とりあえずルークは言葉を知らなかった。睨み殺される覚悟でガイに聞いてみた所、近頃ようやく言葉を話せるようになったとのことだ。ちなみに外を何とか走れるようになったばかりだという。先は長そうだ。俺は思わず額に手を置いた。生え際を確かめているわけではない。

それより驚いた事は、そんな状態のこいつにすでに家庭教師が就かされようとしている事だった。こんな満足にものも話せない子どもに一体何を学ばせようというのか。庭に咲いている花の名前も言えないのに歴史上の偉人の名前を覚えられると本気で思っているのか。
おそらく公爵はいくら屋敷から出さない息子でもある程度の教養を学ばせたいと思っているのだろう。しかも世間体を気にして限りなく早めに。これを許していいわけが無い。上っ面だけを取り繕うとして中身の無い人形を作ろうとしているだけなのだから。
それなのに、根にあんな温かいものを持つことが出来たあいつは、きっと生まれた瞬間から俺という存在とは違っていたのだろう。例え俺から生まれた存在だとしても。今更そんな事を考えたって俺はあいつに何も言う資格など無いのだが。

くだらない事を考えている暇は無い。うだうだ考えるより行動する。俺はルークを連れて中庭に出た。

ルークは外に出た途端危なっかしい足取りで駆け出した。今のこいつにとっては、こんな小さな中庭でさえ大きな世界なのだろう。大きな瞳をキラキラと輝かせながら満面の笑みで辺りを見回す。その覚束ない足取りが今にも転びそうで見ているだけでハラハラさせやがる。


「ルーク」


俺が呼ぶとぱっと振り返ってきた。そしてさっきよりもっと顔を輝かせて俺の傍に寄ってくる。……子どもは唯一の守ってくれる存在、親に好かれるよう愛らしい姿で生まれ落ちてくるものなのだとどこかで聞いた事があるが、レプリカにもそんな本能が備わっているものなのだろうか。見た目は10歳だが仕草は赤ん坊のそれに近い。俺は思わず走り寄ってきた体を抱き上げていた。俺の肩や顔に遠慮なくべたべたと触れながらすぐ傍で何がそんなに嬉しいのかルークがにこにこと笑うので、俺も自分じゃ気がつかないうちに気が緩んでいた。
ちょうどそこで巡回中の白光騎士団の1人とバッチリ目が合ってしまった。



「っ!」
「ひっ!」


俺がとっさに睨みつけると相手は小さく悲鳴を上げてすぐにその場から立ち去っていった。あの野郎、ずっと見ていやがったな。……くそっ、さっきの俺の顔も見られちまった。後で記憶を失うぐらいにボコっておかねば。


「あっしゅ?」


物騒な考えを振り払うかのように純粋な声が俺にかけられる。間近でこちらを見つめるルークの顔に、固まっていた顔の筋肉が再び自然とほぐれていく感じがする。(これは後で気づいた事だが、この時どうやら俺は「微笑んでいた」らしい。通りかかったラムダスが何故か顔面蒼白で俺を見てきた。貴様、俺の正体を知らないくせにその態度か、失礼な。普段愛想が無いのは自覚しているんだ。放っておいてくれ)
俺はルークを地面に降ろし、そのまま支えるように肩に手をやったまま、頭上を指差した。こいつは何故か頭が重いらしくて重心が定まらないからな、支えてないといつ転ぶか分からない。


「ルーク、あれは何だ」


ルークは俺の声につられるように上を見上げた。その際あんぐりと口をあけた間抜け面になったので、そっと顎を持って閉じさせる。


「あおー」


俺を真似するようにルークが空を指差した。その丸い瞳を覗き込みながら、俺は見えるように頷いてやる。


「あの一面青いのは空だ」
「そら?」
「そうだ。そして空の中に浮かんでいる白いのが雲だ」
「くも!」


ルークは楽しそうに俺の後に続いて復唱する。視線の端から、メイドが奇異なものを見たような目を向けてきた。
……無理も無いのかもしれない。当たり前にそこにあるものをこの子どもが知らない事を、この屋敷の誰も知る訳がないのだから。誰も理解を示さない世界にいたあいつは、一体毎日をどんな風に生きていたのだろう。そしてそこにつけ込みあえて世間知らずに育て、己に刷り込みとも言えるほど懐かせたあの男に、胸の中の醜い部分が火で燻られる。
ああ、あいつは最後まで「師匠」と呼んでいたな。あいつがあんなに不幸だったのもほとんどあの男のせいだと、自分でも分かっていたくせに。その不幸の片棒を担いだのは、間違いなく俺だろうが。俺はそれを自覚しながらも、あいつを傷つけ続けたのだ。
俺が暗い思考に漬かっていたその時、ルークが空に向かって腕を伸ばした。両手を真っ直ぐ天へと掲げる。


「いし!」
「石、だと?」


言われて空を見上げて、納得した。譜石の事だった。当たり前のようにそこに浮かんでいるものだから、「石」だと意識して見た事は少ない。その辺の小さな子どもも親たちから学び何となくその石の存在の事を知っているだろうから、改めて聞くものはあまりいないだろう。


「あれは譜石だ」
「ふせき?」
「星の未来……のひとつが書かれた石だ」


俺は思わず言いよどんでいた。あれを星の未来だと断言したくは無い。あの時文字通り命まで賭けて俺たちが成し遂げた事は、あの石に書かれている未来から外れる事だったのだから。書かれた未来から外れるためだけに、あいつは作られ、そして生まれたのだから。そう、ルークもだ。


「……きれい」


何も知らないルークは、しかし一心に譜石を見上げ続けた。まるで書かれているはずの預言を読もうとしているようだった。まだ文字も読めないくせに。それでも俺は、このままだと首を痛めかねないというのに止められなかった。
止める事は簡単だ、細い首を動かしてやったり、目を覆ってやるだけで終わる。しかし俺の腕は動かなかった。空っぽの空を見つめるはずの瞳が、まだろくにものも喋れないくせに何か言っているような気がしたからだ。

揃って空を見上げる俺たちはかなり滑稽な光景だっただろう。だが俺は足元ばかりを見て全てを見落とすよりは、馬鹿みたいに空を見上げて生きていきたい。かつては俺が出来なかった生き方だった。あいつが生きたような生き方だった。あいつは空を見上げすぎて、とうとう空へと駆け上がっていってしまったが。
そこで初めて俺はまだぽかんと空を見上げる小さな頭を押し戻した。きょとんとした瞳が俺を見るが、わざと明後日の方向を向いて目を逸らす。

まさか空に嫉妬しただなんて、言える訳が無い。





   最愛なる 4

06/08/07