周りの景色があっという間に後ろに流れていく。耳のすぐ横を一瞬で通り過ぎていく風に、ルークは自分が今真っ逆さまに落ちているのだと嫌でも理解するしかなかった。とっさにルークは目の前の二本の角にしがみつく。すぐにそれは、一緒に落下している竜の角だと気付いた。


「ふぎゃあああ!落ちてる落ちてる!どっどうするんだよーっ!」
「みゅううう」


横から悲鳴が聞こえたので見てみれば、小さくなってしまった坊とミュウがわたわたと両手両足振り回しながら同じように落下している所であった。落ちながら徐々に離れていく小さな身体を、慌てて手を伸ばして引き寄せてやる。
坊とミュウが必死に肩にしがみついたのを確認してから前を見れば、目の前に闇が広がっていた。どろどろと浮き沈みを繰り返す、底なしの闇であった。このまままとめて飲み込まれる、と思った瞬間、握りしめていた両手に引っ張られてルーク達はまとめて急上昇していた。


「!アッシュ!」


しがみついていた竜が最後の力を振り絞って空を飛んだためであった。細長い身体はそのまま壁にあったダクトのような入口に飛び込み、長く狭い通路を猛スピードで突き進む。そして換気扇を勢いよく壊して比較的大きな空間に出た所で、ルークは竜に振り落とされていた。


「うわあああっ?!」
「おや」


突然現れた訪問者にも関わらずあまり驚いていないような声の主に、ルークはあっさりと受け止められていた。上を見上げれば眼鏡の奥の赤い瞳とかち合う。その顔に浮かべている笑みにものすごく覚えがある、ルークを受け止めてくれたのは間違いなくジェイドであった。と言う事は、ここはボイラー室のようだ。
一緒に振り落とされた坊はどうやらディストの群れに落ちたようだった。ぎゃーとかわーとかうるさい悲鳴が下の方から聞こえてくる。竜は薬草が入る棚が並ぶ壁へと身体を叩きつけられ、そのまま地面へと落ちていった。


「あっアッシュ!」
「おやおやまったく、いきなりやってきて忙しない人達ですねえ」


それを見てすぐさまジェイドの元から飛び出すルークにジェイドがため息をつく。しかしルークは、本来ならばあの恐ろしいジェイドに受け止めて貰ったという恐怖体験に怯える暇も無いほど必死なのだ。
駆け寄るルークに、しかし竜は血塗れの口を開けて威嚇してきた。ルークを近づけさせたくないと言うのであろうか。しかしその表情は、竜の顔であるが苦痛に満ちていて、見ているだけでルークにも痛みを感じるような気がするほどであった。


「アッシュ!苦しいのか?」
「ふむ、これはいけませんねえ」


後ろからやってきたジェイドが眉を寄せる。その間にも竜は首をもたげる力さえも無くしてしまったようで、どしんと床に横たわってしまった。ルークを拒む元気も無いのだろう、そっと手を触れても、少し目を開くだけであった。


「アッシュしっかり!どうしよう、このままじゃアッシュが死んじゃうよ……!」
「どうやら、身体の中で何かが命を食い荒らしているようですね」
「身体の中?」
「とても強い魔法です。さすがの私にもどうする事も出来ませんね……」


嘘つけ。平常時ならそうやってつっこめたはずだが今のルークにそんな余裕は一切ない。それよりもルークは、懐を探ってある物を見つけ出していた。
身体の中、と聞いて思い出したのだ。少しかじっただけで身体の中の悪いものが根こそぎ退治されそうなあの強烈な味を。そう、苦団子である。


「アッシュ、これ、妙に光り輝いてた川の神様がくれたお団子なんだ。もしかしたら、効くかもしれない……食べてみてくれよ」


そう言ってルークが竜の口を開けようとするが、強い力で閉じられていてなかなか開ける事が出来ない。団子を食べるのを拒んでいるのかもしれない。ルークは苦団子を半分齧りとり、取り出して見せた。猛烈な味が口の中に広がるが、そんなもの今は気にしていられない。


「ほらアッシュ、平気だよ。だからお願い、口を開けて……良い子だから……!」


ルークはとうとう両手を使って竜の口をこじ開けようとする。横からおそるおそる見守るサフィールたちと坊とミュウ、後ろから興味深そうに見ているジェイド、沢山の瞳に囲まれる中、竜の口がゆっくりと開かれていった。
沢山の鋭い牙が覗くその開かれた口へ、ルークはためらいも無く腕を差し入れた。自分で齧りとった苦団子のカケラを手に持ち、口内へと、きちんと飲み込めるように運び入れる。


「大丈夫だから……飲み込んでっ!」


一番奥に苦団子を入れ込んだルークはすぐに手を引いて竜の口を押さえつけた。竜は眼を見開き狂ったように暴れ出す。必死に今飲み込んだものを吐き出そうとしているかのようだった。しかし今吐き出させる訳にはいかない。ルークは竜の身体がいつ叩きつけられるかもわからない恐怖と闘いながら、ただがむしゃらに竜の口にしがみ付き続ける。


「ぎゃーっつぶれるつぶされるー!」
「この薔薇のディスト様を叩きつぶそうだなんて良い度胸していますねっ!」


幸いにも竜の尻尾はルークに襲いかかってこなかった。代わりにサフィールたちに被害が及んでいるようであるが誰も気にしていない。竜の口を押さえ続けるルークは、やがて何か異様な塊が竜の体内から口の方へやってくるのを感じた。
ルークの腕さえも押しのけて竜の口から何かが吐き出される。それはべしゃりと床に転がって、黒い煙を立ち上げながらドロドロに溶けていった。


