けた。番台にはリグレットが陣取り、すでに風呂へと入り始めているお客さん(その大半が妖怪めいた姿かたちをしている)の相手をしていた。そうして客を相手にしている従業員達に何か札を渡している。きっと、あれの事だろう。


「すいません、札下さい、薬湯の札!」
「駄目だ」
「ええっ?!」


しかしルークが声をかけた途端に一蹴されてしまった。戸惑うルークを番台から見下ろしながら、リグレットが言い聞かせるように言う。


「高価な薬湯の札をお前のような者に渡せるわけが無いだろう。どうせ釜の汚れが落ちないと言うつもりだろうが、手で擦れば取れない汚れは無いのだ、手を使え、手を」
「えっと、でも、薬湯じゃないと駄目みたいなんですけど」
「そんな事は無いはずだ。もっと手を使え」


いくら言ってもリグレットは取り合ってくれなかった。どうしようかとルークが途方にくれた時だった。傍にあった電話が鳴ったために視線を外したリグレットの隣に、いつの間にかさっき庭先で雨に濡れていたあの金髪の人が立っていたのだ。アレッと首を傾げるルークだったが、静かにお辞儀されて慌ててお辞儀をし返した。
何故あの人はあんな所に立っているのだろうと考えていると、今までの一部始終を見ていたのか、金髪の男の人はリグレットの手元にある札をそっと一枚掴んだ。そうして不思議がるルークに黙っているように口元に指を当ててジェスチャーすると、札をルークの方へと一枚放り投げたのだ。リグレットが気がついた時には、すでにルークの手元に札が渡った所であった。


「あっありがとうございます!」
「こ、こら!待ちなさい!」


慌ててリグレットが静止しようとしたが、ルークはその前に背を向けて駆け出していた。傍にいた金髪の男はすでに姿を消していて、リグレットにはルークに札が何故渡ったのかさっぱり分からなかったが、後を追いかける事も出来なかった。電話中だったからだ。


『どうした、何かあったのか』
「いえ、何でもありません、些細な事です」


受話器の向こうから聞こえてきた声に、平常心を装って返答する。相手はヴァンだった。ヴァンはこの油屋に何者かが侵入した事を感じ取ったのだった。


「どうやら悪い者が入り込んだようだ。この油屋内のどこにいるか、探せ」
『はっ。して、その悪い者というのは……?』
「それを調べるのがお前たちの役目だ」


分かったな、と念を押してヴァンは電話代わりにしている骸骨から離れた。音を立てて降り注ぐ雨を眺めながら、目を細めて1人呟く。


「ふむ……雨に紛れて厄介な者が入り込んだか」


雨はしばらく、止みそうに無い。

09/09/11