夏だ!海だ!ぷらいべえとびいちだ!



気持ちよく晴れ渡る青い空、眩しいぐらいの真っ白い入道雲、踏み荒らされる事無くどこまでも続く砂浜、そして透き通るような水面を穏やかな波がうねる美しく青い海。俺の目の前には、絵に描いたような理想的な海岸が広がっていた。こんな海見た事ない。というか海を見たのが初めてだ。住んでいた町から海までは遠かったから、来る機会もなかったからだ。俺の人生初の海が目の前にあった。


「何ポカーンと突っ立ってんだよ、しっかりしろよ」


ペシペシと俺の頭を叩いてくるのは、珍しくその長い髪を団子状にまとめたルークだった。ルークは海を見るのが初めてではないらしい。って、それは当たり前か……。
だってここ、ファブレ王族の専用砂浜、いわゆる「ぷらいべえとびいち」ってやつだからな。


「ぷらいべえとびいちって!海初体験の俺がいきなりぷらいべえとびいちって!難易度高すぎだろ!ていうかぷらいべえとびいちが本当にこの世に実在するなんて!夢か本か自慢話の中だけの話かと思ってたのに!」
「おーいヒヨ、動揺のあまりプライベートビーチが言えてないぞー」
「だ、だってそんな高級な言葉なんてめったに使わないだろ!慣れて無いだけだ!」


肩を叩いて落ち着かせてくるガイに食ってかかる。ああ、今の俺の気持ちを分かってくれるのはここにはいないんだ。だって全員生まれた瞬間金持ちだったんだから当たり前だ。
今日は、「夏なんだから海に行きたい」という突然のルークの訴えに急遽企画された、ファブレ家水入らずの海水浴の日であった。そこに何故俺が当然のように参加しているかは考えない事にする。まあガイだってついてきてるんだからいいんだろう。格好はライフセーバーだけどな。
でも意外だったのは、アッシュ様が一緒に付いてきた事だ。ルークがいつもの我儘を言い出した時はものすごく眉間に皺を寄せていたけど、結局何も言わずに参加する事になったし。きっとこう見えて家族サービスは大事にする人なんだろう。……ルークや俺の事を思いっきりいじりいじめて楽しもうと思っている可能性もあるがな。
それにしても、ぷ、ぷら、プライベートビーチ……うーんやっぱり慣れない。


「おいルーク早く行くぞ!目の前に海があるのに立ち止まんなよ!」
「えっでも俺まだ心の準備が」
「そんなものいるか。さっさとしろ、屑ヒヨ」


腕を引っ張るルークに俺が躊躇していると後ろからアッシュ様が遠慮なく背中を押してくる。この兄弟急かし過ぎる。ちなみに奥方様はメイドたちに扇がれながらビーチパラソルの下で楽しそうに笑いつつ俺たちの様子を眺めている。息子たちが笑っている姿を見るだけで良いのだそうだ。そして王様はやらなきゃいけない事がまだ沢山残ってるって事で留守番になったらしい。出掛ける前に見たあの寂しそうな背中が忘れられない。
そうこうしているうちに、俺はずるずると波打ち際まで引っ張られてしまった。足元に打ち寄せる波の破片が掛かって、それが予想以上に冷たくて俺は飛び上がった。


「波!波だ!本物だ!冷てえ!」
「何当たり前の事言ってんだよ。海なんだから本物に決まってんだろ」


俺がアタフタしているうちにルークはひゃっほーとか叫びながら思いっきり海の中に入って行ってしまった。ルーク、何て度胸があるんだ。俺は波が足に掛かるだけでこんなにビビっているのに!


「うはっマジで冷てえ!けど慣れると気持ちいいぞ!早く来いって!」
「だから俺まだ心の準備が!」
「これで少しは覚悟が決まるだろう」


横から不吉な声が聞こえる。慌てて振り向いた俺の顔に、思いっきり水がかけられた。考えるまでも無く海の水だ。噂に聞いていた通り、しょっぱい!


「っ!げっほげほっ!めっめめめ目に染みる!しょっぱい!何だこれ!」
「これで冷たさなんてどうでも良くなっただろうが」
「おいアッシュ、ヒヨをあんまりいじめるなよ、嫌われるぞ」


タオルを持って駆けつけてきてくれたガイに助けられて、ようやく俺は混乱の中から抜け出す事が出来た。あの一瞬は死ぬかと思った。俺が顔を上げれば、アッシュ様はすでに先に海の中へと入って行った後だった。何なんだあの人!


