花の香りを漂わせながら、アッシュは我が家に向かっていた。バイト先が花屋なのだから仕方が無い。少し恥ずかしい気もするが、アッシュはこの香りが嫌いではない。花にはあまり興味は無かったが、たまに家に帰った後アッシュから良い匂いがするとルークや猫ルークがまとわりついてくるのだ。口ではやめろなどと言いながら毎回押しのけているが、正直悪い気はしていなかったのだった。
さて今日の夕飯は何かなーなどと考えながら家路を急ぐアッシュだったが、ふとその歩みが止まった。視界の端に、なにか気になるものを見つけたのだ。


「……ん?」


思わず首を巡らせたアッシュは、路地の隅っこに立ち尽くす子どもの姿を発見した。明らかに迷子といった雰囲気であった。その子どもが、アッシュのことをじっと見つめていたのだ。その視線にアッシュが無意識に気付いたのか、それともその子どもの「色」に惹かれたのか、最早アッシュには分からなかったが。


「っ?!お、お前は……」


子どもと目があった瞬間、アッシュは驚愕の声を上げていた。その子どもが、色んな意味で見覚えのある顔だったからだ。
気持ち伏せられた犬の耳と、元気は無いが若干揺れた犬の尻尾、そしてアッシュを無言で見つめる翡翠の瞳を持つその真っ赤な子犬は、まず間違いなく、この間実家に久しぶりに帰った際出会った、あの子犬だった。アッシュと同じ名前を持つ、アッシュとそっくりの、あの子犬だ。


「……お前、こんな所で何してやがる」


あの時はアッシュはルークと共に母親と、この子犬アッシュは猫ルークと主に話をしたので実際に会話をしたことは無かった。少し緊張しながら話しかければ、子犬アッシュはアッシュを静かに見上げながら、こう言った。


「ここは、どこだ」
「……貴様、犬の癖にまた迷子か!」


猫ルークに、子犬アッシュとは以前迷子のところを拾って知り合ったと聞いていた。その時も「犬の癖に迷子なんて」と呆れたものだが、まさか二度も迷うとは。


「まだこのあたりに慣れてねえのか」
「多分」
「……まさかお前」


ちょっと自信なさそうに頷く子犬アッシュに、アッシュは何となく嫌な予感がした。そんなはずはないのだが……しかし例外というものはこの世の中にいくらでも転がっているものだ。少し怖かったが、アッシュは思い切って聞いてみることにした。


「まさかお前……方向音痴なのか」
「………」
「犬の癖に」
「………」


子犬アッシュはアッシュを見つめたまま何も言わない。しかしアッシュの言葉にピクリと反応した耳と、とうとう揺れ動かなくなった尻尾が答えを表していた。どうやら本人も気にしているらしい、方向音痴な事を。


「おい、本当にそうなのか、てめえ犬だろうが」
「……って」
「ああ?」
「だって……方向、わからないんだ……」


とうとう子犬アッシュはアッシュから視線を離し、うつむいてしまった。アッシュはちょっと焦った。別にいじめたかった訳ではない、ただ純粋に、本当に犬なのに方向音痴というものがありえるのかという純粋な興味と驚きのために、ちょっとしつこく聞いてしまっただけだ。
ただ、そう。ルークにいつもいつも言われている事を思い出した。


『アッシュは言い方きつすぎ!お前にそのつもりなくてもその仏頂面でそんなぶっきらぼうな喋り方じゃ誰だってビビるっつーの!いつかマジで子どもに泣かれるぞ!』
「……ああ」


アッシュはため息を吐いた。今更ルークの言葉を実感する己へ向けてのものだったが、子犬アッシュがそのため息に反応してこちらの顔を覗き込んでくる。多少なりともこの子犬がアッシュにビビっている結果である。
姿はアッシュそっくりで、しかもアッシュ以上の無口で仏頂面で(しかも猫ルークの話によれば何とこの歳で将来の約束まで取り付けやがったほどの強者だ)、だがしかしまだまだ小さな子犬なのだ。そんな子どもを、落ち込むほど怖がらせてしまった。柄にも無くアッシュは焦った。


