ゆっくりと目を開けた瞬間、ああ、これは夢だなと猫ルークは思った。目を開けたばかりで状況の把握も出来ていないのに、何故かは分からないが、一瞬でそう悟った。しかしぱちぱちと瞬きをして意識がはっきりした後にも、猫ルークはしみじみと、ああやっぱり夢だと納得したのだった。
何故なら、目の前にいた子犬アッシュが、子犬ではなかったのだ。


「……いや待て、これ夢だよな?夢なんだよな?確かにあいつの成長速度はやばいぐらい速かったけど、さすがに一晩でこんなに成長する事ってありえないよな?」


このままじゃすぐに追い越されるかもしれないぞーと笑いながら言っていたルークの言葉を思い出した猫ルークが青ざめる。子犬じゃなくなった子犬アッシュは、猫ルークよりも遥か高い所からじっとこちらを見下ろしていた。身長差はおそらく、初めて猫ルークが子犬アッシュと出会った時の二人の身長差と同じぐらいであろう。一日足らずでこんなに身長が伸びるのはいっそ病気だとしか思えない。
そこでようやく猫ルークは気がついた。自分の目線も、いつもより少し低い位置にあるという事に。


「……えっ?」


慌てて自分の身体を見下ろした猫ルーク。目に映る足も腕も身体もしっぽも、いつも見下ろすものより小さかった。猫ルークは自分も縮んでいる事を確信した。同時にこれが夢である事も確定した。


「マジかよ……まさか夢の中で夢だって気づけるなんて……これは貴重な夢だな」


納得した猫ルークは、改めて顔を上げた。さっきからずっとこっちを見つめてくる翡翠の瞳にぶつかる。夢だと分かればもう絶望した気持ちはやってこないが、それでもきっと近い将来こうなるんだろうなと思わせるやけにリアルな大人の子犬アッシュがそこにいた。もう犬アッシュと呼ぶべきだろう。
対して猫ルークは、鏡が無いので全身を確認しようがないが、紛れもなく子どもの姿をしている。つまり子猫である。普段とは立場がまったくの逆になってしまったのだ。一体これはどういう夢なのか。


「あー、えっと、よ、よおアッシュ。元気そうだなお前、無駄に」


夢の中でもさすがに無言で見つめ合ったままでいるのは少々気まずいので、声を掛けてみる。犬アッシュはますますアッシュに瓜二つとなった顔で、ほんの少し笑った。


「ルークも、今日はいつにもまして、可愛い」
「なっ?!」


色んな衝撃が訪れた猫ルークは毛を逆立てて飛び上がった。まずはその台詞である。自分よりも年上の男に向かって可愛いなどとは、どういう事であろうか。いくら今いつもと身長が逆転しているからっておかしいものはおかしい。しかも「いつにもまして」とはつまりいつも可愛いとでも思っていたというのか。
猫ルークが驚いたのはそこだけではない。笑ったのだ。普段からあまり笑う事が無いのに、さらに笑わないアッシュの顔で笑うものだから、毛を逆立ててビクついてしまうのも無理はないだろう。


「お前っバッカじゃねーの!年上に変な事言うなっつーの!」
「年上?」


僅かに首を傾げてみせた犬アッシュは、おもむろに子猫ルークへと近づき、腰をかがめてきた。突然の行動に子猫ルークが固まったまま成り行きを見守っていると、犬アッシュは予想だにしていない行動に出た。
両手を突き出し、子猫ルークの身体に手を掛けたかと思うと、そのままその身体を持ち上げてみせたのだ。


「ふぎゃっ!」
「こんなに小さくて持ち上げられるんだから、可愛いものは可愛い」
「ちっ小さいのは夢だからだろっ!おろせー!」


子猫ルークはじたばたともがいてみせるが、犬アッシュはびくともしない。それどころか子猫ルークを抱えたまま座り込み、頭をわしゃわしゃ撫で始めたのだ。普段から撫でられる事が恥ずかしくて苦手な子猫ルークはそれで顔を真っ赤にしてしまう。


