長い廊下の先には、大きな扉が立ちふさがっていた。しんとした空気の中、胸がドキドキ音を立てているのを感じながらルークは一歩一歩扉へと近づいていく。下の階では多くの人が(妖怪が?)宴会を開いたり風呂に入ったりでとても賑やかだったのに、この階には音がまったく聞こえてこなかった。まるで別世界に迷い込んだような気分だ。周りの見たことも無い色合いの壁や床、天井も余計に行った事の無い遠く離れた異国を連想させる。心細さを感じながらも、とうとうルークは扉の目の前に立った。
取っ手はどこか不気味な髭面の顔だった。ついでに眉毛もすごかった。少々躊躇いながらも扉を開けるために手を伸ばしたルークだったが、指が触れる前に取っ手が口を開いた。


『最近の子どもはノックをする事も知らないのか、まったく』
「うわっ?!」


ルークは声を上げて驚いた。まさか取っ手が動いて言葉を話すなんて思わなかったのだ。思わず一歩下がって取っ手を凝視すると、髭面の取っ手は金色の目でルークをジロリと見つめてきた。まるでこちらを観察しているようだ。


『ほう、随分と小汚い奴が来たものだな』


ムカつく事を言いながらも、取っ手は勝手にぐるりと動いて扉を開けた。奥にも同じぐらい大きな扉があって、それがバタンバタンといくつも勝手に開いていく。まるで魔法のようだった。ルークはぽかんと立ち尽くしてそれを眺めている事しか出来なかった。


「さあ、こっちへ来るのだ」


取っ手と同じ声が、扉が開け放たれ先が見えないほど続いている廊下の奥から響いてきた。来い、と言われても、この中を突き進むにはものすごく勇気がいる。どうしても踏み出せずに、ルークは困り果てた顔で辺りを見回した。


「こっちへ来い……愚かな子どもよ」
「?!」


少し低くなった声が聞こえてきたと思ったら、胸倉が誰も触れてもいないのにぐいっと前へ引っ張られて、ルークの体が引き摺られ始めた。しかも結構な勢いで。抵抗をしようにも床についているのはつま先のみで、大した摩擦を生み出すことは出来ない。


「うわああああっ!」


声を上げながら長い廊下を右へ左へ引っ張られたルークは、唐突にひとつの部屋へと放り出された。ごろんとふかふかの絨毯の上に転がって、しばらく倒れ付す。頭の中では疑問符ばかりがいくつも浮かんでは消えていった。一体さっきのは何なのだ。そしてここはどこなんだ。


「あははは!一名様ご到着ー!」
「久しぶりですね、人間の方がここまでやってくるなんて」
「珍しい……です」


転がっていたルークの元へ、なにやら騒がしい声が近づいてきた。はっと身を起こすと、目の前にはにこにこ笑った緑の子がいた。後ろには似たような別の緑の子と、おどおどしたピンクの子がいる。3人は座り込むルークの周りを物珍しそうにぐるぐると回る。


「ねえねえ君誰?どこから来たの?本当に人間?」
「こらこらフローリアン、そんなに質問責めにしてしまったら、その人が混乱してしまいますよ」
「イオン様の言うとおり、です。もうちょっと落ち着く……です」
「えーっだって気になるじゃん!イオンもアリエッタも気になるでしょ?」

「随分と騒がしいな。少し静かにしてくれないか」


あまりの騒がしさに目が回りそうになった時、落ち着いた声が静止をかけた。その声にそれぞれフローリアン、イオン、アリエッタと呼び合っていた3人はぴたりと動きを止めて、どこか恨めしそうに背後を振り返った。つられて顔を上げたルークが見たものは豪華そうな大きな机と、沢山の高価な物たちと、どこか忙しそうに書類に羽ペンを走らせる髭とちょんまげの男だった。ついでに眉毛もすごかった。さっきの取っ手の顔とそっくりだ。


「ちぇっ……せっかく久しぶりのお客さんなのに」
「仕方がありませんね、お話しはまた今度の機会にしましょう」
「残念、です」


すごすごと3人組は部屋の奥へと引っ込んでしまう。ルークはそっと立ち上がって、机に向かう髭の男に向き直った。そういえば、アッシュが「髭」と呼んでいたのは、この人のことなのかもしれない。


「私はヴァン。この油屋を取り仕切っている。ここで一番偉い者、といえばお前にも分かるだろう」


偉そうに髭の男、ヴァンが自己紹介をしてきた。ただし書類から目線を上げる事無く。つまりこの男こそが、最高に偉い人なのだ。この人に会ったら、アッシュはどうしろと言っていたか。確か。


「っ!すっすみません!あの、俺、ここで働きたいんです、働かせて下さい!」


思い出したルークはすぐに頭を下げていた。何を言われてもとにかく「働かせて下さい」と言えと、アッシュは言っていたのだ。ならばその通りにするしかない。
うっとおしそうにこちらを見てきたヴァンは、おもむろに空中で「一」を描いた。途端にルークの口はチャックを締められてしまったかのように閉じて、開かなくなってしまった。手でこじ開けようともがいてもどうしても開かない。これでは、働かせて下さいは愚か何も言う事が出来ないではないか。詐欺だ、こんなのあんまりだ!


