この寒い季節、学生にとってカイロとは大切な暖房具となる。登下校中はもちろん朝の教室なんかは冷えて冷えて仕方がないのだった。なのでポケットにカイロを詰め込む学生の数は多い。しかし親に仕送りをして貰って一人で生活をしているためなるべく節約するように生きているルークは、そのほのかなぬくもりを手にする事無く耐え忍んでいるのだった。
「うーっ寒い……手が冷えるなあ」
「ルーク、大丈夫ですか?随分と寒そうですね」
「あっイオンか」
手をこすり合わせて朝の教室に入ってきたルークに声をかけたのは、この高校に入ってからの友人イオンだった。癖だと言っていつも丁寧語で喋る、物腰の柔らかないつもにこにこと笑っている良い友人だ。
「冬だから寒いのは仕方ないけどさー、やっぱ朝はたまらねえよな」
「手が真っ赤ですね。……!」
「触るなって、滅茶苦茶冷たいだろ?」
手に触れて一瞬肩が跳ねたイオンにルークが笑う。今のルークの手は氷のように冷たくなっているのだった。しばらく我慢してぎゅっと握っておけば次第に暖かくなるのだが、それまでが非常に辛い。痛々しそうにその手を見つめるイオンが、それでも暖めようとしてくれているのかそっと自分の手でルークの手を包む。
「ルーク、手袋は持っていないのですか?」
「え?ああ……持ってないなー」
「それでは、カイロか何かは」
「あれ使い捨てだろ?何かもったいなくてさ」
ルークが節約生活をしている事を知っているイオンはなるほどと頷いた。自分で決めた事なのだから仕方がないのだが、寒いものは寒い。するとイオンが何かを閃いたのか、笑顔で顔を上げてきた。
「そうだ、ルーク!手袋を編んでみてはどうでしょうか」
「あ、編む?!俺が?」
「ええ、掛かる費用は毛糸代だけですし、きっとお得ですよ」
「駄目だって俺不器用だし、それ以前に編み方なんてまったく知らねえし!」
慌ててルークは首を横に振った。イオンは時々突拍子も無い事を提案してきたりするので油断ならない。即座に拒否してきたルークにそうですかと残念そうだったイオンは、ポケットから何かを取り出してルークの手のひらへと押し付けてきた。
「とりあえず今日の所は、どうかこれで暖を取ってください」
「あったかい……ってこれ、カイロじゃんか!」
「ええ、僕も寒がりですから、密かに持ち歩いているんです。どうぞ」
「どうぞって、それじゃあイオンの分が無くなるだろ」
「僕はフローリアンから貰います、多分余分に持っているでしょうから」
だからこれはルークへ、と有無を言わさぬ調子でイオンは言った。フローリアンとはイオンの同じ歳の兄弟だ。実はイオンは三つ子なのだった。それぞれ別のクラスへと別れてしまったが、兄弟仲は良いのだとイオンは言う。ちなみにもう一人の兄弟シンクはアッシュの小学校の頃からの友人だったりするらしい。イオンと知り合った随分後にその事実を知った時、ルークは世界は意外と小さいものだと感心したのだった。
とにかく、この強固な笑顔を浮かべる時のイオンはなかなか折れる事がない。ルークは有り難くカイロを頂く事にした。
「ありがとうイオン、今日はこれで暖かい一日になるな!」
「ふふふ。でも早急に打開策を考えておいた方が良いですよ。しもやけになったりしたら大変ですから」
「そうだな……考えとくよ」
手の中のカイロのぬくもりが心地よい。しかしここでカイロを買ってしまうと何かに負けた気になる。自分でもくだらないと思いながら、ルークは譲れなかった。そんな頭の中に、先程のイオンの言葉が蘇る。
「手編みの手袋、かあ」
確かに手袋をはめるだけでこの冷たさは軽減される事だろう。悩むルークの姿を、イオンは微笑ましそうに見守っていた。
揉めば暖かさが滲み出てくるカイロも、朝から使い続けていれば下校時間にはすっかり冷たくなってしまっている。もう熱を生み出さないひんやりとしたもらい物のカイロを、それでも何となく捨てる事が出来なくてルークはずっとポケットに入れていた。大事に家まで持って帰って、それから改めて捨てようと決意を固める。
頭ではそんな事を考えていても、その足はせわしなく動いていた。ルークのクラスは帰る前にちょっとごたついて、他のクラスより終了が遅くなってしまったのだ。別に約束はしていなくともすでに一緒に帰ることが当たり前になっているアッシュは、きっと外で寒さの中ルークを待っているだろう。廊下に立っていたほうが何倍も暖かいだろうに、何故かアッシュはルークの事を外で待つのだ。
「アッシュの奴、照れ屋だからなー」
きっと教室の目の前で待つという行為も恥ずかしいのだろう。そんなアッシュの事を微笑ましく思いながら急いで靴を履き外へと出ると、予想通り傍の壁にアッシュが寄りかかっていた。ルークは慌てて傍へと駆け寄る。
「ごめんアッシュ!待っただろ」
「別に」
やはりこの寒い中待っていたせいで機嫌が良い訳ではないが、ルークのせいではないと分かっているからただぶっきらぼうな返事だけが返ってきた。その事に笑顔を浮かべながら、ルークは何気なくアッシュの手を見下ろした。そこには実に寒そうな裸の手があった。
「アッシュ、手寒くないか」
「……別に」
「嘘つけ、うわっほらこんなに冷たくなってるじゃんか」
触れてみれば、今日の朝のルークの手と同じぐらい冷え切っていた。もしかしたらアッシュの手の方が冷たいかもしれない。アッシュは突然握ってきたルークの手をとっさに振りほどこうとしたが、ルークはそれを許さなかった。そんなに暖かくは無いが、自分の手のひらでギュッと包み込んでやる。
「おい、離せ!」
「うるっせえなー大人しくしてろって、寒いくせに」
もっと暖めてやりたいが、残念ながら今手元には暖かいものが何も無い。何か無いかと考えたルークは、ポケットの中の存在を思い出した。無いよりはマシかもしれないと思い、取り出した冷えたカイロをアッシュの手にくっつけてみる。
「何だそれは」
「イオンに貰ったカイロ。だけど朝のだから、やっぱり冷たいな」
いくら揉んでみてもあのぬくもりは戻ってこない。少し落胆して肩を落としながらも、ごしごしとアッシュの手に押し付け続ける。いつまでもこの場に突っ立っているわけにはいかないので、そのまま歩き出した。呆れ顔のアッシュも仕方がなさそうについてくる。
「アッシュの手やたらと冷たくねえ?手袋とか持ってねーの?」
「持ってないな」
「じゃあこういうカイロは?」
「買うのが面倒だ」
アッシュはどうやらルークと同じような人種らしい。俺と同じかーと呟きながら、ルークの脳裏に再び例の言葉が浮かび上がった。手袋。そしてこの冷えた手のひら。ルークはすでに自分の手の事なんて頭の中から吹き飛ばしていた。考えるのは、今自分の手の中にある氷のような手を温める事だけであった。
「手編み、ねえ……」
「?一体いきなり何の事だ」
突然呟いたルークの言葉にアッシュは首をかしげた。アッシュの脳内も今は冷えたカイロとは比べ物にならないほどの存在感を保つ手のひらの事でいっぱいだったので、ルークが別にーと上の空で返事をしたことにも腹を立てなかった。
互いに意識は、冷えたカイロを挟んで互いの手のひらで支配されていたのだった。
冷えたカイロと君のてのひら
08/12/28
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