雨は嫌いだった。雨の降る日にはろくな事が無い。
体はびっしょりと濡れて重くて仕方が無いし、手ごろな雨宿り場所を探すのも一苦労だ。人通りの多い道端で立ち尽くせば人々に邪魔だと小汚い動物を見る目で見下され、車道の近くにいては跳ねた水を頭から被る事もある。かといって人の少ない路地裏に隠れようとすれば、その場を仕切っている他のもの達に追い出され、ひどい時には怪我も負わされてしまう。たまに雨のせいで風邪を引いてしまっても、看病をしてくれる人もいなかったし、ゆっくりと休める場所も無かった。
雨は嫌いだった。
生まれた日も、捨てられた日も、雨の音が頭の奥で響いていた。天から降り注ぐ雨粒を見ていると、それだけで自分は独りなのだと思い知らされる。しとしとと静かに鳴り響く音も、ざあざあと激しく地面を叩く音も、自分にとっては変わらず寂しい音楽でしかなかった。
雨は嫌いだった。心の中に嫌な思いしか沸き起こらない。

しかし、それが変わったのはいつからだっただろうか。




「おい」


時間を忘れて外で遊んで雨に降られた帰り道。雨粒を避けるものが何もない道端で猫ルークは立ち尽くしていた。冷たい雫を全身に浴びながら、微動だにせずにじっと空を見上げていた。まるで心の奥底にしまい込んでいた何かを思い起こすかのように。
そこに声をかけられた猫ルークはゆっくりと振り返った。ここはあまり人の通らない裏道だった。誰も人が通らない訳ではなかったが、それでも声を駆けられるとは思っていなかった瞳が少し見開かれる。振り返った先にいたのは、明らかに怒った顔でこちらを睨みつける飼い主の一人であった。


「こんな天気の中何してやがるんだてめえは」


怒りを押し殺した低い声が濡れて僅かに垂れた耳に届く。見慣れた怒り顔が、しかし今の猫ルークには過去の恐ろしい顔が重なってしまう。邪魔だと罵しられ気に入らないと叩かれ温かな場所から追い出されたあの時が脳裏を駆け巡る。気付かぬ内に猫ルークの顔が強張った。
猫ルークの様子に気付いているのか気付いていないのか、傘からはみ出た真紅の髪を雨の中に散らしながら怒り顔の双子の兄、アッシュが遠慮なく近づいてくる。何故こんなに怒っているのだろうかと猫ルークはぼんやり考えた。きっと雨で濡れているからだ。このまま家の中に入れば部屋中水浸しにしてしまうし、乾かすにも時間が掛かってしまうだろう。雨なんて気にせずに間抜けにぽかんとこんな所で突っ立っていれば誰だって怒る。また拳骨とかされて、この屑猫!と罵られるのだろう。

とうとうアッシュは目の前にやってきた。こちらへと伸びてくる腕を見て、訪れるであろう脳天への衝撃に備えて猫ルークは思わず首をすくめた。しかし猫ルークが予想していた痛みはとうとうやってはこなかった。代わりに腕を掴まれて強引に引き寄せられる。その手の平は自分が雨で濡れて冷え切っていたせいか、火傷をしてしまいそうなぐらい熱かった。


「屑が!雨の中傘も差さずに道端でぽかんと突っ立っている馬鹿がどこにいる!」


ああやっぱり怒られた、と頭の片隅で考えた猫ルークは、さっきまで全身を包んでいた冷たさがどこかへ行っている事に気がついた。ハッと振り仰げば、己の頭上に傘が広がっている。そして傘の外には、やっぱり怒った顔のアッシュがこちらを睨みつけていた。


「風邪でも引いたらどうするんだ、この屑猫!」


まあお前は馬鹿だからそんな簡単には風邪を引かないだろうが万が一という事もあるだろう早く家に帰って体を温めるんだまったくこの屑が手間をかけさせやがって!
アッシュはぶちぶちと呟きながら猫ルークの腕を引き摺ったまま歩き出した。傘は相変わらず猫ルークの上にあって、アッシュの上にはない。買い物帰りだったのだろう、袋だけは傘の中に入れたまま、猫ルークの腕を掴む手にそのまま傘を持って我が家へと急ぎ足で戻る。しばらく呆然と引き摺られるままだった猫ルークは、搾り出すようにようやく声を出す。


「お、おい、傘!俺もうずぶぬれだし、お前が」
「黙れ」


しかし一蹴されてしまった。ぎゅっと皺を寄せて相変わらず怒った様子のアッシュに、猫ルークは何も言えなくなった。怒っているのが怖かった訳ではない。確かにアッシュは猫ルークが雨に濡れていたから怒っているのだが、アッシュは雨に濡れて風邪を引いてしまうかもしれないからと怒っているのだ。面倒くさい事を、とか手間をかけさせる、とか呟いているが、これはアッシュの照れ隠しだと猫ルークは知っている。だから何も言えなかった。何を言っていいのか分からなかった。痛いほど握られた腕が、ただただ熱くて仕方が無かった。

ふと猫ルークは思い出す。今のこの状態を、どこかで経験した事があるような気がした。雨の降る中、道端にしゃがみ込む小汚い自分に伸ばされた一本の腕。あの時の腕が、目の前の腕と重なる。


