歌が、聞こえるような気がする。
記憶は、理解するより先に自分のものへとなっていた。そのために記憶を理解するために、まずは「思い出す」事をしなければならなかった。自らの頭の中に刻み込まれた記憶を、一つ一つ紐解いていかなければならなかった。
「思い出す」のは一瞬だった。おぼろげな記憶はすぐに通り過ぎていって、鮮明に残っていた記憶は強く、大きく胸を掻き鳴らしながら爪痕を残していく。自分の記憶では無いのに、自分のものとして思い出さなければならない事は、想像以上に苦しく辛い事であった。それでもルークは耐える事が出来た。隣に同じように苦しみ、しかし耐える同じ温度があったからだ。痛いぐらいに掴まれた掌の感触に繋ぎとめられながら、ルークとアッシュは全てを「思い出す」。全てを受け止めて、全てを見て、そして全てを受け入れた。
人一人の記憶は膨大であるはずだった。しかし二人はそれが妙に少なく思えた。人生の半分以上の記憶が足早に通り過ぎていく。記憶が色を帯び、温度や匂い、想いを含んで目の前に現れ始めたのは、そのほとんどが過ぎ去っていってからであった。
全ては、ある一日から始まる。
「また退屈な一日が始まった」
そこからいつものように単調な文章が続くはずだった日記。
聞こえてきた歌声。
師匠に襲いかかる見知らぬ少女。
生まれて初めて見た海の色。
闇夜に咲き誇る美しい白い花。
少女の顔。
その記憶は全て鮮やかだった。今まで無感情に思い出されていたモノクロの退屈な日常とは明らかに違った。
初めて見るものばかりだった。初めて聞くものばかりだった。歩けば歩く程初めてにぶつかった。世界がこんなに広く、色鮮やかなものであった事を、その時初めて知った。
誰も教えてくれないから、自分で知るしかなかった。
歌が聞こえる。
記憶は続く。
記憶に色がついてから、僅か一年弱。
心の奥底に、特に大事に刻まれているのは、共に旅をした愛しい仲間達。
いつも見ていてくれた、時に厳しく、とても優しい、強くて脆い、大好きだった少女。
過去の葛藤を乗り越え、常に傍で支えていてくれた、頼りになる幼馴染。
飄々と掴みどころのない、しかし自分を真剣に救おうとしてくれた、生みの親とも言うべき人。
小さな身体で沢山のものを背負っていた、自分のために泣いてくれた少女。
偽物の自分を大事な幼馴染だと言ってくれた、もう一人の大事な幼馴染。
そして。
誰よりも、何よりも大切な。
赤い背中。
オリジナル。
完全同位体。
世界で唯一の、半身。
歌が聞こえる。
初対面は最悪だった。
会うたびに手酷く罵られた。
それでも惹かれた。
会わずにはいられない。
ずっと一緒に旅をしたいと思っていた。
結局は、出来なかったけれど。
崩落した町。失われた命。
もう一人の自分の目で見た世界は、また違った姿を見せる。
逃れる事の出来ない罪。
それでも背負う事を決めた。変わると決めた。己から切り落とされた赤を見て、再び記憶に熱が加わる。
荒れ狂う記憶は、感情であった。止める事の出来ない激情であった。
いくら自分を責めても、後悔しても、戻らないものがある。初めて知った。
前へ進むしかなかった。それしか出来なかった。知らなかった。
歌が聞こえる。
救いを求めるように伸ばした手の先にいたのは、どんなに伸ばしても届かない先にいる、同じ背丈の同じ顔。
睨まれている。
憎まれている。
分かっていた。でも、それでも。
共に歩みたかった。
共に過ごしたかった。
何も持たずに生まれてきた自分が全てを失っても途切れぬものを、彼は持っているから。
惹かれた。
知りたかった。
せめてあとほんの少し、歩み寄りたかった。
自ら影へ隠れようとする彼を、彼から奪い取ってしまった陽だまりへ引きずりだしたかった。
並んで立ちたかった。
奪いたくなんてなかった。ただ共に在りたいだけだった。
それさえも、許されなかった。
歌が聞こえる。
その記憶は最下層にあった。
忘れられないように刻まれた、深い深い傷であった。
無数に刻まれた深い傷の中で、一番痛みを伴っていた。
長い時が経っても塞がる事のない、失った悲しみによる冷たい傷だった。
もう二度と動く事のない、冷たい冷たい身体だった。
歌が、聞こえる。
手を握りしめながら並んで立つルークとアッシュは、同時に気付いていた。
この歌は、帰って来いと呼んでいるのだと。
必ず帰ってくると約束した者を、いつまでもいつまでも待っているのだと。
しかし記憶は、それが出来ない約束であった事を知っていた。
自分の体の限界を。
