夜明け直前の空は静かだった。ルークの耳に届くのは次々と流れていく風の音か、坊の飛ばされる―といった悲鳴のみであった。雲の上がこんなに静かな場所だったとは知らなかった。けれど無音では無かった。何かが一杯に満ちている、そう、まるで水の中のような、そんな心地であった。
そこでルークは気がつく。今のこの不思議な感覚を、どこか別な場所でも味わった事がある事を。気がついた途端に、頭の中で断片的な映像が甦る。
まるでこの風の音のような水のせせらぎ。流される靴。迫りくる水面。冷たい水の中。そして、何かにしがみ付いて泳いだ。
初めてではなかった、この妙に静かな世界も、通り過ぎていく冷たい何かも、この美しい紅の背中も。ああそうだ、こうやって必死に竜の角にしがみついた事は、初めてではないのだ。
ルークは思い出す。自分でも思い出せないぐらい小さい頃の事を。母から聞かされた、遥か昔の出来事を。


「……アッシュ、聞いてくれるか?」


ルークがその顔を覗き込むように身を乗り出せば、竜の姿のアッシュは何も言わないまま先を促してきた。きちんとルークの言葉を聞いてくれている様子のアッシュにホッとしたルークは、か細い記憶を辿りながら言葉を紡ぐ。
「一度あった事は忘れないものよ、思い出せないだけで」ティアの言葉だ。きっとその通りなのだろうと、今のルークには分かる。


「前にお母さんに聞いたから、俺は覚えていなかったんだけど。俺が小さい頃、川に落ちた事があるんだ」


肩の上の坊とミュウもどんな話が飛び出すのか、飛ばされないようにしがみ付きながらも固唾をのんで見守っている。ルークはまるで思い出すように語る。


「その川はもうマンションになって、埋められちゃったらしいけど。でも、今思い出したんだ。その川の名前は……」


ルークは確信していた。ルークに残された思い出はほんのわずかであるが、確かに思い出していた。もうほとんど取り出せないほどの小さな記憶は、身体が覚えている。そして母に聞かされた話は、頭ではっきりと覚えていた。だって、忘れるはずが無い。その話を聞いた時は、奇跡のような偶然に運命ではないのかとすら思えて、はしゃぎ回ったのだ。


「その川はね……ルーク川」


自分と同じ名前の、まるでもう一人の自分に助けられたようだと。


「お前の本当の名前は、ルークだよ」


その瞬間、真紅の竜は全てを思い出したように目を見開く。同時にその身体からは、宝石のように美しい赤いうろこが剥がれ落ち、いくつも宙に舞った。


「うわっ?!」
「ぎゃーっ何だこれー?!」


上に乗っていたルーク達はその大群に一瞬で巻き込まれる。うろこ達はすぐに全てが空に消えた。残ったのはルークと坊とミュウ、そしてもう一人。ルークは己が浮力を失い落下していくのを感じたが、怖くは無かった。しっかりと握りしめられた手の中に、もうひとつの手があったからだ。
竜の体色にも劣らぬ美しい赤の髪が風に踊る。自然と向き合うように手を重ねていたルークは、目の前のアッシュの顔を見つめた。アッシュは、笑っていた。


「ありがとう、ルーク。そうだ、俺の名前はルーク、お前と同じだ」
「ルーク、俺と同じ名前……へへへ、俺、そうやってお母さんから聞いた時、すごく嬉しかったんだ。何でだろう、お前の事、あんまり覚えてないはずだったのに」


知らず知らずのうちに、ルークの目からはぼろぼろと涙が零れていた。悲しいのか、嬉しいのか、それともただ風が目に染みるからなのか、ルークは自分で分からなかったが。ルークの胸の内いっぱいに詰まっているのは、喜びであった。アッシュは初めて見るような穏やかな笑顔で、そんなルークを見ていた。


「俺も思い出した、お前が俺の中に落ちた時の事を。靴を拾おうとしたんだ」
「そっか、アッシュが俺を浅瀬まで運んでくれたんだな。俺の頭が忘れても身体がそれを覚えてて、だから嬉しかったんだ。ああ、そうなんだ……!」


