その日、世界は瘴気に包まれた。空に浮かび上がっていた外郭大地が液状化した地面に戻されたのと、ほぼ同時にそれは現れた。大地降下の事はキムラスカとマルクト、そしてダアトから一般市民へある程度伝達されていたので、そこまでの混乱は起きなかったのが幸いだ。しかしいきなり現れた瘴気に動揺は隠しきれるものではなく、さざ波のように大陸を覆っていった。このまま放っておけば混乱が膨れ上がっていくのは明白である。
そんな中、アブソーブゲートとラジエイトゲートにそれぞれ行っていた二台のアルビオールは、ベルケンドへと戻ってきていた。集結した一同はそれぞれ浮かない顔をしていた。大地降下作戦そのものは成功したが、世界がこの有様では仕方ない事だろう。


「クロ、あなたの言う通り、この瘴気はパッセージリングの活性化によって地核に閉じ込められるはずだった瘴気が漏れ出てきている事が原因のようですよ」


手に持った報告書に目を通しながら、ジェイドが説明する。その部屋には仲間たちがほぼ全員詰めかけていた。いないのはジェイドにこき使われているディストやスピノザぐらいなので、部屋が少し窮屈で仕方が無い。その中から待ちきれないといった様子でルークがクロに尋ねかけた。


「なあっアルビオールの中でも聞いたけど、パッセージリングの活性化ってどういう事なんだ?」
「そのままの意味だ。パッセージリングが必要以上に活性化されて、プラネットストームを生み出す力が強くなっている。そのために先日沈めたタルタロスによって振動が止まっていたはずの地核が抑えきれなくなり、再び振動し始めたせいで閉じ込められるはずだった瘴気が漏れ出てきている、という訳だ」
「じゃあ、タルタロスの意味ってあんまり無かったんだな、ちょっと残念……」
「しかしどうしていきなり活性化なんてしやがったんだ」


アッシュの問いに、クロは無言で答える。その眉間には、不機嫌そうな皺が寄っていた。その表情で、何となく答えがわかってしまう。いつもの仏頂面がさらに歪められる事と言えば、いけ好かない(と本人が言う)ヴァンの仕業なのだろう。そもそもパッセージリングの操作なんて出来る人間は限られている。まあクロの不機嫌の原因は、それだけではないのだが。


「しかし参ったよなあ。まさか師匠がここまで用意周到だなんてさ。俺たちもかなり急ぎ足でここまで来た気がするけど、さらにその上を行ってるんだもんな」


頬杖をつきながらシロがため息をつく。上半身は起こされているが、その身体は再びベッドの上だった。瘴気の発生により体調がおかしくなってしまったシロは、医者であるシュウに診察してもらって今ようやく愚痴を言えるまで元気を取り戻した所だった。しかしその顔色はあまり良くないままだ。まさにこのシロの姿が、クロの不機嫌の原因の一つでもある。もちろん心配のためだ。


「でも!原因が分かっているなら話は早いよな!プラネットストームを止めちゃえばいいって事だろ?あっそうすると譜術が使えなくなるのか…でも瘴気がこのまま出っぱなしよりは、そっちの方がいいよな?」


努めて明るくルークが言うが、クロは気まずそうに視線を逸らしてしまう。あれっと首を傾げるルークに、代わりにジェイドが説明してくれた。


「ルーク、それで確かに地核の震動は止まり、このまま大地が液状化して飲まれてしまう事態は避けられるでしょう。しかし、瘴気の問題はそれだけでは解決しません」
「ええっどうして!」
「元々今回の計画は、クリフォトに溢れている瘴気を外郭大地で無理矢理地核へと押し込むものでした。しかしそれが漏れ出してしまった今、代わりにまた瘴気を地下深くへ押し込める力が、存在しないんですよ」
「あ……」


ジェイドの説明でようやく理解したルークは、途端に元気を失ってしまった。しょんぼりと肩を落とす姿は見ているだけで気の毒になってしまい、思わずアッシュはその頭を慰めるようにぽんぽんと叩く。


「それじゃあこの瘴気はどうすりゃいいんだよー」
「そうですね、何かもっと別な方法で、今度は根本的に消し去るしかないでしょうね。その方法は……まあ、今の所不明ですが」


飄々と答えるジェイドを、落ち込むルーク達の姿を、ベッドの上からシロは静かな瞳で見つめる。何か想いを含むその視線は、しかし誰かが気付いてしまう前にすぐに引っ込み、代わりに努めて明るい声を上げた。


「瘴気はとりあえず置いておこうぜ。確かに解決しなきゃいけないもんだけど、それよりももっと先に取り除かなきゃならないもんがある」
「あの、空中に浮かんでいた大地ね……」
「ホド……」


