こいつと一緒にいてすぐに気づいた事がある。あまり言葉を喋れない事だ。
なるほど、さっきから俺の名を連呼するはずだ。何気なく俺が教えた俺の名はこいつの数少ない語彙なのだ。飽きる事無くあしゅあしゅと舌足らずな声が部屋に佇む俺を追いかける。そこまで言えるのならせめてあっしゅと呼んでくれ。
このチビッ子ご主人様の使用人にされてしまった俺がこれからこいつにまず何を教えていこうか考えていると、さっきまでうるさいほど人の名前を呼んでいた赤い頭がふと変な方向に目を向けた。そして指を差しながら口を開ける。
「がー」
一体何だと指の示した方へ目を向けてみる。……見るんじゃなかった。視線で俺を射殺さんばかりに睨みつけてきている金髪の人間が立っていた。言わずもがな、ガイだ。こいつもがーまで言えたならがいと呼んでやればいいだろうに。
「おい、人に向けて指を差すな。失礼になる」
「うー?」
とりあえずそう言い聞かせておく。こういう細々としたしつけは日常の中から正していかねばならないしな。決して心霊現象のようにこちらを睨みつけてくる人物からの逃避行ではない。と、そこにおどろおどろしい声が追い縋ってきた。ちっ。
「随分と懐かれたんだな」
背中に黒いオーラが見える。……確かガイはファブレ家に復讐するために使用人としてここに入ってきたんだったな。だとしたらこの恨み妬みの篭った目は、せっかく手駒にできるだろう公爵子息を俺に取られた故の殺気なのだろうか。境遇的にはそうなのだろうが、手塩にかけて育てた娘……じゃなかった息子をいきなりどこの馬の骨かも分からぬ男に取られた父親にしか見えない俺がおかしいのだろうか。
「ルーク、おいで」
「やーっ」
ガイが手招きをしても、こいつは首を振りながら俺の脚にしがみついてくる。悪い気はしないがお陰で余計に視線に殺されそうだ。昔からガイには一歩距離を置かれているとは思っていたが、まさかあからさまな殺気まで向けられる日がこようとは。というか、もうすでにガイはこんなに睨みつけてくるほどこいつに絆されていたのか?一体何があったんだ。
しばらくガイはおいでおいでと粘っていたがことごとく断られ、最後には半泣きにまでなられて自分が泣きそうになっていた。若干気の毒になったりしない事も無い。しばらく未練がましくうろうろしていたガイは、開き直ったように俺に詰め寄ってきた。
「いいか、アッシュ。教育係の先輩として一言言っておく事がある」
これはお前のためではなくてルークのためなんだからなとしつこいほど前置きをしたガイは、(今しがた人に指を向けるなと教えたばかりだというのに)俺に真っ直ぐ指を突きつけてきた。酷く真剣な青い瞳だった。
「名前は、ちゃんと呼べ」
それだけ言うとガイはすぐに部屋を出て行った。その背中はひどく悔しそうだった。キョトンとした瞳がもう誰もいないドアの方から、俺へと向けられる。俺は何も言わなかった。言えなかったのだ。
意図して名前を呼ばなかったのは、自覚している。今も昔も。俺と同じ背丈のこいつが俺の心情を理解していて、それでも名前で呼んで欲しいと思っていたことも。全部知っていた。知っていても今だ躊躇う俺は、言葉も満足に喋る事の出来ない目の前の生き物よりもはるかに弱いのだろう。
その俺の弱さが、俺を殺したのだ。
「あしゅー?」
思わずベッドに座り込む俺の膝に遠慮なくよじ登ってきた純粋な瞳が俺を貫く。ああ、やはり苦手だ。この視線は俺の中の弱い俺を確実に殺してしまう。しかしその弱い俺を後生大事に抱え込んだ結果、俺は死んだ。何一つ守る事も出来ずに。
俺はもう、繰り返したくは無い。
「違う、あしゅではない、アッシュだ」
「あーしゅ」
「アッシュ」
「……あっしゅー」
幼い顔が笑う。きちんと呼ばれた俺の名に答えるように、決意を固めて口を開いた。
「……ルーク」
初めてここに現れたあの時、とっさに出てきたかつての俺の名。改めて口に出してみれば、その響きはもう俺のものではなかった。そうだ、とっくの昔に「ルーク」はもうお前のものだったのだ。それさえも認めることが出来なかった俺の中の弱い俺はもう、いない。
ルークは何がそんなに嬉しいのか、にこにこと笑いながら俺に擦り寄る。
「あっしゅ!」
「ルーク」
「あっしゅーすきー!」
再び告白されてしまった俺は、しかしさすがにそれには答えられずに小さな体を抱き締める事で答えた。回線は繋がっていないはずなのに、それでも俺の気持ちを分かってしまったかのように、ルークが幸せそうに笑う。俺は確信した。
きっとこの笑顔には、俺は一生敵わないのだろう。
最愛なる 3
06/08/03
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