沈黙が、怖い。
「あの、アッシュ……?」
「無駄口を叩くな。それと俺のことはアッシュ様と呼べ」
ヴァンに呼ばれて出てきたアッシュは確かにあの時自分を助けてくれたアッシュその人であった、見た目だけは。しかしその冷えた視線も、硬い口調も、どこもルーの知っているアッシュではなかった。何とか話しかけようとしても冷たい声で怒られてしまう。父と母と別れて見ず知らずの土地にて今働かされようとしているルーにとっての心の支えは、あの時の優しい声と暖かな瞳だけだったのに。ルーはとうとう黙り込んで、俯いてしまった。そうしている間に、アッシュに連れられて油屋の下へ下へと向かっていった。
「えーっいくらヴァン総長の頼みでも、人間を雇うなんて信じらんなーい」
「閣下の事だ、何かお考えあってのものだろうが……本当にそれは使い物になるのか?」
様子を伺う従業員たちが辺りにひしめく中、ルーは晒し者になったような気分でじっと佇んでいた。ルーの前に立つアッシュと話しているのは、この中での一番偉い人たちなのだろう二人組みだった。一人はさっきシンクを呼び止めていたアニスという子で、もう一人はアッシュがリグレットと呼んでいた。
「三日も経てば人の匂いは消えよう。使い物にならなければその時はその時だ」
「仕方が無いな……さて、誰につけようか」
アッシュの言葉にしぶしぶと応じるリグレット。とりあえず仕事にはありつけそうだ。周りの従業員たちは厄介ごとを押し付けられたくないのかそうそうに立ち去っていく。とそこで、アッシュが首をめぐらせて誰かを呼んだ。
「シンク、確か手下を欲しがっていたな」
「はあ?僕に押し付けるつもり?」
そこにはルーを案内してくれたシンクがまるでこちらの様子を伺うように壁に凭れて立っていた。ものすごく面倒くさそうな顔をしたシンクに、アニスが意地悪く笑いかける。
「そーそー言ってたじゃんシンク、ぴったりじゃない?」
「そうだな。今回はシンクにつけるとしよう」
「はいはい分かったよ。やればいいんでしょやれば。ほらそこの子、さっさと来な」
投げやりに手招きするシンクに一瞬躊躇った後、ルーは慌てて駆け寄った。そのままずんずんと先に進んでしまうので、ちらと後ろを振り返ってから後に続く。アッシュはじっとルーを見つめたまま、何も言わなかった。
やがて人気の無い廊下に差し掛かると、シンクが振り返ってきた。その表情には先ほどの嫌がるような色は見当たらなかった。むしろ、どこか上機嫌のように見える。
「まあ、上手くやったみたいだね、本当に辿り着けるかわからなかったけど、やるじゃん」
「……えっ?」
「まあこれからは僕が色々教えていくから、何か分からない事あったら聞いてよね、聞かれずに失敗される方が面倒だし。えーっとルーだっけ?一応よろしく」
そう言って微笑んでくれるシンクは労うようにルークの肩を叩いた。しぶしぶと案内を引き受けてくれたのに、ルーの事を心配してくれていたらしい。今まで緊張の連続だったルーはどこかホッと肩の荷が下りたような心地がした。するとそれがいけなかったのか、くらりと眩暈を感じて眉を寄せる。
「ん?どうしたの」
「頭が、ちょっとくらくらして……」
「ふうんひ弱そうだから疲れでも出たのかもね、それじゃ倒れられる前にさっさと部屋に行こうか」
そっけない言葉だったが、シンクは先ほどよりも少し遅く歩き始める。それがルーを気遣っての事だと誰の目からも明らかで、足元が覚束無いながらもルーは嬉しくてひっそりと笑った。
やがて古びた畳の部屋に辿り着くと、シンクはふすまを開けて箱から何かを引っ張り出し始めた。それはどうやらシンクが着ているものと同じ服のようで、おそらく従業員服という奴だろう。
「これが袴と、前掛け。この服は自分で洗う事、着方は分かる?しかしなかなかサイズが無いな……あんた無駄に小さいから」
「ねえ、シンク」
「ん、何?」
次々と放り出される服を眺めながら、ルーはどうしても聞きたかった事を聞いてみた。
「ここには、アッシュって人は二人いるの?」