「わ、悪かった……言い過ぎた」
「……ん」


アッシュが謝罪の言葉を口にすれば、子犬アッシュはこくりと頷いてくれた。自分と違って聞き分けはいいんだな、とアッシュは自分で思った。素直な子どもだからだろうか、それとも性格が根本的にアッシュと違うからだろうか。そこまで考えて、アッシュは頭を振った。見た目はそっくりでも、中身は全然違うのだと、ルークと猫ルークで分かっているはずだ。(ただしルークと猫ルークは中身も結構似ているが)
自分と似ているからか、子犬アッシュと面と向き合うことを少しぎこちなく感じていたアッシュであったが、しょげるその頭と、アッシュの謝罪を聞いてちょっと元気を取り戻し揺れ始めた尻尾を見ていれば、何かが沸き起こってきた。

忘れていらっしゃる方がいるかもしれないので念のために言っておこう。
この双子の兄、顔には似合わず小動物が大好きなのだ。


「………」


そんな男の目の前にこちらへと晒された無防備な可愛い子犬の頭があれば……やることはひとつであった。
アッシュは子犬アッシュが驚かないように、極力ゆっくりと手を伸ばし、その柔らかな犬耳の間を優しく撫でていた。


「?!」


思いも寄らぬ感触に一度は反射的に逃げようと身体をびくつかせた子犬アッシュだったが、すぐにアッシュが自分を撫でてくれているのだという事に気付いて大人しくなった。大人しく撫でられる子犬アッシュに、アッシュはちょぴっと感動する。何故なら寝ている時なら撫で放題だが、起きている時は恥ずかしがってなかなか堂々と撫でさせてくれない飼い猫がいるからだった。恥ずかしがって堂々と撫でられないアッシュのせいでもあるのだが。


「……送ろう」
「ありがとう」


静かに言えば、感謝の篭った瞳で子犬アッシュが見上げてきた。その真っ直ぐな瞳にアッシュは戸惑う。子どもだからなのか、犬だからなのか、子犬アッシュだからこそなのか。到底自分には出来ないこの純真な瞳が少しまぶしく感じた。
だからなのか、送るとは言ったがアッシュはすぐに背を向け、先に立って歩き出していた。本当は心細いであろう子犬の隣に立って先導してやるのが一番安心させる事が出来るだろうが、真っ直ぐな視線に晒されるのが耐えられなくなったアッシュには出来なかった。頭はもうちょっと撫でていたかったけど。


「こっちだ。ついてこ……いっ?!」


アッシュの言葉は最後に跳ね上がった。理由は痛みであった。頭が、というか髪が歩き出した途端に後ろに引っ張られたのだ。これ以上引っ張られないようにゆっくりと後ろを確認すれば、そこには悪びれた様子もない子犬アッシュの姿。その手に握られているのは間違いなく、アッシュの長い真紅の髪だった。


「……何をしている」
「離れないように」
「………」


なおもぎゅっとアッシュの髪をつかむ子犬アッシュに、怒鳴ろうとしたアッシュだったが出来なかった。感情乏しい表情の変わりに子犬アッシュの気持ちを精一杯教えてくれるそのふさふさの赤い尻尾が、どこか安心するように揺れていたのだ。それを見てしまっては、この子どもから安心の元を手放させる事など出来はしない。アッシュは声の変わりにかすかな息を吐き出した。
しかしこれでは髪が引っ張られて痛くてたまらない。少々考えたアッシュは、これしか方法は無いと覚悟を決めて、子犬アッシュの手を握りこんだ。びっくりした子犬アッシュが髪を離したのを見てよしと頷き、そのまま片手に片手を持って、歩き出す。子どもの歩幅でも十分歩けるような速度で。


「髪は痛いからやめろ。かといって俺には握らせてやれるような便利な尻尾みたいなものもねえ。仕方がねえから……早く帰るぞ」


自分の手をぎゅうっと握り締めて歩き出すアッシュに引っ張られるように、子犬アッシュも歩き出す。その戸惑うような歩みは、すぐにアッシュの後をついてゆっくりとなった。
これならはぐれないだろう。これならもう迷子にならない。
下を向いて地面を見つめながらはにかむように笑った子犬アッシュの尻尾は、さっきよりも大きく揺れていた。




   犬と双子の兄のぬくもり






「……おい見たかルーク」
「……ああ見たぜルーク」
「アッシュの奴ずるいっ俺だって俺だって犬のアッシュと遊びたかったのにアッシュばっかり手繋ぎやがって!」
「俺のときは尻尾だったくせにアッシュの奴ずりい!……あれ、俺どっちに嫉妬してんだ?」

10/02/09