月は、思っていたより夜空で輝いていたらしい。瘴気に覆われた頭上からそれでもうっすらと光を降り注がせる月明かりを仰ぎ見てから、アッシュは視線を地上へ移した。目の前ではルークがしきりに己の喉と声の調子を確認している。この月が沈む頃、明日がとうとう大譜歌を歌う本番の日になるのだ、緊張しているのだろう。もちろん緊張しているのはルークだけでは無い、表情は努めて普通にしていようと頑張っているアッシュもまた、心臓は明日の事を考えるだけでひっくり返りそうになっていた。
何せこの歌で、二人のこれからの運命が決まるのだから。


「……ルーク、今日はもうその辺にして休むぞ」
「んー……」
「気持ちは分かるが、明日が本番だぞ。練習も大事だが、休息も必要だ」
「うん……分かったよ」


しぶしぶと頷くルーク。今の今まで練習に付き合ってくれていたティアは先に帰らせていた。こんな夜遅くまでティアもよく付き合ってくれたと思う。それぐらい、ルーク達の事を案じてくれているのだろう。ルークは不安そうな顔のままアッシュに近寄ってきて、じっと見つめてきた。


「なあアッシュ、俺……明日大丈夫かな、上手く歌えるかな」
「一回はすでに歌い切っただろ。それにさっきティアにも褒められていただろうが」
「でもさ……俺本番に弱いタイプかもしれないじゃん」
「逆に強いタイプだと思うがな……」


ルークの表情は晴れない。よほど緊張しているようだ。自分の命も掛かっているのだから、仕方の無い事なのかもしれない。アッシュは少し考え込んで、ルークの頭に手を伸ばし、柔らかな緋色の頭を撫でてやった。ルークが驚いて目を丸くしている。


「な、何いきなり?!」
「……俺は、歌っているお前に何も手助けしてやれねえが……お前が大譜歌を完璧に歌い切ってみせる事を信じてる。誰よりも近い場所で」
「アッシュ……」
「大丈夫だ、ルーク。俺が傍にいる。……こんな事しか出来ない自分が情けねえけどな」
「そ、そんな事無い。何でだろ、今、アッシュに頭撫でてもらったら、気持ち軽くなった。上手く歌えそうな気がする。へへ……ありがとうアッシュ」


ルークが笑みを浮かべるのを見て、アッシュは内心ほっと息をついていた。こうやってクロに頭を撫でて貰って嬉しそうな顔をしているのを横から見てきたが、あの時ルークが抱いていた安心感を今、少しでも与えてやれているだろうか。クロの代わりになりたい、などとは思っていない。ただあの男を越えたいのだ。未来の自分ともいえる存在を越えて、ルークが一番安心出来る人間になりたい。そういう願いを、決意をアッシュは胸に秘めていた。誰にも言わない、自分だけの想いだ。
するとルークはアッシュの手をぎゅっと握ってきた。とても温かい。ルークはますます笑みを深くして、軽く目を見張るアッシュの手を両手で包み込む。


「なあアッシュ、俺が歌う時傍に、隣にいてくれないか?シロを助けた時、そうしてくれていたように。それだけで俺、きっと勇気をもらえる」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとな。……んー、これで何か自信ついてきた、今日ちゃんと眠れそうだ」


にこにこ笑うルークを見ていると、だんだんと今の状況が恥ずかしくなってきたアッシュ。それなら早く戻ろう、と口を開く前に、横から別な者に声を掛けられてしまった。


「ルーク、アッシュ、まだ大譜歌の練習をしていたのですか?」
「あ、イオン」
「……っ!お、驚かせるな!」
「すみません、寝つきが悪くて少し散歩をしていた所だったんです」


恥ずかしく思っていた所に急に現れたイオンにアッシュが飛びあがる。ルークはケロリとした顔で近づいてくるイオンを迎えた。イオンは二人を交互に見つめて、微笑ましそうに笑っている。


「お二人とも、せっかく真剣な場面だったのに、僕が邪魔をしてしまったでしょうか」
「いや別に、今から俺たちも休もうと思っていた所だから大丈夫だ」
「そうですか。……明日、僕はついて行く事は出来ませんが……ルーク、アッシュ、それにシロとクロ、あなた達が無事に戻ってくる事を、祈っています」
「ああ。ありがとうイオン」