「なっなななっ?!」
「ずっとこうやってやってみたかった、いつも見上げてばかりだったから」
「ななな何言ってっ……?!」
「……夢であってもいい、夢の中で、夢が叶った」


犬アッシュの優しい柔らかい頭を撫でる手つきと、本心が籠ったその言葉に、暴れていた子猫ルークの力が思わず弱くなる。
こうやって頭を撫でていたのは、いつもなら猫ルークの方だった。子どもは苦手だったが、素直に後ろをついてくる子犬アッシュの事が可愛くて、ルークが猫ルークにやるようについ、あの真紅の頭を撫でていた。しかしそれは、子犬アッシュにとって屈辱的な事だったのかもしれない。しっぽが揺れていたから喜んでいてくれていたに違いは無いが、それでも子ども扱いされている事に複雑な感情を抱いていたのかもしれない。だからこそ、こうして子猫ルークを撫でまくる事が夢になっていたのか。
本当はもっと複雑な心情が犬アッシュの胸の内に隠されているのだが、そうとは知らない子猫ルークはそれで納得した。


「アッシュ、子ども扱いばっかりして悪かったよ……いつも悔しい思い、してたんだろ?」
「ああ……いや……」
「でも俺も悪気があってやってた訳じゃないんだからな。俺には家族がいなかったから、ゴシュジンサマであるルークとアッシュを見てると羨ましかったし。だからお前といると、何か弟出来たみたいでさ、嬉しかったんだ」
「弟……」


子猫ルークは自分なりに犬アッシュの事が大事なのだと一生懸命伝えたのだが、対する犬アッシュはどことなく複雑な表情だった。何が駄目だったのかなと少し考えた子猫ルークだったが、身体とともに太く長くなった犬アッシュのしっぽがぱたぱた揺れているのを見て、やっぱり喜んでいない訳ではない事を知る。


「まあ今日は夢なんだし、俺も諦める事にするから、思う存分撫でろよ」


夢の中でぐらいいいか、と子猫ルークは開き直る事にした。こうやって頭を撫でられるのも気持ち良いものだと思い始めたからでもあった。許しを得た犬アッシュは、そのまま嬉しそうに子猫ルークの頭を撫でた。表情は少し柔らかくなった程度であったが、しっぽがさらに激しく揺れているのが何よりの証拠である。


(……それにしても、本当に変な夢だな)


されるがままにされながら、子猫ルークは思った。自分が小さくなって、犬アッシュが大きくなる、本当に不思議な夢だ。最初はあんなに戸惑っていたのに、今ではそんなに嫌だとは思わない。犬アッシュが調子に乗って耳とか引っ張ってきているのに怒る気持ちが沸き起こらない。これは夢だからなのか、自分がまんざらでもないからなのか、それは分からないが。こうやって大きな犬アッシュに可愛がられる現状も、悪くは無いかなとか思い始めて。
そこでふと子猫ルークは犬アッシュを見上げた。この気持ちよさを、自分だけが味わっているのがもったいないと思ったのだ。なので、身を乗り出して犬アッシュの頭に手を伸ばした。


「ルーク……?!」
「お前もわしゃわしゃしてやる!へへ、やっぱ何か子犬の時と触り心地がちょっと違うなー」


見た目のせいか、やはり子犬の時の方がふわふわと柔らかかったような気がする。それでも流れるような長く赤い髪は、触っているだけで気持ちが良かった。気持ち良くさせるために撫でているのに、撫でている方が気持ちが良いとはどういう事だろうか。滑らかな手触りの耳を触りながら、子猫ルークは至福な表情を浮かべる。その顔を、犬アッシュは位置関係により真正面から見る事となってしまった。


