アブソーブゲート最下層。地核へと次々に吸い込まれていく音素達の眩しいほどの光で満たされたそこで、ヴァンは待っていた。いや、待っていたのかは定かではない、もしかしたら隠れようとしていたのかもしれないし、罠を張って待ちうけていたかもしれない、もしくは別のどこかへ逃げようと思っていた可能性もある。しかしヴァンは待っていた。苦しげに表情を歪めたまま。


「ふん、どうやらそいつの制御に随分と手こずっているようだな」


一行の先頭で悠々と近づきながら、クロが勝ち誇ったように言う。多分嬉しいんだろうな、と後ろからその様子を見ていたルークとアッシュは思った。取り込まれた大切な人が相手の言いなりになっている場面なんて誰だって見たくないだろう、取り込まれるような大切な人なんて滅多に存在しないが。
汗を掻きながらひざまずいていたヴァンは、何とかといった様子で立ち上がる。その身体からは、ちらちらと光が漏れ出していた。


「ふふ……確かに完全な制御は難しいようだ。だが……この力は、間違いなく本物だぞ」
「……!全員、構えろ!」


剣を抜いたクロの声で、全員が身構える。途端にヴァンから凄まじい光が迸った。第七音素の力だった。暴走気味ながらもヴァンは何とか力を使う事が出来るようだ。さすが腐っても神託の盾騎士団総長である。しかし取り込んだのが完全なローレライでなかった為か、発せられる力はそれほど脅威ではない。ヴァンもその光の中剣を抜いたのを見て、クロがルークとアッシュを振り返った。


「俺がヴァンを足止めする。ルーク、その間にお前は大譜歌を」
「う、うん……!」
「それでは、我らがそのサポートに回ろう」


銃を構えながらリグレットがクロに並んだ。他の六神将たちも各々の武器を手に足を踏み出してくる。クロは前を向いたまま、ヴァンを見据えるリグレットへ話しかけた。


「いいのか、一応奴はお前達の大将だろうが」
「勘違いするな、あんな力を無理矢理使っていては閣下のお身体が壊れてしまう、私はそれを止めたいだけだ」
「アリエッタも、総長には生きてて欲しいから……いちおう……」
「この世界も、案外悪くない……ヴァンにもそう教えてやらねばな、俺がそう感じたように」
「あ、僕は別にこの場のノリだけだから」


リグレット、アリエッタ、ラルゴ、そしてシンクはそれぞれの想いから手伝ってくれるようだ。その顔ぶれをちらりと見て、クロは少しの間だけ、何かを思い出すように目を細める。しかしすぐに振り切る様に目を閉じた後、しっかりとヴァンを睨みつけた。ヴァンは剣を構えながら、にやりと笑っている。


「なるほど、お前達全員で掛かってくるか、いいだろう……来るがいい!」
「はっ、粋がるなよ、今すぐそいつを、返してもらう!」


威勢のいい声と共に、全員が駆け出した。
一番最初に飛び出したのは、一番素早いシンクだった。いち早くヴァンに駆け寄り拳を繰り出すが、それが届く前にヴァンから発せられた光にあえなくはじき返されてしまう。そのまま一撃振りおろそうとするヴァンの剣の刃に、リグレットの放った銃弾が連続で当たり狙いが外れる。シンクが飛び退いたと同時に、後ろからラルゴが重い一撃を浴びせようと近づくが、即座に反応したヴァンが向けた掌から放たれた光を受け止めたためにそれも叶わない。後ろの方で譜術の詠唱をしていたアリエッタも、ヴァン自身から放たれる凶暴な光のせいで上手くいかないようだった。一人相手にこの人数で立ち向かっているというのに、最初の一撃すら浴びせる事が出来ない。
向かってきた全ての攻撃を振り張ったヴァンは、すぐに気付いた。一人分、受け止めなければならない剣撃が足りなかった事に。それに気付けた事によって、ヴァンは完全な死角から飛び出してきたクロの剣を何とか剣によって受ける事が出来た。キィンという甲高い音が大きく響く。


「ふっ……!爪が甘かったようだな、どうやら本気を出していないようだが?」
「っ言っとけ!」


クロが剣をはじいて悔しそうに後ろに飛ぶ。事実、クロは本気を出せていなかった。理由は一目瞭然だ、ヴァンを斬ってしまえば、取り込まれているシロもどうかなってしまうのではないかと、そんな心配のためだ。それが分かっているからか、ヴァンも余裕の表情を崩さない。しかしクロも、諦めた様子は微塵も見せなかった。ヴァンの元からシロを確実に取り戻す事が出来ると信じているからだった。
その信頼を全身に受けて、ルークは立っていた。身体は緊張でガチガチに固まってしまっている。皆が戦っているのを眺めて、早く自分も譜歌を歌わねばと心ばかりが焦るが、どうしても歌い出す事が出来ない。
そんなルークの手を、勇気づけるように力強く握るもう一つの手があった。はっと首を巡らせたルークを、同じ色の瞳が支えるように見つめていた。


