「ルーク」


俺が呼ぶと、ルークの奴はすかさず振り返ってきて、にこりと笑顔になる。そしてそんなに急がなくてもと思うほどに俺の元に慌ててやってきて、俺にしがみついてくるのだ。そこでようやく俺の顔を見上げながら、


「なに、あっしゅー」


聞いてくる。正直、何でこんなに懐かれているのか俺にも分からない。偶然通りかかったらしい殺気が背後から遠慮なく届いてくるが、それを限りなく無視して俺はルークの頭に手を置きながら言った。


「勉強するぞ」


家庭教師は俺が断った。こいつの事を何も知らない他の無能な奴に任せるぐらいなら、俺が教えてやる。




俺の目の前には、拍子抜けするほどやる気を見せて目の前の本を熱心に覗き込んでいるルークの姿があった。机を挟んで向かい合わせに座りながら、俺はルークに気付かれないように驚きを含めた視線で真剣なその表情を見つめる。
正直、勉強は嫌だとごねられる事を覚悟していたんだがな。少なくともあいつは明らかに勉強が嫌いそうであった。しかし俺の目の前にいるルークは学べる事が楽しくて仕方が無いという顔をしている。普通の子どもでもここまでイキイキと勉強に励む者は少ないのではないだろうか。


そういえばあいつも、勉強は嫌いだったが知らない事を学ぶ事は貪欲なまでに求めていたような気がする。学ぶ事自体は嫌いではなかったのだろう。頭も悪くない、はずだ。俺のレプリカだからな。それでなくとも、一日の出来事を事細かに覚えていて正確に日記に記録する事が出来ていたのだから(字が汚いのはともかく)物覚えも悪い方ではないだろう。
おそらく、屋敷の中で無理矢理「勉強」をさせられていたのがトラウマになっていたんだろうな。


「その本に書いてあることを読んでみろ。声に出して、だ」


俺がそういうと、こっくり頷いたルークは指で文字を追いながら、ゆっくりと読み始めた。超子供向けの本だ。先日俺が直々に少々恥ずかしい思いをしながら良さそうな本を吟味し購入し、懇切丁寧に文字を教えているのだから、多少は読めてもらわないと困る。


「う、さぎさんが、あるいて、い、ると、まえを、か、か……」
「かめさんだ」
「かめさん!が、あるいて、いまし、た」


ルークはたどたどしい口調ながらも一文を読み上げた。するとパッと顔を上げて、俺を期待するように見つめる。子ども特有の純粋で、きらきらと輝いている瞳だった。あいつも似たような目を時々していたが、実年齢が七歳ならば仕方の無いことだろう。思考がずれてきた。
俺は聞こえない程度にため息をついた後、ルークの方に手を伸ばした。


「よく出来たな」
「えへへー」


俺の手がルークの頭を撫でる。するとルークはへにゃりとしまりの無い、実に幸せそうな笑顔になった。これだけで何故ここまで喜べるのか俺にはよく分からないが、ルークはご褒美に撫でられる事が大好きらしい。一番最初に言葉を覚え、その時撫でてやってからずっとこれが続いている。俺が撫でないままだと拗ねる程だ。これも甘やかしている内に入るのだろうか……。まあ、その頭が存外温かくて柔らかくて、撫でるとその、気持ちいいものだから、俺もまんざらでもないのだが。


「ほら、続きだ」
「うん!」


ルークが本に目を落とす。俺にまるで似てない素直さだとぼんやり思いながら、俺は夕焼け色の後頭部を飽きる事無く眺めていた。




朝起きて朝食を食べ、歩行訓練がてら散歩をして昼食を食べ、勉強をして夕飯を食べる。後は風呂に入って寝る。これがルークの一日だ。そして俺の一日でもある。俺はこれから主人が寝るベッドを整えて、ルークを振り返った。


「ルーク、寝るぞ」


俺が呼ぶと、ルークは素直に走り寄ってきた。が、その手に何かを持っている。どうやら一冊の本のようだ。子ども向けだが、今のルークには少し難しそうな童話だった。よく見てみれば俺が昔読んでいた本でもある。懐かしい、一体どこから引っ張り出してきたのやら。


「あっしゅー、これ」
「その本がどうした」


本を抱えながらきらきらと輝かせる瞳を見ていれば何となく求めているものが予想できたが、念のため聞いてみた。そうすればルークはこてんと首をかしげ、身長差故の上目遣いでこちらを見上げ、


「よんで?」


おねだりしてきた。
誰だお前にこんな仕草を教えたのは。それとも本能で持っているのかそのおねだりを。恐ろしい。恐ろしすぎる。レプリカはオリジナルより劣るとどこかで聞いたが、少なくとも「愛想」の部分だけはオリジナルよりレプリカの方が優れているらしい、と俺も認めざるを得なかった。
つまりはまあ、断り切れなかった。


「……少しだけだ、読んだ後はすぐに寝るんだぞ」
「やったー!」


どたどたと跳ね回るルークを眺めながら俺は深いため息をついていた。この子どもにだんだんと絆されているのが自覚できる。しかし抗えなかった。抗う気も起きなかった。それが不幸なのか幸なのか、俺にはまだ分からない。
ルークは本を抱えたままベッドに潜り込んで俺を見つめてきた。……ちょっと待て、何でお前はいつもより片側に間を空けて、具体的には大の大人がもう一人横になれそうな間隔を空けているんだ。何だその期待した目は。いや確かに俺は本を読んでやるとは言ったが、一緒に寝てやるとは一言も。


「あっしゅー!」


早く!とルークがベッドをぼんぼん叩く。これ以上躊躇ってもしこいつが暴れでもしたら、時間が時間だから誰か駆けつけてくるかもしれない(例えばガイとかガイとかガイとか、だ)。ちなみに俺はいつもこの部屋にあるソファで寝ている。大きなものだから寝るのに支障はない。だからこのベッドで眠った事は一度も無いのだ。子どもの頃を、除いて。
気がつけば俺は、ベッドの中に体を滑り込ませていた。仕方が無い仕方が無いんだ。これは主人の命令だったんだ一応。


「よんでよんで!」


ルークは嬉々とした表情で俺にピタリと身を寄せて本を持ち上げた。今のこの体勢、ガイが見たら卒倒するだろう。俺は本を手に取り、ルークにも見えるように頭の後ろから手を回し、うつ伏せの体勢で本を広げた。俺の腕に抱え込まれたルークはさらに引っ付いてきた。ルークの色鮮やかな朱の髪からシャンプーの匂いがする。
……こいつが寝たらベッドを抜け出せばいいか。そんな事を考えながら俺は本を読み始めた。


「昔々、あるところに……」




かくして、ものの五分ほどで寝入ったルークのベッドから抜け出そうとした俺は、眠っているとは思えない力で服をガッチリと掴まれ、結局この子どもが起きる、つまり朝までベッドの上で過ごす事となったのだった。

……まさか俺は謀られたのだろうか。





   最愛なる 5

06/08/12