そして例え限界が来なくとも、自らの音素は余す事無く全て、記憶ごと、世界で一番大事な半身へと還る事を。
「ルーク」は知っていた。
仲間達に、出来ない約束をしてしまった事を。
自分はこの後世界から消えて、「アッシュ」へ還る事を。
今、「アッシュ」の身体が冷たく、動かない事を。
その目が閉じて、開かない事を。
自分を見る事はもう、無いのだと。
ローレライが目の前から去り、腕に抱いた「アッシュ」と二人きりになった「ルーク」は、ただじっとその時を待っていた。
悔いが無いといえば嘘になる。しかし抗おうとは思わなかった。固く瞳を閉じる「アッシュ」の頬が、ほんの少し赤みを帯びてきたような気がする。これから、「アッシュ」は目を覚ますのだろうか。それは「ルーク」にとって何よりも喜ばしい事であった。死んでしまったと思った「アッシュ」が生きて、帰るべき所へ帰る。それをずっと望んでいたのだから。
しかし「ルーク」は、少し残念に思う。「アッシュ」が目を覚ました時、おそらく「ルーク」はもうここに存在してはいないだろう。完全同位体同士の間だけに起こる、大爆発によって、「ルーク」は「アッシュ」にこれから還るのだ。「ルーク」の音素が少しでも「アッシュ」の糧となれば良いと、そればかり考える。少し余計なもの、「ルーク」の記憶がついて行ってしまうが、それぐらいは許して欲しい。「アッシュ」なら、てめえの記憶付き音素なんかいらねえよ、とプリプリ怒りながら言いそうだ。その姿が容易に想像できて、「ルーク」は一人微笑んだ。
もう何もいらないんだ。「アッシュ」が生きてくれさえすれば。最後にお喋り出来なかった事がほんの少し残念だけど。
そうさ。「アッシュ」が生きてくれれば、もう。
俺は何もいらない。
「ルーク」は光り輝く空を見つめ、全てを受け入れるように瞳を閉じた。
「嘘だ!」
思わずルークは叫んでいた。アッシュも必死に見つめていた。だって知っていたのだ。「ルーク」の記憶全てを受け取った二人は、知っていたのだ。
「ルーク」の瞳が、見開かれる。
「……ああ、そうだ」
嘘だ、と。
開かれた「ルーク」の瞳からぽつりと、雫が一粒零れ落ちる。
本当に、心の底から望んでいた事は、たった一つであった。
「死にたくない」
「ルーク」の瞳から、次々と雫が落ちていく。
「死にたくないよ」
ぽつりぽつりと。「ルーク」の雫が「アッシュ」へと落ちていく。
「……おれ、死にたくないんだ」
ぽつり、ぽつり。
ルークとアッシュの目の前に、小さな子どもが蹲っている。
「いやだ、おれ、死にたくない」
その腕に、ぴくりとも動く事無く目を瞑る己の半身を抱きながら。
「おれ、生きたい」
翡翠の瞳を涙に滲ませ、焔色の髪を震わせながら、ただただ泣いていた。
「生きたいんだ」
何よりも愛しい身体を抱きながら一人、泣いていた。
「俺は、生きたいんだ」
「たくさんの命を消してしまった俺に、生きる資格なんて無いのかもしれないけど」
「それでも俺は、生きたいんだ」
「アッシュと、生きたいんだ」
「互いの居場所を奪い合う事無く、どちらの存在も欠ける事無く」
「二人が二人として」
「生きたいんだ」
「死にたくないんだ!」
「一緒に、生きたいんだ!」
「アッシュと共に、生きたいんだ!」
光の渦の中、小さなレプリカルークは、魂の限り叫んだ。
「俺は、アッシュと一緒に、生きたい!」
記憶が光を纏って溢れ、空間を満たした。
全てを包み込む渦の中、光をかき分けてルークとアッシュは前に進む。そうして辿り着いた小さな身体を、両脇から力いっぱい抱きしめた。
「生きよう、「ルーク」。俺たちも傍にいるから。一緒に生きよう!」
「ああ。大丈夫だ、俺達は全部、知っているから。お前がどれほどの思いでこの世界に来たのか。お前がどれほど生きたいと思っているのか。全部、知っているから」
「そうだよ、大丈夫だ「ルーク」。俺達がきっと、お前を生かすよ。お前が俺達を生かしてくれたように、守ってくれたように、今度は俺達が守るから!」
「「だから、戻ってこい、「ルーク」!」」
限りなく広いはずのアブソーブゲート下層を全て満たすほどの強い光は、しばらく経ってからようやく収まりを見せた。目元を覆っていた腕をどけたクロが一番先に目にしたのは、手を繋いだまま並んで倒れるルークとアッシュの姿だった。聞こえてくるうめき声と身動きする身体を見るに、どうやら無事のようだ。そこに駆け寄ろうとした足を、しかしクロは途中で止める。収束した光が全て、己の頭上に集まってきている事に気付いたからだ。