「ふっ、馬鹿な事を言うな。人間のお前に何が出来ると言うのだ」


じたばたもがくルークを眺めてヴァンはにやりと笑った。はなからルークの事は相手にしていないようだった。何かをさらさらと紙に書くとペンを置いて、豪華そうな椅子にどっかりと身を預ける。


「ここはお前達人間の世界とは違う。この油屋は、世界中の八百万の神様が疲れを癒しに来る憩いの場だ。間違って足を踏み入れてくる人間がたまにいるが、もう二度と戻れないと思うんだな」
「……!」
「ふむ、そうだな……子豚にでもしてやろうか。石炭でもいいだろうな」


カタカタと震えるルークを楽しそうに眺めながらヴァンは残酷な言葉を吐いていく。もしも口が開けていたら、恐怖の叫び声を上げていたかもしれない。ルークを何に変えようか考えていたヴァンは、ふと興味深そうな瞳をこちらへ向けてきた。


「しかし、ただの人間がここまでやってくるとは、大したものだな。……手を貸した者がいるな」
「………」
「その者には特別褒美を与えねばな。さあ、誰だったか言ってみろ」


先ほどとは逆の動作でヴァンが空中に「一」を描くと、ルークの口があっけなく開かれた。ヴァンは期待した目でこちらを見ている。ルークは口が開いた勢いで、前へ乗り出した。


「ここで働かせて下さい!」
「っまだ言うか!」
「ここで働きたいんです!」
「えーい、黙れ!」


アッシュの教えを忠実に守るルークに、ヴァンが机から立ち上がった。空中を滑るように移動してくると、ルークの目の前に立ち見下ろしてくる。近くで見るととても大きな髭だった。


「どうして私がこんな薄汚くグズでノロマで愚かなレプリカにも劣る人間を雇わなくてはならないんだ」


鋭い視線がルークを貫く。あまりの恐怖に一歩も動く事が出来なかった。それほどまでにヴァンの表情や雰囲気が恐ろしかった。ヴァンは後ろにゆっくりと回りこむと、身を屈めてルークの首に手をかけてきた。そうしてゆっくり、ゆっくり力を込めてくる。


「それとも……きつい、辛い仕事を、死ぬまでやらせてやろうか……?」
「っ……!」


張り裂けそうな緊張の中、ルークが思わず声を上げてしまいそうになった次の瞬間、ものすごい轟音が部屋の奥から響いてきた。目を丸くしたルークもヴァンも思わず動きを止めてしまう。


「っだーもーうぜーっ!暇ーっ!どうにかしろーっ!」


ぽんぽん飛んでくる木片やクッションと共にそんな叫び声も聞こえてきた。あっけに取られるルークの横を、さっきの恐ろしい雰囲気を全てどこかに飛ばしたヴァンが慌てて部屋の奥へと向かった。奥にはもうひとつ部屋があって、そこから問題の騒音が生み出されているらしい。


「おおっ坊よ!昼寝から目が覚めてしまったのだな、私はここにいるぞブフッ!」
「髭なんていらねーんだよどっかいけ!」


駆けつけたヴァンの顔を見事なキックが襲い掛かる。暴れる何かを必死に宥めるヴァンが存外弱っているように見えたので、これはチャンスだとルークは再び声を張り上げた。


「ここで働かせて下さい!」
「う、うるさい!少し静かにしないかゴホァッ!」
「うるせーんだよ髭がっ!誰の声だよ!」


今度はヴァンの顎にパンチがクリーンヒットした。もう一息だ。


「働・か・せ・て・下・さ・い・っ!」
「分かった!分かったから静かにしろ!おーよしよしほらお前の好きなあめちゃんだよー……」


バキンドコンと騒音と共にヴァンは部屋の奥へと消えていった。やがて痛そうな音が止むと、机の片隅からひらりと一枚の紙がルークの目の前へ羽ペンと共に飛んでくる。手にとって眺めてみると、それはどうやら何かの契約書のようであった。


「その紙に名前を書くがいい。それでお前はこの油屋の従業員となる」


よろよろと部屋の奥から疲れ果てた様子のヴァンが出てきた。手入れされていたちょんまげはほつれているし、眉毛ももげそうだ。ちょっと気の毒だ。


「あ、えっと……ここですね」
「そうだ。まったく、働きに来た者を雇わねばならないなどという契約をしてしまったばかりに……」


ブツブツとヴァンが恨み言を呟いている間に、羽ペンをとったルークは絨毯の敷かれていない固い地面に紙を置いて自分の名前を書いた。もちろん「ルーク」だ。書いたとたんに、取り上げられるように紙は空中に舞ってヴァンの元へと飛んでいってしまった。


「ふん、「ルーク」か。大層な名前だな」


紙を一瞥したヴァンは、紙の上でひょいと何かを掴む動作をとった。紙の上からひらりと何か黒いものが飛び上がってヴァンの手の中に吸い込まれていった気もしたが、よく見えない。ヴァンはさっきよりも元気が無いにやりとした笑みで、ルークを見た。


「今からお前は「ルー」だ」
「え?」
「分かったら返事をするんだ、ルー」


有無を言わさない響きがそこにはあった。呼ばれたルーク……いや、ルーは、慌てて頷いてみせる。


「は、はいっ!」
「ふむ、よろしい。……アッシュよ、いるか」


聞き覚えのある名前に、ルーの心臓がドキリと跳ね上がった。どうしてここでアッシュの名前が出てくるのだろう。しかし考えている間に、頭の中で思い描いた声が実際に背後から届く。


「お呼びしましたか」


そこに立っていたのは、紛れも無く、ルーを助けてくれたアッシュその人であった。

07/10/09