ある日、何だかんだ言っていつも一緒にいるせいか、いつの間にかルークがいなくなっている事に気がつかなかった。使用人失格だろ俺!
慌てて屋敷内を探し回ってみても、ルークはどこにもいなかった。おかしい、これはおかしい。別に外出禁止ではないけどルークが一人で屋敷から出る事は少ない。しかも屋敷内の誰もが何故か目を合わせてくれない。そこでちょうど外の用事から帰ってきたガイを捕まえて聞いてみれば、やはり視線を外されたけれども答えてくれた。
「ルークは、ルーク様は……健康検査でベルケンドに行ってるんだ」
その言葉で俺は全てを悟った。師匠から聞かされた「実験」の話。妙に静かな屋敷。様子のおかしいガイ。何故かざわつく俺の心。何も言わずに消えたルーク。
昔っからあいつは、何も言わずに自分の中に溜め込んでたんだな。
ルークが帰って来たのは翌日だった。心なしか顔が青ざめていて、明らかに具合が良くない。それでもその瞳だけは気丈に前へと向けて、公爵に挨拶をしてから部屋に戻ってきた。俺はベッドにがくりと腰掛けるルークをただ黙って見つめていた。
「何で俺に何も言わずに行ったんだよ」
どこか未練がましく俺がそう言えば、ルークはちらりとこちらに視線を寄越してきた。
「お前には関係ない事だ」
「あるだろ。俺はお前の使用人だろ」
俺がどれだけ心配したか。そんな恨みも篭った目で睨みつければ、俺以上に鋭い瞳でルークが睨みつけてきた。
「これは俺の問題だ、しゃしゃり出てくんな!」
ルークは全身で俺を拒絶していた。いや違う、俺を追い出そうとしていた。ルークに関わろうとする俺を必死に遠ざけようとしていた。その姿は不器用ながら、十分未来の「あいつ」を髣髴とさせる。そうだ、お前はそうやって一人で逃げ続けて、一人で先に進んでしまったんだ。俺が追いつけないように距離を保ちながら、一人でいっちゃったんだ。そしてとうとう俺がどんなに頑張っても届かない所にいってしまった。
それだけは駄目だ。
俺は自分でも訳の分からない衝動のままに叫んでいた。その感情に名前をつけるとしたら、一番近いのは「怒り」だったと思う。
「ふざけんなよ!何でそうやって一人で抱え込むんだよ!」
溢れる感情は止められなかった。ルークが目を見開いている。ああ駄目だ、駄目なのに俺は止まらない。
「どうして一人で全部片付けようとするんだよ!どうして周りを見ようとしないんだよ!皆いるのに!俺もいるのにっ!」
しゃっくりが出るみたいに言葉が突っかかる。声の勢いに喉がついてこれていないみたいだ。次から次へと溢れ出して止まらない激情に視界が滲む。
「少しぐらいこっち見てくれたって、いいじゃねえか……!」
俺の息が切れる。ルークは呆けた表情から、ぐっと歯を食いしばった。ぎゅっと寄せられている眉は、いつもの不機嫌そうなそれではなくて、まるで何かを耐えるような悲痛なものだった。そのまま声を上げる。
「お前は!」
その声は、まるで悲鳴だった。
「お前は一体、誰を見てるんだよ!」
バシンと頬を叩かれたような心地だった。怒りに歪んでいた視界がさっとクリアになる。
ルークは震えている。顔を歪めて、拳を握り締めて、床に視線を落として突っ立ったまま震えている。ルークは傷ついている。
周りを見ていなかったのは、どっちだ。
俺は……ああ俺は何という事を。何という事をしてしまったんだ。俺は無自覚に目の前の罪のない子どもを傷つけてしまったんだ。俺は取り返しのつかない事をしてしまう所だった。また繰り返す所だった。俺は何も変わっていない。変わる決意をして、変わる事が出来たと自惚れていただけで、あの頃と何一つ変わってはいないんだ。
俺が今まで見ていたものは、手の届かない幻想そのものだった。その幻想に伸ばした手は、現実のこの子を傷つけてしまった。周りを見ていなかったのは、俺だったんだ。
誰かの変わりは嫌だと言ったのは、誰だった。
俺じゃないか。
「ルーク」
俺の喉から出た声は、ひどく弱々しいものだった。ルークは動かない。その俺より小さな体に今度こそ傷つけないように、そっと手を伸ばした。今度こそルークへと伸ばした。
「ルーク……」
壊れないように静かに触れたその肩はやはり震えていた。それを実感して俺は今度こそ打ちのめされる。この子を傷つけたのは、俺だ。
「ごめんな……」
ごめん。ごめんな。何度謝っても許されるものではない。それでも俺の口からはそれしか出てこなかった。
「本当に、ごめんな。
俺は俺しか見えてなかったんだ。
お前を通して俺は俺を見ていたんだ。
それに気付かないでお前を傷つけちまったな。
ごめんな、俺、使用人失格だよな」
