静かな渓谷にゆっくりと吹きわたる風を全身に受けながら、ルークとシロ一行はタタル渓谷を進んでいた。ふもとにアルビオールとギンジを残して、イオンの身体をいたわりながら、そしてさりげなくシロの体力も考慮しながら、無理のない速度で渓谷を進んでいく。幸い強い魔物も出てこなかったので、アリエッタの兄弟ライガが全て蹴散らしてくれた。


「気持ちいいなー。俺、ここには夜にしか来たこと無かったから何か新鮮だな」
「ああ、お屋敷から飛ばされた時か」
「うん。シロも同じか?一番最初に、ここに来たのか?」
「まあなー」


ゆっくりと伸びをするルークにシロも己の昔の頃を思い出していた。全てが初めての経験だったあの頃。暗がりに揺れる海の水面も、闇の中で咲き誇るセレニアの花も、こちらに襲い掛かってくる魔物も、使用人でもない王族でもない赤の他人と旅をする事も、全てが。
あの時ルークがどのように感じどんな思いを抱いたか、それはシロには分からない。同じくルークにだってシロが何を思いどう感じたかなんて分からないだろう。始まりは同じ存在だっただろうが、育つ家庭で完全に別な存在となっているからであった。そしてそれは、被験者とレプリカも同じ事である。
アリエッタに手を引かれながらついてくるイオンも、気持ち良さそうに目を細めた。


「ここはとても静かで、のどかな所ですね。ここにいると世界の危機が遠いものに思えてしまいます」
「アリエッタもここ、好き」
「まあそんなにゆっくりもしてられないからな、適度に急いで……」


言いかけたシロは何かを感じて口を閉じた。もうすぐセフィロトへ続く入り口が見えてくるはずである。警戒をしなければならないほどの強い魔物は今まで出てこなく、そしてこれからも出てこないはずだった。しかし今感じた何者かの気配は、明らかにその辺の魔物のものではなかった。
それを感じたのはシロだけではなかった。じっとアリエッタの後ろについていたライガが、急に鳴き声を上げて落ち着かない様子でウロウロと歩きだしたのだ。


「ど、どうしたの?」
「やっぱり何かいるのか?でも一体何が」
「シロ!」


呼んだと同時にルークがシロへと飛び掛かって、地面へと引き摺り倒した。その頭上を大きな影が飛び越えていく。すぐに飛び起きてルークと並んで剣を構えたシロは、いきなり襲ってきたその姿を見てハッと目を見開いた。


「いきなり襲ってきやがって何なんだよこいつ!魔物か?」
「こいつは……ユニセロス……!」
「ユニセロスとは、古代イスパニア神話に出てくる『聖なるものユニセロス』の事ですか?」


イオンの言葉にシロはゆっくりと頷いた。美しい青の羽を揺らめかせながら、ユニセロスはこちらを睨みつけている。その視線の先は、明らかにシロであった。それに気付いたルークがシロを振り返る。


「なあ、あいつシロの事見てないか?何でだ?」
「そ、それは……」


シロには心当たりがあったが、言えなかった。確かユニセロスは、瘴気を嫌う生き物だ。「前」は瘴気を吸っていたティアに反応して襲い掛かってきたはずだ。そう、瘴気が近づいてきたから、このユニセロスは怒っているのだ。瘴気をその身に溜め込んだ、シロに。
そんな事とは知らないルークが、威嚇するようにいななくユニセロスに剣を突きつけながら一歩近づいた。ルークとしてはシロに戦わせたく無い所なのだ。


「何だよ、やるのか?」
「ルーク止めろ、こいつは本当なら人を襲うことは無い大人しい生き物なんだ!」
「でも今俺達に襲い掛かってきてるじゃないか!」
「そっそれはそうだけど!」
「待って!それなら、アリエッタに任せて」


そこに進み出てきたのは、アリエッタだった。後ろからゆっくりとライガが歩いてきて、ユニセロスへと近づいていく。


「今、どうして襲ってきたのか、聞いてもらってるから」
「そっか、アリエッタは魔物と話が出来るんだっけ……すげーなあ」


ルークが感動している中、人間には分からない魔物の言葉でしばらくユニセロスとライガが話をしているようだったが、やがてライガがこちらへと戻ってきた。その頭をゆっくりと撫でてやってから、アリエッタが振り返る。


