梅雨時のじとじとした空気が夏の太陽に乾かされ、夏の訪れを感じるある日の事であった。綺麗に晴れた空には不釣り合いなほど深刻そうな顔で、ルークがアッシュへ相談を持ちかけてきた。
「なあアッシュ、相談したい事があるんだ……ルークの事で」
「屑猫がどうした、何度注意してもつまみ食いをやめない事か」
「そうであったら俺もこんなに心配しなかったんだけど……」
ため息をつくルークを見て、アッシュは目を見張った。猫ルークのつまみ食いに関しては今までアッシュとルーク共々散々悩んできた事であった。いくら注意していても、はっと気付いた時にはすでに食べ物をつまんで逃げてしまっているのだ。あの素早さは猫ならではのものなのか、猫ルークのつまみ食いに傾ける情熱によるものなのか。
そんな手を焼くつまみ食いの方が良かったとルークが言っている。一体どれほどの悩みだというのだろう。
「何があった、話せ」
「うん、実はさ……最近、ルークの食欲が落ちてるみたいなんだ」
「食欲?」
てっきり怪我でもしたのかと思っていたアッシュは正直拍子抜けした。食欲が落ちるのはそう珍しい事ではない、特に今の季節では。
「……ただの夏バテじゃないのか」
「俺も最初はそう思ってたんだよ、ルークが夏バテなんて珍しいなーとか思ってさ」
しかしルークの表情は暗いままだ。確かに毎年猫ルークは暑いーもうやだーとかしきりに愚痴って扇風機の前でゴロゴロしているが、食欲だけは衰えた事は無い。花より団子、色気より食い気を地で行く猫ルークなのだ、どんなにだらけていてもご飯の時間になると誰よりも元気になる。そんな猫ルークが夏バテなんてと思いながら、ルークも色々と気を使ってやったのだと言う。
「あいつの大好物をさりげなく出してやるんだけど、最初は喜んで食べるくせにすぐにその勢いが衰えるんだよ、絶対おかしいだろ?」
「そういえば最近煮干しの減る量が小さいな……まさか、チキンやエビでも駄目なのか」
「駄目なんだよ、それが」
ようやくアッシュも事の重大さが分かってきた。思っていたより、猫ルークの状態は悪いのかもしれない。今まで例え具合が悪かろうとも、自分の好物だけは残す事は無かったあの猫ルークが、それを食べ渋るというのだ。
「こりゃ本格的にばててるのかなって俺思ってさ、さっきアイスを出してみたんだよ。冷たいものならいくら夏バテでも食べられるだろ?ルークはアイスも大好きだし」
「ああ、平常なら人の分まで欲しがるほどだからな」
でも、違ったんだろう、とアッシュが目で問いかける。ルークは沈痛な面持ちでうなずいた。
「でもルーク、一口食べた途端飛び上がって……それから一切口にしようとしなくなっちゃったんだ」
「一切、だと?」
「どうしようアッシュ、ルークはもしかして病気になっちゃったのかな、お腹がものすごく痛くて、でもそれを言い出せないのかもしれない!」
取り乱すルークだったが、アッシュはそれを聞いて少し考え込んだ。今のルークの説明に、なにか引っ掛かるものがあったからだ。
「どうしたんだアッシュ?」
「いや……その症状に何か覚えがあってな」
「えっ?!もしかして誰か掛かった事のある病気なのか!」
「まだ分からん、とにかく本人に話を聞いてみない事には始まらねえな」
二人は頷き合い、向き直った。視線を向けた先には、例年通り扇風機にべったりひっついた猫ルークがいる。その至福そうな表情を見ていると健康体そのものなのだが。
「なあルーク、ちょっといいか?」
「ああ?何だよ二人して、そんなおっかない顔して」
二人の様子がいつもと違う事を、猫ルークは敏感に感じ取っていた。少し警戒した様子で顔を向けてくる。まずはルークが慎重に話し始めた。
「ルーク、お前最近、どこか調子悪い所はないか?」
「?!……ね、ねえよそんなもん!」
猫ルークの目が明らかに泳いでいる。何かあるのは明白だった。
「本当に?何か最近ご飯を残す事が多いような気がしてさ」
「さっ最近暑くなったから、そんなに食べる気がしないだけだ!」
「さっき冷たいアイスも食べなかったじゃないか」
「あ、アイスは……ち、ちょうどアイスを食べたい気分じゃなかっただけだ!そんだけだよ!」
