ヒヨコの始まりはお兄様
俺はルーク。何故か俺と瓜二つな上に名前も同じなこの国の王子の使用人となって数日が過ぎた。今の俺は覚える事が多すぎて毎日が戦争のようだ。特に頭の中
が。身体の方は毎日町の中を駆けずり回っていたおかげで丈夫過ぎるほど丈夫だからいいけど、頭の方はまったく鍛えてこなかったからな……。
といっても、使用人としての仕事の方は身体を動かす事が多い分覚えやすいし、他のメイドやラムダスさん、それにガイが丁寧に教えてくれるからそんなに難しい事ではない。俺が今一番頭を悩ませているのは……ルークと共に何故か受けさせられている、「お勉強」であった。
「な?くそつまんねー時間だろ?勉強の時間って!」
ぐっ
たりと机に突っ伏す俺に、ルークがどこかいきいきと話しかけてくる。この愚痴を聞かせる事の出来る仲間が出来て嬉しいのかもしれない。まあ確かに辛かっ
た、今までやった事のない勉強をルークと同じようにさせられているんだから……ってか、そうだよ、俺が辛いのは当たり前だけど、ルークはこの勉強を今まで
ずっとこなしてきたんだろ?
「確かにつまんねーけど、何でルークが俺と同じぐらい先生に怒られてんだよ」
いやむしろ俺より怒られてた。俺より勉強が分からない訳じゃなく、勉強する態度がまるでなってなかったからだけど。ルークは大嫌いなメニューが夕食に出てきたような苦々しい顔で(ルークは好き嫌いも激しいのだ)手の中にあった教科書を放り投げる。
「何でつまんねー事を真面目にしなきゃいけねえんだよ、やってらんねー」
「でももうちょっと頑張れば怒られる事も無いんじゃないか?」
「けっ怒られる事が怖くて勉強サボってられるかっての」
無駄に胸を張ったルークは、あータルかったなどと呟きながら意気揚々と部屋を出て行く。多分厨房に行っておやつでも要求してくるつもりなんだろう。俺はルークを止めるべきだったんだろうけど、疲れてそれどころじゃなかった。
そもそも俺は使用人としてここに来たのに何故ご主人様と一緒に勉強なんてやっているんだろう。始まりは、奥方様の一言だった。
『王族の使用人となるのだから、あなたも一通りの教養を身に付けてもらわなければなりませんね。ちょうどいいわ、ルークと共にお勉強なさいな』
そ
う言う奥方様の顔はものすごく楽しそうだった。あれ、もしかして俺は奥方様のおもちゃみたいな事になってるんじゃ?ガイも最近のシュザンヌ様はイキイキし
てるとか何とか言ってたし。まあ……奥方様には恩があるし、勉強させて貰える事だって本当は有り難い事なんだし、頑張ろう、俺。
そういや結局ルークをあのまま放置しちまったな、ルーク坊ちゃまはただでさえつまみ食いが多いのだから間食は控えさせなければと息巻くラムダスさんに怒られてしまうので、休憩を訴える頭を振るって勉強部屋から出る事にした。早くルークに追いつかなくては。
と、少し慌てていた俺はきちんと前を見ていなかった。その結果、部屋から出た瞬間に誰かとぶつかってしまう。
「ぶはっ!……あっありがとうございま、す……?!」
思
わずよろけた俺を正面にいた人は腕を掴んで倒れぬように支えてくれた。つまりその人はよろめかなかったという事で、男として俺はちょっと恥ずかしくなっ
た。しかしその恥ずかしさも、目の前の人物の正体を知ってすぐに消えてなくなってしまう。むしろ顔から音を立てて血の気が引いた気がする。
俺を
じっと見下ろしていたのは、何とあのアッシュ様だったのだ。今までまともに会話した事ないけど顔怖っ!いかにも気難しそうなこの人の事を俺は無意識に避け
ていたんだけど(だって俺がルークの使用人になる事をあまり快く思っていないような気がしたから)まさかこんな所で会ってしまうなんて。
「すっすすすすみません前をきっちり見てませんでした本当にすみませんっ!」
「……いや、いい。今度から気をつけろ」
「はっはいぃっ!」
す
かさずその場でビシッとお辞儀をする俺。このお辞儀は使用人の基本なのだそうだ、ラムダスさんから叩き込まれたのでこれだけは自信がある。別にアッシュ様
は(表情は怖いが)怒った様子ではないので、出来ればこの場から早く立ち去りたかったのだけど、俺の手をまだ離してくれなかった。何故だ!
