そこはすでにルークの知らない世界だった。空が暗くなった途端、誰もいなかったはずの食べ物屋には黒い影みたいな者たちがたくさん溢れて、ルークをおいでおいでと誘ってくる。一緒にここへ来てさっきまで料理を食べていたはずの父と母もどこにもいなくなった(今まで両親がいた場所に何やら見覚えのあるようなブウサギが座っていたがあれはきっと幻だ、そうに違いない!)。慌てて車のある場所に戻ろうとすれば、干上がっていたはずの川の跡はまるで海のような大きな川になっていて、戻る事なんて出来なかった。おまけに見覚えの無い向こう岸からやってきた豪華な船からは、見たことも無いようなお化けたちがぞろぞろと降りてきたのだ。ルークがその場から逃げ出してしまった事は無理も無いだろう。
これは夢だ、とルークは思った。これはたちの悪い夢なんだ、全部幻なのだ。こんな夢、早く覚めてしまえばいいのに。

これは夢だ。皆消えろ。消えろ。消えろ!

するとルークの体はこの世界にいたがらないかのようにどんどんと透けていったのだ。消えて欲しかったのは周りの全てだったはずなのに、ルークの腕も足もどんどんと透けていく。怖くなったルークは、建物の影に隠れるように蹲り、ただじっとして動かなくなってしまった。

それから、どのぐらいの時が経っただろうか。数分の間のようであり、何時間も経った後のようにも感じられた。
草を踏みしめる音がルークへと近づいてきた。ルークは動かない。すると音はルークの真横でぴたりと止まり、途端にルークの肩へそっと包み込むように手を置いてきたのだ。びっくりしてルークが顔を上げると、そこには先ほど橋の上で見た顔が真剣な表情でそこにいた。真っ赤な髪が僅かな風に靡いている。ルークは呆然とする思考の片隅でその長髪に再びみとれた。


「怖がるな。俺はお前の味方だ」


びくりと震えたルークの体を抑える様に力を加えた男の子は、なにやら薬のような実のような小さくて赤い丸いものを取り出してきた。一口で飲み込んでしまえるような大きさだ。それをルークの口元へ持って来ようとする。


「食え」
「い、嫌だっ!」
「食わねえとお前はこの世界から消えてしまうんだぞ」


男の子の言葉は恐ろしいものだったが、ルークはいやいやと首を振って逃れようとする。男の子が強引に丸いものを押し付けてくるので、とっさに両手で突き飛ばそうとした。


「嫌っ!」


しかし手ごたえをまったく感じる事が出来なかったので、ルークは驚愕して男の子を振り返った。そこには、男の子を突き抜けた自分の腕がある。もう何も触れられないほど透明になってしまっているのだ。ルークが呆然としている間に、男の子が丸いものをルークの口の中へ押し込んできた。


「大丈夫だ、これを食ってもブウサギにはならねえよ」
「うっ……んんーっ」
「そのまま飲み込め」


男の子に促されて、ルークは必死の思いで口の中の物を飲み込んだ。気が動転していたのでなかなか上手くはいかなかったが、それでもようやく飲み込む事ができた。ほっとルークが息をつくと、男の子は手のひらを向けてきた。


「触ってみろ」


自分と同じぐらいの大きさのその手のひらに、戸惑いながらもルークはそっと手を伸ばした。また突き抜けてしまうのではないだろうかと不安になりながらも、縋るように指を伸ばす。そうして触れた手のひらの感触を、ルークは感じる事ができた。腕はもう透けて見える事もなく突き抜ける事も無く、男の子の手に触れる事ができたのだ。


「さわれる……!」
「だろう」


ルークがぱっと顔を上げれば、男の子は微笑んだ。ルークが初めて見る男の子の笑顔だった。今まで眉間に皺を寄せて固かったその表情が途端に柔らかなものになったので、ルークは三度見とれた。何だか見とれっぱなしだ。ルークがポカンとしている間に、男の子はルークの手を引っ張って立たせようとする。


「さあ、行くぞ」
「っ!ま、待って!お父さんとお母さんはどうなったんだ?!ブウサギになんかなってないよな!」


はっとしたルークが男の子に詰め寄る。さっき見た椅子に座り食べ物を貪り食っていたブウサギたちは幻だったのだと思いたい。そう必死に男の子を見るルークだったが、男の子はどこか言いにくそうに眉を寄せた。そして男の子は何か言おうとして、ふと空へ視線を送った。その顔が見る見るうちに険しくなる。