ティアとガイが、それぞれ思いを馳せるように目を細める。記憶があるにしろ、ないにしろ、故郷なのだから特別な思いがあるのだろう。たとえそれが、レプリカでも。帰り道、実際にその目で見ていないナタリアが半信半疑と言った様子で二人を見る。


「本当にホドが浮かんでいましたの?それも……レプリカが」
「ああ、僅かに見えた町並みは、確かにホドのものだった。俺はよく覚えているよ……宙に浮かぶ姿はさすがに違和感があったけどな」
「閣下は我々にもあのレプリカ大地の事は話して下さっていなかった。しかしあの規模……かなり前から計画を進めていたのだろうな」


リグレットが、少しだけ寂しそうに言う。まだヴァンを信頼する心がせめぎ合っているのだろう。その横から、威勢良くアニスが腕を振り上げた。


「つまり総長二人のうち少なくともどちらかがあそこにいるってことでしょ?ならさっさと打ち落としちゃおーよ!」
「あっそれいいな!あの浮いてる大地が落下すればさすがの師匠もギブアップするだろ!」


輝く瞳でルークも同調した。きっと頭の中には、カッコよく砲弾を発射する戦艦が唸りを上げる姿が浮かんでいるのだろう。気持ちは分かるが、その妄想をすぐにクロが打ち消した。


「ルーク、あのレプリカホドにはああ見えても対空砲火が備えられている上に、今はプラネットストームの防御壁で守られている、迂闊に近づけば打ち落とされるのはこちらだ。あれだけ高い位置に浮いていれば、地上からの砲撃も容易には届かないだろう」
「えー、何だ……アルビオールに大砲ついてれば良かったのに」
「無茶言うな」
「うーんそうか、こうなったらプラネットストームを閉じる必要があるんだったな……大地降下が終わった後ついでにやってくればよかったかな」


プラネットストームを止める場所は、それぞれアブソーブゲートとラジエイトゲートの奥にある。「前」の事を思い出してぽつりと零すシロだったが、すぐにクロに睨まれてしまった。


「どうやってするつもりだ、宝珠も手元にないだろうが」
「あ……ああー、そうだった、宝珠はルークが受け取っているんだったな」
「は?」


初耳な情報に思わずルークが間抜けな声を上げた。


「ほうじゅ……?俺何か受け取ったっけ?あっそういえば、ローレライから声が届いた後、クロが同じような事言ってた!」
「そうだ、ローレライの鍵!結局あれはどうなったんだ、訳の分からない事を言っていたが、説明しろ!」


今思い出したとばかりにアッシュも声を上げた。シロとクロは顔を見合わせ、軽く頷き合った後クロがルークに近づく。訳が分からないまま首を傾げるルークの前に立つと、その肩に片手を置いた。


「ルーク、じっとしていろ」
「へっ?うわっ」


クロが軽くルークの胸に手を当てる。クロの名誉のために言っておくが、これは決してセクハラなどではない。しかし何をしているのか意味不明な行動ではあるので、何をしているんだとアッシュが口を挟む、前にクロが動いた。


「……確かにあるな」
「な、何が?!」
「ふん……こうか」
「ぎゃーっ!」


ルークは一瞬、クロの手が自分の身体の中に入ってしまったような感覚に陥った。慣れない奇妙な感覚に思わず変な声を上げて飛び退く。クロはそれ以上ルークを追いかけなかった。その手に、目的のものを取り出す事が出来たからだった。
文句を言おうとしたルークもアッシュもそれを見て言葉を止めてしまう。クロの手には、今までなかったはずの物体が握られていた。手の平サイズの、不思議な輝きを放つ赤い玉であった。


「やっぱり、取り込んでいたようだな。ちっ、この事を知ってさえいれば俺があの時こいつを約一ヶ月探し回って時間を棒に振る事もなかったんだがな」
「面目ないです……」
「なっ何だよそれー?!今その玉、おっ俺の中から出てこなかった?!」


勝手に一人で舌打ちするクロと一人で反省するシロに、ルークが半分パニックで大声を上げる。無理もないだろう。ルークを落ち着かせるためにクロは説明してやった。


「これが、ローレライの宝珠だ。ローレライからの電波が届きやがった時、一緒にプラネットストームから音素を介して送られてきたようだが、それをルーク、お前が身体の中に取りこんでいたんだ」
「どうして?!俺そんな事した覚えないぞ?」
「完全に無意識だからな。俺たちとローレライの音素振動数は同じなうえに、レプリカの身体は第七音素を取り込みやすい。そのせいだ」
「……という事は、俺達の方に届いて無かったローレライの剣とやらは……」
「あったりー」