「この部屋は……そういや母上がお前にも勉強をさせると言っていたな」
「へ?!あ、はい、今までルークと……いやルーク様と勉強させて頂いてました」
「その愚弟はどうした」
「ルークだったら厨房につまみ食いをしに……じゃなくて!ルーク様は小腹が空かれたそうで厨房の方に向かわれましたっ!」
危ない危ない、むしろアウトかもしれないけど、ついルークを呼び捨てで呼んじまう。二人っきりならともかく、他の人の前で自分の主人を呼び捨てなんてして良い訳がないからな。無駄にオドオドする俺を、アッシュ様は目を細めて見つめてきた。ううっ怖い。
「タメ口で話せと言われているのか、奴に」
「えっ!いや、その……」
「別に隠さなくても、咎めたりはしねえよ」
じっ
と見つめてくるアッシュ様は俺がこのままだんまりしている方が怒りそうな雰囲気だったので、控えめに頷いておく。すると「そうか」などと呟きながら思案す
るようにようやく視線を外してくれた。何だこのプレッシャーは。これが王族の威厳というものなのか。ルークには無いけど。
「ふん、あいつに必要だったのは、これだったという事か……」
「これ……?」
「……気にするな、独り言だ」
そう言うと、アッシュ様はようやく俺の手を離してくれた。ああよかった、ようやく解放された!ホッと一息ついた俺は、軽く頭を下げてすぐにその場を立ち去ろうとする。が、すぐに声をかけられた。
「おい、屑ヒヨ」
……ん?今のはもしかして……俺?俺を呼んだのか?
「お、俺のこと、ですか……?」
「他に誰がいる。同じ名前の人間が同じ場所に複数いるとややこしいからな」
つまりあだ名みたいなもののつもりらしい。それでも屑ヒヨって、屑ヒヨって!俺が何とも言えずに絶句していれば、アッシュ様は名前の由来を答えてくれた。
「てめえのその頭は、ちまいヒヨコとそっくりだ」
そういう事らしい。やっぱり俺は何も言えないままだった。だって、言えるか?「誰がヒヨコだー!誰がちまいだー!」って、滅茶苦茶怖そうなこの王子に言えるか?使用人の分際な俺が。言える訳ないだろ!
だがしかし不満がちょっとでも顔に出ていたのかもしれない。アッシュ様は俺の顔を一瞥して、ふっと鼻で笑ってから踵を返した。
「あいつに言っておけ、つまみ食いはほどほどにしろとな」
そ
のまま立ち去ってくれやがったアッシュ様の背中を、俺は見送るしかなかった。心の中から湧き上がる衝動を抑えるのに必死だったのだ。この、この国の王子共
は一体どうなってんだ!揃って人を小バカにしたような表情を得意げに晒しやがって……!でもルークに対するように何も言えないヘタレな俺。それが幸なのか
不幸なのか、俺にはわからなかった。
廊下に突っ立っていた俺に、今度は別な声がかけられた。まんまと厨房から美味そうな菓子をくすねる事が出来たらしいルークが、上機嫌で戻ってきたのだ。
「おいルーク!んな所にボーっと突っ立って何やってんだよ」
「……ちょっと、己の中の衝動をどうやって消化すればいいのか考えてたんだ」
「はあ?」
首を傾げるルークに今までの事を話せば、目を見開いて驚いてみせた。今の話のどこに驚くところがあっただろうか、俺のびっくりあだ名か?
「兄上がお前に屑って言ったのか?へえーっ」
半分当たって半分外れた感じ、か?ルークは妙なところに驚き、そして感心しているらしい。今度は俺が首を傾げる番だ。
「屑がどうしたんだよ。俺だっていきなりあだ名に屑なんてつけられるとは思わなかったけどさ」
「違うって、俺もよく分かんねーんだけどよ、兄上の屑は特別らしいぞ。ガイが言ってた」
「と、特別?」
「ああ。何でもある程度親しくならなきゃ屑っつー罵り言葉を使わないんだとよ」
だ
から兄上に屑って言われるのはむしろ愛情の裏返しだという事らしい、とルーク。何だそのややこしい愛情表現は。かなり疑わしいが、付き合いの長いガイが言
うんだから間違いは無い、のかもしれない。じゃあ俺少しはアッシュ様に受け入れられてるって事か?それほど嫌われていない?
っつーか、それでも屑ヒヨなんて嬉しくねえよ!
しかしこの話が噂として広まり、ルークと同じ名前の俺の事を一体何と呼べばいいのか悩んでいた周囲の者たちに「ヒヨコ」の呼び名が定着してしまう事を、今の俺は知る由も無かった。
09/04/18
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