周りでは、作業の音や人々のざわめきに満ちているはずであった。しかし周囲の音は何か透明な壁が貼られているかのように、何も聞こえてこなかった。シロの耳に聞こえてくるのは、緊張で早まる己の息遣いだけだ。一刻も早くこの空間から逃げ出したいのに、目の前の強い瞳がそれを許さなかった。
明らかにうろたえ、戸惑うシロの姿に、詰め寄る形のままクロが目を細めた。怖い。


「話せ」
「う……」
「ルーク」


普段は死んでも言わない癖にこういう時だけ本当に巧みに「ルーク」を使ってくるクロはとんでもなくずるいと思う。心の中で泣き言を呟いたシロは、その強い視線から逃れるように俯き、大きく息を吐いて身体から若干力を抜かせた。シロがとうとう、負けを認めたのだった。


「……そうだよ。俺の身体には今、瘴気が渦巻いてる。実際調べた訳じゃないけど」
「最初から知っていたんだな」
「ああ、「前」はティアがパッセージリングを全部起動してくれていたから。それをずっと、見てたからな」


軋む己の身体を自覚しながら、シロは軽く回想する。そう、瘴気の事は知っていた、「前」も途中で気づく事が出来た。しかし分かった所で、ティアを止める事は出来なかったのだ。


「パッセージリングはユリアの血筋の者でないと起動出来ないんだ。だから「前」はティアに任せるしかなかった。でも今回は、俺にも起動する事が出来たんだ」
「何故だ」


分かっているんだろうとクロが目で問い詰める。その視線に逆らう元気など、もう無かった。シロは仕方なく頷く。


「俺も実は最初は一か八かだったんだ。でも出来た、多分……ローレライのおかげで」
「ローレライだと?」
「俺の身体には今、ローレライの第七音素が混じっているみたいなんだ。浮遊機械を直してもらうためにローレライを呼び出した時に教えてもらった。だからそのローレライにかけてみたんだけど、上手くいって本当によかったよ」


へら、と笑ってみせるとクロの眉間の皺がぐっと増えた。やばい、このままだとさらに大変な事態になってしまう。まるで言い訳をするみたいにシロは一気にまくしたてた。


「仕方ないだろ、またティアにやらせる訳にはいかなかったんだ!「前」はイオンが……ティアの瘴気を一緒に持っていってくれてあいつは助かった。でも今度はイオンを犠牲にさせる訳にはいかない、もちろんティアもだ!だから俺がやるしかないだろ?他に起動させる事が出来る奴はいないんだから!」


シロの言葉を、クロは静かに聞いていた。その顔をシロは精一杯見つめる。ここで引く訳にはいかなかった。まだ起動させなければいけないパッセージリングは残っているのだ、例え全てを知られようとも、これだけはやめる訳にはいかない。
しばしの静寂が辺りを包んだ。やがて脈打つ自分の鼓動ばかり聞いていたシロの耳に気のせいか、クロが両手で掴む背後の手すりが軋む音が聞こえた気がした。


「……それで、一人で勝手に決意して突っ走りやがったって訳か」
「だ、だって……これは、俺が決めた事だから」


クロの呟きのような言葉にシロがおどおどと、しかしはっきりと伝える。また手すりの軋む音、それと同時に目の前のクロの顔が、ギリッと歯を食いしばったのが見えた。
その瞬間。


ガンッ!!
「っ?!」


激しい音にシロは身を竦ませた。クロが拳で手すりを叩いた音だった。その勢いのまま、クロが叫ぶ。


「何故言わなかった!」


それは怒りの感情だった。思わずシロが恐怖を感じてしまいそうになるほど、クロの言葉には激しい憤りが詰まっていた。


「何故一人で決めた!何故隠した!何故……何故言わなかったっ!」


クロはまるで自分の中から溢れてくる激情を抑えられなくなったような様子で次々と言葉を叩きつけた。叩かれた衝撃で少々へこんでしまった手すりの上に置かれた拳が、小さく震えているのがシロにも分かった。
クロの大声に一瞬飲まれたシロは、このままじゃ駄目だと慌てて声を上げる。


