一面真っ白な雪の世界、ロニール雪山。吹雪いていないだけマシという、ちらちらと雪が降りゆく寒々しい天気の中、ひとつだけこの寒さを和らげるものがあった。それは声だった。恐ろしくたどたどしい、しかしそれ故に聴いた者の心を和らげる不器用な歌だった。
「クロア、リオ、ゼ、トエ、リオ……?」
「違うわルーク、クロア、リュオ、ズェ、トゥエ、リュオ、よ。音程も低すぎるわ。まず何より歌の意味をきちんと理解し思い浮かべながら歌わないと……」
「あーっそんなもん出来るかー!俺、歌った事なんてほとんどないのにー!」
白い息を吐き出しながらティアに大譜歌を習っていたルークがとうとう頭を抱え込んだ。ルークとアッシュの大爆発を止めるにはローレライとの契約がおそらく必要不可欠で、それには大譜歌も必要になるのだ。だからこそルークは人生初めての譜歌を習っている所なのだが、その勉強はさっきから少しも前に進んではいなかった。時間が惜しいので雪が積もる山道での習い事だからというのもあるが、まず何よりルークが今まで音楽関係の勉強をほとんど受けていない事も原因だろう。まさか譜歌を歌う事になるとは、家庭教師のクロとて思いもしなかったのだ、仕方が無い。
「なあクロ、本当に俺が大譜歌を歌わなきゃいけないのか?歌わないと本当にローレライと契約出来ないのか?」
「ルーク……」
うるうると涙目でこちらを見上げてくるルークに、クロはうっかり絆されそうになってしまう。つい、どうしても無理なら譜歌を使わず契約出来そうな他の方法を探すか、と口を滑らせてしまう、前に、ティアがルークの頭を軽くぺちっと叩いてみせた。
「駄目よ、ルーク。ユリアは大譜歌とローレライの鍵を使って初めてローレライを召喚し、その力を使ったとされているわ。大譜歌を歌って、鍵にローレライを宿したそうよ。つまり大譜歌はローレライとの契約に無くてはならないものなの」
「ううーっ、そうなのか?」
「そうよ、だから頑張って。私なら、いくらでも練習に付き合ってあげられるから」
「そうだよルーク、頑張って!ルークならきっと歌えるよ!」
「そうですの!ご主人様、頑張るですの!」
様子を見守っていたフローリアンと勝手についてきたミュウに励まされ、ルークは諦めたようにがっくりと肩を落とし、またぶつぶつと大譜歌の歌詞をたどたどしく復唱し始めた。慣れない事に必死に取り組むルークが気の毒に思えるが、しかしここで折れては駄目だとクロも思いなおす。何せこれは、ルークの命にもかかわる事なのだから。
練習を再開したルークに笑顔を見せるティアに、クロは小声で話しかけた。
「……悪いな、付き合わせてしまって」
「いえ、いいのよ、ルークとアッシュのためだもの。私も譜歌を人に教える機会なんて滅多にない事だから、とても勉強になるわ」
「そうか」
「ええ。それに、必死で上手く譜歌を歌おうと頑張るルークの姿も、とても可愛いわ……」
どこか恍惚とした表情でルークを見つめるティアに、クロはほんの少しだけ不安になる。だがまあ、今はティアに任せるしかなかった。心の中でルークにエールを送ってから、クロは前を見据える。今己がすべき事は、ルーク達が譜歌の練習に集中出来る様に前を守り、進むべき道を作る事だ。幸い現れる魔物の数もあまり多くない、クロは一行の前に陣取り、行く手に立ちふさがる魔物を全部一人でばっさばっさと薙ぎ倒していく。
そうやって山道を進み、もうすぐ遺跡の入口が見えてくるだろう位置に差しかかった時であった。クロの足が前方を警戒するようにその場で止まった事に気づいて、教わったメロディを必死に追いかけていたルークがハッと顔を上げた。
「クロ?」
「静かに。……どうやらこの雪の中、わざわざ俺達の事をここで出迎えるために待っていてくれた奴がいるらしい」
「えっ?!」
クロ以外の全員が顔を見合わせる中、いつまでもここで立ち止まっている訳にはいかないと、クロがゆっくりと歩き出す。その手には油断なく剣の柄が握られている。後に続いて先を見つめた一同の中で、まず一番に声を上げたのはティアだった。
「き、教官!」
「ふっ、ようやく来たか、お前達」