「アッシュ……」
「ルーク、落ち着け。確かに練習途中の大譜歌をぶつけ本番で歌わなきゃいけないんだ、緊張するのは仕方のない事だがな」
「う、うん……まさかこんなに早く歌わなきゃいけなくなるなんて、思っていなかったからさ……一回は決意したはずなのに、今になって心臓がバクバクうるさくて……」


ルークは、握ってくれたアッシュの手を握り返した。その手は小刻みに震えている。


「俺がもし失敗したら、シロは取り返せないって思うと……すごく怖いんだ。皆があれだけ頑張ってくれているのに……クロが、俺の事を信頼して任せてくれているのに……俺、ちゃんと歌えるかな……失敗したら、どうしよう……」


とうとう俯いてしまったルーク。そんなルークの肩に、空いていたアッシュの手が優しく触れる。ゆっくりと顔を上げるルークに、アッシュは微かに笑いかけてやった。


「ルーク、きっと少しぐらい失敗したって大丈夫だ。考えてみろ、今譜歌で呼び出すのはローレライじゃない、シロなんだ。シロなら少々の失敗なんて気にせず、お前の歌が聞こえればすぐにヴァンの野郎から抜け出してくるだろ」
「そ、そうかな……?」
「俺ならそうだがな。ルーク、お前はどうだ?シロだってきっと俺たちと同じだ」


アッシュに言われて、ルークは少し考えてみた。誰かに取り込まれるなんてどんな感覚なのかは分からないが、身動きが取れない状況で、馴染みの声で馴染みの歌がもし聞こえてきたとしたら。その声がもしクロやアッシュ、そしてシロのものだったら、きっと全力で歌が聞こえてきた方へ向かいたいと思うだろう。シロも同じだろうか。違う世界の、未来の自分。……きっと、同じだ。
ルークは気持ちを入れ替えるようにぱちぱちと瞬きをして、アッシュに笑い返す。


「うん、そうだよな、シロならきっとすぐに来てくれるよな」
「ああ。……それに、歌う事を手伝えはしないが……俺だって、傍にいる。ルーク、お前は一人じゃないんだから、その、が、頑張れよ」
「アッシュ……っあはは、うん、俺頑張るよ!」


何故か急に恥ずかしくなったのかそっぽを向いてしまったアッシュに、それでも緩む事無く握っていてくれる手の感触を感じながら、ルークは声を上げて笑った。
勇気は今、アッシュに貰った。後は歌うだけだ。


「それじゃあ、回線を繋ぐぞ……。……今思ったんだが、回線を繋ぐと頭痛がするんだったな……」
「ん、それは平気、だいぶ慣れてきたしな!それよりアッシュと繋がっている方が、きっと俺上手く歌えるから」
「!!!……そ、そうか……そ、それじゃあ」


色んな衝撃を受けたアッシュがそれに耐えながら、ゆっくりとルークとの回線を繋ぐ。その瞬間からルークの頭に痛みが響いてくるが、ルークは頭を振ってそれをやり過ごした。回線を繋いでいる間常に痛みは続くが、そちらに気を取られている場合じゃない。それより、回線を繋いだ事によって、アッシュの温かな気持ちがルークにも流れ込んでくる。
アッシュは心からルークを心配していた。負担ではないか、何かもっと自分に手伝えないのか、そればかり考えていた。おそらく回線を伝ってルークにそんな思いが伝わっている事にすら気が向かないのだろう。それを感じる事が出来るだけでルークは、頭痛なんて気にならなくなってしまう。
繋いだままの手に、自然と両方の力が込められた。


「……よし。アッシュ、いくぞ……」
「ああ……」


目を瞑り、必死に覚えたメロディと歌詞を思い浮かべながら、ルークはゆっくりと口を開いた。


「トゥエ レィ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ」


そして、少々あどけなさの残る大譜歌が、始まった。


「クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レィ ネゥ リュオ ズェ」


その声は戦闘の音にかき消されてしまいそうなほど小さいものであったが、不思議とよく響いた。このアブソーブゲート最下層に、大譜歌が染みわたる様に広がっていく。


「ヴァ レィ ズェ トゥエ ネゥ ズェ リュオ ズェ クロア」


どんどんと、まだ上手く歌えない個所に入っていく。汗のにじむルークの手を、アッシュは常に励まし続けるように握り続けた。大丈夫、大丈夫だと語りかけるように。それに答えるように、躓く事無くルークは歌った。


