春と夏の間、どちらかといえば夏寄りの梅雨の時期、それが今の気候だった。雨が降る合間に夏を目指して張り切る太陽が気合を入れて温度を上げてくる、そんな季節だ。という事はつまり、じっとりとした重い空気がむっとするような暑さを孕みながら体に纏わりついてくる、とても不快な思いをしなければならない時期なのである。ここしばらくは、蒸し暑いけどクーラーをいれたら肌寒い、という絶妙に歯痒い気温であった。
とても過ごしやすい麗らかな春を通り過ぎてのこの地獄の空気の中、猫ルークは耳も尻尾も垂れ下げたまま、ぐったりとうつ伏せで床に伸びていた。さっきからずっとそのまま寝返りも打たずに転がっているので、寝ているのか起きているのか分からなかった。辛うじてたまに尻尾の先っぽがはたりと動いたりするので、生きてはいるのだろう。うちわで自らを扇ぎながら頭の痛い宿題に取り組むルークは横目で見てそう判断した。なので、放っておく事にする。

どうやら猫ルークは雨が苦手らしい。それは今までの経験からのものもあるのだろうが、猫の性でもあるらしいのだった。それに加えてこのジメジメムシムシとした湿気の中、あの長髪である。冬は見ているだけで憎らしいほど暖かそうに見える赤と金のグラデーションが美しい長い髪も、季節が逆になれば裏目にでてしまうのだ。
最初はざまあみろと涼しげな短い髪のルークは思っていたのだが、あれだけぐったりされれば何だか可哀想に思えてきた。もくもくと取り組んでいた宿題はいつの間にか筆が止まって、目線は情けないぐらいへにょりと垂れた三角耳のついた頭に注がれている。そんな自分に気がついてルークは取り巻く空気と同じぐらい重いため息を吐いた。これでは、明日が期限の宿題が仕上がらない。脳裏に危険なメガネの光がちらついて背筋が凍る。この宿題だけは、終わらせなければならない。そしてこの宿題を確実に且つ迅速に終わらせるには、どうしなければならないか。
ルークは勢いよく宿題のノートを閉じてみせた。音に反応して、脱力していた隣の耳がひくりと動く。その耳に吹き込むように、ルークは声を上げた。


「ルーク!扇風機を出すぞ!」



思えば今までずいぶんと蒸し暑い夜を唸りながら過ごしてきた。いざ出してみれば、何故出そうとも思わなかったのか疑問に思うほどだった(ルークもアッシュも押入れの奥深くから埃まみれの扇風機を引っ張り出して手入れしてやるのが面倒くさかったからだ)。
ぴかぴかに磨かれた扇風機を前にしてとうとう猫ルークが復活した。雑巾を洗いながら現金なやつだなとルークが笑う。


「おい!扇風機!とうとう出したのか!」
「さっき出すって言っただろ?」
「遅えんだよ、これが無いせいで俺死に掛けただろ!」


頬擦りしそうな勢いの猫ルークはどうやら扇風機が大好きらしい。エアコンというハイテクなものがない赤毛の双子家にとっては、扇風機でさえ贅沢品なのだ。尻尾を大げさなぐらいバッタバッタ振りながら、猫ルークが目を輝かせて尋ねる。


「なあ、つけてもいいのか?」
「そりゃあ、つけるために出したから」
「っしゃー!よし、つけるぞ……!」


勢いよく手を振りかざし、猫ルークがポチッとスイッチを押した。そうして待ち望んでいた風は……吹いてこなかった。



「ルークー、故障してるんだから仕方ないだろー、今日はガイもいないし」


部屋の隅っこで膝を抱えて塞ぎ込む猫ルークの背中にルークが扇風機を叩きながら声をかけた。どうやら奥深くにしまわれている間に調子が悪くなってしまったらしい。お隣のガイならば機械に詳しいのであるいは直せるかもしれないが、今日はあいにく留守にしている。気ままな独り身だから仕方がない。
舞い上がった後に叩きつけられる結果となって、猫ルークは大きなショックを受けてしまったようだ。