「だって、だって言ったら絶対お前止めてきただろ!こればっかりは止められる訳にはいかなかったんだ、だから」
「止めるとか止めないとか、そういう問題じゃねえ!」
「俺にとってはそういう問題だ!俺はどうしても、やり遂げなきゃならないんだ!」


以前誓った事を再び胸の内で抱きしめながら、シロは言う。ここで言葉を止めてしまえば負けてしまう、口喧嘩では絶対に勝てないと分かっているのだ。


「もう誰も犠牲になんてしたくないんだ!ルークやアッシュ、この世界、それに……クロ、お前も!」
「?!」
「もうあんな思いは嫌なんだ!別れる前はあんなに怒ったり叫んだり戦ったりしていたのに、温かかったはずなのに、次に会った時にはもう固く冷たくなってしまった身体を抱くのは、嫌なんだ!」


シロはクロの目を真正面から見返した。クロの目には先ほどの怒りがまだ燻ぶっていたが、シロの目にも同じように激しい感情が漲っていた。それは、この世界に来てからずっと胸の内に秘めていた、大事な大事な決意の光だった。


「俺は誓ったんだ。「前」は俺が沢山壊してしまったから、守れなかったから、今度こそ守ってやるって。何も欠けることなく、お前もひっくるめて全部救ってやるって。だからお前に何を言われようと、俺は止まらない。絶対に!」


強い視線と視線がぶつかり合う。どちらも曲がる事折れる事なく、真っ直ぐ互いを貫いた。それは一瞬の出来事であったが、シロにとってこの瞬間が永遠の時間のように思えた。
永遠では無かったとシロが気付いたのは、交差していた視線が外れたからであった。同時に身体が動かなくなっている事に気づく。あまりにも突然の出来事に、どうやらシロの頭が追いついてこれていないようだった。シロが今の現状を理解したのは、もうとっくに逃げ出せない位置に己がいる時だった。


「く、クロ?」
「………」
「あの、俺今結構真剣に話してたんだけど……聞いてたか?」
「聞いていた」
「ならどうしてこんな事になってるんだよ」
「聞いていたからこうなってるんだろうが屑が」


真横から聞こえるクロの声が少し低くなると同時に、身動きの取れないシロへの力も強くなって息が苦しい。そう、アレ俺絞め殺されるんじゃないかと思うぐらいの力でクロがシロを抱きしめているのだった。今までの状況からのこの展開に、シロの思考は完全に置いてけぼりとなっていた。
ただ、不思議な事に。混乱しっぱなしの頭の中で、それでもかけがえのない半身にに思い切り包まれているこのぬくもりに、安堵を覚えてもいた。それがさらにシロを困惑させた。
今、何を言い争っていたんだっけ?


「お前は屑だ。言われた事言った事を全部忘れるほど馬鹿で鳥頭以下の屑だ」
「な?!」


まるで心の中を読まれたような言葉に一瞬シロは回線を繋がれたのかと思った。しかし頭痛もしないので気のせいのようだ。シロの反応を気にも留めないように独り言のようにブツブツ言うクロは、相変わらずシロをぎゅうぎゅうと抱きしめたままだった。


「どうしててめえはいつもそうなんだ、何度言い聞かせれば分かるんだ!」


クロの腕の力がさらに強まる。とうとう死を覚悟し始めたシロの耳に、その時言葉が転がり込んできた。今までの叩きつけるような叫び声とは違う、しかし確かにクロの言葉だった。クロの心からの言葉だった。知らずに繋がってしまう厄介な同位体同士の回線からなのか、それとも油断したクロの口から実際に零れ落ちたのか、シロには判断がつかなかったが。それでも。
その言葉は、シロの心の中にストンと落ちてきた。


