両手に靴を持ち、冷たい水の中を踝まで浸かって歩くルークの目の前に、やがて水に濡れていない地面が現れた。長方形のそれが濡れていないのは、周りの地面より一段高くなっているからだ。シンクは、駅は見ればわかるだろうと言っていた、おそらくあれだろう。


「あれだ!」
「あれが駅か?何かしょぼいなー」


肩に乗っかっていた坊が生意気な事を呟くが、本当に何も無い駅だったから仕方が無いのかもしれない。水を蹴りあげて駆けたルークは、とうとう駅まで辿り着く事が出来た。ルークの肩から離れた坊はさっそくミュウに吊り下げられて地面に降り、きらきらと好奇心に輝く目で水面を見下ろす。水のない地面について一息ついたルークが背後を振り返れば、ゆっくりとこちらに歩いてくるガイと、その向こうから水しぶきを上げて沈んだ線路の上を走ってくる何かが見えた。遠目でもそれが良く分かった、あれが電車だ。


「電車が来た!坊、ミュウ、来るぞ」
「おお!電車か!俺初めて乗るぞ!」
「楽しみですのー!」


坊とミュウがルークの肩に戻り、ルークが靴を履いている間に、電車はあっという間に目の前へやってきた。止まった電車の入口が開いたのを見て中へと駆け寄ると、すぐそこに大きな身体の車掌が立っている。差し出された手に、ルークはジェイドから貰った回数券を手渡した。


「あの、クリフォトまでお願いします」


無言で受け取った車掌は回数券を広げ、人数を確認する。回数券は四枚。車掌が指差したのもルーク、坊、ミュウ、そして背後のもう一人、四人分であった。ルークが振り返れば、そこには追いついたガイが立っていた。


「ガイも乗りたいのか?」


穏やかな瞳を見てルークが問いかける。ガイは笑顔で頷いた。敵意が全く無いその様子に、ルークは車掌へと向き直る。


「この人もお願いします」


車掌は回数券を機械に通すと、その場からどいた。ルーク達が中に乗り込むと、すぐに電車は発車する。海の上を滑る様に走る景色を少しだけその場で眺めてから、ルークは歩き出した。電車の席はそれほど埋まっていない。座っている人と人の間が大きく開いている席を見つけ、そこに座った。


「うおーすげー!動いてる!こいつこんなにでっかいのに動いてるぞ!」
「綺麗ですのー!すごいですのー!」


窓にかじりついて外の景色にはしゃぐ坊とミュウを見てから入口に目を向けると、ガイがまだそこにじっと立ったままだった。どこか戸惑うようにルークを見つめてくるので、手招きしてやる。


「おいで、ガイ」


呼ぶとガイは安心した様子で隣に静かに座った。とてもさっきみたいに見ていられないような暴れ方をしそうにはないが、一応釘を差しておく。


「大人しくしとけよ」
「そーだぞ!また暴れやがったら今度は頭に噛みついてやるかんな!」


便乗して坊が言ってやれば、ガイは申し訳なさそうに頷いた。この様子ならきっと、大丈夫だろう。
口を閉ざしてどこか不思議な景色を眺めている間に、電車はどんどんと先へ進んでいった。海はどこまでも続いていた。その上に家や道がぽつぽつと浮かんでいる。途中で止まった駅もそのほとんどが水に浸かっていたが、降りた人たちは一体どこへ向かうのだろうか。そんな事を漠然と考えている間も、電車は進む。外はいつの間にか夕暮れを迎えていた。
やがて電車の中は、ルーク達以外の乗客がいなくなってしまった。電車が揺れる音だけが響く車内、はしゃぎ疲れたのか無邪気な寝顔を晒してルークの手の中で熟睡する坊とミュウのぬくもりを感じながら、ルークはただひたすら向かうべき方向を見ていた。だんだんと夜に向かって暗くなっていく景色を、真っ直ぐな瞳で見つめていた。



一方、ルークが去った油屋の、ボイラー室では。布団の上に横たえられていたアッシュが、静かに目を覚ました所であった。目覚めたばかりでハッキリしない頭を整理させるようにゆっくりと視線をさまよわせるアッシュに、声がかけられる。


「気がつきましたか、アッシュ」
「……眼鏡か」


アッシュの傍で一応見守ってくれていたらしいジェイドだった。傍では桶やらタオルやらが散乱している中でディスト達が力尽きて倒れているので、きっと実際に看病してくれていたのは彼らなのだろう、命令でもされて。ゆっくりと身を起こしたアッシュは、ジェイドを睨みつけた。


「おい、ルークはどこだ。一体何があったんだ、教えろ」
「やれやれ、それが人にものを頼む態度ですか。それにしても、何も覚えていないようですね」


ジェイドが肩をすくめてみせれば、アッシュはどこか悔しそうに目を伏せる。


「切れ切れにしか思い出せないんだ。ルークが闇の中で、俺の名を何度も呼んでいた。その声を頼りにもがいて、気がついたらここにいたんだ」
「ルーク。そうですか、あの子の本当の名はルークと言うんですね」


