目の前の家は、ルークが想像していたものと大分違っていた。あのヴァンの妹というティアは、その兄にまったく似ていない美しい女性であったが、良くない噂ばかり聞いていたのでてっきりもっとおどろおどろしい家に住んでいると思っていたのだ。辺りの沼も闇夜の中じめじめと光っていて、この景色の中なら古びた大きな洋館とか、あちこち崩れ落ちた西洋風のお城なんかが似合いそうなものだが、ティアの家はそのどれとも違っていた。庭に小さな畑が作られている、とてものどかな一軒家だったのだ。屋根から突き出した煙突から、温かそうな煙が立ち上っているのが見える。
ここまでランプを持って案内してくれた女の子の横を通り過ぎて、ルークは真っ直ぐ目の前の家へと向かった。相手は一度会った事のある人物であったが、胸が緊張で張り裂けそうになっている。顔をこわばらせたまま、ルークはとうとう扉の前に立った。
さて、覚悟を決めてノックをしよう、と一歩踏み出す前に、木で造られた扉は開かれた。思わずあっと声を上げてしまったルークの目の前には、温かなオレンジ色の明かりに照らされた室内が迎えるように広がっている。躊躇している間に、中から優しい声が聞こえた。


「いらっしゃい。さあ、中へおはいりなさい」


その声に覚悟を決めたルークは、部屋の中へと足を踏み入れた。もちろん「失礼します」の言葉は忘れない。肩の上の坊とミュウと一緒に部屋の中を物珍しげに見回していたルークだったが、開かれた扉の前で、なかなか前に踏みこめないガイの姿に気付く。扉を開けた声も、急かすように響いた。


「入るなら早く入ってちょうだい」
「ガイ、大丈夫だよ。おいで」


ルークが手招きすると、ようやくガイはゆっくりと部屋の中へ入ってくる。途端に、扉を開けていたこの家の主、ティアの手によって扉は閉められた。ティアは一同を順番に見つめると、にっこり笑った。


「皆、良く来たわね」
「あっあの!」
「積もる話は後にしましょう、まずはそこに座って。今お茶を入れるわ」


ティアは中央に置いてあるテーブルを指し示すと、お茶を入れるために奥へ歩いて行ってしまった。迷ったルークだったが、のんびり座って待っている余裕もなく、耐えきれずにティアの後を追った。そうしてポットに火をつけるティアの元に立ち、大事に持ってきたあのペンダントを取り出す。


「ティアさん、これ、アッシュが盗んだペンダント……です。お返しにきました」


両手で差し出されたそれを、ティアが少し驚いた顔で見つめる。ルークの真剣な表情を見てから、ゆっくりとペンダントを受け取った。


「ティアでいいわ、敬語も慣れないからもっと親しく話してちょうだい。……それにしてもルー、あなたこれが何なのか知っているの?」
「いいえ……じゃなくって、ううん、でも、とっても大事なものだって聞いた。俺、アッシュの代わりに謝りに来たんだ。……ごめんなさい!」


勢いよく頭を下げるルーク。肩に掴まっていた坊とミュウも一緒にお辞儀をする形になった。後ろに立っていたガイもルークの必死な様子に思わず共に頭を下げる。そんな面々を見渡してちょっと微笑みながら、ティアは小首を傾げた。


「あなた、これを持っていて何ともなかったの?」
「えっ?」
「……あら、おかしいわね、事前にかけておいた守りの譜歌が消えているわ」


ティアが怪訝そうにペンダントを見つめる。ルークは思い出していた。このペンダントを初めて見た場面を。竜の姿だったアッシュの口から、あの黒いぶよぶよの塊と一緒に吐き出されたのだった。もしかしてあれの事ではないだろうかとピンときたルークは、慌ててティアに詰め寄った。


「ごっごめん!ペンダントについていたあの辺な虫、みたいな丸い塊、俺が踏みつぶしちゃったんだ!」
「えっ?!踏みつぶした?」


ルークの言葉に目を丸くしたティアは、次の瞬間、声を上げて笑っていた。余程面白い事を聞いたのか、肩がふるえている。ルークは戸惑った。


「え、えっと……?」
「ああ、ごめんなさい、ルー。あの大詠師はね、兄さんが弟子を操るために竜のお腹に忍び込ませたものなのよ。それを踏みつぶしたって……ふふふっ兄さんもざまあみろね」


