困った事になった。ルークはクッションの山に埋もれたまま途方に暮れた。本当ならば今すぐにでもこのクッション地獄から抜け出して、アッシュの元へと駆けつけたいところなのだが、左手の自由がきかないためにそれもかなわない。ルークの左手を拘束している張本人は、にやにやと楽しそうにこちらを眺めてくるだけで手を離す気は微塵もなさそうだった。
とりあえずこの手を離してもらわなければ話にならない。ルークは手加減なしにぎゅうぎゅう締めつけてくる左手の痛みを我慢しながら、坊に話しかけた。


「病気移しにきたとか外が身体に悪いとか……お前、病気なのか?」


この手の締めつけ方といい健康そうな笑い方といい、あまりそういう風には見えないけど、と尋ねてみれば。坊はふるふると首を振ってみせた。


「外に出たら病気移されるんだって髭……じゃなかった師匠が言ってた。だから俺ずっとここにいるんだ。なあ、退屈だからお前ここで俺と遊べよ」


まったく邪気のない顔でそんな事を言う。少しだけあっけにとられたルークは、すぐさま自由な右手で坊の肩をがっしと掴んだ。突然の行動に坊の目が丸く見開かれる。


「こんな所にいる方が病気になっちゃうよ!」
「へっ?」
「なあ頼むよ、俺の大事な友達が今怪我をして大変なんだ、早く行って助けなきゃいけないんだ!だからその手を離してくれよ」


ルークの勢いに驚いた様子だった坊は、すぐにムッとした表情になった。自分の思い通りにならないルークに怒っているようだった。


「やだ!俺と遊べ!遊ばないと超振動でぶっ飛ばしちゃうぞ!」
「超?!いやそれマジでやめて!後から遊んでやるから!」
「駄目だ!今遊ぶんだっ!」


駄々をこねる坊がルークの腕をぎりぎりと締めつけてくる。これでは埒があかないと悟ったルークは、痛みに耐えながらぱっと坊の目の前に右手をつきつけた。この子ども部屋でずっと守られ育てられていたという坊なら、おそらく見た事のないものだろう。ルークの右の掌についているのは、血であった。傷ついた赤い竜が手すりに残していった血がついたものだった。
赤黒く乾いた掌を坊が凝視する。生まれて初めて見る色だっただろう。


「血!分かる?!血!」
「っうわあああ!」


癇癪を起こす様に暴れ出した坊からようやくルークは解放された。崩れ落ちるクッションの山からもがき出ると、一目散に隣の部屋へ駆ける。少し前、初めて油屋に来た時に訪れたヴァンの部屋だった。
飛び込んで一番最初に目に映ったのは、赤く長い竜の身体だった。そしてその身体を、部屋の隅にぽっかりと空いている穴に一生懸命押し込もうとしている三人組。ルークを振り返って驚くイオン、フローリアン、アリエッタめがけて、急いで駆け寄った。


「駄目ーっ!」
「うわ?!あっルーだ!」
「どうして、ここにいるですか?」
「びっくりしました……もしかして忍び込んできたんですか?」
「そうだよ、アッシュを助けるために!さあ早くあっちいって!」


しっしっと三人を追い払って、ルークは竜の頭を抱え込んだ。赤い竜は口や身体のあちこちから赤い血を垂らしながら横たわっていた。じっと目を閉じて動かない竜に、ルークは必死になって呼びかける。


「アッシュ、アッシュしっかりしろ!目を開けろよ!」
「みゅーっ!邪魔しちゃ駄目ですのー!」
「わっ!な、何だよこの振り回したくなるようなうざい声は!」


ルークを邪魔するものがまだ存在していた。空中をちょこまかと飛びまわって体当たりしてくる水色の生き物だった。大きな耳をパタパタとせわしなく動かしてルークに飛びかかってくる。その行動も話し方も思わずふんづけたくなるぐらいうざかった。


「ボクはミュウですの!可哀想だけどヴァンさんの命令だから仕方がないんですの!お片付けの邪魔をしちゃいけないんですのー!」
「だーっもーうぜーっ!あっちいけっつーの!アッシュは絶対片づけさせねーからな!」