ジェイドが頷く。その表情は、どこか懐かしむような、愛おしむような、ジェイドの表情としては珍しいものであった。しかし軽くアッシュが目を見張る間に、その顔はいつも通りの意地悪い笑顔に戻っていた。


「いやー、いいですねえ。愛の力ですか。若いとは素晴らしいですねえ」
「っうっうるせえ!いいから早く教えやがれ!」
「分かりました。では説明を……鼻垂れ、早くしなさい」
「そこで何故私なんですか!」
「さっきまで散々こき使っていたでしょう!」
「鼻垂れと呼ぶんじゃありません!」


ぴーぴー騒ぎだすディスト達をタービュランスで黙らせてから、ジェイドはようやくアッシュに今までの事を話して聞かせた。自分で説明出来るんじゃねえかと思いながらもそれをアッシュが聞いている間に、油屋の最上階では、ヴァンが従業員達の報告を聞いている所であった。


「これっぽっちの金でどうやって埋め合わせをするつもりだ。ルーの奴がせっかくの儲けをふいにしてしまって、まったく……所詮は愚かな人間か」


ひたすら不機嫌なヴァンは、ガイに秘奥義をかまされたせいでボロボロの姿だった。その横では坊がひたすらお菓子を食べまくっていて、その可愛い食いっぷりを見て何とか怒りを鎮めている所である。ガイが落とした金が積まれた机を目の前に膝をつくリグレットとアニス、そしてギンジが、おそるおそる進言する。


「でもあの、おいらたちルーさんのお陰で助かったんですよ」
「恐れながら陛下、私もあのままでは自力で脱出する事は出来ませんでした。確かに我々が助かったのは、ルーの力によるものです」
「そうですよお、飲み込まれた子たち皆助かったんですよ総長ー!」
「ふん、それも全て自分でまいた種ではないか。それなのにこの油屋から勝手に逃げ出した。あの子は自分の親を見捨てたのだ!」


口々にルークを擁護する三人だったが、ヴァンは取り合わなかった。少しだけ考え込んだ後、恐ろしい事を口にする。


「親ブウサギはちょうど食べ頃だろう。ベーコンにでもハムにでもしてしまおうか」
「そんな、閣下!」
「ひどい!残酷すぎ!幻滅!眉毛太っ!」
「おいらもうブウサギ料理食べられなくなりますよー!」
「お待ちください」


口々に抗議の声を上げる面々、の後ろから、ふいに静かな声が上がった。お菓子に夢中な坊以外の全員が振り返れば、確かな足取りでアッシュがこちらへ歩み寄ってきた所であった。ヴァンが冷たい瞳を向ける。


「誰かと思えばアッシュか、生きていたのか」
「師匠、まだ気づかないのですか。大切なものがすり替わっている事に」
「随分と生意気な口を聞くな。いつからそんなに偉くなったのだ、アッシュ」


ヴァンに恐ろしい視線を向けられても、アッシュは怯まなかった。微動だにしないアッシュの様子に、何かおかしいと感じたのだろう。積まれた金を手に取って、そこに何もおかしな所が無い事を確認したヴァンは、にやりと笑ってアッシュを見返す。ハッタリだと思ったのだ。しかしアッシュの表情はまだ変わらなかった。ヴァンの視線よりも強い瞳でじっと見つめてくる。
ふいにヴァンの耳にある音が届いてきた。それは坊がお菓子を貪り食う音だった。それと同時に、何やら小声も聞こえてくる。


「美味しい、このお菓子美味しいね!今度はあっちのお菓子食べてみようよ!」
「今度は、こっちのお菓子のほうが良い、です」
「2人ともあまり一緒に喋ってはいけませんよ、ばれてしまいますからね」


不審に思ったヴァンが少し坊に軽い魔法をかけてやれば、すぐに化けの皮ははがれた。坊の姿はあっという間に崩れ、イオンとフローリアンとアリエッタの三人に戻ってしまったのだった。


「と言っている間にばれてしまいましたね」
「変身、解けちゃった……」
「やばい!怒られる前ににっげろー!」


三人の逃げ足は速かった。素早く部屋のドアへ移動した後、止める間もない勢いでそのまま出ていってしまった。さすがのヴァンも呆然とした顔でそれを見送る事しか出来なかった。


「ぼ、坊……?!」


ヴァンが呟くと同時に、目の前の金にも変化が起こった。ぶすぶすと音を立てて崩れ、土色になり、金の面影は一切無くなってしまったのだ。それを見たヴァンは、机を跳ねのけ駆けだした。


「坊ーっ!」
「こ、これは……」
「何これっ!ただの土くれじゃん!」
「金でもなんでも無かったんですねー」


呑気に金だったものを鑑賞する面々にも目をくれず、ヴァンは坊の部屋へと突進していった。部屋の隅々を調べるが、どこにも坊はいない。今までで一番取り乱した様子で、ヴァンは部屋中のものをひっくり返した。しかしどこにも、坊はいない。
やがて部屋の中にアッシュがやってきた。それを見たヴァンは、今度はアッシュへと突撃した。