「リュオ レィ クロア リュオ ズェ レィ ヴァ ズェ レィ」


歌は、ヴァンと激しい剣の打ち合いをしているクロにも聞こえていた。戦いに集中している耳に普通はこんな小さな歌など聞こえないはずなのに、不思議とよく聞こえた。他の雑音を掻きわけて、わざわざ歌がクロの耳へ向かってきているようだった。それを聞きながら、クロは勝ち誇る様に笑う。
聞いただけで分かった、この勝負、勝ったと。この歌声に、あいつが惹かれないはずがないのだと。自分でさえ、これほどまでに胸に響いているのだから。


「ヴァ ネゥ ヴァ レィ ヴァ ネゥ ヴァ ズェ レィ」


戦いの最中にいるヴァンもその歌に気付いていた。何故なら歌が始まった瞬間、身体の中にいる膨大な力が、さらに暴れ始めたのだ。明らかに大譜歌に反応していた。先ほど自ら歌った歌だ、これからどうなるのか嫌でも分かっている。ヴァンの表情から余裕が消えた。すぐさま歌が響いてくる方へと向かおうとするが、すぐに周りを囲んでいた者達に阻まれてしまう。


「クロア リュオ クロア ネゥ ズェ レィ クロア リュオ ズェ レィ ヴァ」


「くっ……!その歌を止めろぉ!」


今ある力を振り絞り、全身からローレライの光を迸らせながら叫んだヴァンの一撃を、しかしクロの刃が受け止める。ヴァンには一瞬、それが壁に見えた。とんでもなく分厚く高い、越える事の決してできない、力の壁であった。その瞳に激しい意志の光を灯し、クロが呟く。


「もうてめえには、俺の大事なもんに触れさせねえよ……!」
「……!」


「レィ ヴァ ネゥ クロア トゥエ レィ レィ」


そして大譜歌は、終わった。
歌の終わりとともに、ヴァンの身体が激しい光に包まれる。目も開けていられないほどの閃光の中、ヴァンの叫び声が聞こえたような気がした。気付けば光の塊は倒れるヴァンから離れ、宙に浮いていた。一人クロだけが、最初にシロが飲み込まれてしまった光と同じものだと気付く。
光はしばらく空中を漂った後、何かに吸い寄せられるように宙を移動した。行先は、歌い終わったルークとアッシュの元だ。こちらへ向かってくる光に、思わずルークは手を差し伸べていた。


「シロ!」


名を呼んだ瞬間、全身が光に包まれる。とっさに目を瞑っても視界は白に染まっていた。感じるのは、手と心が繋がっているアッシュのぬくもりだけ。光の奔流に巻き込まれる中、何も聞こえなかったはずの耳に、音が届いたような気がする。
それは、歌だったような気がした。
ルークが歌ったものよりもっと上手に、柔らかく、綺麗な大譜歌だったような。

帰って来てと、呼んでいるような。


「……アッシュ?」
「大丈夫だ、ここにいる」


不安になって呼んでみれば、すぐ隣から声がした。安心してほっと息を零す。それと同時だった。
目の前に、頭の中に、膨大な映像、音、声、想いが溢れ返ったのは。
目をいくら瞑っても突きつけられるそれが「記憶」なのだと気付いたのは、どれほど経ってからの事だったか。
気付けばルークはアッシュと並んで、真っ白な世界の中立ちつくしていた。目の前には小さな子どもが一人蹲っている。表情は見えない。しかしその身体が小刻みに震えているのを見て、泣いているのではないかと思った。


「……い」


子どもは悲しいくらいに震えながら、何事かを呟いているようだった。


「……な、い」


それがあまりにも可哀想に見えて、顔を見合わせたルークとアッシュはゆっくりと音をたてないように子どもへと近づいていた。何に怯えているのだろうか。何故泣いているのだろうか。優しく触れてやるために伸ばした腕は、しかし聞きとる事が出来た子どもの言葉を理解して、思わず止まっていた。


「……たく、ない」


子どもは泣いていた。蹲るその腕に「もう一人」を抱きながら、翡翠の瞳を涙に滲ませ、焔色の髪を震わせながら、ただただ泣いていた。



「死にたく、ないよお」



津波のように押し寄せる記憶の中、ルークとアッシュは気付いていた。
目の前で泣いている子どもが、一体誰なのかを。誰を抱いているのかを。

シロがこの世に生きる生き物全てと同じように死に怯える、小さな小さな「レプリカルーク」であった事を。





   もうひとつの結末 65

12/10/15