何だかやけに楽しそうに笑ったティアは、ひとしきり笑った後ルークの背中を優しく押し出した。


「さあルー、座って。あなたは確かガイだったわね、仕方が無いからあなたも座りなさい」
「……あ!そうだった、ティア。こいつらも元の姿に戻してやって欲しいんだ」


座り込む前に、ルークは自らの肩を指し示した。そこにはじっとティアの事を観察している坊とミュウがいる。ティアは恍惚とした表情でそれを覗きこんだ。


「ああ、いつ見ても可愛らしいわ……。でもあなたたち、魔法はとっくに解けているはずよ。私としてはそのままの姿の方が好きだけど、戻りたかったらいつでも戻っていいのよ」
「い、今はまあこの姿のままでいいんだよ!こうやって肩に乗って楽出来るし、その……外を動き回れるのは、案外悪くないしな」
「ですの!」


照れ隠しのように顔を背ける坊。彼は案外、この小さなねずみの姿が気に入っているようだ。

ティアはお茶とお菓子を出してくれた後、色んな話をしてくれた。走る楽しさに目覚めたらしい坊が糸車でぐるぐる回っている横で、ルークはお菓子を食べる事も忘れ、ティアの話を聞いていた。魔法の事、唯一の兄弟であるヴァンとの事、そして可愛いものがいかに素晴らしいのか、たまに拳を握り熱くなりながら話を聞かせてくれたティアは、最後に慈しむような瞳でルークを見つめた。


「あなたを助けてあげたいけど、私にはどうする事も出来ないの、ごめんなさい。それがこの世界の決まりだから」
「この世界の、決まり……」
「ご両親の事も、ボーイフレンドの竜の事も、自分でやるしかないの」
「ぼっボーイ……?!でででもあの、ヒントか何か、ないかな?アッシュと俺、ずっと前に会った事があるみたいなんだ」


自分の名前も忘れたアッシュが、ルークの事だけは覚えていたと言った。それならば、アッシュの事をルークも知っているはずではないのか。いくら考えても、ルークの中に答えは浮かび上がってこなかった。しかしティアはルークの言葉を聞いて、簡単そうに微笑んだ。


「なら話は早いわ。一度あった事は忘れないものよ、思い出せないだけで」
「思い出せないだけ……」
「……今夜はもう遅いから、ゆっくりしていくといいわ、ルー」


立ち上がったティアが、ルークの肩に慰めるように柔らかく触れて離れる。ルークは俯き、じっと考え込んだ。思いを馳せるのは、ブウサギになってしまった両親と、そして油屋に置いてきた、深く傷ついたアッシュの事。考えれば考えるほど、ルークの心に様々な感情がさざ波のように次々と押し寄せてくる。感情の海で溺れないように、ルークはぎゅっと身体を小さくさせる事しか出来なかった。





「はあ……はあ……さ、さすがに疲れたぞ……」
「みゅー……もう走れないですのー……」
「ふふふ、後もう少し頑張ったら、新しいクッキーをあげるわ」
「おーしもう一丁!」
「頑張るですのー!」
「そう、そこをそうやって……ガイあなた結構手先が器用なのね、助かるわ。魔法で作ったのでは、何にもならないもの」


坊とミュウが糸車を回し、ガイが糸を紡いで、ティアがやり方を教えながら飾りを選ぶ。そういった賑やかな作業の横、ルークは一人で椅子に座り、じっと静かに考え込んでいた。ティア達も何かを察してくれているのか、ルークの思考の邪魔をする事は無い。
この家に辿り着いてからどれぐらい経っただろうか、もしかしたらもうすぐ夜明けがやってくるかもしれない。今度は編み物をしているティア達の元へ、ルークがゆっくりと歩み寄ってきた。


「ティア……俺、やっぱり帰る」
「ルー」
「だって……だって、こうしている間に、アッシュが死んじゃうかもしれない……お父さんやお母さんが食べられちゃうかもしれない……!」


ルークの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれる。今ルークの心には何よりも、両親に、アッシュに会いたいという気持ちでいっぱいだった。自分がいないうちに皆がどうにかなってしまうのではないだろうかと、不安で仕方が無かった。
ティアはルーを見つめた後、手元へ視線を落とした。そこには完成間近のあるものが握られていたのだ。


「ちょっと待ってて……さあ、出来たわ。ルー、手を出して」
「え……?」


ティアが手渡したのは、手作りの髪留めの紐だった。まさしく今皆で作っていた糸で作られていた。受け取ったルークは、瞳を輝かせてそれを掲げてみせる。ルークの手の中、ランプの光で照らされた髪留めはキラキラと輝いていた。ルークにとってそれは、宝石よりも美しく思えた。


「わあ……綺麗だ……!」
「お守りよ。皆で紡いだ糸が編み込んであるの」
「ありがとう、ティア、皆!」


坊がへへんと偉そうにふんぞり返り、ガイが嬉しそうに微笑む。ルークは早速、今使っていたものを外して新しい髪留めをつけてみた。それだけで、何故だか不安でいっぱいだった心の中に、何か温かいものが溢れてきた気持ちになる。きっと大丈夫だという自身が、勇気が沸いてくる気がする。気のせいじゃなければ良いなとルークは思った。
その時、ドアが強い風を受けたようにガタガタと揺れた。振り返ったティアが、満足そうに笑う。


