ローレライと対面するこの光の海の中はとても心地よく、眠ろうとすればいつでも夢の世界へと誘われるぐらいの空間であった。きっとそれは、ここが第七音素で満ちているからだろうとシロは気がついた。そうやって考えるのは、やはり先程のローレライの言葉のせいだろう。
シロと、そしてクロの今の身体は、「元の世界」から持ってきたものだと。ローレライはそう言った。
『ルーク、お前はこの世界で目覚める前の事を、覚えているか?』
ローレライはシロを混乱させぬようにゆっくりと語りかけてきた。この世界で目覚める前、と言えば元の世界の「最期」の事であろう。シロは首を横に振った。
「あんまり覚えてないんだ。お前を……ローレライを解放して、クロを拾って、そこから先はぼんやりして何が何だか」
『無理もない。あの時は自らの音素乖離と、人間達が言う大爆発とやらがその身に起こっていたのだから』
「……そ、そうだよな、今考えると俺本当にやばい事になってたんだよな……」
あの時は全てに無我夢中で、前を見る事だけに一生懸命で、なるべく意識しないようにしていた。そうしなければ、剣を持つその手が震えてしまいそうだったからだ。全てが終わった後に何が待っているのか、出来れば考えたくなんてなかった。それでも必ずやって来る未来を見据え走り続ける事しか、出来なかったのである。
「その時に、何が?」
『ああ。私が地核から解放され、音譜帯へとなりえた時、お前たちの意識はもうほとんど無かった』
「………」
当たり前だ。あの時シロはともかく、クロは……。ひどく冷えた身体を抱き締めたあの感触が思い起こされて思わずきゅっと身を縮こまらせたシロに、温度は感じないくせにどこか温かな光が寄り添うように触れる。
『私の願いを叶えてくれた、この世にたったふたりきりの我が同位体、そんなお前たちに何か報いる事が出来ればと考えていた時……声が聞こえたのだ』
「声?」
『そう、声だ。今にも消えそうな存在を奮い立たせるように、世界中にその想いを届け、見せつけ、認めさせようとするように、限りない想いではち切れんばかりの声だった』
「……その声は、何て言っていたんだ?」
もちろんシロ自身はその声を聞いた覚えも、放った覚えも無い。ローレライは少し間を置いた後、厳かに言った。
『嫌だ、と』
「……へ?」
『嫌だと言っていた。このまま終わるのは、死なせるのは嫌だと。生きたいと、生きて欲しいのだと大きな声で叫んでいた。私はあんな大きな声を聞いたのは、生まれて初めてだったかもしれない』
その時の事を思い出しているのか、どこかしみじみとローレライは言う。予想外だったその言葉にシロがポカンとしている間に、話は勝手に続いていく。
『本当は私自身がお前たちの願いをかなえてやりたかったが、第七音素の身では直接世界に干渉出来ない。だから私は、お前たちにチャンスを与える事にした。お前たちが自らの手で自らを幸せに出来るように、少しだけ力を貸して、な。自分達の手で自分達を幸せにするのならば、他の人々はもちろん世界からも文句は言われまい』
「いや、あの、ローレライ、俺もうついていけてねえんだけど」
『まったく覚えていないか、ルーク。嫌だと言っていたのは、お前もなのだぞ』
「お、俺、そんなこと言ってたの?」
シロには一切覚えが無い話だ。そのときの事を何とか思い出そうとしたシロだったが、先程のローレライの言葉の一部に気になるところがあった気がする。それが何であるかを考えるより早く、ローレライが再び語りだした。
『つまり私の力でお前たちを身体ごと、お前たちが歩みだしたばかりの世界へと、つまり過去へと送り出した訳だ。何、この世界の私と交渉するのは難しい事では無かった。共に自らの唯一の同位体たちの事を救ってやりたいという想いは、同じであったからな。どちらも私なのだから当たり前の事だが』
「でも、でもローレライ!俺の身体は乖離を起こしてたはずだろ!その身体をそのまま持ってきただけなのに、何故俺は乖離してないんだ?それに……クロだって!」
忘れる事は無い。己がいつ消えてしまうかも分からないあの恐怖、温かな体温を感じる事が出来なかったあの身体、それらを思い出しながらのシロの言葉に、ローレライはあっさりと返答した。
『そうだ、お前たちの身体はボロボロだった。私の一部を分け与えなければならないほどに』
「……は?一部?」
『私の一部、つまり第七音素だ』
思わず自分の身体をちぎってクロの傷をせっせと埋めるローレライなんかを想像したシロだったが、ローレライはすぐに付け足してくれた。ローレライは第七音素の意識集合体なのだから、言われてみれば当たり前の事だ。
