くっきりと浮かび上がる少し欠けた金色の月と無数の星々が瞬く夜空は、本来ならばため息が出るほど美しく見えたものだろう。しかし世界中が瘴気に包まれてしまっている今、どれだけ頭上に目を凝らして見てみても、神秘的な美しい夜空を体験する事は出来なかった。どうしても目に映るのは瘴気に汚されてしまった空気だけ。そんな辛気臭い夜に家から出る者は少なく、このベルケンドの町もまた同様だった。
暗くどんよりとした空気が漂う辛気臭い夜に、しかし唯一心を和ませる音が微かに響く。町の中心を外れた場所で、たどたどしくしかし少し慣れた様子で、若干照れの混じるその声に歌を乗せて。


「トゥエ レィ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ」

「クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レィ ネゥ リュオ ズェ」

「ばれぜ とえ ねうぜ りおぜ くろあ」

「……途中で一気に舌足らずになるな」
「うっうるせー!何とか二番目の譜歌まで完璧に覚えた所なんだよ!その先はこれから!」


歌の出来を聞いていてくれたアッシュに、ルークは顔を赤らめて反論する。ただでさえ誰かに聞かれている状態で恥ずかしさを我慢しているのだ、上手く舌が回らなくても仕方が無いではないか。ティアに歌詞と歌い方を書いてもらった紙を眺めながら呻くルークの頭を、アッシュは労うように軽く撫でてやる。


「確かに最初の部分の発音は完璧だな。歌い方は身に付き始めているんだ、この調子で続きを覚えて行けば歌えるようになるのは案外すぐかもな。……頑張ったな、ルーク」
「アッシュ……」


少し視線を逸らし気味であったが素直に褒めてくれるアッシュに、ルークは一瞬あっけにとられたがすぐに笑みを浮かべた。


「へへ、ありがとな。なーんかこうやってアッシュが褒めてくれるの、クロみたいだなー」
「………」


正直クロと比べられるのはとても悔しい事だが、ルークが絶対的な信頼を寄せるクロに少しでも追いついてきている証拠なのだと心の中で自分を慰めるアッシュ。しばらく機嫌よくニコニコと笑っていたルークだったが、何か考えていたのかその表情がふと曇る。その変化をアッシュは目ざとく見つけていた。


「どうした」
「ん、いや……クロの事思い出したら、何つーか、不安が甦ってきて……」
「不安?」


どういう事だと首を傾げるアッシュに、意を決してルークが顔を上げた。


「なあアッシュ、クロとシロ、また何か変な事考えている気がしないか?」
「変な事だと?」
「前にパッセージリング起動の時にシロが一人で突っ走っただろ?最近クロを見ていたら、あの時と同じような嫌な感じが、予感みたいなものがするんだ。俺が言うのもなんだけどシロはいつもどこか危なっかしいけどさ、クロにこんな事感じたの、初めてなんだ……。気のせいなのかもしれないって、何度も思ったんだけど……」


だんだんとルークの頭が垂れ下がる。ルークの感じる不安は確証の持てるものではない。本当に何となく感じるものだ。特にアブソーブゲートから戻る時、アルビオールの中で心配するなと笑いかけてくれたクロの顔を見た時、それを強く感じた。その事がルークの頭からずっと離れていなかったのだ。
黙ったままルークの話を聞いたアッシュは、しばらく考え込むように口を閉ざした後、ぽつりと呟くように口を開いた。


「……それはきっと、気のせいじゃねえ」
「えっ?」
「俺も多分似たようなものを感じていた。シロが何か思いつめたような顔をしているのを何度か見ているからな。あの体調のせいかと思っていたが……クロの奴まで似たような顔をしているとなれば話は別だ」
「それじゃあやっぱり、あの二人……」


不安そうに眉を寄せるルークに、アッシュは確信をもって頷いた。


「馬鹿な事を考えているかもしれねえな。いきなり現れたレプリカホドの事か、それともこの瘴気の事か、はたまた他の何か別な事か、それは定かじゃないが」
「瘴気、か……そうだよな、例え師匠倒したって、この瘴気をどうにかしなきゃ……」


ルークはそこでふと思い出していた。クロに最大の不安を抱いた時も、確かこうやって瘴気の話をしていたはずだという事を。その事をアッシュに話してみようとした、その前に、別な人物から声をかけられる。


「おや、ルークにアッシュ、まだ休んでいなかったのですか?」
「あっジェイド、お前こそ」
「私は少し考えをまとめるために散歩をしていたんですよ。外はこの有様ですから、室内よりも誰もいないお陰で静かで物思いに耽る事が出来る状態ですからね」


振り返ればジェイドが二人に近寄ってくる所だった。いけすかない眼鏡に何か文句でも言ってやろうと思ったアッシュだったが、その表情を見て思わず口を閉ざす。いつもなら余裕綽々な笑みを浮かべているのが常だというのに、ジェイドの今の様子からはそれを感じる事が出来なかった。この男の余裕が無い姿というのはとても珍しい。