明らかに苦しい言い訳を吐きだす猫ルークに、とうとうルークが飛びついた。ギャッと毛を逆立てる猫ルークの手を取って、どことなく潤んだ瞳で縋りつく。
「ルークっ本当の事を話してくれ!俺、俺お前が変な病気なんじゃないかってずっと心配してたんだ!」
「な、ななな?!」
「お腹が痛いのか?それとも他の場所が?大丈夫だよルーク言っても怒らないから、正直に話してくれ!もし手遅れになったりでもしたら……!」
「何で勝手に泣きそうになってるんだよ!そんなんじゃぬぇーっつーの!」
ルークと揉み合う猫ルークのお腹から、ちょうどその時ぐうっと音が鳴った。ハッと顔を赤らめる猫ルーク。きょとんとするルーク。後ろから様子を見守っていたアッシュが、ぽつりと言う。
「腹は、減ってんだな」
「いや、その、これは……」
「腹が減るという事は、原因はそこではないという事か。やはり……」
アッシュの目がすうっと細められた。核心にたどり着いたのだ。それに気付いたルークがようやく猫ルークから離れてアッシュに向き直る。
「分かったのか、アッシュ!」
「ああ、やはり前に同じ症状を見た事があった。間違いないだろう」
「それで、一体何なんだ、ルークの病気は!」
ルークの質問には答えず、アッシュは無言で台所に向かい、何かを持ってきた。それをずいっと猫ルークの目の前に突きつける。最初は怪訝な表情だった猫ルークだったが、アッシュが持ってきたものの正体を知ったとたん、さっと青ざめてしまった。ルークは猫ルークの反応に首をかしげる。
それはそうだろう、アッシュが持ってきたのは、ただの氷一つだったのだ。
「食え」
「な……何だよ」
「これを食ってみせろ。暑い日はこれを丸かじりに限るとゴリゴリ食っていたはずだ、食えない訳がねえよな?」
とっさに拒否しようとした猫ルークだったが、アッシュにギロリと睨みつけられて出来なかった。覚悟を決めた顔で、氷にばくりとかぶりつく。その瞬間、猫ルークの目がカッと見開かれ、その後すぐに氷を吐き出してしまった。
「ってえ!染みるっ!」
「染みる?」
ポカンとするルークの隣から、腕組をして猫ルークの様子を観察していたアッシュがそれみたことかという顔をして、残酷に言い放った。
「おい、屑猫」
「な……何、だ?」
「歯医者行くぞ」
「っ嫌!嫌だあああああ歯医者は行きたくねええええ!!」
ドタバタと部屋の隅に逃げてしまった猫ルークは身体に尻尾を巻きつけ耳を伏せ、ブルブルと震えながら縮こまってしまった。びっくりするぐらいの恐ろしがり方である。ルークは落ちた氷を流しに放りこんでから、まだ状況をつかめていない表情でアッシュを見る。
「歯医者?」
「ああ、どうやらあいつは、虫歯が出来ているらしい」
「虫歯!……そうか、噛むと虫歯が痛むから、だから食欲が落ちていたのか!」
ルークも心から納得できる症状だった。特に冷たいものは歯にとても染みたのだろう、だから大好きなはずのアイスも食べられなかったのだ。あの猫ルークの反応を見れば、ほぼ間違いなさそうだ。
「でもよく分かったなーアッシュ!俺全然見当もつかなかったよ」
「屑が、昔虫歯になった時、今のこいつとほとんどまったく同じ反応をしていたのはどこのどいつだと思ってやがる」
「あ……ああー……ははは」
アッシュに言われて、ようやく思い当ったルークは乾いた笑い声を上げるしかなかった。そう、アッシュが猫ルークの虫歯をすぐに見抜けたのは、昔これと同じ経験をしているからだったのだ。ルークも、歯医者が死ぬほど嫌いだったのだから。
ずかずかと猫ルークに歩み寄ったアッシュは、容赦なくその尻尾を引っ張った。
「さあ行くぞ、このまま放置すればもっと酷い事になるんだからな!」
「嫌だーっ絶対に嫌だー!」
「大丈夫だってルーク、確かにすんげー怖いけど、行ってみればそんなに無いって!多分」
「ちくしょーっ好物も食べられねえし歯医者怖えし、虫歯なんて大っ嫌いだーっ!」
その日から猫ルークは、面倒くさがっていた歯磨きを至極真面目に行うようになったとか。
猫と双子と染みる悪魔
10/08/02
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