「俺はもう駄目かもしれない……このままじめじめと蒸されて死んでしまうんだ……」
「湿気で死ぬ奴なんていないって」


ルークが何と声をかけても猫ルークは壁際から動かない。再びため息をついたその時、玄関のドアが開く音が聞こえた。どうやら双子の兄が帰ってきたようだ。


「アッシュ、おかえりー」
「ただいま。……そこのうっとおしいのは何だ」


部屋に入ってきた途端、猫ルークに気がついたアッシュが眉を寄せた。うっとおしい気温の時にうっとおしい面を見せるなと表情が語っている。ルークが笑いながら扇風機の説明をしている間に、猫ルークがちらりとそちらへ視線を投げた。そうして気づく。


「……あ!アッシュっ!何だよそれ!」
「何だとは、何だ」


突然大声を上げた猫ルークに怪訝な表情でアッシュは自分を見下ろした。特にいつもと変わった様子もないし、変わったものを持って帰った訳でもない。動かない扇風機をとりあえず部屋の隅に寄せていたルークが、その様子を見てアッシュの頭あたりを指差した。


「多分、それが珍しいんじゃないか?」
「それ?……ああ、これか」


アッシュは自分の後頭部へと手を伸ばした。そこにはおなじみのサラサラストレートの真紅の髪があるはずだったが、いつもと違って一つに束ねられていたのだ。普段は下ろしたままだが、今日は長い髪がうっとおしくて少し高めの位置で結んだのである。これなら首筋が涼しくて、いくらかマシになるのだ。
そんなアッシュの姿が珍しかったのか。猫ルークはじっとアッシュを見つめている。その視線が居心地悪くて、アッシュはじりっと後退した。


「な、何だ、たまには俺も髪ぐらい結ぶ。今日は特に蒸し暑かったからな」
「そうすると涼しいのか?」
「多少は」
「じゃあ、俺もする!」


猫ルークが手を上げた。少しでも涼しくなりたいのだろう、その目にはちょっぴり必死な光も篭っていた。別に反対することでもないので、アッシュは余っていたゴムを一本分け与えてやった。受け取ったゴムをしばらくジッと見つめた猫ルークは、くるりとルークを振り返る。


「………」
「分かった分かった、やってやるから」
「頼んだ!」


笑いながらゴムを受け取ったルークに、猫ルークは背を向ける。外で生きてきた猫が髪なんて結んだことがある訳が無い。が、何となくアッシュには頼めなかったようだ。ルークも基本不器用ではあるが、昔は髪が長い時代もあったので髪を結ぶぐらいなら出来るので問題なく頼まれる事にした。
並んで座り込んだ二人(一人と一匹)を眺めながらアッシュは台所に立った。別に今日夕食の当番だと決まっていたわけではないが、あの様子だと時間が掛かりそうだ。腹が減ったと手の掛かる飼い猫が暴れないうちに準備に取り掛かろうと思ったのだ。


「ルークの髪って野良猫だった割には綺麗だよな。手入れとかしてたのか?」
「そんなのしてねえよ、普通より丈夫なんじゃねーの?」


他愛ないやり取りをかわしながら髪が結ばれていく。髪を緩く引っ張られる感触に、知らず猫ルークは目を細めていた。髪に触れられるのが何故こんなに気持ちよく感じるのだろう。もしかして髪の一本一本にものすごく細い神経が通ってたりするのだろうかと不毛な事まで考える。まるで、頭を撫でられている様な心地よさだった。出来るだけ長い間味わっていたいと思わず考えた。

それにしても長くないだろうか、と猫ルークは気がついた。頼んだのは髪を一本に束ねて結ぶ事である。それだけなのにこんなに時間が掛かるものなのだろうか。


「なあ、まだ出来ねえの?」
「まーだ。じっとしてろよ、髪引っ張られると痛いからな」


声を掛ければ上機嫌なルークの声が返される。ルークもどこと無く楽しんでいるようだ。振り返れば必然的に自分の髪が引っ張られる事になってしまうのでうかつに振り返ることが出来ない。あまり身動きも出来ないので、猫ルークはじっと髪が結ばれるのを待つ事しか出来なかった。

人数分の皿を取り出しながらアッシュは軽く口元を上げた。猫ルークが出来あがった自分の髪型を見て何と言うか、少しだけ楽しみだった。人の髪で遊ぶなと怒るか、すごいなと感心するか、意外と気に入って喜ぶか。

楽しそうなルークの手元には今、赤から金へと変わるグラデーションが美しい三つ編みが完成する所であった。




   猫と双子と長い髪

08/06/23