イオンに笑って頷くルークだったが、ふとその表情が変わる。真剣な表情でイオンを見つめて、思わずその手をとっていた。イオンはきょとんとルークを見つめ返す。


「ルーク?」
「イオンも……あんまり無理するなよ。お前身体弱いだろ、前にダアト式封咒で閉ざされていた扉あける時に力をたくさん使ったし、この瘴気の中辛くないか?」
「僕は大丈夫ですよ、皆さんに守られてばかりで……。ふふっ」
「?どうして笑うんだ?」
「いえ、ルークがこうやって心配してくれていると、シロの事を思い出してしまって。シロもよく僕の体調を気遣ってくれていましたから。今のあなたみたいに、どこか苦しそうに僕を見てくれていたのが印象的でした」
「あ……」


ルークが気まずそうに眼を逸らす。イオンは慌てて、嫌な訳ではありませんと首を横に振った。


「むしろ嬉しかったんです、僕の事を真剣に心配してくれている事が。生まれて何年も経たない僕にとっては、初めてとも呼べる友達、ですから。もちろんルーク、そしてアッシュ、あなたたちもです。……勝手に友達と呼んでしまって、よかったでしょうか」
「もちろんだよ!俺達はもうずっと前から、友達だろ?なっアッシュ」
「……そうだな、友達だ」
「二人とも……ありがとうございます!」


イオンは本当に嬉しそうに笑った。その笑顔が一瞬、記憶の中の笑顔とかぶってルークは慌てて首を振る。その様子に首を傾げるイオンの肩を軽く叩いて、ルークは何とか誤魔化してみせた。


「さっ今日はもう戻った方がいいよな!夜中にこんな町中で騒ぐのも近所迷惑だしな!」
「そうですね……それでは僕は先に部屋に戻ります。お二人も早く休んで下さいね」
「ああ!おやすみイオン」
「おやすみなさい」


気を利かせてくれたのか、イオンが先に二人から離れ、手を振って歩いて行った。その背中を見送ってから、ルークが失敗したというような表情でアッシュを見つめてくる。アッシュは言われなくとも、ルークが何を思い出していたのか分かっていた。アッシュも一瞬重ねてしまったからだ。自分たちの記憶ではない、先日手に入れた記憶の中の、光に包まれた消えゆく儚いあの笑顔を。
だから慰める様に、ぽんぽんと頭をなでてやる。


「仕方がねえさ、シロの記憶の中でも、とびきり心臓の悪い記憶だからな……」
「うん……本当、イオンが生きてくれててよかったよ」
「ああ。それに他の連中もだ……」


今このベルケンドの町に集っている仲間達の中には、イオンの他にもシロの記憶から消えてしまった者達がいる。それを思うだけで、今この町には奇跡が詰まっているような心地がした。少し運命を違えば命を奪い合っていた者たちが、手を取り合ってここに居る。全ては、この悲しい記憶を背負いながら運命に抗ってきたシロ、そしてクロの功績であった。


「俺達、シロとクロには沢山借りがあるなあ」
「ああ、ムカつく程ありやがる。この借りは何年かかってでも絶対返すぞ」
「おおっ!二人がうぜえって思うぐらい返しまくってやる!」


ルークとアッシュは見つめ合った。回線など繋がなくても想いが一つである事が分かる唯一の相手がそこにいる。二人はイオンと話している間も無意識のうちに繋がれていた手をぎゅっと握り合った。


「皆で、生きて帰ろうな」
「もちろんだ。全員、引きずってでも連れ帰ってやる」


固く繋がれた手の中、固く交わされた約束と決意が、確かに灯っていた。




「……具合はどうだった」
「ん、大丈夫!あんま無茶すんなとは言われたけどな」
「本当だろうな?」
「もう嘘なんてつかないって本当。つーか嘘ついたってすぐばれるだろ?」
「ふん、まあな」