「おのれ……!言え、アッシュ!坊を、私の可愛い坊をどこへやったのだ!」
「ティアの所です」
「な……てぃ、ティア、だと……?!」


その名を聞いた途端、ヴァンの勢いは消えた。驚愕の表情で後ずさり、よろよろとした足取りで、近くに置いてあった椅子に座りこむ。その顔にはいっそ絶望的な影さえ見えた。それほど、ヴァンにとっては衝撃的な事実だったのだ。


「なるほど、ティアか……前々から坊を見せろと言ってきていたからな、見せたら絶対にとられると思い見せなかったが、とうとう実力行使に出てきたか……。それで?」


ヴァンに問いかけられ、アッシュはハッキリと答えた。


「坊を連れ戻してきます。その代わり、ルーと両親を人間の世界へ帰してやって下さい」
「そうか!それでお前はどうする?私に八つ裂きにされても良いというのだな!」


睨みつけてくるヴァンを、アッシュは静かに見返した。その瞳には、強い決意の光が込められていた。




時間は夜になっていた。水の上を真っ直ぐ走ってきた電車は、油屋から数えて六番目の駅で静かに止まる。ルーク達はその駅、クリフォトで降りた。目の前に広がる鬱蒼とした森を見上げている間に、電車はあっという間に発車して見えなくなる。
電車の明りさえも消えたクリフォトは完全に夜の空気に包まれていた。目を凝らせば行くべき道を見る事が出来るが、それでも暗い事に変わりない。


「この駅でいいんだよな……」


誰に問いかけるでもなく、自分に確認するようにルークは呟いた。周りはどんよりとした沼に覆われていて、目の前にのびる土の道だけしか進む道は見えなかった。ここを行けば、ティアのいる場所につくはずだ。ルークは後ろに静かに立つガイを振り返った。


「行こう」


頷いたガイはルークが歩き出した後ろからついてくる。肩に乗っていた坊とミュウはルークの歩行の邪魔にならないように空中に飛んだ。そのまま、真っ暗な道を四人は進んだ。
少し進んだだけでは、やはり周りの景色は変わらなかった。駅が見えなくなり、それからも歩き続けたが家らしきものは見えてこない。欠けた月が照らしてくれる道を辿りながら歩くうちに、とうとうミュウが力尽きてしまった。


「みゅううう、ご主人様ごめんなさいですの、ボクはもう疲れたですのー」
「はあ?!何言ってんだよブタザル!ったく貧弱な奴だな!もういい!俺が歩く!」


ぜーぜーと苦しそうに頭の上で息をするミュウを坊は一度叱りつけたが、すぐに自分から歩きはじめた。ずっと自分が吊り下げられていた事に気付いたのかもしれない。そしてルークは知らなかったが、坊が自分の足でこうして距離を歩く事は、ほとんど初めての事だった。
意気揚々と歩き始めた坊であったが、その歩幅はネズミとなってしまった背丈と同じように小さい。歩き始めた坊を見て、ルークは屈んで手を差し伸べた。


「俺の肩に乗っていいよ」
「ふん!馬鹿にすんなよ!俺だってこれぐらい歩けらあ!」


坊は目の前に差しだされた手から顔を逸らし、通り過ぎた。少し驚いたルークだったが、吐いた憎まれ口とは裏腹に懸命に歩こうとするその姿を見て、何も言わなかった。ちょこちょこと動くネズミの耳としっぽを微笑ましく眺めながら、ルークは再び歩き出す。しかしすぐにその歩みは止まる事となった。
前からゆっくりとこちらに近づいてくる、小さな丸い明かりのために。


「みゅ?!だっ誰か来たですの!」
「なっななな何だよあの明かりっ?!」


慌てて肩に乗ってくる坊とミュウ、警戒するように前を見据えるガイと共に立ち止まって明かりを待つルーク。やがて目の前にやってきたのは、その手にランプを携えた、金髪の女の子だった。
女の子はルーク達の前までやってくると、深々とお辞儀をした。つられてお辞儀をするルーク達ににこりと微笑みかけると、まるで先導するようにゆっくりと歩き出す。ルークは他の皆と顔を合わせた。


「案内、してくれるのかな」
「そうみたいですの」
「大丈夫かよ、この先にいるの、あの怖い女なんだろ?」
「そのティアの家に行く所なんだから、ちょうど良いよ。ついていってみよう」


心を固めたルークは後ろのガイと頷き合って、女の子の後をついて歩み始めた。マジかよーと呟く坊も結局はルークの肩に乗ったまま、逆らう事もなくついてくる。女の子はルーク達が離れないよう、適度に立ち止まって待ってくれながら、どんどんと奥へ進んでいった。
やがてルーク達の目の前に、森の切り開かれた場所に建つ一軒の家が現れた。役目を終えたように立ち止まり、手招きをする女の子を見て、ルークは確信する。この家が、あのヴァンと兄弟だという、ティアの家なのだと。

11/06/12