「悪いなヒヨ、あいつ気に入った奴はいじめたり嫌がらせしたりしてしまう性格なんだ、嫌っている訳じゃないから勘弁してやってくれ」
「勘弁して欲しいのは俺の方なんだけど……」


まあ、嫌われていないなら良い、かな……?それより問題は俺の事だ。これからの俺の問題だ。
海に浸かっている足はもうその冷たさに慣れた。もうその温度に驚く事は無いだろう。問題は、その後だ。そう、海の中に入った後の事が問題なんだ。
だって俺、泳いだ事ないんだよ。


「何してんだよルーク、ここまで来たんなら後は飛び込むだけだろ!」


ひたすら青く広がる海を前に立ちつくす俺に痺れを切らしたルークが近づいてきて、腕を掴まれる。うわ、今まで海に浸かっていたルークの手が冷たい。それにうっかり気を取られてしまった。
気付いた時には、俺の目の前の視界は海の青から、空の青に変わっていた。ああ、晴れ渡る夏の空って、やっぱり綺麗だな……。


「っぎゃあああああ!」
ドボーン!


どうやら俺は、ルークに海へと放り込まれてしまったようだった。ルークめお坊ちゃまのくせに意外と力あるんだなとか頭の片隅で思ったりもしたが、それどころじゃなかった。だって俺の四方八方、初めて体験する海そのものだったんだから。目も開けられず今俺の顔が上か下どっちを向いているのかも分からず、手足をばたつかせる事しか出来ない。やばい息が出来ない。今までのものとは比べ物にならないほどのパニックが俺に襲いかかってきた。
結構本気で死を覚悟した俺の身体は、次の瞬間勢いよく水の中から引き上げられていた。俺にとってはそれまでがものすごく長い時に感じたが、きっと実際に流れた時間は僅かだったに違いない。
眼は開けられないまま、咳をしながら俺は自分を引き上げてくれた腕にしがみつく。ずぶぬれの頭を誰かが慰めるように優しく触れて、その上から怒号が飛んだ。


「この屑弟!いきなり人を海の中に放り込む奴があるか!恥を知れ!」


いや海見てびびってる人にいきなり水引っ掛けるあんたもどうかと思うぞ。そう考えてようやく俺は、俺を助けてくれたこの腕がアッシュ様である事に気付いた。おそるおそる目を開ければ、確かにアッシュ様が俺を抱えて海の中に立っている所だった。
立って……?つまり少なくともアッシュ様の足がつく程度の深さって事か。そんな浅瀬で溺れた俺って……はっ恥ずかしすぎる。いくらアッシュ様の方が背が高くたって、恥ずかしすぎるだろ俺っ!


「大丈夫かいヒヨ?そうだな、海が初めてなら泳げなくても当たり前だよな、気づかなくてすまないな」


傍にはいつの間にかガイが駆けつけていた。早い。なるほどそのライフセーバー姿は伊達じゃないって事か。浜辺を見ればやっちまった的な心配顔でルークがこちらを眺めている。向こうの方では奥方様まで立ちあがって様子を窺っているのが分かった。皆に心配されてしまった……しかも一使用人でしかない俺が。情けなさすぎて涙出そう。
そのままアッシュ様に浜辺へと戻された俺は、ようやく砂の上に足をつける事が出来た。前にもこうやってアッシュ様に運ばれた気がする。ホッと息をつく俺の元へ、ルークが駆けよってきた。


「おいルーク大丈夫か?!」
「ああ、何とか……しょっぱい水思いっきり飲み込んで死ぬかと思ったけど」
「その……わ、悪かったよ、お前が泳げないの知らないで海の中に放り込んだりして……」


ルークはしょぼくれた様子で俺に謝ってきた。うん、分かってる、ルークに悪気は一切無かったという事。基本的にルークはいたずら好きな面があるけど、人をわざと傷つけるような事は絶対にしないから。むしろ溺れる俺の姿を見てものすごく驚いただろう。そう考えると逆に悪い事をした気になってしまう。
それに、ちゃんと謝ってくれたし。俺はルークを安心させるように笑いながら言った。


