何人もの奴に「何故」と問われた。もちろん父上から、母上からも、挙句の果てにはガイにも尋ねられた。何故、だと?そんなもの、俺が一番聞きたい。何故俺はあの時、こいつを追い出さなかったのだろう。

自分の部屋に立ち尽くす人影。俺はそいつを捕まえるために扉を開けた。簡単だ、俺が一つ声を上げればいいだけだ。それだけで辺りを巡回している白光騎士団が駆けつけてくるだろう。それで俺の部屋に不法侵入しているこいつは終わる。そのはずだった。
その前に誰にも気付かれずに侵入してきたなかなか大した奴の顔を拝んでやろうと、勢いつけて扉を開けた俺の目の前に飛び込んできたのは、俺と同じ……いや、俺よりも光を含んだ焔の色だった。その次に呆然とした、しかしどこまでも澄んだ新緑の色が俺を射抜く。その瞬間。


俺の中の何かが、音を立てて変わったのを感じたんだ。


気がつけば俺はそいつを使用人にしていた。反論の声は全て強引に捻じ伏せた。俺の中の何がそうさせるのか分からなかったが、俺はそれに従った。こんなに何かを自分から求めるのは、初めてだった。

それから事あるごとにあいつを連れ回した。無茶な事も時々言ったと思うのだが、あいつは小言をぶつぶつ呟きながらも逆らった事は無かった。愚痴は多いが、それが普通の使用人なのだ。だがあいつは少し違った。

嬉しそうに、笑うのだ。

命令されて笑うんだぞ?普通無いだろ。だがあいつはよく笑う。すごく嬉しそうに、俺を見て。そういえば俺が「シロ」という名前をつけてやった時も最初はポカンとしていたが、やはりひどく嬉しそうだった。俺はネーミングセンスというものを持っていないと自負しているが、それでも。
そしてその笑顔を見るたびに、俺の中の不可解なものも激しく反応する。
何が何だか分からなくてイライラして、でもあいつと一緒にいたいと思って、傍にいるとドキドキして、落ち着かないはずなのに何故か落ち着く。
しばらくそんな矛盾した訳の分からない状態が続いた。




ある日の夜中、俺はふと目を覚ました。一回寝るとあまり起きない性質なのだが、今日は何故だか目がすっと冴えたのだ。起きなければ、いけない気がした。
静かに上半身を起こして、何気なくソファの上を見た。シロはいつもそこで寝ている。俺がここで寝ろと言ったからだ。寝るのに不自由はしない大きさだし、ふかふかだから寝心地はそんなに悪くないだろう。だが微かな月明かりの中見えた表情は、苦悶しているようだった。俺は慌てて、しかし極力音を立てないようにベッドから飛び降りて傍に寄った。

何か悪い夢でも見ているのだろうか、ぎゅうと体を丸めて、シロは静かに魘されていた。その仕草がまるで魘され慣れているように見えて俺は自然と眉を寄せた。普段底抜けに明るく笑っているこいつに何と似合わない仕草だろう。しかし傍に寄ったはいいがどうしていいか分からない。今すぐ起こすべきか、見守った方が、見て見ぬ振りをした方がいいのか。きっとこいつがこんなに静かなのは、誰にも知られたくないから、だろうから。
結局どっちも出来なくて、俺はそっと汗の滲んだ額に張り付く前髪を払ってやった。俺よりずっと年上の癖に、まるで年下を相手にしているみたいだ。普段のこいつが子ども過ぎるのがいけないのだが、それだけではないような気がして、気になって仕方が無い。そのまま柔らかい髪を撫でていたら、不意にその下の瞳が静かに開いたので内心俺は驚きまくって固まってしまった。
覚醒直後の翡翠の瞳はしばらく虚ろなまま虚空を見つめていたが、やがて俺に焦点が合った。その瞬間、俺は見てはいけないものを見てしまった。

笑ったのだ。心から幸せが滲み出てくるような、今まで見た事の無いような柔らかい顔で、笑ったのだ。俺を見て。俺の向こう側にいる誰かを見て。
緩やかに弧を描いた口元が、何事かを呟く。


――――。


声に出なかったそれは、誰かの名だった。俺は知らない、俺ではない誰かの名だった。俺の手を温かくて大きな手が包む。壊れ物に触れるかのようにそっと、しかし二度と離さない様にぎゅっと。そのまま再び瞳は閉じて、笑顔の形をした口からは寝息が漏れ始めた。もう魘されてはいなかった。しかしその悪夢から目の前のこいつを救ったのは、俺ではない。


あの一瞬で悟ってしまった。俺は知らず唇を噛む。何故こんなに悔しいのか分からない。誰に対して怒りを覚えているのか分からない。
分からない事だらけの俺にも、しかし唯一分かる事がある。

こいつには、ここではない帰るべき場所があるのだ。

俺は握ったままのその手を握り締めた。どこにも行かない様に。どこにも行けない様に。いくら握り締めても、この手は俺からいつかするりと逃れてしまうのだろうと、分かっていながら。





   親愛なる 8

06/07/25