「………」
「どうだー?アッシュ、小さくても大きくても撫でられるのは気持ちいいだろ?まあ自分より小さい奴に撫でられるのは複雑かもしれねーけど、これ夢だしな!」
「………」
「アッシュー?どうした?気持ち良くないのか?……ぎゃっ!」


突然、犬アッシュがそのまま身を乗り出す子猫ルークをぎゅっと抱きしめてきたので、再び毛を逆立てて驚く事となった。その腕の力は少々強くて、息苦しいほどだった。その力のこもり具合には形容出来ない思いのようなものが込められている気がする。


「何だよまたしても唐突に!俺何かしたか?!」
「した、いっぱいした」
「何をだよ!」
「俺が、本当に大人になるまで待ちきれないような事をいっぱいした」


犬アッシュの言葉は子猫ルークにとって意味不明な言葉であったが、何かに切羽詰まっている事は十分に分かった。そして抱きしめられた場所からダイレクトに伝わるリアルな熱に、これは本当に夢なのだろうかという疑問が沸き起こってくる。
こんなに温かいのに、こんなにむずがゆい気持ちなのに、こんなに犬アッシュが近くにいるのに、これが本当に夢なのだろうか。こんなにはっきりした夢が、本当に。


「ルーク」


犬アッシュが抱きしめながらじっと見つめてくる。その見慣れたようで、見慣れていない瞳に子猫ルークは釘付けになった。いくら顔が赤らんでももう逃げ出せない。捕らわれたかのように、子猫ルークは身動き一つとれなかった。ただ感じるのは相手の熱いぐらいの熱、そして強い瞳の光。
見つめ合ったまま、犬アッシュが口を開いた。そのまま、声に出さぬまま、唇で何かを呟いた。子猫ルークをじっと見つめたまま、伝えられない思いを伝えようとするかのように唇を動かした。子猫ルークは自然と、その唇の動きを読み取ろうと見つめる。互いに互いを見つめ合う一瞬。永遠とも思えるような不思議な時間が過ぎ去り、声のない言葉を、子猫ルークが読みとれたような、そんな気がしたその時。

夢は終わった。


「……って、やっぱり夢だったんじゃねーかあああ!」


勢いよく起き上がった猫ルークは空に向かって吠えた。ぽかぽかお日様が夕方に向かって徐々に暮れ始めた時間帯だった。猫ルークは外でのお昼寝中に、あんな夢を見てしまったらしい。景気づけにばしばしと自分の頬を叩いた猫ルークは、その頬が叩く前から赤く染まっている事を自覚していた。もちろん夢のせいである。


「ちくしょー、何だよあの夢……妙にリアルで怖かったぞマジで。俺が縮んでいたのは良いけどアッシュの奴、将来絶対ああなるんだろうなっていう顔してやがったし……って」


ブツブツと一人で呟いていた猫ルークは、ようやく気づく。隣に眠る、子犬アッシュの存在に。そうだ、一緒にお昼ご飯を食べた後、ここで頭を並べてお昼寝したのだった。もしかしてこうやって並んで眠ったせいであんな夢を見たのだろうか。
猫ルークがその顔を覗きこんでみれば、僅かに微笑んでいた。よほど良い夢を見ているのだろう。好物のビーフジャーキーでも貰っているのだろうかなどと思いながら、猫ルークは子犬アッシュのその頭を軽く撫でた。その感触は、やっぱり夢の中で味わったものより子どもらしい柔らかいもので。


「……お前、大きくなってもいいけどよ、もうちょっとこのままでいさせてくれよな」


相手が猫よりも大きくなる犬なのは分かっている。それでも猫ルークはやっぱり、自分より小さなこの子犬が可愛く思えてたまらないのだ。だからまだしばらくは、こうやって兄気取りで弟の頭を撫でてやりたいのだが。
猫ルークが撫でてやっている掌の下、子犬アッシュが夢うつつに呟いた言葉は、まだ猫ルークには届かないようだ。




   猫と子犬と子猫と犬と

11/08/22