「俺が……いるだろうが」


それは今まで聞いた事がない声だった。基本的にクロは今も昔も人に弱みを見せる事がない。それはシロとて例外ではなかった。世界で一番気を許してもらっていると自負してはいたが、それでも決定的な弱みというものを見た事はなかった。だからシロは生まれて初めて聞いた。こんなに弱々しいクロの声を。


「お前が何を背負おうが、何を決意しようが、それはお前の勝手だ。だがそれを全部一人で背負えと誰が言った。一人で抱え込んで先に進めと、誰が言った」
「クロ……」
「ずっと前に言ったはずだ、俺は隣にいると。お前の重荷の全てを共に背負うと。……忘れたとは言わせねえぞ」


クロの言葉に、かつての光景がシロの中に蘇る。あれは、アクゼリュスでの事だったか。「前」の事もあって不安定だったシロの傍にいてくれたクロが、取り乱した所を支えてくれたクロが、シロへかけてくれた言葉たち。
周りを見る暇も無く先へ先へと進むあまり、心の奥底にしまい込んだまま思い出す事を忘れてしまっていたらしい。


「覚えてる……覚えてるよ、クロが俺に言ってくれた言葉」
「どうだかな。……まあいい。忘れたのならその都度この鳥頭に言い聞かせればいいだけだ。何度でもな」


一度両手での拘束を解くクロ、それにシロがホッとする間もなく、ガッシと頭を固定された。驚いて目を見開くシロの目の前にクロの瞳が突きつけられる。相手の息が顔に掛かるほどの至近距離で、クロは静かに言った。


「俺は、ここにいる」


シロがその言葉を噛み締め理解出来るように。


「俺は、生きている」


言い聞かせるように。


「ずっと、お前の傍に」


ゆっくりと。


「お前が誓ったように、俺も誓った。最初は世界なんぞどうでもよかったが……お前がこれほどまでに愛する世界を守ると。そして、お前を守ると」


いつからだったのだろうか、今となってはクロ自身にも分からない。きっと自分でも気付かないうちに、その存在が大きくなっていったのだろう。あんなに憎んでいた己の半身が、何よりもかけがえのない存在となるなんて。


「いいか、これだけは忘れるな。俺という存在を。二度と忘れないように、魂にでも刻んでおくんだな」
「あ……アッシュ……」
「……分かったな」


クロが問いかければ、シロは無言で頷いた。なおもクロを見つめるその翡翠の瞳からまるで心の枷が一部剥がれたように、一粒だけ、音も無く滴が頬を伝う。
しばらく見つめ合った二人は、そのままゆっくりと、頭を動かして……。


ドォン!!

「「?!」」


いきなり町中に轟いた爆音に、同時にハッと反応する。その直後、二人のいた広場へ人影が転がり込んできた。非常に慌てた様子のルークだった。


「クロ!シロ!大変だっ!……あ」


何かを捲し立てようとしたルークは、何かに気づいたように動きを止めた。そしてどこか気まずそうに顔をそむける。


「ご、ごめん、俺すっごく邪魔しちゃったみたいで……いつも他人のシュラバに入る時は気をつけるようにって言われてるのに」
「は?あ……!るっルークこれは違くてっていうか誰だよそんな事言ったの!修羅場ってどういう意味だ!」
「俺が教えた」
「お前かーっ!」


さっきの雰囲気はどこへやら、バッと離れていきなり揉め始めたクロとシロにルークがポカンとしている間に、アッシュが早足で駆けつけてきた。


「ちっ、何をしている!痴話喧嘩している暇はないだろうが!ルークもしっかりしろ!」
「痴話喧嘩じゃないっ!」
「十分痴話喧嘩じゃねえか!そんなの後でゆっくりやれ!こっちは一大事だ!」
「そっそうだ!そうなんだよ!」


言い合っている間も人々の悲鳴や怒号がかすかに聞こえてくる。尋常じゃない様子に顔色を悪くするシロとクロに、必死な様子でルークが言った。


「この町に、いきなり六神将が攻めてきたんだよ!」
「「!!」」





   もうひとつの結末 47

10/06/07