「出ましたね。ルー、こいつですよ」
「えっ?!」


ジェイドに言われて凝視する中、ドロドロの中からはやがて小さな黒いぶよぶよの丸い塊と、綺麗なペンダントが現れた。丸い塊はきょろきょろと辺りを見回している。


「むむっここは一体どこだ!預言の導きによって竜の体内に寄生していたはずなのだが……」


何かを呟く丸い塊とルークの視線がその時、バチリと合う。丸い塊は文字通り飛び上がってみせた。自分が竜の体内から出てしまった事に気づいたようだ。


「や、やばい!」
「ほらほらこのままだと逃げちゃいますよー?」
「えっあっ待て!」


とっさに逃げ出した丸い塊をルークは慌てて追いかけ始めた。途中でペンダントを大切に拾い、ボイラー室の中をすばしっこく逃げ回る黒い塊を見失わないように必死に目で追う。部屋の隙間に逃げ込もうとした丸い塊は、しかしサフィール達のガードにより行く手を阻まれてしまった。
しまったと戸惑っている丸い塊に、そっと背後から近づく小さな影。


「ここは私たちの家ですからね、通しませんよ!」
「天才ディスト様の自室を拝もうだなんてあなたには十年早いんですよ!」
「むむむーっ小癪な!では一体どこから逃げれば……」
「往生際悪いんだよてめえ!さっさとくたばりやがれっ!」
「ぐはーっ?!」


丸い塊をぽーんと蹴り飛ばしたのは坊であった。一部始終を眺めていた坊は自分をそっちのけで進む展開に痺れを切らしてしまったようだ。何の抵抗も出来ずに蹴り飛ばされた丸い塊は、上手い具合にどたばたと追いかけてきたルークの足元へと転がり落ちて、そのまま……。


ぐしゃっ

「?!?!?!?!」


ルークは声にならない悲鳴を上げた。今ルークは裸足である。生身の足の裏に、何とも言えない粘り気のある感触が伝わってくる。その最高に気持ちの悪い感触に、とっさに泣きそうになったルークは涙を必死でこらえた。ああ、足の裏を見たくない。


「ふ、踏まれて終わりだなんて、む、無念……ぐふう」


丸い塊のつぶやきが最後に聞こえた。俺だって踏んで終わりにしたくなかったよと心の中で泣き言をいってから、ルークはジェイドを振り返った。手の中のペンダントを掲げてみせる。


「ジェイド、これヴァンの妹のティアって人のペンダントなんだけど」
「ぶふっ……あああのティアのペンダントでしたか。そうですか……くくっ」
「わっ笑うなー!」


こっちは真剣に問いかけたのにジェイドは腹を抱えて笑っていた。今までのルークの挙動を見ていた上での笑いであった。とたんに恥ずかしくなったルークは顔を赤らめながらも話を続ける。こういう場合はさっさと話を先に進めて忘れてもらうに限るのだ。


「これ、大事なものなのか?」
「ええ、確か彼女がとても大事にしていたものですよ。それを盗んでくるなんてまあ怖いもの知らずな子ですねえ」
「!アッシュ!」


ふと顔を向ければ、横たわる竜に変化が訪れていた。赤く長い竜はその姿をどんどんと人の姿に変えていたのだ。
血に塗れた真紅の鱗は徐々に消えていき、代わりに鱗と同じ美しい真紅の長い髪が現れる。それを見ただけでもうルークは、顔を見ないでも分かった。あの赤い竜はやはり、アッシュだったのだと。ルークは慌ててアッシュの元へと駆け寄った。後からミュウにぶら下げられた坊もついてくる。


「アッシュ、やっぱりアッシュだったんだな!なあ、しっかりしろよ!」
「すげえ、あの竜本当にあのでこっぱちだったのか」
「みゅううう、アッシュさん起きないですの……」


うつぶせの身体を抱え起こせば、その瞳は硬く閉じたまま開く気配を見せなかった。完全に意識を失っている身体は思っていたよりとても重くて、そして冷たく感じた。それがまるで生気をまとっているように見えなくて、ルークは心の底からぞっとする。まさか、アッシュはもう……


「ジェイド!どうしようアッシュが、アッシュが息してない!」
「ルー、とりあえず落ち着きなさい。アッシュはまだ息をしていますよ」
「ほ、本当?」


言われて確かめれば、微かにだが確かに吐息を感じる事が出来た。少し安心するルークであったが、アッシュは依然として目を閉じたままだ。その様子を注意深く眺めたジェイドは、一つ頷いて踵を返した。


「しかし魔法の傷は油断できません。仕方ありませんねえ、とっておきの薬を飲ませて差し上げましょう」
「え、ジェイドって薬湯だけじゃなくて飲む薬まで作れるのか?」
「ええ、むしろそっちの方が人体で実験出来るので楽し……いえいえ、とても興味深く思っていた所なんですよ」
「「………」」


ルークと坊が妙に楽しげなジェイドの背中を胡散臭げに見つめる。全力で止めたい気持ちもあるが、今はこの怪しげなマッドサイエンティストにアッシュを任せるしかなさそうであった。


「また哀れな実験台がひとつ増えましたね」
「可哀想に」
「まあいいじゃないですか、その分私たちの負担が減る訳ですし」


こそこそと囁くサフィール達の声が嫌でも耳に入ってくる。今この場合同情しなければならないのは、今から確実に実験台にされるアッシュなのか、今まで散々実験台にされてきているらしいサフィール達なのか。
とりあえず死ぬ事は無いだろう、とジェイドをある程度信頼しているルークは、抱え込んだままのアッシュの額へそっと頬を寄せる。胸に手を当てれば、確かに鼓動を感じとる事が出来た。その音が、今まで強張ってばかりいたルークの身体を、ゆっくりと解きほぐしてくれるかのように全身に染みわたる。
ああ、アッシュが生きててくれて、本当によかった。

10/11/05