「何かあったのか」
「……いえ、さすがにこの状況では、考えなければいけない事が多すぎるだけですよ」
「ふーん?ジェイドでもそういう事あるんだな。あっそうだ!」


ルークは何か思いついた様子で、ジェイドに詰め寄った。


「なあジェイド、この瘴気を綺麗さっぱり消す方法って無いのか?さっきはお前方法は不明だとか言ってたけど、出来るかもしれないって方法はあるんじゃないのか?」
「ルーク、さっき瘴気の問題は後に回そうと話したはずですが?」
「だって消す事が出来るなら早いに越した事はないだろー?どうせ消さなきゃいけないんだし、方法があるなら教えてくれたっていいだろ!」
「消す……そうだ。超振動はどうだ」


アッシュが拳を叩いて閃いた。その言葉にルークはおおっと歓喜の声を上げ、ジェイドは無言で目を細める。


「それだっアッシュ冴えてる!超振動なら瘴気も消す事が出来るんじゃないか?」
「ああ、問題は世界中の瘴気を消すほどの力をどうやって集めるか、だな」
「……ええ、そうですね。だからこそ超振動では瘴気を消す事はほぼ不可能なんですよ」


静かに声を上げたジェイドをルークとアッシュは怪訝な顔で振り返る。そうして思わず口を閉ざした。ジェイドの瞳は、未だかつて見た事が無いほど真剣なものであった。


「物質を原子レベルにまで分解する力のある超振動なら、確かに瘴気を消す事が出来るでしょう。しかし世界を覆うほどの瘴気を消すとなれば、あなたたちの力だけではもちろん無理です。力を増幅させるものが必要です」
「力を、増幅させるもの?」
「一つは第七音素を集める事が出来るローレライの剣、あれが必要でしょう」
「それなら……」
「そしてもう一つ、大量の第七音素です。ローレライが取り込まれている今この世界から集められる第七音素は限られていますから、そうですね。第七音素術士、あるいはその素質がある人間、もしくは……原子の結合に第七音素のみが使われているレプリカ、それらを集めて一万人ほど殺せば、何とかなるかも知れません」
「「……!」」


ルークとアッシュは二人で息を飲んだ。自分たちの力で瘴気を消せればと軽く考えていた。それにどれほどの代償、犠牲が必要なのか、想像もしていなかったのだ。二人の様子に、ジェイドは眼鏡を押し上げながらさらに言葉を重ねる。


「さらに、超振動を使う人間も反動で音素の乖離を起こして死ぬでしょう。一万人の犠牲で瘴気は消える、考え方によっては安いものかもしれませんね。……さあ、世界中から第七音素術士を集めて殺しますか?それとも、せっかく停止させたレプリカ装置を使い、時間をかけて一万人のレプリカを生み出しますか?……我々の犠牲になってもらうために」
「「っ!!」」
「……私が超振動を使って瘴気を消す事はほぼ不可能だと言った理由、分かって頂けましたね?」


アッシュは唇をかみしめて、ルークは力なく項垂れながら、それぞれ頷いた。ジェイドは多分わざと恐ろしい言葉を使って説明したのだ、こちらを完全に諦めさせるために。二人は完全に意気消沈していた。まるで未来への望みがすべて絶たれてしまったような心地であった。
二人の様子に満足そうに笑顔を浮かべたジェイドは、慰めるように少しだけ優しい声を出した。


「瘴気で今すぐこの世界が滅ぶ訳ではありません、他の事が片付いた後、改めて対策を考えましょう。これは世界の問題です、あなたたちだけで何とかしなければならない事ではないんですから。……今日はもう休みなさい、明日からまたあちこちを飛び回らなければなりませんよ」


言うだけ言ってすたすたと歩き出したジェイド。その後ろ姿を半ば恨みがましく眺めていれば、ふいに立ち止まったジェイドがくるりと振り返ってきた。慌てて視線を逸らすも、気にしていない風な顔で話しかけてくる。


「ああ、言い忘れていました。少し気になる事がありまして」
「なっ何だ?!」
「……確かシロとクロの身体には、ローレライの音素が含まれていましたよね?」


突然出てきたシロとクロの話にルークとアッシュは顔を見合わせる。そういえば、以前そんな事を言っていた気がする。本来ならばユリアの血縁者にしか反応しないパッセージリングがシロとクロには反応するのもそのお陰なんだとか。ふーんそうなんだー別世界から来ただけあるなーと深く考えた事は無かったが、尋ねてくるジェイドの瞳は何かを含んだ真剣なものだった。


「確かそのはずだけど……」
「そうでしたよね。いやなに、さっきの超振動で瘴気をーという話で少し気になっているだけなんですよ。ローレライの音素が一体どれほどのものをもたらしてくれるのか私にも定かではありませんが、まさか、ね」


声は少しおどけてみせているが、その赤い目はずっと真剣な光を帯びている。ざわざわと、二人の心の中にも得体のしれない不安が這い上がってきた。頭の中で警鐘が鳴り響き始める。身体が何かを予感しているかのように、そわそわと落ち着きが無くなる。