「いいって、俺も泳げない事言って無かったし。だって、やっぱり、ちょっと恥ずかしくてさ」
「何だよ、そんなの俺が教えてやるって!だからもう一回行こうぜ!な!」


ルークも笑顔を取り戻して俺を引っ張ってきた。元気が戻ってきたのはとても良い事だけど、もう一回海の中に入るのか……ちょっと、いやかなり不安だな。俺が尻込みしていると、後ろからガイが肩を叩いてきた。振り返れば、鼻先に何かをつきつけられる。


「ほら、これをつけろよヒヨ。これならきっと溺れないぞ!」
「これって……」


その何かを受け取って眺めてみる。俺の頭に最初に浮かんだものは、ドーナッツだった。俺をすっぽりすり抜けるほどの穴を持ったドーナッツだ。しかしその大きさに比べてものすごく軽い。あ、これはどこかで見た事があるぞ……。


「浮き輪か!それなら溺れねえよな!ガイ、ナイス!」
「本当はお前用にって奥様が持たせたものだけどな、まあ役に立ってよかったよ」


ああそうか、浮き輪か。泳いだ経験が無い俺はもちろん使った事が無い。すると俺の手から浮き輪を取り上げたアッシュ様が、有無を言わさず頭の上から被せてきた。


「うわ?!え、あれ?」
「よし行くぞルーク!今度こそ大丈夫だ!」
「は?!いや待てよ!これで合ってるのか?なあ!」


上から降ってきた浮き輪にしがみつく俺をルークが強引に引っ張る。お前さっき反省した事忘れたのか!内心ドッキドキだった俺はルークに引っ張られるがまま、海の中へと突入した。浮き輪がザブンと音を立てて波の上に浮く。それに必死にしがみつく俺は、もちろん沈まなかった。


「お、おお、沈まない!」
「だろ?すげえだろ?これなら溺れないな!」
「確かにそうなんだけど……これ、恥ずかしくないか?」


今更俺は、丸いわっかにしがみつく自分という姿を想像してみた。うん、何か、かっこ悪いような気がする。でも泳げない俺が今更恰好を気にするものではない。泳げない身としてそれ相当のアイテムを身につけるのは仕方がないんだ。どんなにかっこ悪くてもさ。
浮き輪もなしに器用にぷかぷかと浮かぶルークは、外から俺と同じように浮き輪にしがみついてきて、顔を突き合わせてにっと笑った。


「な、ルーク。初海はどーよ?何もかもすっげえだろ!」
「えー、っと」


ルークに言われて改めて俺はあたりを見回す。こんなにどこまでも広がる水平線を見たのは初めてだった。水面は絶え間なく波打っていて、その振動が浮き輪越しに俺にも感じる事が出来た。ゆらゆらと揺れながら青い空と青い海に囲まれ、その中心にルークと一緒にぽかんと浮いているのが未だに信じられないぐらいだ。
暑い日差しの中で入る海の冷たさが気持ち良い。水の上に浮かぶという不可思議な感覚を全身で受け止めながら、俺はルークと同じように笑った。


「確かに、すっげえ。すっげえ怖くてびっくりする事ばっかりだけど……すっげえ楽しい!」
「だろ!来てよかっただろ!」


まるで自分が褒められたかのように笑うルークを見て、俺はようやく思い出した。ルークが唐突に海に行きたいと言い出す前にしていた、俺との会話を。
そうだ、俺は確か、海を見た事が無いと言ったんじゃなかったか?

浮き輪ごと俺を引っ張るルーク、後ろからちょっかいかけながらも見守ってくれるアッシュ様、俺たちにもしもの事が無いように準備万端でいてくれるガイ、優しい瞳でずっと見ていて下さる奥方様(そして欠席の王様)。その全ての存在が、夏の日差しの中、水面を輝かせる海と同じように俺には眩しいものに感じた。
だって、俺が見た事無いという物を、全力で見せてくれるような人が、今まで俺にはいなかったんだから。


「ルーク」
「ん?」
「俺、海が見れてよかった。ありがとな!」


俺が礼を言えば、ルークは夏のような笑顔で笑った。




10/09/13