すでに両手に拳銃を構えた姿でそこに立っていたのは、リグレットだった。ルークは一瞬ティアの反応に混乱するが、そう言えばリグレットは昔ティアの先生をしてくれていたのだと前に聞いた事を思い出す。きっとローレライ教団内で会った事があるのだろう、フローリアンも驚きの声を上げる。
「リグレットだ!どうしてこんな所にリグレットがいるの?」
「フローリアンか。という事は、導師は別のグループにいるという事だな」
「別行動している事はお見通しか。メジオラ高原にも別な邪魔者が行っているようだな」
「残りの起動されていないパッセージリングを考えれば、我々がここで立ち塞がる事などそちらも分かりきっていた事だろう」
先頭に立つクロとリグレットの視線が激しくぶつかり合う。両者の手に、力が籠った。後少しの刺激さえあれば、そのまま戦闘に突入してもおかしくない雰囲気だった。その空気がいたたまれなかったのか、ティアがリグレットに向かって一歩踏み出してみせる。
「教官、もうやめて下さい!兄さんが今からやろうとしていることを、教官も分かっているはずです!それでも兄さんに協力するというんですか!」
「ティア、もちろん私は全て分かっていて、閣下の下についている。閣下は私を孤独から救ってくださった……それに、預言によって決められた運命を辿る世界なんて間違っている、そうではないか?」
「それは……」
「決められてなんか、ない!」
言葉につまるティアに代わって、リグレットへ足を踏み出したのはルークだった。ルークはクロの隣に立ち、その腕を力強く掴んでみせた。
「世界は壊さなくたって変わっていける!ここにいるクロと、そしてシロが証拠だ!二人は実際に世界を変えて、ここにいるんだからな!」
勇ましく睨みつけてくるルークを見たリグレットの表情が、本当に微弱な変化だったが、どこか和らいだ気がした。しかしそう感じたのも一瞬で、次の瞬間にはいつもの冷たい表情に戻っていた。
「それが何の証拠だと言うのだ?実際に世界を変えたという証拠なんてどこにもない。そもそも、未来からやってきたという話それ自体が到底信じられるような話では無いだろう」
「ほう?さすがの副官殿も、今の現状には大いに戸惑っているようだな」
「……どういう意味だ」
にやりと笑うクロをリグレットが睨みつける。クロは見逃さなかった。クロの言葉に、リグレットの声が僅かに揺れた事を。
「世界を渡ってきたのは、俺たちだけじゃない事をてめえも分かっているはずだ。てめえをここに寄こした張本人こそが、未来からやってきた屑髭だろうが」
「っ!」
「その屑眉毛が何で過去に舞い戻って来たのか、聞いているはずだな?その事実こそが、世界はぶっ壊さなくても変わっていく事が出来る証拠だ。さっきのてめえの言葉は、その屑ちょんまげの存在そのものを否定するようなもんだろう」
氷のように固まっていたリグレットの表情がとうとう歪む。その顔に向かって、クロは容赦なく指を突き立ててみせた。
「さあ、自分のとこの大将を否定しておいて、てめえはどいつに忠誠誓ってるってんだ、ああ?」
「くっ……」
リグレットの拳銃を持つ手が震える。リグレットは明らかに動揺しているようだった。クロの言う通り、今までずっと矛盾した気持ちを抱えていたせいなのか。苦悶に呻くリグレットとそれを睨みつけるクロの様子を、ルークはハラハラした気持ちで見守り続けた。出来る事なら、戦いたくは無い。
やがてリグレットは、構えていた拳銃を静かに下ろした。
「……貴様の言う通りだ、私は迷っている。ある日いきなり閣下が二人になり、雰囲気が違うもう一人の閣下がこれから起こる未来の出来事を語ってから、な……。すぐに信じられるような話では無かったが、あの方の仰る通りに世界は動き、お前達も四人に増えていた……」
「教官……」
ティアが同情するような声を上げる。ティアはまさに赤毛がこの世界で初めて四人集結する所を目の前で見たのだから、感慨も一入なのだろう。
「挙句の果てに今までの閣下がもう一人の閣下にこき使われる現状を見て確かに、このままでいいのだろうかとは思っていた……」
「師匠こき使われてるんだ……」
「……一つだけ、聞かせて」
リグレットがクロの目を真っ直ぐ見つめる。クロはその視線を受け止めて、無言で先を促した。しばしの沈黙の後、静かにリグレットが問う。