「……ルーク、アッシュ、彼らから目を離してはいけませんよ」


さーて明日に備えて部屋に戻りますかと呟きながら、今度こそジェイドはこの場から立ち去った。薄い瘴気の壁の向こうに消えていった長身を、ルークとアッシュは無言で見送る。そうしてしばらく立ちつくした後、ルークがまるで錆ついてしまったかのような動きでギギギと首をアッシュへと巡らした。


「アッシュ……ローレライの音素って、一万人分の第七音素を賄えるものなのか?」
「そんなの、俺は知らねえ!知らねえが……あれでも第七音素の意識集合体だ、例え賄えてもおかしくはないだろうな……」


頷いてから、アッシュは自分で自分に舌うちした。肯定したくなかった。しかし今自分が可能性を肯定してしまった。ルークは顔色を青くしながら沈痛な面持ちで俯く。


「そんな……それじゃあ、クロが何とかしてみせるって言ってたのは、その事なのか?シロとクロが犠牲になって瘴気を消すつもりなのか?自分たちの命を使って?」
「ルーク……」


二人を特に慕っているルークにとっては衝撃的すぎる話だろう。まだ確証は無いが、おそらくシロもクロもそのつもりなのだろうとアッシュは思っている。クロはともかくシロをずっと傍で見てきたからこそそう思っていた。シロはとにかく自分を犠牲にしたがる。何でもっと前向きに考えられないんだってぐらいネガティブな方向に一人で突っ走る事がある。以前はそれをクロに怒られて一時期立ち直っていたが、今回はクロも一緒にネガティブへ全力疾走だ。ふつふつとアッシュの内に怒りが沸き起こる。何やっているんだあいつは。お前がシロを諌めなくて誰が諌める。そのせいで今ルークはこんなにも悲しんでいるというのに!
しかしこうして怒っているのは、アッシュだけではなかった。


「シロとクロが俺達のために犠牲になるなんて……そんな……」
「……ルーク、今はとりあえず気をしっかり持って……」
「そんな……そんなの……許さねえ」
「……は?」


ルークの最後の言葉、何故だかどこか地に響くような声色だったような。慰めるために肩に置こうとした手を空中に浮かせたまま固まったアッシュの目の前で、ルークはがばっと顔を上げた。その翡翠の瞳には……怒りの炎が燃え上がっていた。


「前に言ったのに、俺達の世界なんだから俺達が頑張らなきゃ駄目だって!なのに何であいつら勝手に何も言わずに突っ走ってるんだよ!そんなんで俺達が喜ぶとでも思ってんのか!ふざけんなよ!」
「お、おいルーク」
「いつもだ!いつもいつも肝心な所はぐらかして先歩いてさっさと自分たちだけで片づけちまう!そんなので納得出来るかよ!おまけに最後には自分達を犠牲に世界を救うだ?許さねえ!許すかよそんなの!」
「ルーク、とりあえず落ち着け、な?」
「落ち着いてる場合じゃないだろ!アッシュはいいのか?!このままシロとクロが死んじゃっても!それでこの世界が救われてはいめでたしめでたしってなるのか?!ならないだろ!」


恐らく今までの人生で一番ルークは怒っていた。胸の内から次々に沸き起こってくる怒りを持て余してその場でじたばたと暴れるルークを、最初は一生懸命戸惑いながら落ち着かせようとしていたアッシュ。しかしルークに尋ねられて、少しだけ考え込むと。


「……いいや、ならないな。ならないに決まっている」
「そうだろ?!」
「ああそうだ、なる訳ねえ!あいつらが勝手に犠牲になって助かる世界なんて、救われたなんて言えねえ!残される俺達はどうなる!これは、全員生きたまま世界を救いたい俺達を裏切る行為だ!」
「その通りだ!」


所詮は同位体、ルークと同じようにアッシュも怒り始めてしまう。考えれば考えるほど理不尽な行為だった。シロとクロが犠牲になった後の世界を想像するだけで、感情が爆発しそうだった。


「アッシュ、二人を止めよう!こんなの絶対させちゃいけない!」
「そうだな、もし拒みやがっても、殴ってでも止めるぞ!殴って止めて、そして二度とそんな事しないように説教してやる!」
「そうだ説教だっ!言い聞かせてやるんだ!俺達がどんな思いで止めるのか、どれだけ二人に生きていて欲しいのか、伝えなきゃ!」


力強く頷き合ったルークとアッシュは、善は急げとばかりに駆け出した。今この瞬間、音機関の音のみ響く静かなベルケンドが熱気で燃え上がるかのようだった。それだけの勢いと想いを二人は持っていた。それだけの想いを大切な存在たちにぶつけるために、町の中を駆けた。

しかしそうして辿り着いた医務室は、すでにもぬけの殻であった。
皆に宛てた、これからの事を指示する内容と、一言ごめんと書かれたメモを残して。





   もうひとつの結末 60

12/06/24