片手で竜の頭を抱きしめながらもう片手でくっついてくるミュウを振り払う。忙しそうなルークに三人組がどうしようか迷っていると、背後から異様な音が聞こえた。それは隣の部屋からだった。ガッキンバッコンと色んなものを破壊しながら飛び出してきたのは、坊だった。その目はちょっぴり涙目だった。
坊の登場にルークはもちろんミュウと三人組の動きも止まってしまった。やばいという言葉が顔に出ている。坊はずかずかとこちらに歩み寄ってくると、べそをかきながらルークを指差してきた。


「ち、血なんか平気なんだからな!俺と遊ばないと、泣いちゃうぞ!」
「な、泣く?!」
「いけません、坊が泣いたらヴァンがここにすかさず駆けつけてきてしまいます」
「わーっお片付けまだ済んでないのにー!怒られちゃうよー!」
「泣いたら駄目、です……」


途端に慌てだす三人を見て、ルークも焦った。いくらなんでもここでヴァンに来られたら一貫の終わりだ。今度こそ石炭にでもされてしまうかもしれない。出来ればまだ生き物であるブウサギの方がいいな、とちょっとルークは思った。


「な、泣かないでくれよ、良い子だから……!」
「やだっ!俺と遊べっ!ふ、ふえ……」


坊が本格的に泣き出してしまう。それを阻止しようと何とか声をかけようとルークが口を開けた瞬間、静かに落ち着いた声が横から聞こえてきた。


『騒がしいわね……少し静かにしてくれないかしら』
「……えっ?」


ルークが声がした方へ顔を向ければ、そこには空中に浮かぶ白い人型の紙があった。どこかで見た事がある、と一瞬考えたルークは、すぐに思い当る。竜を追いかけていたあの大量の人型の紙のひとつだ。ルークの身体のどこかにくっついていたのか、ここまでついてきてしまったらしい。
紙は一度ふわりと泣きべそをかく坊の目の前まで浮かび上がると、


『あら、あなた可愛いじゃない……兄さんったらこんな可愛い子を一人占めしているなんて、ずるいわ』


などと少々危険な事を呟いてから、そのまま床へ降り立った。そこから透明な人影があっけにとられる一同の中心ににゅっと現れる。栗色の長い髪を持つ女であった。女は自分の身体を少々不満げに見下ろす。


『やっぱりちょっと透けるわね……』
「だ、誰だ?」


誰も言葉を発せない中、泣く事も忘れて坊が話しかける。坊の顔を見つめた女は、恍惚な表情で坊をじろじろと眺めまわした後、腕を振り上げた。


『そうね、そのままでも十分可愛いけれど……この姿になればさらに何十倍も可愛くなるわ』
「は?え……うわあああっ?!」


女の手の先から何か光がこぼれたかと思ったら、目の前にいた坊の姿に異変が起きた。何と見る見るうちにその身体が小さくなっていってしまったのだ。おまけにまあるい耳とちょろりとした尻尾まで生えて、最終的には掌に収まるようなサイズになってしまった。それはまるで、ネズミのようだった。頭に生えた耳やお尻に生えた尻尾をぺたぺたと触って確認した坊は、驚愕の声を上げる。


「な、何じゃこりゃあああ!」
『ああ良いっ!やっぱり小さい生き物は良いわね……!ついでにあなたももっと可愛くなれば良いわ!』
「み、みゅううううううっ?!」


とても興奮した様子で再び女が手を振るえば、今度は宙を飛んでいたミュウまで虫のように小さくなってしまった。突然目の前で起こり始めた恐るべき出来事について行く事が出来ず、ルークは竜の頭を抱きしめたまま固まっている事しか出来ない。
女は次に三人組に目をつけたようだ。固まって怯える姿ににっこりと微笑みかける。残念ながら今の状況では、どんなに柔らかい笑顔でも恐怖を倍増させる事しか出来ないだろう。


『少し調子に乗ってしまったから、あなたたちにはこの子の代わりをお願いするわね』


三度の女の魔法であった。固まっていた三人組は、そのまま何と坊の姿へと変わってしまったのだ。小さくなってしまった坊本人は目をパチクリさせて自分そっくりの偽物を見上げる。


「わ!すごいすごい!僕たち坊になっちゃったよ!」
「面白い、です」
「何だか不思議な感じがしますね」


中では三人がそれぞれ喋っているのだろうが、今は三人がまとまって一人になっているので全部同じ口から言葉が出てくる。確かに不思議な感じがした。それを満足そうに眺めてから、やっと女はルークへと向き直った。