「良い時に来たわね。ルー、お客さんが来たわ、出てくれないかしら」
「分かった」


頷いたルークが部屋のドアに近づき、ゆっくりと開ける。途端に外からの風がルークの全身を包み込んだ。外を覗きこんだルークの瞳が見開かれる。夜の濃い闇が薄れてきている星空の下、風と共にそこに立っていたのは、美しく長い身体を持った真紅の竜であった。ルークの姿を見つけ、まるで微笑むように首が動く。ルークは外に飛び出した。


「アッシュ!」


紅き竜、アッシュに駆け寄ったルークは、その頭を抱きしめた。声は聞こえないが、アッシュがまるでルークに語りかけるように顔を揺らす。温かくて冷たいような、その不思議な竜の感触をかみしめながら、ルークは安堵に息を吐き出した。


「アッシュ、良かった……!怪我は?もう大丈夫なのか?ああ、本当に良かった……」
「ふふ、グッドタイミング、というやつね」
「ティア!アッシュが生きてた!」


アッシュをぎゅうっと抱きしめるルークに続き、他の皆が家から出てくる。先頭を歩くティアが、静かにアッシュへ語りかけた。


「赤竜、アッシュ、あなたのした事はもう咎めません。その代わりその子をしっかりと守るのよ」


アッシュはただ静かにティアへと頭を垂れた。その瞳は約束を違わせぬよう強い光を放っていた。それを見て一つ頷いたティアは、後ろでミュウに吊り下げられている坊へと向き直る。その表情は、死ぬほど名残惜しそうだった。


「正直に言うともう二度と手放したくないぐらいなんだけど、今日の所はお別れね、本当に仕方が無いけれど。また遊びにいらっしゃい、絶対ね」
「まあ髭の相手をしているよりはこっちの方がずっと楽しいから、また来てやってもいいぜ」
「ああ、その憎まれ口も可愛いわ……!」
「ぎゃあーっ!くっくっ苦しいー!離せーっ!」


大きなその胸に抱きしめられて窒息しそうになった坊だったが、寸での所でガイにつまみあげられ一命を取り留めた。そのまま逃げるようにルークの元へと飛んでいく。残念そうにそれを見送ったティアは、ガイを見上げた。


「あなたは行く場所がないのなら、ここにいて私の手伝いをしてちょうだい。坊がここに遊びに来てくれるならそれで万々歳よね」


ガイは勢いよく頷いている。ルークとお別れなのは寂しいが、坊がいるならやっていけるようだ。あの人はこれから大丈夫だろうかと地味に心配していたルークもそれを見てホッとする。ティアが「下僕ゲットね」とガッツポーズをしているのが少しだけ気に掛かるが。
すぐに表情を元に戻すティアに、ルークは最後のあいさつをするために近寄った。


「ティア、本当にありがとう、俺行くね……うわっ?!」
「大丈夫、あなたならきっとやり遂げるわ」


これ幸いとばかりにティアがルークを抱きしめる。後ろでアッシュがシャーっとキバをむき出しにして怒っているが、ティア相手だとさすがに手は出せないようだ。豊満な胸の海に溺れかけるルークだったが、何とかこれだけは言っておかなければともがいて逃げ出す事に成功した。


「俺の本当の名前は、ルークって言うんだ」
「ルーク、良い名前ね。自分の名前を大事にしてね」
「うん!」


名残惜しいが、躊躇していたらきりがない。駆けてティアの元を離れたルークは、アッシュの背中によじ登り、しっかりと身体を掴んだ。ルークを乗せるために身を屈めていたアッシュが立ち上がると、それだけで風が吹き荒れてくる。徐々に明るくなりだしたこの空に昇るためだ。ルークは竜の背から、ティアとガイを見下ろした。


「ティア、ありがとう!さようなら!ガイも元気でな!」
「今度はもっと別なお菓子用意しとけよー!」


どさくさに紛れてお菓子を要求する坊の言葉を最後に、アッシュは風を纏って空へ飛び上がった。あっという間に遠ざかる一軒家、ティア、ガイ、そして案内の女の子、沼の底。
月が傾いた空の中、雲と同じ高さまで飛んできたアッシュの背中、竜の角をしっかりと掴んでしがみつくルークは、自分がまるで宙を吹きまわる風か、どこまでも流れ行く水にでもなったような心地がした。
それは今まで味わった事もないような、けれど何故か、どこか懐かしいような。不思議な気持ちであった。

11/10/14