「二人ぃ?!あんなのが二人もいちゃたまんないよ。ああ、そのアッシュには気をつけたほうが良いよ。あれはヴァンの完全な下僕みたいなもんだから」
シンクの言葉に、ルーは足元がぐらつくのを感じた。思わずしゃがみこめば、目的のサイズを引っ張り出したらしきシンクの驚いた声が聞こえる。
「やっと見つけた……ってちょっと、どうしたの。しっかりしなよ」
「……っ」
うずくまるその背中を暖かな手が擦ってくれているのを感じながら、ルーはその場から逃げ出したくなる衝動にじっと耐えた。もう何も考えたくなかった。両親のことも、これからのことも、アッシュのことも。
油屋は基本的に夜に営業される。日の高く上る昼間は油屋の休憩時間だった。布団を敷き詰めて皆で眠る中、ルーだけは身体を縮こまらせてがたがたと震えていた。眠れそうになかった。目の前に広がる不安がルーを今にも押しつぶそうとしているかの様だった。隣で眠るシンクを起こさぬように、ルーは一人静かに耐えていた。
とその時、からりと静かにふすまの開く音がしてルーは固まった。誰かがこの部屋に入ってきたようだ。今の時間は誰もが寝ているはずなのに。部屋に侵入してきた何者かは静かに、静かにルーの方へと迫ってくる。ルーは思わず目をつぶった。ぎゅっと力を込めて小さくなるその頭に、ふと誰かの手が触れた。
「橋の袂に来い。父上と母上に会わせてやる」
そのどこか聞き覚えのある、ひどく安心できる声はすぐに離れていった。あっけに取られている間に侵入者はすぐに出て行ってしまい、慌ててルーが起き上がるも姿を見ることは適わなかった。しかし、ルーは半ば確信していた。今の声の主が誰なのかを。
誰も起こさぬようにそっと部屋を抜け出したルーは、自分が昨日シンクに出してもらった袴を着ていることに気付いた。そういえばぼんやりしながらも着方を教えてもらったような気がする。着慣れない感触に違和感を感じながらも、ルーは記憶を頼りに油屋内を歩き始めた。やがて辿り着いたのは、ボイラー室である。部屋の隅にある布団におそらくジェイドが眠っているはずなので(覗き込む勇気はさすがに無かった)出来る限り物音を立てぬように進入する。ここに靴を置いていったはず、と思ったルーだったが、そこには靴の陰も形もなかった。
「あれ?靴がなくなってる……どうしよう」
裸足で外に行くべきだろうか。悩んだルーは目の端に動くものを捕らえた。こっちを覗き込んでいるのは、あのキモウザイ事この上ないサフィールたちだった。
「おや出かけるんですか?仕方ありませんね、皆さんあれを出しますよ」
「ふっ、この華麗な天才ディスト様の機転に感謝して下さいね」
「あよいしょっと」
わらわらと自分のねぐらから出てきたサフィールたちが引っ張り出してきたのは、ルーの靴だった。保管してくれていたらしい。目の前に置かれた靴を見て、ルーは笑顔でサフィールたちにお礼を言った。
「俺の靴、しまってくれていたのか、ありがとな!」
「ま、まあ天才として当然のことをしたまでですよ」
「ほら早く行ってしまいなさい、鬼畜ジェイドに見つかっても知りませんよ」
ルーは感謝しながら靴を履き、出入り口へと駆けた。振り返るとサフィールたちが背中を後押しするかのようにピーピー喚いていたので、答えるように手を振って外へと出た。強い風に煽られながら昨日降りてきた階段を見上げる。会うのが少しだけ怖かったが、それ以上に期待の方が強かった。勢い任せて長い階段を駆け上がる。苦労して侵入したときとは打って変わって、一直線に橋の袂までたどりつく事が出来た。
きょろきょろと辺りを見回せば、後ろからぽんと肩を叩かれた。振り返ればアッシュが柔らかい表情でそこに立っていた。
「アッシュ!」
「こっちだ、ついてこい」
アッシュはすぐに脇道へと入っていった。置いて行かれぬ様にルーも慌ててついていく。美しい花が咲き誇る庭を潜り抜ければ、目の前に広がるのは大きなブウサギ小屋であった。ここで皆飼われているらしい。前に立ったアッシュが、あるひとつの柵の前に立ち、ルーに指し示した。