光はすぐに、ある姿に象られていく。クロは理解するよりも早く、両手を差し出していた。光は待っていたかのようにゆっくりとクロの腕の中に落ちてくる。一滴も逃すまいと固く受け止めた腕に全てが収まった後、光は徐々に薄れていった。
そうしてクロの元へ戻ってきたのは、何一つ欠ける事無く元と同じ姿をした、その半身であった。
「……ん、アッシュ……?」
吐息を零し、新緑の瞳が開かれる。その瞳に己の姿が一杯映っている事に幸福を感じながら、クロはシロの額にキスを落とした。
「ああ。お帰りルーク」
「……へへ、ただいま」
にっこりと微笑んだシロは、しばらくそのままクロを見つめる。考え込むような間が過ぎた後、ごそごそと戸惑うように身じろぎをするので、クロは片膝をついて足を下ろしてやった。
「どうした」
「ん、いや、何か今まで長い夢を見ていたような気がして……そもそも、今まで俺どうなってたんだ?何してたんだっけ?」
「覚えてねえのか、ヴァンの野郎に取り込まれていた事」
「へえ、そうだったのかー。……って、取り込まれてた?!何で、どうして?!」
シロが混乱に手足をばたつかせる。気持ちは分かるが落ち着けと諭してやりながら、さて今までの経緯をどうやって説明したものかとクロは考える。なるべく混乱の少ない説明をしてやらねばならないが、それが難しい。どうやって複雑化する事無く説明出来るものか。ローレライの音素のせいで取り込まれた事。そこから救い出すためにルークが譜歌を歌った事。それによってルークとアッシュがシロの記憶を手に入れなければならなかった事……。
そうだ、記憶。クロははたと思い出して顔を上げる。ルークとアッシュはすでに立ち上がって、こちらを見つめていた。クロの様子に気づいて、シロも同じ方向を見る。
「あ、ルークとアッシュ。お前らどうしたんだ、そんな変な顔して……」
「シロの……シロの、大嘘つき野郎っ!」
「ぶふっ?!」
勢い良く駆けてきたルークが、そのままの勢いでシロの頬を平手打ちした。訳の分からぬうちに叩かれてとっさに抗議の声を上げようとしたシロだったが、ルークを見てそのまま固まってしまう。ルークが、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていたからだ。
「る、ルーク?」
「なんで、なんでそんなに嘘なんてつくんだよ、周りにも、自分にも!嘘ついたまんま、この世界のために瘴気消して死のうとしてただなんて、馬鹿みたいじゃねえか!馬鹿!この馬鹿野郎!」
「ど、どうしてそれを!?それに何だよ、嘘つきって!」
「どこをどう見ても嘘つきじゃねえかっ!」
しゃがみ込んだルークは、シロの胸倉を掴んで泣き顔のまま睨みつける。
「シロ、お前、あんなに死にたくないって、生きたいって思ってたんじゃねえか!クロと一緒に生きたいって、思ってたんじゃねえかよお!それなのに、それなのに死のうだなんて、馬鹿な事するなっ!俺たちと一緒に、生きてくれよおっ!うわあーん!」
とうとうルークはそのままシロにしがみついて、わんわん声を上げて泣きだしてしまった。突然の事に驚きに目を丸くしたシロがそのままアッシュに視線をやって、さらに仰天する。何とあのアッシュまでもが涙目ではないか。
「あ、アッシュ……?!」
「シロ……俺は、やっと全部見た。全部知る事が出来た。お前がどんな思いで、あの日あの部屋にやってきたのか……。どんな夢を見て、どんな事にうなされてきたのか……。俺がもっと早く、少しでもお前の思いに気付いていれば、この世界のためにそんなに思いつめる事もなかったのに、くっ……」
「な、何だよアッシュまで、どうしたんだよ二人とも……!」
俯いて肩を震わせ始めてしまったアッシュ。慌てたシロはとりあえずアッシュの腕を掴んで引き寄せ、泣き出した二人の頭を撫でてやる。そのまま、自分を抱えたままのクロをふり仰いだ。
「なあクロ、これ、どういう事……?」
「……そうだな」
少し考えたクロは、両手が使えない代わりに顔を寄せ、なだめる様にシロの頬に触れる。
「とりあえず、お前はこいつらを放って勝手には死ねないって事だ」
「何それ?!」
疑問符を沢山浮かべるシロの様子に、クロは思わず顔を逸らして吹き出していた。
自身の瞳にもにじみ出ていた、安堵の水を誤魔化すために。
もうひとつの結末 66
12/10/23
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