「あの子、気が立ってたみたい。もう襲わないって」
「そうですか、ありがとうございますアリエッタ」
「ど、どういたしまして、です」


イオンにお礼を言われて顔を赤らめるアリエッタ。その後ろでユニセロスはじっとこちらを見つめた後、ゆっくりと歩き去っていった。後姿を見送ってから剣をしまったルークは、同じく剣をしまったシロに心配そうな顔で近づいてきた。


「大丈夫かシロ?いきなり引き摺り倒したりしてごめんな、怪我してないか?」
「それなら俺が礼を言わなきゃならない事だろ、ありがとなルーク。怪我は無いよ」
「そっか、それならよかった!にしても、何でいきなり襲ってきたんだろうなあいつ」


笑いかければホッとした表情でルークがユニセロスの去った方向を見る。シロは内心ギクリと固まった。その理由が知られればまず問い詰められるだろう。瘴気ってどういう事だ心当たりはあるのか、と。ジェイドやクロみたいに逃げられそうに無い相手はここにいないが、それでも問い詰められる事には弱いのだ。
一人でこっそり慌てるシロの横から、ルークの言葉を受けてアリエッタが口を開く。


「あ、それなら……」
「そっそれより!そこにちょうど入り口があるぞ!早くパッセージリング起動させちゃおうそうしよう!イオンごめんだけどダアト式封咒の解除をお願い出来るか?!」
「わ、分かりました、待ってて下さい」


アリエッタの言葉を遮って強引に先へと進めるシロに、戸惑いながらもイオンは従ってくれた。一見美しくも見える文様を浮かべたダアト式封咒へと手をかざし、目を閉じる。封咒はすぐに破られたが、息を切らしたイオンがへたり込んでしまう、前にそばにいたルークが支えた。


「おっとと、大丈夫かイオン?」
「はあはあ……ありがとうございます、僕は大丈夫です。早く先に行きましょう」
「ごめんなイオン。よし、さっさと終わらせよう」
「……?」


自分の言葉をさえぎったシロを不思議そうな顔で見つめているアリエッタから無理やり顔をそらして、シロはパっセージリングへと続く通路へと足を踏み入れた。パッセージリングを起動させる時に襲ってくるであろう苦痛を、心の中だけで覚悟しながら。




「むむっ偽王女が自ら処刑されに再び現れるとはグホッ!」
「お邪魔虫野郎は退いてやがれ!」


バチカルの城にずうずうしくもまだ居ついていたらしいモースは、出会い頭早々アッシュによって床に沈められた。横にいた大臣なんかはものすごく驚いていたが、インゴベルトはその後ろから現れたナタリアだけを見ていた。


「ナタリア……」
「陛下、戦争の事は考え直して頂けたでしょうか。民の幸せのためなのは当然ですが、今は国同士が争っている場合ではないのです。この大地は、滅びかけているのですから」
「何を戯言を……グフッ」
「だからてめえは黙ってろ」


無粋な水を差そうとするモースをアッシュがさらに押さえ込む。その様子を見ながらクロがあたりを警戒するが、どうやら他に六神将やヴァンはいないようだった。ここにいるのがモースだけで本当によかった。ホッとしている間にもナタリアが無言のインゴベルトに、この世界に訪れている危機と、預言が今いかに意味をなしていないかを説明していた。


「……ですから陛下、マルクトと平和条約を結び、外殻をクリフォトへ降ろすことの許可をわたくし達に下さい」
「なんということを!マルクト帝国は長年の敵国、そのような事を申すとはやはり売国奴よ」
「騙されてはなりませんぞ陛下、貴奴らマルクトに鼻薬でもかがされたのでしょう。所詮は王家の血を引かぬ、偽者の戯言……」
「黙れ、血統だけにこだわる愚か者が」


ナタリアの発言にいきり立つ大臣とモースだったが、クロが一睨みすれば言葉をつまらせて黙り込んだ。なおも黙り込むインゴベルトへ、ナタリアが最後に口を開く。


「陛下、いえ、お父様、わたくしはお父様のお傍で十八年間育てられました。その年月にかけてわたくしは誇りを持って宣言しますわ。わたくしはこの国とお父様を愛するが故にマルクトの平和と、大地の降下を望んでいるのです」