アッシュが振り返れば、答えるようにシロがにへらと笑って手を振った。剣と宝珠、受け取る側にどちらにも完全同位体のレプリカがいたせいで起こってしまった事であった。同時に、「前」の時もそれで何か苦労したんだろうなあと大体想像がつく。
とりあえずこれでプラネットストームを止める手立てと、ローレライを解放するための鍵は揃った。そこで、今までじっと会話を聞いていたナタリアが手を上げる。


「今の話を総合すると、今からプラネットストームを止める事になるのですわね。しかしいきなりプラネットストームが止まってしまえば、さすがに各地で混乱が起きますわ」
「そうね……すぐに影響が出る訳ではないけれど、音素が循環されなくなって、譜術がどんどん使えなくなってしまうわ。あのレプリカ大地をどうにかするために、止めなくてはいけないのだろうけど……」
「そのあたりは、それぞれの国の偉ーい方々に皆への説明をお願いするしかありませんね。明日にでも話をつけに回った方が良いでしょう」


明日、という単語に皆の視線が集まる。ジェイドがクロへ視線を送った。


「今日はひとまずこのベルケンドで休み、それから動き始めた方がいいでしょう、皆さん大仕事をした後ですからね。どうですかリーダー?」
「誰がリーダーだ。……その提案に、異議は無いがな」


ため息をついたクロは、仕方が無いので代表して宣言した。


「……皆、今日はここまでだ。各自休息を取って、明日また動くぞ」


その言葉で、固まっていた室内の空気は動き出した。一様に様々な事を思い喋りながら、ぞろぞろと狭い部屋から出ていく。とっておいた宿に戻る者もいればどこかへ繰り出す者もいる。明日になれば皆ここに集まってくるだろう。かなり人数が増えたパーティの背中を見送り、ベッドの上にいるシロの元へ足を運ぼうとしたクロだったが、すぐそばにジェイドが立ったままな事に気付いて振り返る。


「何か用か」
「いえ、今更ながらに気になったもので。……あなたたちが以前いた世界では、どのような出来事が起こったのか」
「残念ながら、今とそう変わんねえよ。確実に「前」と違う部分は多々あるが、今のこの展開は、胸糞が悪くなるぐらい似ている」
「……それは、この瘴気もですか」


クロの目が細められる。ジェイドは笑っていなかった。今部屋に残っているのは正面からまるで睨み合うように立ちつくすクロとジェイド、そしてそれを見守っているシロの三人だけであった。


「一つだけ聞かせて頂けませんか」
「……何だ」
「この、世界に満ちる瘴気を、あなたたちは消す事が出来たのですか?」


ジェイドが尋ねたいことが、言葉にしなくてもクロには分かった。瘴気を消す方法、「前」にそれを一番最初に答えたのは、目の前のこの男であった。きっとジェイドの頭の中には、その方法が今浮かんでいる。きっとそれを、尋ねたいのだろう。
「前」はその方法を使ったのか。そして、「今」はどうするつもりなのか。


「ジェイド、大丈夫だよ」


ジェイドの問いに答えたのはクロではなかった。ハッと振り向けば、シロが安心させるように笑顔でこちらを見つめていた。


「「前」も、俺達が消してみせたんだ。この瘴気、俺達がどうにかしてみせるよ」
「シロ……あなたは……」
「だから大丈夫、ジェイドはとにかく大爆発の方をよろしく頼むよ。ルークも今ちゃんと大譜歌を歌うために練習しまくってるからさ、どうしても成功させなきゃ。な?」


にこにこと笑顔で紡がれる言葉に、ジェイドは何か言おうとして、そして何も言えなかった。少しだけ顔を伏せて、そのまま踵を返す。部屋を出ていく直前、振り向かずに口を開いた。


「私の頭の中の方法と、あなたたちが「前」に実行したという方法、……違っている事を祈っていますよ」


そのまま出て行ってしまったジェイドを見送り、クロはシロへ近づいた。シロはどこかおかしそうに笑っている。


「本当、ジェイドってああ見えて優しいよなー。最初あれだけ俺達の事警戒してたのに、あんな風に心配してくれるなんてな」
「ああ。気持ち悪い限りだ」
「そう言ってやるなよ、ただのツンデレおじさんなだけなんだから」


ひとしきり笑いこけた後、その口元に笑みをたたえたまま、シロはクロを見上げた。横に立つクロの袖を引っ張って、ベッドの縁に座らせる。引っ張られるまま腰を下ろしたクロは、シロと目線を合わせてから、静かに言った。


「約束の通りだ」


シロは笑顔のまま、頷いた。


「ああ。……終わらせよう。俺達で」


ベッドの上で重ねられた両の手は、固く固く結ばれていた。





   もうひとつの結末 59

12/05/09