ルークとアッシュの額が触れ合う。まるで十何年か越しに再会出来た事を、喜びあうかのように。零れ落ちるルークの涙は、とうとう夜明けの迫る空で星の欠片のようにキラキラと光る。そのいくつかは、二人の真上を落ちる坊達に当たったりもした。


「冷たっ!ったく、こいつら落ちながら良くいちゃつけるよな!俺の事は置いてきぼりかよ!」
「みゅーっお二人とも幸せそうで、よかったですのー!」


小さな友人たちが見守る中、そのまま垂直に落ちて言った二人は、やがて地面に落ちる前に再び浮き上がり、真っ直ぐ飛び始めた。行く先の空は明るい。眼下の海はどこまでも広がる。広大な空を二人っきりで飛んでいくその手はしっかりと、固く結ばれていた。




いつもだったら仕事終わりで静まり返っているはずの油屋は、ざわめきに支配されていた。正面にて落ち着かない様子で何かを待っているのはヴァンで、脇には並べられたブウサギ達が呑気にブヒブヒ鳴いている。表から見えない塀の向こう側には従業員たちが皆、息を詰めてヴァンと同じように何者かがこの場に訪れるのをひたすら待っていた。その中からふと顔を出して空を見上げたのは、シンクだった。空の向こうに目的のものを発見して、指を差す。


「来た!帰ってきたよ!」
「本当ですかっ!」
「おやおや、この短期間で随分と仲良くなったようですねえ」
「うわっ本当だ!くそーあの唐変木、絶対奥手だと思ってたのになかなかやるじゃん」


シンクの声を合図に皆ぞくぞくと顔を覗かせる。ヴァンの視線が橋の向こうへ飛ぶ。ふわりと、空から舞い降りてきたのは手をつないだままのルークとアッシュだった。そのまま橋の向こう側に足をつき、ヴァンと向き合う。ヴァンは声を張り上げた。


「私の可愛い坊をきちんと連れて戻ってきたんだろうな!」
「気色の悪い事言うんじゃねえー!」
「ぐほぁっ?!」


途端にヴァンの頭上にねずみの姿から元に戻った坊が着地する。その頭にしがみつくミュウも元の大きさへと戻っていた。踏みつぶされたヴァンはぴくぴくしていたが、坊がどけばすかさず立ち上がってきた。恐るべき耐久力である。


「おお坊!無事だったか、怪我は無いか?酷い目にあったな……」
「べっつにー?」


詰め寄るヴァンから視線を逸らす坊は本当に何ともなくて、むしろだらだらと無気力だった前よりずっと活力のある様子だったので、ヴァンは面食らった。そこにアッシュの声が飛んでくる。


「師匠!約束です、ルークと両親を人間の世界に帰してやって下さい!」
「ふん、そう簡単にはいかないぞ、世の中には決まりというものがあるのだ!」
「何それひどーい!」
「往生際が悪い人ですねー」
「前からむかついてたんだけど、あの髭と眉毛!」
「お、お前達っどさくさまぎれに何を?!」


生意気な事を言うヴァンであったが、横から盛大なブーイングが飛んできてさすがにうろたえる。しかしヴァンを最大限にうろたえさせたのは、目の前にいる坊の言葉であった。


「おいケチ髭、もうやめろよ、みっともねえ」
「ぼっ坊まで?!」
「外の世界を見れて、俺はちょー楽しかったぜ。あのティアって奴も、怖かったけどそれなりに優しい奴だったし」
「くっティアめやはり坊をたぶらかしてきたか……!しかしな坊、これは決められた事でな……」
「うるせえ!ルークを泣かせたりしやがったら、一生口きいてやんないからな!」
「そうですのっ!」


坊に叱りつけられてがっくりと肩を落とすヴァン。その姿がさすがに可哀想になったルークは、慌てて声を上げた。


「師匠!俺、今そっちに行きます!」


いくら相手が怖くて嫌な奴でも、交わした契約は確かにルークが自身で行った事で、そしてヴァンもそれ以上の事はしていない。ルーク自身が動かなくてはならないのだ。一度アッシュと視線を交わし、元気をもらってからルークはヴァンの元へと歩いた。