じっとナタリアの言葉に聞き入っていたインゴベルトは、やがて顔を上げてナタリアを真っ直ぐ見つめた。その瞳にはもう、迷いは無かった。


「……よかろう」
「な、なりませんぞ陛下!」
「こ奴らの戯言など……!」
「黙れ!我が娘の言葉を、戯言などと愚弄するな!」
「お父……様……」


諦め悪く抗議の声を上げようとする外野に、インゴベルトが一喝する。今まで気丈な表情で立っていたナタリアがその時初めて、口元に手を上げて瞳を潤ませた。インゴベルトは優しい瞳でナタリアに手を差し出す。


「ナタリア、お前は私が忘れていた国を憂う気持ちを思い出させてくれた……」
「お父様……わたくしは割り切ったつもりだった、けど、それでも……お父様の娘では無い事が、とても辛かった……!」
「確かにお前は私の血を引いてはいないかも知れぬ、だがお前と過ごした時間は……お前が私を父と呼んでくれた瞬間の事は、忘れられぬ」
「お父様……!」


駆け寄ったナタリアを、インゴベルトはしっかりと抱きしめた。これでもうこちらは安心だろう。後ろで控えていたティアとアニスもホッと息をついている。それを見守ってから、そっとクロは謁見の間から外へと出た。後からアッシュもついてくる。


「おい、どこへ行く」
「こちらがひと段落ついたからな、あちらの守備を確かめるために回線を繋ぐ」
「回線はシロが遮断しているんじゃないのか」
「また拒みやがったその時は、力づくでこじ開けてやるだけだ……」
「……ほどほどにしろよ」


アッシュはそう忠告してやるだけで精一杯だった。フンと鼻息だけで返事をしたクロは、さっそく目を閉じて完全同位体同士の繋がりを意識した。頭の中で手を伸ばせば、意外とあっさり相手は捕まった。今度は拒む意思が無かったのかそれとも。


『いって!あ、あークロかー、ひっ久しぶりー』
「言いたい事はそれだけか?」
『ごっごめんって!勝手に行動したりした事は後でいっぱい謝るから今怒るのはやめてくれマジで』


聞こえてきたシロの声は随分と参っている様子だった。その事にクロは顔をゆがめる。今はクロとシロの間だけで回線を繋いでいるのでどんなやり取りが行われているのかわからないアッシュは、しかしそのクロの表情に怖気づいて近づけなかった。


「何かありやがったのか」
『いや、タタル渓谷を歩くのにちょっと疲れただけだよ、マジマジ。あっここのパッセージリングは今起動させたから安心しろよ、振動数もきちんと計測できたし』
「………」


問い詰めたかった。しかし遠く離れている今それを行うべきではない。相手はどうやらまだタタル渓谷にいるようだから、無駄に体力を消耗させるべきでもない。分かっていはいるがもどかしかった。シロが何かを隠しているのは、確かなことなのに。


「……俺達はバチカルにいる。陛下の説得はもうすぐ終わるだろう」
『そうか!よかった、それならそのまま陛下をユリアシティに送ってくれよ』
「ああ、ついでにグランコクマにも寄って、あちらの陛下も拾おう」
『頼むよ。それで平和条約締結の際にさ、ケセドニアのアスターも呼んでくれってイオンに頼まれたんだ。だから』
「それならケセドニアにも俺達が寄る」


畳み掛けるように言うクロに、おそらくシロは向こうで目をぱちくりとさせているだろう。その様子が目に浮かぶようで、クロは少しだけ気持ちが柔ら無くなった。


「てめえは先にシェリダンに戻って休んでいろ。導師も働かせたんだろう、疲れているはずだ」
『う……。……ん、分かった』


断れないようにイオンの事も引き合いに出せば、シロは反論することなく承諾してくれた。それほど自身も疲れているという事だろうか。また口から小言が出そうになって、クロはようやくそれを飲み込んだ。


「それじゃあいったん回線を切るぞ。おそらく護送には数日かかるだろう、その間にしっかりと休んでおけ」
『うん』
「また何か一人で変な事していたら、今度こそどこかに監禁でもしてやるからな」
『うわっクロ怖えぇ!分かってるってば!』


釘を刺しておいて、心の中で少し名残惜しみながらもクロが回線を切ろうとした直前。微かな声がクロの心に届いた。それがクロに届けようとした言葉だったのか、回線を繋いでいるが故に言おうと思っていなかった本音が伝わってしまっただけなのか、それは分からなかったが。シロが、色々尋ねたいことをすごく我慢しているクロに気付いているのは確かで。


『……ごめんな』


それが何に対しての謝罪だったのか、問いかける時間は無かった。





   もうひとつの結末 45

10/04/26