「アッシュー!バケツってどこにしまってたっけ!」
家に帰ってきたアッシュにかけられた最初の言葉はそれであった。いつもならこちらがただいまと言う前におかえりと言うぐらいだというのに、今日のルークはどうしたというのだ。アッシュが怪訝に思いながらルークを見ると、その瞳はいつもより輝いていた。明らかに何かを期待している目だった。
「……これは一体どうしたんだ」
「知らねえー。俺もさっき帰ってきたらすでにこんな感じだった」
ルークの後ろから顔をのぞかせた猫ルークも首をかしげている。ルークはいそいそと部屋に戻ると、何かを手に掴み取って頭上に掲げてみせた。
「ちょっと季節外れだけど!今日の夜はこれやるぞ!」
「「はあ?」」
無駄に得意げな顔のルークを、アッシュと猫ルークは二人並んで呆れ顔で見ていた。ああ、また何か持ち込んできたんだなーという思いを込めて。
日中の日差しが目に見えて眩しくなり、夏の到来を予感させるこの季節。太陽が落ちる時間は日に日に伸びてくるが、それでもやはり暗くなると肌寒い。川縁ともなると小さな風が吹くだけで身震いしたくなるほどだった。幸い今日は風ひとつない穏やかな夜であったが、冷たそうな水の流れを見ているだけで身体が冷えてきそうである。
しかしそんな気温はものともしない勢いで、ルークは振り返った。そこにはバケツを持ったアッシュと、少し寒そうに自分の腕を抱く猫ルークがいる。
「さあついたぞー!」
「何でこんな暗い中こんな所に来るんだよー。近くの公園じゃ駄目だったのかよ」
「それじゃご近所に迷惑になるだろ。ここなら水もあまるほどあるし。ほらルーク元気出せよ、すぐに面白いもん見せてやるからさ」
愚痴る猫ルークをルークが励ましている間にアッシュが足を滑らせないよう慎重に川から水を汲んでくる。懐中電灯は持ってきていたが、今日は月がとても明るい夜だったのであまり必要ないかもしれない。
「おら、さっさとやるぞ」
「あ、うん。ルーク、手出してみな」
言われて猫ルークが手を差し出せば、ルークがその手の平の上にぽんと渡したもの。それは、猫ルークにはただの棒に見えた。ただ気になる事と言えば、その棒から若干火薬のにおいがする事だろうか。
「何だこの棒?」
「その棒を地面に向けて、そのまま持っとけよ。今火つけるから」
「火?!」
突然飛び出した予想もしていなかった言葉に猫ルークがびっくりしている間に、その手に持っていた棒の先端にライターの火が当てられた。いつの間にかライターを手に持っていたルークが猫ルークの横に立っていたのだ。そこから棒へ火をつけている。何故、と思っている間に、棒にきっちり火が移り。
棒はバチバチと音を立てて、眩しい火花を噴出し始めたのだった。
「ぎゃあああ!」
「うおおお綺麗だなー!よし俺も俺も!アッシュ火つけて!」
「ったく仕方ねえな」
猫ルークがいきなりの衝撃に固まっている間に、ルークとアッシュは呑気に自分たちの分の棒にも火をつけようとしている。猫ルークはそれどころじゃないというのに!
「な、何だこれ何だこれ!」
「あっやっぱり猫ルークは花火初めてか?」
「ハナビ?!」
「今お前が手に持ってるそれの事だ」
指をさされて改めて猫ルークが手元を見れば、さっきまであんなに恐ろしい勢いで噴出していた光はすぐに消えてしまった。猫ルークの手に残ったのは焦げ付いた棒だけである。しかしその後すぐに、ルークが持っていた棒が同じように火花をあふれ出させ始めた。
「これ花火っていうんだ、綺麗だろ」
「その前に怖えよ!」
「そうかー?慣れると綺麗に見えるって。ほらもう一本」
ルークが手渡してきた棒にすかさずアッシュが火をつけてくる。猫ルークの手の中には再び赤や緑に光り輝く棒が出現した。煙はもくもく出てくるし音はうるさいし眩しいし、猫ルークは驚きっぱなしだった。
しかし二本目ともなるとさすがにさっきよりは落ち着いて花火とやらを見る事が出来る。地面に飛び散る火花にビビりながらもじっと見つめてみれば、生まれては消えていく色とりどりの光たちは、確かに美しく見える、かもしれない。
「き……綺麗、かも」
「だろー!今日ちょっとだけおすそ分けしてもらってさあ、季節的にはまだ早かったけど、これは花火やらなきゃって思ってさ!」
「一体どこのどいつがこんな時期に花火なんておすそ分けしやがった」
「ジェイドが」
「またあの眼鏡か!変なオヤジと眼鏡には物をもらうなと言っておいただろうが!」
アッシュが眼鏡の恐ろしさについてとくと語っている間に、猫ルークの花火はすぐに消えてしまった。あんなにうるさかった、眩しかった光や音が消えてしまうとそれだけで何だか物悲しい。猫ルークはちょいちょいとルークの袖を引っ張った。
「消えた。もう一本」
「お!花火の素晴らしさが分かってきたか!よーしどんどんやろう!」
火をつけられて次々に美しく散っていく花火たち。その美しくも儚い光景を、猫ルークは目に焼き付けていた。次はどんな色が飛び出すのだろう、こっちはどんな火花が散るのだろう、考えるだけでわくわくしてくる。花火の光に照らされた顔はどれも楽しそうだった。その表情を見ているだけでも、さらに楽しくなってくるのである。
しかしそんな夢のような時間はすぐに過ぎ去ってしまった。次、と差し出した猫ルークの手に、とうとう花火が渡されなくなったのである。