「掟の事はアッシュから聞きました」
「ふん、良い覚悟だ。……これはお前の契約書だ、こちらへ」


ヴァンの後について歩くルーク。促されたのは、ブウサギ達が並ぶ前だった。縄が引いてあってブウサギがこちらに出てこれないようになっている。ヴァンはブウサギを指し示しながら言った。


「この中からお前の父と母を選ぶのだ。チャンスは一回きり、ピタリと当てる事が出来れば、お前達は自由の身だ」


ルークの挙動にその場の全員が注目した。幾多の視線が降り注ぐ中、ただ黙ってブウサギたちを見つめたルーク。しばらく視線を巡らせていたルークは、やがてヴァンを見た。


「師匠、駄目だよ。この中にはお父さんもお母さんもいない」
「いない?それがお前の答えというのだな」


確認するように尋ねられる。ルークは決意をともした瞳で、ゆっくりと頷いた。
一瞬後、ヴァンの手の中にあった契約書は、音を立てて消滅した。


「「大当たりですよ!!」」
「私たちの完璧な変装を見破るとは、あなたなかなかやるようですね!」
「ふっ、この天才と呼ばれる男でも僅かに油断する事があると言う事です」
「いやいや、今回ばかりは相手に花を持たせてあげたのですよ、私が本気を出してしまえばその辺の人間には絶対に見破れな」
「メテオスォーム!」
「「ぎゃーっ!!!」」


どうやらブウサギに化けていたのはサフィール達だったらしい。まとめてジェイドの譜術で駆逐されるのを見つめている間に、周りは一気に沸き上がっていた。皆、ルークが正解を言い当てた事を喜んでくれているのだ。ギンジとアニスは喜びに飛び跳ね、リグレットも微笑み、シンクまでガッツポーズしている。ジェイドも祝ってくれているつもりなのか、譜術をどかどかサフィール達にぶつけまくっていた。ルークは答えるように笑顔で手を振った。


「皆、ありがとう!」
「……お前の勝ちだ、早く行け」
「師匠、お世話になりました、ありがとうございました!」


そっぽを向くヴァンに深くお辞儀をした後、ルークは駆け出した。


「皆、さようなら!」
「おう、また来いよー!」


憎たらしい事しか言ってなかった坊も最後には笑顔で手を振ってくれた。それをかみしめながらルークが正面を見れば、アッシュが手を伸ばして迎えてくれていた。


「アッシュ!」
「行こう、ルーク」
「お父さんとお母さんは?」
「先に行っている」


躊躇いもなくその手を掴み、並んで駆け出す。何の気配もない静かな朝の町を、ただ真っ直ぐ走った。少し前に見たあの悪夢のような光景はどこにもない。そのまま駆けていけば、緑の草原へと辿り着く。海になって戻れなくなっていたはずの場所が来た時と同じように変わっていたのだ。つまりこれが、帰り道だ。
立ち止まったアッシュは、ルークを見つめて静かに口を開く。


「……俺はこの先には行けない。お前は来た道を真っ直ぐ戻ればいい。ただし絶対に振り返るなよ、トンネルを通り抜けるまではな」
「アッシュは?アッシュはどうするんだ?」


ルークが尋ねれば、アッシュは微笑んだ。諦めたような笑顔ではなく、先を見据えた力強い笑みだった。


「俺は師匠……いや、ヴァンと話をつけて弟子をやめる。簡単だ、本当の名前を取り戻したからな。元の世界に、俺も戻る」


吹き抜ける風にアッシュの髪が揺れる。同じようにルークの髪も揺れているだろう。魂に刻み込まれた、互いの同じ名前のように。ルークは確認するように言った。


「また……どこかで会えるよな」
「ああ、きっと」
「きっとだぞ!」
「きっと。さあ、行くんだ。振り向かないように」


アッシュがルークの手を持ち上げ、前に促す。歩き出したルークの手と立ち止まるアッシュの手は名残惜しむかのように一度引っ張られ、そして指が離れた。
完全に日が昇りきった空の下、草原を一心不乱に真っ直ぐ駆けるルークの耳に聞きなれた、そしてどこか懐かしい声が届く。