アッシュは何も言わなかったが、目を合わせただけで何を言いたいのかは分かった。ルーが恐る恐る柵の中を覗き見れば、そこには呑気に昼寝をしているブウサギが二匹、いた。
「お父さん……お母さん……!」
ルーは柵に詰め寄り、声を張り上げてブウサギたちに、父と母に呼びかけた。
「お父さんお母さん!俺が分かる?ルッ……ルーだよ!」
しかしルーの声に少しも反応する事無く、ブウサギたちは眠るだけであった。隣に立ったアッシュが、どこか哀れみの瞳でブウサギたちを見る。
「……無駄だ、お前の父上と母上は、人間であった時の事を忘れている」
「っ……!」
ルーは何も言えなかった。ただ無言で変わり果てた両親を見つめ(多分ブウサギなのにどこか幸せそうな顔をしている方が父だ)、こみ上げてくるものを耐えながら、最後に呼びかける。
「お父さん!お母さん!俺が絶対助けてやるから、あんまり太るなよ!食べられちゃうからなっ!」
そうやって言うのが精一杯だった。ルーは耐えられなくなったように駆け出し、豚小屋を飛び出した。そして脇道にしゃがみこむ。
ぎゅっと身を縮こまらせて蹲っていると、隣にアッシュが静かに座り込んだのを感じた。しばらくそうしていると、アッシュが懐から何かを取り出して、ルーに差し出してきた。
「これを」
「え……?あ、これ、俺の服!」
それは今の袴を着る前、つまりここにくる時に着ていたルーの服だった。きちんと畳まれたそれを受け取ったルーは、両手に抱き締める。何故だか妙に懐かしかった。
「これ、もう捨てられたんだと思ってた」
「帰る時に必要だろう。見つからないように大事に持っておけ」
「うん。……あっ」
ルーは服に埋もれるように一枚のカードが入っている事に気がついた。それを取り出して読んでみると、それは転校する時に友達が渡してくれた花束についていたカードであった。『ルークへ』と書かれているのを読んで、驚きに目を丸くする。
「ルーク……これ、俺の名前だ!」
ルー……いや、ルークは自分でも何故忘れていたのか分からないが、自分の名前を思い出すことが出来た。そうだ、ルークはルークである。ヴァンから「ルー」という名前を貰った瞬間、その事を忘れてしまっていたようだ。アッシュはルークに見つめられて、安心させるように微笑んでみせた。
「髭野郎は名前を奪って相手を支配しやがるんだ。名前を奪われれば帰る事が出来ない。……俺も、本当の名前を思い出せないんだ」
「アッシュ……」
「だがルーク、お前の名前は覚えていた。何故だか分からないが」
アッシュはルークの事を知っているらしい、しかしルークはどうしてもアッシュに以前会っただろうかと思い出すことが出来なかった。こんな色鮮やかな赤い髪を見れば、忘れそうにないのだが。思い出すことが出来た本当の名前に少し気分が良くなったルークに、アッシュは懐から包みを取り出して、再びルークへと差し出してきた。それは、おにぎりだった。
「食え。まともなもん口にしてないんだ、腹が減っただろう」
「え、っと……」
「ルークが元気になるようにまじないをかけて握ったものだ、食べればすぐに元気になる」
正直食欲は今そんなに無いのだが、アッシュがそこまで言うのでルークは食べてみる事にした。ひとつだけおにぎりを手にとって、少しだけ口に入れる。途端に体中に駆け巡った何かに、ルークは目を見張った。
美味しい。
「……!」
もう一回口に入れる。やはり美味しい。もう一回、もう一回。食べるうちにどんどん食欲が湧いてきて、ルークはおにぎりにかぶりついていた。そうして食べるごとに、何故か瞳から湧き上がってくる。ルークは涙をボロボロと零しながら、おにぎりを頬張った。
「っうわあーん!」
「辛かっただろう、ほら、もっと食べろ」
アッシュが優しく肩を抱き寄せてくれる。不思議な温かさに包まれながら、ルークは声を上げて泣いた。涙と共に不安が押し流され、おにぎりから元気をどんどんと貰っているような気分だった。今だけは支えてくれるアッシュに甘えていても、いいだろうか。
09/05/25
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