「ごめんなールーク、元々おすそ分けで貰ったものだから、そんなに数がなかったんだ。もっと一杯あれば二刀流とかしたかったんだけど」
「えー!じゃあ花火はもう終わりなのか?」
「そう、これが最後の一本だ!」
最後と手渡されたものに、しかし猫ルークは目を丸くした。手の上にあるものは今までの花火とは形が明らかに違っていた。ていうか棒じゃなかった。これは強いて言うなら、紐である。それぐらい細いものを手渡された。
「……何だこれ。これもまさか花火なのか?」
「なるほど、線香花火か。確かに花火の締めとして定番だな」
「だろ!やっぱり最後は線香花火だよな!」
同じものを渡されたアッシュは、どこか納得した表情だった。線香花火と聞いて、あの独特の匂いが脳裏をよぎって顔をしかめる猫ルークだったが、それ以上の予想は出来なかった。確か線香とは、煙が出るだけの果てしなく地味なものではなかっただろうか。それがあの派手な花火と合体したら、一体どんなものになるのか。
「やってみればわかるよ。ほら、こうやって持つんだ」
「こ、こうか?」
何故かルークとアッシュがその場にしゃがみこむので、猫ルークもそれに倣った。そして見よう見まねで線香花火の端っこを指で持ち、空中に垂らす。そこに優しくライターの火が当てられた。
細長い紐のような線香花火からは、やはり激しい火花はあふれてこなかった。それどころか火が当てられた先端が真っ赤になり、ジリジリと焼けているだけなのである。これのどこが花火なんだろうか。猫ルークは怪訝な表情で線香花火を覗きこんだ。
「何だよ、これどうなってんだよ」
「あ、ルーク駄目だ、あんまり動かすと」
「へ?……あっ!」
猫ルークが手を動かした事により、ジリジリと燃えていた先端はポトリと地面に落ちてしまった。訳が分からずあっけにとられていると、ルークが残念そうな声を上げる。
「あー残念だったなー、これからだったのに」
「何だよ、何がこれからだったんだよ!」
「まっ待てよルーク動くと俺のまで落ち……あーっ!」
ルークが大声をあげた。猫ルークが詰め寄ってきた勢いでルークも己の手を動かしてしまったらしく、その手の中にあった線香花火もあっけなく落ちてしまったのだ。よほど悔しかったらしくキッと睨みつけてくるルークに、愛想笑いを返す猫ルーク。
「わ、悪かったって、だって俺これ良くわかんなかったし」
「ううーっ最後の一本だったのに……!もうちょっと大人しくしてくれれば良いもの見れたんだぞ!」
「無理!つまんねえ!」
「即答すんな!そもそもお前は普段から落ち着きってもんがなあ!」
「お前ら揃ってうるせえんだよ……」
ギャーギャー騒ぐルークと猫ルークを呆れた目で見つめるアッシュの線香花火は、まだ落ちていない。その事に気付いた二人は、今度は慎重に、静かに近づいてくる。
「アッシュのやつまだ無事じゃねーか!なあこれからどうなるんだ?」
「いいから黙って見てろ」
アッシュの線香花火は橙色の先端が大きく丸くなっていた。落ちないままでいればここまで丸くなるのだ。三人分の瞳が暗闇で注目する中、線香花火の球体はしばらくそのままジリジリしていると思えば、パチリとひとつ火花を散らせた。
「お?」
思わず声を上げる猫ルーク。玉と同じ橙色であった。パチリとまた火花が散る。そうして瞬きしている間に火花はどんどんと増え、玉が見えなくなるほどになった。
その火花は今までの花火みたいな派手さは無かった。しかしその橙色の火花はまるでシャワーのように次から次へと静かにあふれ出してくる。その美しさに猫ルークは釘付けになった。
やがて火花は段々と小さくなり、完全に終息して先端の丸い玉もしぼんでいってしまった。これで終わりなんだ、と猫ルークも分かった。結局落ちることなく線香花火をやり終えたアッシュはどこか満足げにバケツの中へと放り投げる。
「よし終わりだな。帰るぞ」
「えー!アッシュだけずりーぞ!俺もさっきのやりたい!」
「これが最後だっつったろうがこの屑猫!いくら駄々こねてももう無いんだよ!」
アッシュに叱られてむくれる猫ルークの頬を、突っつきながらルークが慰めてくれた。
「ごめんなルーク、今度は線香花火が一杯入ってる奴を買ってこような」
「……へ、今度?」
「ああ。花火の本番はやっぱ夏だからな。夏になったら花火一杯買って、思いっきりやろう!皆で一緒にやるのもいいなー」
「今度は打ち上げ式も買うぞ。あれがないとつまらん」
花火を、一杯。猫ルークの頭の中に、たくさんの花火がはじけた。そうだ、これで終わりではないのだ。今日やりきれなかった分は、次やってみればいい。ルークとアッシュが次があると言うのなら、それは絶対だからだ。
「ゴミは全部拾った、忘れものも無い。よし帰ろう!ルーク、行くぞ」
「躓いて川に落ちるようなアホな真似すんじゃねえぞ」
「だっ誰が落ちるか!なあなあ、それよりさっきの打ち上げ式って何だよ!他にはどんな花火があるんだっ?!」
次は一体どんな美しいものを見せてくれるんだろう。猫ルークは胸躍らせながら闇の中でもはっきりと見える赤い髪ふたつへと駆け寄った。二人と一緒にいる日々が、猫ルークにとって美しく光り輝く花火そのものであった。
猫と双子と夜の火の花
10/05/16
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