「ルーク!ルーク、何をしているのです、早く戻りなさい!」
「おーいルーク、こっちだぞー!」
「あっ……!」


見えたのは来た時に見た古びた赤い駅のような建物。その前に立ってこちらへと手を振るピオニーと、呼びかけてくるナタリアだった。ルークは慌てて二人に駆け寄った。


「お母さん!お父さん!」
「駄目ではありませんか、急にいなくなったりしては。心配したんですのよ」
「ははは、子どもは元気が一番ってな!何事もなくて何よりだ。さあ、帰るぞルーク」


いつもの困り顔のナタリアと、元気な笑顔のピオニー。その姿はいつもと全く変わりは無い。ルークの頭の中に、呑気に寝そべるブウサギの姿が甦った。あの時の事は、きっとすっかり忘れているのだ。まるで、何も無かったかのように。
とっさにルークは振り返ろうとした。しかしすぐにアッシュの言葉が響く。
絶対に、振り返るなよ。


「………」


息をのみ込んだルークは、先に歩くピオニーとナタリアの元へと駆け寄った。そのまま、トンネルの中へと足を踏み入れる。母の腕にしがみつき、前を行く父の背を見つめながらルークはゆっくりとトンネルの中を進む。やがて向こう側に光が漏れて、出口が見えてきた。
そこに広がっていたのは、トンネルに入る前の景色だった。厳密に言えば前より少し変わっていた。目の前に停めていた車に、木の枝や葉っぱが積もっていたのだ。まるで、この場に停めたまましばらく時間が経った後のように。


「うわっ何だこれ、ひでえなー、中も埃だらけだぞ」
「まあ、いたずらですか?」


二人が慌てて車に駆け寄る中、ルークはトンネルを振り返っていた。長く続くトンネルは、向こう側を見る事はもう出来ない。その暗闇を、ルークはただじっと見つめていた。


「オーライオーライ……ええ、大丈夫ですわ」
「よし!ルーク、行くぞー!」
「ルーク!」


車のエンジンがかかり、ピオニーとナタリアが呼ぶ。ルークはトンネルから目を背け車に走った。振り返る時、まるで印のようにルークの髪を結ぶあの髪飾りがキラリと、光を放つ。
そう、それはきっと、印であった。確かにあの不可思議な世界でルークが暮らし、様々な人たちと出会ったという、何よりの印。ルークが唯一持ちかえる事の出来た、形ある印であった。
それだけでよかった。形のない印は、確かにルークの中に深く、刻み込まれているから。
一度あった事は忘れないものなのだ。ただ普段は、思い出せないだけで。


「ルーク」


この名をルークが持つ限り、無くす事はない。
いつか来るであろう、再会の印なのだ。




   ルーとルークの神隠し  完

11/11/18



 
 
 



     ↓この下、読む必要性の無い後書きあります↓




千と○尋の○隠し最高!!!!!!!!!!!(今更伏字)
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました!
最 後の、余韻に浸れるあの終わり方が文章に表す事が出来なくて非常に苦しみましたが…結局こんな形になりました。あの、最後千尋とハクが手を解く所、ハクが 名残惜しそうにしばらく手を伸ばしたままで、ゆっくりと戻す所、あそこが最高に好きです…!が、それを文章に表す事が(略)
本当は10話ぐらいで書けるかなとか当初思っていたんですが、4,5話目あたりであっこれは書き終わらないかもしれないなとかうっすら思ったりもしました…。無事に書ききる事が出来てホッとしております。内容はともかく!!
配役ももしかしたら納得が出来ない部分もあったかもしれませんが、そこはもう脳内補完してやって下さい。私の考えるアビス神隠しパロは、これがベストでした…!あの大詠師も今となってはあれでよかったなって思いますし。うん。
惜しむらくは、ストーリーを追うのに必死で、ポニーテールルークを前面に押し出せなかった事です。後、アッシュのあまりのツン<<<<<デレ率。これはハクがデレの塊だから仕方のない事なんですが。デレアッシュも、たまにはいいですよね!
この後は、原作もですが、きっと二人は再会出来るって信じています。
『ようやく新しい学校に慣れ始めたルーク、そこに季節外れの転校生がやってくる事に…「…えっ?!まさか…?!」「…言っただろう、きっと会えるとな」』
って展開になるに違いありません。私は全力で信じています。