『行く所無いんなら、俺んちに来いよ』


それは、生まれて初めて拾われた日の事だった。

この兄弟は何て似ているのだろう。瓜二つの腕は、どちらも猫ルークを引っ張り上げるためだけに伸ばされたのだ。





その後は始終無言で家に帰り着いた。出迎えたルークがずぶぬれの二人を見て悲鳴を上げたのは仕方の無いことだった。
その後半強制的に風呂に入れられ、何で傘があるのに二人で濡れて帰ってくるんだ訳わかんぬぇーとプンスカ怒るルークの小言を頭から被せられたタオルでガシガシ拭かれながらアッシュと無言で聞いて、いつの間にか用意されていた温かなご飯を食べさせられた。
雨は相変わらず降り続いていた。

ファブレの双子の家の夜は早い。狭い部屋に三つ並べた布団の端っこにごろりと横になった猫ルークは、外から響いてくる静かな雨音をじっと聞いていた。いつもならすぐに眠気が襲っていていつの間にか朝になっているというのに、こういう時に限って目が冴えている。こういう時にこそ目が冴えてしまうのだ。忌々しい、と猫ルークは心の中で舌打ちした。表に出さなかったのは、並んで眠る双子の兄弟を起こさないよう配慮したからだった。
理由は分かっていた。雨の日だからだ。雨の日の猫ルークは寝つきが悪い。元々猫は雨の日が苦手なものであるが、同時に嫌な事も思い出してしまって猫ルークは安らかな眠りになかなか落ちることが出来なかった。雨の降る日はいつもの事なので、猫ルークは半分諦めている事だった。
雨は嫌いだった。



「ルーク?」


闇夜にいきなり声が響いたので猫ルークはびくりと毛を逆立てて振り返った。そこにはまっすぐ自分を見つめる翡翠の瞳が浮かんでいる。何故だか分からないけど容姿が自分とそっくりなルークは、ただじっと猫ルークを見つめていた。


「眠れないのか?」


尋ねられて、言葉に詰まった猫ルークは黙ったまま仕方なく頷いた。ここで嘘をついても意味は無い。そっか、と呟いたルークはしばらく何か考え込むように視線を虚空に彷徨わせると、再び猫ルークを見つめてきた。暗闇の中でも何故かキラキラと輝く綺麗な瞳だった。


「それならルーク、こっちこいよ」


は?と猫ルークは口を開けた。しかしルークは名案を思いついたといわんばかりにニコニコと笑いながら自分の毛布を持ち上げて、こっちへこいと手招きする。一緒の布団で共に寝ろという事だろうか。ルークの布団と猫ルークの布団はすでにくっついているというのに。猫ルークが狼狽している間に、痺れを切らしたルークが服を引っつかんで無理矢理自分の布団の中に押し込んでしまった。気がついたときには、猫ルークはルークの腕の中だった。


「ん、これでよし!」
「これでよし、じゃねえ!何しやがんだ離せよ!」


いくらもがいてもぎゅうぎゅう抱き締めてくる腕は解けそうになかった。狭い布団の中じたばたと暴れるのでうるさいだろうに、隣のアッシュは起き上がってこなかった。ルークは何がそんなに楽しいのか始終微笑みながら猫ルークの頭を抱え込む。


「嫌だね、お前が寝るまで離してやらねえ」
「はあ?俺の意見は無視かよ!」
「そんなもん無視!」


理不尽な言い様に猫ルークは口をパクパクさせてルークを見上げた。目が合うとにっこり微笑まれる。しかしそれだけだった。いきなり何故ルークがこんな暴挙に出たのか分からない猫ルークが混乱していると、さっきまではしゃいでいた声が幾分か静かになって耳に届いてきた。


「人の体温や、鼓動を感じると、安心して眠くなってくるもんなんだってさ」


ルークの言葉に、猫ルークはそっと目を閉じてみた。全身に響く自分のものではない緩やかな鼓動を感じる事ができた。温かく包み込むように聞こえてくるそれは命の鼓動だった。自分を抱き締めているルークの鼓動だった。それが驚くぐらい温かかった。
静かになった猫ルークの頭を抱え込んだまま、ルークは囁くように口を開く。


「ほら、雨の音なんて気にならないだろう?」


うとうとしながら、どうしてルークは雨が嫌いなことを知っているのだろうと考えた。考えは纏まる事無く眠りの彼方へ霧散した。これが満たされると言うことなのかと実感しながら、猫ルークはゆっくりと心地よい闇の中へ落ちていった。





「眠ったか」
「うん、ようやく」


布団からはみ出た尻尾がぱたり、ぱたりと気持ち良さそうに動いて、それもやがて静かに動きを止めた後、二人は眠る猫を起こさぬように静かな声で会話を交わした。ルークの腕の中には、安心したように眠る猫ルークがいる。


「雨の日に、何かあったんだろうな。いつも不安そうだった」
「今日は色々とタイミングが悪かったんだろう。まったく、世話の焼ける猫だ」


大きなため息をついてみせたアッシュは、しかしその表情に嫌悪が混ざっている様子は無かった。それに少し笑って見せてから、ルークはそっと腕の中の頭を見下ろした。雨の日はいつもどこか不安そうだった猫ルーク。それが少しでも和らぐ事を願って、柔らかな髪にゆっくりと頬を寄せた。


「おやすみルーク。また明日」


願わくば、いつか雨の降る日にも太陽のような笑顔が見れることを信じて。



その日、猫ルークは夢を見た。雨の振る中、傘を沢山頭上に差して三人でピクニックに出かける夢だった。アッシュは何で雨の降る日にピクニックをしなきゃならないんだとブツブツ言いながら綺麗なお弁当を作って、ルークは雨の日だっていいじゃないかと笑いながら沢山の傘を頭上にかざす。雨の降りしきる中、猫ルークは笑っていた。温かくて幸せな夢だった。


雨は嫌いだった。

今は、そうでもない。




   猫と双子で雨の中

07/06/19