「世界は本当に変わるのか。こんな、預言に縋って生きている下らない世界から、本当に」
クロは、揺れるリグレットの目を見つめ、はっきりと頷き、答えた。
「そのために俺たちは来た。絶対に、変えてみせる。守らなければならない、大切な者のためにも」
その言葉には重みがあった。クロの覚悟全てが籠る言葉だった。それが、傍から聞いていたルークにもよくわかった。その言葉を受け取ったリグレットは、しばらく噛み砕くようにじっと目を閉じた後、再び目を開けてこちらを見た。その目には、決意が込められていた。
「ならばその誓い、本当に貴様達が果たす事が出来るか、試してみると良い。あの閣下を乗り越え、本当に世界を変えられるのならば」
「教官!それじゃあ……!」
「ただし!私を失望させたその時は、この手で直接引導を渡してやる。良いな!」
「ああ……また余計なもんまで抱え込んじまったな」
クロがやれやれと肩をすくめる。リグレットも拳銃を懐にしまった。それが合図だった。即ち、リグレットが敵で無くなった瞬間だった。見届けたルークはガッツポーズをして、横に来たフローリアンと喜びに笑い合う。その中でも一番嬉しそうなのは、やはりティアであった。
「教官……ありがとうございます」
「ティア、お前もだ。この堕落しきった世界を変えるという事を甘く考えるな。少しでも諦めれば、私はいつでも銃口をお前に向ける。分かったな」
「はいっ!」
元気よく返事をしたティアに、リグレットは初めて、僅かに微笑んでみせた。そんな顔も出来るんじゃねえかと思いながらクロは視線を逸らす。これから進むべき道をしかと見据える。パッセージリングへ繋がる遺跡の入口である。ここより下へ下った、見えにくい位置に入口はあるはずだ。
「時間を食った、さっさと先へ進むぞ」
「僕の出番だね!まっかせてー!」
たったかと元気よく駆けだしたフローリアンを先頭に先へ進めば、雪に埋もれかけながらひっそりと遺跡への入口はあった。その前に立ち、行く手を塞ぐダアト式封咒を見つめるフローリアンの横に立って、ルークが心配そうに声をかける。
「フローリアン、本当に大丈夫なのか?イオンでさえこれを解くのに、すごく疲れてただろ?」
「うん、大丈夫!イオンはずっと一人でこれを解いてきたけど、僕はこれ一個だからね。頑張るよ!」
にっこりとこちらを安心させるように微笑むフローリアンを見て、ルークはひとつだけ頷いて一歩下がった。フローリアンの決意は固い、今傍から何を言っても無駄だろうと悟ったのだ。ルークの肩に手を乗せて、クロもその背中を見守る。フローリアンは両手をかざし、じっと眼を閉じて何かを念じている。その姿が、前に見たイオンの姿と重なる。そこからカッと目を開け、ダアト式封咒を見つめたフローリアンは、
「えーい開けーっ!」
バキィッ!
「「えええええっ?!」」
拳を作り、勢いよく目の前のダアト式封咒に殴りかかった。フローリアンの拳を受けた封咒は、そのまま粉々に砕かれて消えてしまう。ダアト式封咒は解けた。解けたが、何故だか素直に納得できない解き方である。
「やったー解けたよ!」
「と、解けたけどさ、何かイオンとやり方が違わないか?」
「そう?僕なりにイオンに教えて貰った事と、シンクに教えて貰った事を混ぜてみたんだ!」
「シンクに教わった事を混ぜる必要があったのか?……で、でもまあ、解けたんだから結果オーライだよな!ありがとなフローリアン!」
戸惑いながらもフローリアンを労うルーク。少しだけ痛む頭を押さえながら、クロも気を取り直す事にした。封咒が解けて喜ぶルークとフローリアン、そして後ろに控えていたミュウを抱えるティアとリグレットを見渡してから、開け放たれた遺跡の入口へ歩き出す。
「さあ、中へ入るぞ。ここからが本題だからな」
(俺にとっての、な……)
クロはそっと自分の掌を見つめてから、遺跡へと足を踏み入れた。自分の考えている計画が、この先に待ち受けるものに通用する事を願いながら。
もうひとつの結末 54
11 /04/22
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