『ありがとう、あなたのお陰でこの油屋を見学できたわ。なかなか楽しい所ね』
「あ、あんた一体、誰なんだよ」


ルークのやっとの問いに、女はようやく答えてくれた。


『私はティア、この油屋を仕切っているヴァンの妹になるわね』
「妹?!あの髭と眉毛の?!」
『ええ、あの部分が似なくて本当によかったと思っているわ』


女、ティアはゆっくりとルークに近づいてきた。視線はルークの腕の中、目を閉じた竜に向けられている。それに気付いたルークは、自分の身体が盾になる様にぎゅっと抱え込んだ。


『さあ、その竜を渡してちょうだい』
「い、嫌だ!何でだよ!」
『その子は兄さんの手先の泥棒竜よ。私の所から大事なペンダントを盗み出したんだから』


ティアの言葉に、ルークは驚いて首を横に振っていた。すぐには信じられなかったのだ。


「嘘だ、アッシュがそんな事しっこない、優しい人だもん」


ティアはルークにそっと微笑みかけた。さっきの危険な感じは鳴りをひそめて、ただどこか憐れむような笑顔だった。それは確実に、赤き竜に向けられていた。


『竜はみんな優しいわ、優しくて愚かよ。魔法の力を手に入れるために兄さんの弟子になるなんて。この子は欲深くて毛深い兄さんのいいなりになってしまったの』
「そんな……」
『どの道その子は助からないわ、ペンダントには強力なまじないがかけてあるから。さあ、そこをどいて』
「っ嫌だ!」


腕を上げて近づいてくるティアに、しかしルークは絶対にその場をどかなかった。ぎゅっと身体に力を入れて縮こまる。全てを覚悟したルークの耳に、魔法がかけられる音は聞こえてこなかった。代わりにドシンドシンという音が聞こえて、思わず顔を上げる。


「坊の姿は楽しいなー!ねえねえ坊遊ぼうよー!」
「遊ぶ、です」
「やっやめろーっ!今の俺のサイズじゃつぶれちまうんだっつーの!」


はしゃぎまわる坊、に変身した三人組と、小さくなったネズミの坊が追いかけっこをしている音だったようだ。正確に言えば坊が一方的に追いかけまわされている事になる。そこに慌ててティアが入り込んだ。


『駄目よ、小さい可愛い生き物を扱う時はもっと丁寧に愛を込めて接しなければ……』


ティアが三人組を止めている間に、坊は半泣きでこちらへ逃げてきた。ルークに飛びつくと、よじよじと肩にのぼってくる。


「うわっ何だよどうしたんだよ」
「このままだと踏みつぶされる……!たっ助けてくれっ!」
「みゅー待って下さいですのご主人様ー」


坊の後をついてミュウも傍にやってきた。ミュウにとって坊はご主人様となるらしい。どうでもいいがご主人様という響きが何故かどこかむかつく。
ルークとティア、互いに注意が逸れた所で、僅かな唸り声をあげる者がいた。今までぴくりともせずに横たわっていた竜であった。ルークが気がついた時には、頭をもたげた竜の尻尾が、床に落ちた人型の紙を打ち払っていた。


『あら、油断したわね……』


ティアの姿が揺らぎ、一言だけ残すとすぐに宙へ溶けて見えなくなってしまう。どうやら四散した人型の紙を通じてこちらへと姿を見せていただけのようだ。脅威は去った、と思ったが、少しだけ身体を起き上がらせた竜がすぐに力尽きる様に傾ぐ。


「?!アッシュ!アッシュしっかり……!」


慌てて竜の身体にしがみつくルーク。一生懸命に支えようとするが、小さなルークの身体の何倍も竜の身体の方が大きかった。そんな大きくて長い身体を、ルーク一人で支えられるはずも無かった。
ルークは気付いた。ふらりと傾いたその方向に、受け止めてくれる床が存在していない事を。先ほど三人組が竜の身体を落とそうとしていた穴が、そこにあった。そして気付いたとしても、今更それを止める事は、出来なかった。


「アッシュ……うわああああっ!」
「ちょっまっ俺巻き添えーっ?!」
「みゅーっ?!」


赤い竜をしっかりと抱きしめたまま、ルークは穴の底へとまっさかさまに落ちていった。

10/08/28