「……?」
「隠れろ!」


何だ何だとルークも空を見上げれば、すぐにその上に何かが覆い被さってきた。突然の事に思考がついていかないルークは、覆い被さってきたのが男の子の体であることにかなり遅れてから気付く。男の子はルークを守るように身をかがめて、空を睨みつけていた。その空には、


「みゅーっみゅみゅみゅーっ!」


何やらウザイ鳴き声をあげながら空を長い耳で滑空する水色の生き物がいた。地上を見下ろしてはキョロキョロと落ち着き無く見渡している。何かを探しているようであった。何故だかあの頭を蹴り落としたい衝動にルークが駆られている間に、水色の生き物はすぐにどこかへ飛んでいってしまった。男の子がほっと息をついて力を抜く。


「あのブタザル野郎……。ここにいては気付かれる、早く行くぞ」
「え、あ、ちょっと待って」


男の子は急かすように再びルークの腕を掴んで立ち上がらせようとするが、ルークは心底困った顔で男の子を見上げる。腕にすがり付いて必死に立とうとするのだが、腰が抜けたようで力が入らないのだ。


「どうしよう、立てない……ううーっ」
「落ち着け。目を瞑って、深呼吸をしてみろ」


混乱していたルークは男の子の言葉に素直に頷いて、目を閉じながら深く息を吸った。その間に男の子の小声が聞こえたが、何を言っているのか聞き取れないままに足に温かな何かが当てられる。あれ、と思っている間に、男の子がルークの腕を引っ張りあげた。すると驚いた事に、さっきまで言う事の聞かなかった足がひょいと立ち上がったのだ。


「うわ?!」
「走れ!」


走り出す男の子に引っ張られてルークも駆け出した。すると急に力のみなぎった足は信じられないスピードで動き出す。ルークは自分で驚きながらも男の子について必死に走った。男の子は裏路地を迷う事無く真っ直ぐ進んだ。お店の裏側に入って食べ物が並ぶ中を駆けたりもした。途中でルークは、さっき見た油屋に向かっているのだと気がついた。


油屋の前には大きな橋がある。さっきまでルークと男の子しかいなかったその橋も夜の薄暗い中船からおりてきたお化けたちでいっぱいだった(ルークも後で分かった事だが、これは全員八百万の神様らしい)。皆揃って一つの方向へ向かっている。もちろん油屋だ。油屋の前には女の人たちがたくさん出迎えていて、それが遠めにも華やかだった。


「いいか、橋の上では息を止めていろ。少しでも息をすれば見つかってしまうからな」
「わ、分かった……」


言い聞かせてくる男の子にルークは神妙な面持ちで頷いた。何で息をしなければ見つからないのだろうと思ったが、そういうものなのだろう。いちいち気にしていたらやってられない。男の子はルークの手を引いて裏路地から色んな生き物(?)がひしめく表通りへと歩き出した。橋にかかる手前で、男の子がルークに合図する。


「息を吸え」


ルークは思いっきり息を吸った。橋に後一歩、の所で再び男の子が口を開く。


「止めろ」
「んむっ」


ルークは繋がっていない方の手で自分の口を押さえた。そこで足が橋にかかる。ここから渡り切るまで息を止めていなければならないのだ。ルークは隣の男の子にそっと寄り添いながらただ歩いた。途中で1人立ち止まる金髪の男を眺めたりしているうちに、向こう側が近づいてくる。


「うっ……」
「もうすぐだ、我慢しろ」


いよいよ苦しくなってきたルークの様子に男の子が正面を見たまま励ましてくる。橋の端っこはもうすぐそこだ。とそこに、男の子目指して駆けてきた銀髪の人がいきなり目の前に現れた。


「アッシュさーん!一体今までどこ行ってたんですかー?」
「っは?!」


それに驚いたルークは一瞬息を吸ってしまった。あ、と慌てて口を押さえるがもう遅い。銀髪の人は怪訝そうに首をかしげてルークの方を見る。


「……え、人?」
「邪魔だ!」
「ぎゃーっ!」


とっさに銀髪の人を殴り飛ばした男の子はルークをすごい勢いで引っ張った。まるで風になったようだった。周りがいきなりの突風に慌てふためいている間に油屋の塀に身を寄せた男の子は、足元にあった抜け道にルークを押し込んで自分もそこへ逃げ込んだ。


「いたたた……な、なんだったんだ?」


1人銀髪の人だけが殴られた頬を押さえてきょとんと座り込んでいた。

06/12/08