明日に備えてシュウ医師に診察してもらったシロの元へ、終わったすぐにクロがやってきた。おそらく待っていてくれたのだろう。歩み寄ってきたクロに、ベッドの縁に腰掛けたままシロは強がりでは無い笑みを向ける。


「皆はどうしてる?」
「もう休めと声をかけているが、どいつもこいつもやれる事をやっとくとか何とか言って休みやがらねえ。ったく」
「あはは、俺たちも大概だけど、皆だって色々無茶してるよな。ルークとアッシュも?」
「あいつらは外でまだ譜歌の練習中のようだ。もう少しして戻らなかったら、呼びにいかなければな」
「そっか。よく覚えてないけど、俺を助けてくれた時の譜歌も十分上手かったと思うけどなあ」


おかしそうに笑うシロ。クロも微かな笑みを浮かべる。二人の心は、決戦前夜だというのに自分たちでも不思議なぐらいとても穏やかだった。理由はほぼ分かっていた。夜更かしをしてまで共に戦おうとしてくれている仲間達がいるからだ。
この世界を救うために二人きりで奔走してきた果てに、こんな温かな場所が待っているとは。


「明日だ。明日とうとう、全ての決着がつくんだな……」
「ああ……。俺達がこの世界に連れてきてしまったしがらみを今度こそぶっ倒す。そうすれば、全てが終わる」


クロは静かにシロの隣に腰かけた。そうしてそっと、壊れものを触るように手に触れてくる。普段の横柄な態度からは想像もつかないその仕草に、シロの笑みは深まった。


「……今度こそ、俺も共に戦える」


ぽつりと零したクロのその言葉には、様々な想いが籠っていた。「前」は、並んで戦う事が出来なかった。すれ違ってばかりだった二人が真正面からぶつかり合った後、ただ自分の力だけを託す事しか出来なかった事を、クロは悔いていたのだ。
包まれた手を握り返しながら、シロはクロの肩にもたれかかる。様々な壁を越えて今ここにいる己の半身が、愛しくて仕方が無かった。


「時々、こうやってクロと一緒に入れる事が、一緒に戦える事が、改めて奇跡のように感じるんだ。……今更だけど、夢とかじゃないよな?」
「こんなくそ長い夢、あってたまるか」
「ははっ確かに。本当、ここまで長かったな、思い返せばあっという間だったような気もするけど」


身を寄せ合いながら、二人は今まで来た道を思い返す。この世界に飛ばされてきた時の事、何も分からぬまま手探りで過去の相方を育ててきた事、そして、再会出来た事、そこからの目まぐるしく過ぎていった怒涛の日々。全てを今、まざまざと思い出す事が出来る。大切な記憶達だ。
ふと、シロが遠くを見据える。思い出す記憶はもっと昔の事を映しだしていた。間違いも犯してしまったが、沢山の大切な事を学び、必死に足掻いて生きた、「前」の世界。今を頑張れるのは、全てこの記憶があるからだ。もう手の届かない、大切な世界。


「……帰りたいか」


シロの様子を見て、静かにクロが問う。初めて投げかけられた言葉。今まではきっと二人揃って、意図的に見ないようにしていた事。シロはしばらく黙りこんだ後、困ったような笑顔でクロを見た。


「自由に過去と未来を行き来出来たらよかったのになあ。俺にはどっちも、大事すぎるよ」
「ふっ、それにもう過去と未来ではないだろう。あっちの世界とこっちの世界、随分と違ってしまった」
「俺達が頑張ってきた事だけどな」
「そうだ、俺達が望んで変えた」
「うん、だから未練が無いかと言われれば嘘になるけど、帰ろうとは思わないよ。そうだな……ただ、一つだけ、」


シロは瞬きをする。瞼を閉じたその一瞬だけ、かつて共に旅をした仲間たちの笑顔が浮かぶような気がして。


「約束、守りたかったな……」


クロは手を伸ばして、シロの頭をそっと抱き寄せる。シロはされるがまま、クロに頬を擦り寄せた。


「今度こそ、約束を違えないようにするぞ。あいつらのためにも、自分たちのためにも」
「……ああ」


ここにも交わされた約束と決意。
それらが果たされるか、全ては明日、決まる。





   もうひとつの結末 69

12/12/31