口から言葉が、目から涙が零れる。情けねえの、ルークより先に俺が泣いてどうするんだよ。傷つけた方が先に泣いちゃ駄目だろ。心の中で叱咤しても床にひたひたと落ちる雫は止まらなかった。
「でもな、俺、お前が本当に心配だったんだ」
膝をついて、両手でそっと頬を包んで、ルークの顔を覗き込む。傷つけてしまった俺が言えたものじゃないけれど、それでもこれだけは伝えなければならない。
「急にいなくなって、ベルケンドに連れて行かれたって聞いた時に俺が眠れないぐらい心配したのは、ルーク、お前なんだからな。他の誰でもないんだ、それだけは信じてくれ」
名前をつけてもらってすごく嬉しかった。何も知らない俺を肯定してくれたのはルークだ。居場所を貰って酷く安心した。俺をここに存在させてくれているのはルークだ。過去も未来も関係ない、ここにいるルークだ。それだけは伝えなければならない。
俺たちはかつて何も伝え合えなかった。それ故に最後まで伝えられなかった。それだけは嫌だ。あの夜俺が守ると誓ったのは目の前で震えているこのルークだ。その誓いに間違いは無い。それだけはどうか。どうか信じてくれ。
「……シロ」
震える声でルークが俺の名を呼ぶ。ルークがつけてくれた、ルークだけの俺の名前だった。
「『検査』はすごく痛くて苦しくて、嫌なんだ」
「うん」
「でも父上も母上も止めないんだ。俺がどんなにふらふらになっても止めてくれないんだ」
「……うん」
「メイドも、白光騎士団も、ガイも、誰も『検査』について何も聞かないんだ」
「うん」
「だから俺は、俺が本当に痛くて苦しくて嫌なのか、分からないんだ」
ルークの瞳からぽろりと一粒、雫が零れた。それは酷く綺麗で、美しくて、そして痛くて、俺は包み込んでいた頬を痛くないようにゆっくりと撫でた。
「痛いよ。ルークが痛くて苦しくて嫌なら、それは痛くて苦しくて嫌なものなんだ」
「本当に?」
「本当に」
「でも皆時々、俺を通して俺ではない者を見ているんだ。俺は本当は、シロの見ている人じゃないのか?皆、シロが見ていた人を俺に見ているだけなんじゃないのか?」
「そんな事は無い!」
不安そうなルークの表情に俺は泣きたくなった。ああ、俺は本当にひどい事をしたんだ。たまらずルークを力いっぱい抱き締める。違うんだ、俺が間違っていたんだ。ルークは何も間違っていないよ。だから自分を疑う事なんて無いんだ。
「ルークはルークだ。俺が馬鹿だった。ルークはルークなのに、俺が間違っていたんだ」
「シロ……」
「ルークは……"アッシュ"じゃない」
声に出せば、それはするりと外に出てきた。何だ、手放したと思っていたら、俺はちゃんと持っていたんだ。そして後生大事に抱え込みすぎて、それが見えなくなっていただけなんだ。見えなくなっていたものを、ルークと一緒に抱えてしまっただけなんだ。
もう大丈夫、二つである事に気付けたんだから、この手にも二つ持つことが出来る。
「ルークが今持っているものは、間違いなくルークのものだから。それだけはずっと忘れないでくれ」
ぎゅうぎゅうとルークを抱き締めていたら、俺の背にそっと何かが触れた。それがルークの手だと気付いたら、何とも言えない温かなものがどっと溢れてくる。ああ、俺のこの気持ちが、少しでもルークに伝わればいいのに。
「もし検査じゃなくても、痛くて苦しくて嫌になったら、俺を呼べよ。心の中でもいいからさ。そうしたらルークの中に俺が現れて、痛くて苦しくて嫌なものを少しだけ取ってやるよ。俺もそんなに強くないから、少しだけだけど」
「……本当か?」
「本当だ、約束する」
ルークから少しだけ体を離して、俺は小指を立てて見せた。ルークがじっと見つめているのを見てから、そういえば指切りが嫌いだった事を思い出す。俺思い出すの遅すぎ。ど、どうしよう。しかしすぐに、俺の小指は俺よりも少しだけ短い小指に絡め取られていた。
「嘘をついたら、針千本だからな」
真剣なその瞳に、俺は笑わずに真剣に頷いた。きっと約束が敗れるような事があったら、俺は本当に針を千本飲むだろう。これは約束だけど、俺にとっては決意だった。誓いだった。
今度こそ、目の前の存在を傷つけないように。俺を含めて他の誰にも傷つけられないように。
肩にルークの頭が乗っかった。表情を見られないように力いっぱいしがみつかれる。俺はしがみついてくる体を抱き締めながら、俺の誓いも届かない所へ祈った。
どうかこの腕の中の存在が、この世で一番幸せになりますように。
親愛なる 9
06/07/29
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