今年もこの季節がやってきたか、とアッシュはどこかしみじみと感じていた。テレビや店頭や生徒間の世間話で嫌という程耳にする単語、これを聞くたびにあの甘ったるい匂いや味が思い起こされる、ちょっと忌々しい日。そう、バレンタインである。世の女子(一部男子)がこぞって意中の彼彼女や大事な友達家族にチョコレートを送りまくる聖なる日だ。正直チョコがあまり好きではないし色恋沙汰にもとんと興味の無いアッシュにとってはまるで関係の無い日なのである。それでも毎年アッシュの意思とは裏腹にチョコレート渡し合戦に否応無しに巻き込まれてしまうので、どちらかと言えば苦手な日であった。

しかし今年はバレンタインである14日が学校が休みである土曜日なので、昨年ほど苦労する事は無いだろうとアッシュは安心している所だった。だからこそあの苦い日々をしみじみと思い出すことが出来るのだ。もし平日であれば思い出すと共にどこへ逃げようか必死に考えなければならない所である。女の子からチョコをあまり貰えない男子諸君からは恨み殺されかねないアッシュの悩みだった。今年はそれが無い。とても幸せな事だった。きっと今年のバレンタインは平穏のまま過ごせるだろう。

そう、思っていた。


「アッシュアッシュー!14日は俺と付き合ってくれ!」


輝かん笑顔でルークが突撃してくる、この瞬間までは。


「……。それを言うならどちらかと言えば俺と、ではなく俺に、だろう」
「そんな細かい事どうでもいいから、付き合ってくれよ!それとも誰か他に予定入ってたりするのか?」
「付き合うとか付き合わないとか、若々しくていいねえ」
「シンク黙ってろ!何の予定も入ってないからてめえも静かにしろ、ルーク!」


にこにこ笑いとにやにや笑いどちらにも喝を入れて、ひとまずアッシュはルークを見た。シンクは人をからかう事を楽しみとしているのでこういう時は相手をするだけ無駄なのだ。そもそもシンクはただ居合わせただけなので、ひとつ睨み付ければはいはいとすぐにどっかに行ってしまった。後でおそらくまたからかわれるだろう。
ルークはパッと自分で自分の口を押さえた後若干声を潜めて、それでも嬉しそうに口を開いた。


「よっしゃ、じゃあ土曜日、いつもの場所に集合な」
「それはいいが、一体何をするつもりだ」


やたらと嬉しそうなその様子にアッシュは疑問に思う。元々休みの日は約束をしなくても何となくどちらからともなく集合して、遊びにいくなり家でゴロゴロするなりしているのだ。それをわざわざ約束を取り付けて集まろうと言うのだから、きっと何か特別な事があるのだろう。
こっくりと頷いたルークは、握りこぶしを作って宣言した。


「もちろん、チョコを買いに行くんだよ!」
ズベシャッ
「アッシュー!?机の上で滑ってみせるなんて相変わらず器用だなー」


呑気な声を上げるルークの胸倉を、アッシュはガッシと掴んだ。今とても聞き捨てならない言葉が聞こえたのだ。14日、バレンタインというその日にチョコを買いにいくだと?じと目で睨み付ければ、ルークはそんな事お構い無しの様子で嬉しそうに話す。


「アッシュ、逆チョコって知ってるか?」
「逆チョコだと?」
「何か今年は女子だけじゃなくて男子もチョコ買っていいんだってさ。テレビで言ってたぜ」


正確には今年は男から女へチョコでも送ってみないかというお菓子業界からの陰謀めいた企画みたいなものなのだが、ルークが重要視しているのはとりあえず男もバレンタインデーに比較的怪しまれずにチョコを買えるという点らしい。そしてバレンタインに興味が無く、普段テレビをあまり真剣に見ていないアッシュはそれを知らなかった。まあ知らなくても、大体の予想はつく。ルークが自分に都合の良い解釈をしているのではないか、と。


「……。それで買いにいくと?」
「だってせっかくじゃん。色んなチョコが売ってあるし」


ケロリとした笑顔にアッシュは勝つ術を持たない。こうして平穏を求めた14日は、ルークに付き合ってチョコレートまみれとなる事が決定したのだった。



勝負の日である2月14日、その日はアッシュが思っていたよりも穏やかであった。アッシュのイメージだと、チョコを売る店はことごとく戦場のようになっているのではないかという失礼な映像だったのだが、そうでもなかった。よく考えてみればバレンタイン当日にチョコを買うものは少ないのだろう、そこまで気合の入った者であれば前日までには用意しているだろうからだ。
そんな訳で、ルークのお買い物は比較的スムーズであった。


「さっすがバレンタインだなー、普段は売ってないチョコ味のものが沢山ある!」
「そうかよ」
「アッシュはチョコ好きじゃないんだっけか?」
「好きでもないし嫌いでもない」
「ふーん」


少し考えたルークは、純粋なチョコを置いて隣の別のお菓子に目を向けた。


「なあ、それじゃあクッキーとかどうだ?」
「あ?何がだ」
「見ろよこれバレンタイン限定のチョコ味クッキーなんだってよ、これならチョコより好きか?」
「……ああ、どちらかといえば、な」
「そうか!」


急な質問に戸惑いながらアッシュが頷くと、ルークは嬉しそうに頷いてそのクッキーを手に取った。そして自分で美味しそうなものをいくつかチョイスすると、買ってくるから待っててくれとレジへ走っていった。その中にはエビのお菓子のチョコ味とかチキンのお菓子のチョコ味とかかなり奇抜なものも入っていたような気がするが、アッシュは気にしない事にした。どうせ食べるのは自分ではないのだ。


「おまたせ!」
「ああ」
「はい!アッシュ!」


戻ってきたルークはごく普通にアッシュへ手渡してきた。思わず受け取っていたのは、先程アッシュに尋ねて買った限定チョコ味のクッキー。訳が分からずルークを見れば、当然のように言った。


「何キョトンとしてんだよ、今日はバレンタインだろ?」
「は?」
「だから言っただろ、今年は逆チョコだって。男がチョコ買える年だって」


仕方が無いなあとばかりにルークは胸をそらしてみせる。アッシュはそれを固まりながら見つめた。


「つまり、男からチョコ渡す年なんだってさ、今年は!だからこれ、アッシュにやる!」


言ってない。そんな事最初は言ってなかった。心の中で抗議の声を上げるが、実際は言葉にならずにうめき声のようなものが出ただけであった。
目の前で買って、それをそのまま包装もせずに手渡しという何とも色気の無い渡し方である。しかしそんなものが重要なのではない。バレンタインという日に、チョコを渡す。これが最重要ポイントなのだ。


「おっ、おっお前……!」
「ん?何?あっそうだ、お返しは三倍返しで良いからな!」
「こっこの屑があーっ!」


おそらく言ってみたかっただけであろうルークに、アッシュは羞恥と戸惑いと、そして隠しきれない喜びをごまかすかのように思いっきり怒鳴った。しかしその手にはとても大事そうにクッキーの箱が抱えられているのだった。





   限定チョコ味

09/02/15