しかしそれは、つまり……。思わず自分の胸に確かめるように手を置くシロに、ローレライはゆっくりと頷く。
『アッシュとて死んだ身体を埋め合わせるのに結構な音素を必要とした。だが特にルーク、お前の身体はほとんど乖離していた……』
「……つまり、俺の身体は、今」
『その身体を構成する第七音素のほとんどが、私のものだ』
具体的にどのぐらいかを、聞く事が出来なかった。聞いて絶望的な答えを得る事が、恐ろしかった。ずっと、覚悟していた事なのに。あの時の自分の身体はもう限界だったのだと、分かっていたはずなのに。それなのにローレライが消えれば共に存在ごと消えてしまうであろう自分を自覚した途端に、逃げ出したくなるぐらい恐ろしくなった。地面の上に立っている訳ではないはずなのに足が震えた。その腕も震えた事に気づいたシロは、目の前で揺らめく第七音素の光に気がつき慌てて首を勢い良く振った。
「駄目だな、俺……あれから何年も経ったのに、あの頃のままじゃないか」
その恐れは元の世界のものと同じものであった。死への恐怖だ。生きている限り死の恐ろしさからは逃れる事は出来ない。しかし恐れて立ち止まっていては、立ち向かう事も出来ないのだ。シロは自分を奮い立たせるために、パッと顔を上げて笑ってみせた。
おそらく、笑えているはずだ。
「それじゃあ俺が今ここでこうして生きているのは、ローレライのおかげなんだな」
『うむ、今ここでこうして対話出来るぐらいは、お前に私の一部を貸し与えている事になる。そのせいか私には分からぬが、大爆発とやらもお前たちの間では収まっているようだな』
「そうなのか……よかった、今突然始まったらどうしようかと思っていたんだ」
今は、やらなければならない事がある。ここで消えてしまっては意味が無いのだ。シロの強い決意の灯る瞳に、ローレライはどこか満足げであった。
『そうだ、お前たちはお前たちを幸せにしなければならない。そのためにお前たちは今、ここに存在しているのだ』
「つまりこの世界を救って、さらにルークとアッシュを幸せにすりゃいいんだろ?元よりそのつもりだけどさ」
あと、とシロが付け足す。
「クロもな。……俺はそのために、叫んでいたんだろうな、きっと」
叫んだ事自体は覚えていないが、自分が何故叫んだのかは痛いほどよく分かる。理不尽な運命に翻弄され、全てを奪われた自分のオリジナル。「前」は決して仲が良いとは言えない関係であったが、最後には認めてくれた。そして「今」は、守るように、支えてくれるように傍にいてくれる。共に罪を背負うとまで言ってくれた。そんなあいつの最期があそこで終わるだなんて、シロにはどうしても許せなかったのだ。そのために、自分は叫んだのだろう。その事によって今のこの状態があるのだとしたら、シロは己を褒めなければなるまい。
「なあローレライ、全てが終わった後……クロはそのまま生きている事が出来るのか?」
『そうだな、地核から解放されたこの世界のローレライの力を借りれば、叶うかもしれぬ』
「そっか、へへっそれを聞けてよかった!」
『………』
ホッとするように笑うシロに何かを言いかけるローレライだったが、結局ゆらりと揺らめいて話題を変えただけであった。
『そう言えばお前たちをこの世界へと送るときに、余計なものが共に送られてしまったようだな』
「!師匠か!」
『一時期私と同化していた事もあって、退けられなかった。これも時越えの弊害か』
ヴァンのあの顔を思い出したシロは悪寒を振り払うように首を横に振った。あのヴァンが二人になった事で確かに二倍以上の困難が目の前に立ちふさがっているが、ここで悩んでいても仕方がない、ついてきてしまったものはもう返すことは出来ないのだ。気合を入れるようにシロはわざと声を張り上げた。
「大丈夫、師匠には……ヴァンには絶対に邪魔させない、向こうは二人でも俺達は四人だしな!負けねえよ!」
『ふふ、勇ましいな。……さて、どうやら向こうの作業も終わる頃のようだ』
「向こうの作業、って?」
『ルーク、確かお前が呼んだのではなかったかな』
ローレライに言われて気付いた。元々自分が何のためにローレライを呼んだのか。創世暦時代の浮遊音機関を何とか直してもらおうと駄目元で呼んだのだった。その作業が終わったという事は……。
「直せたのか、あの音機関!」
『さて、それは自分の目で確かめる事だ。……時間だな』
「え?あっ……!」
慌てて首をめぐらせれば、周りを漂っていた第七音素の動きが変わったようだ。シロは自分がどこかへ強い力で引っ張られるのを感じた。おそらくまもなくこの空間から弾かれるだろう。その前に慌ててシロはローレライに向き直った。
「ローレライ、後一つだけ、聞かせてくれ!」
『何だ』
「俺の、俺達の世界は……「元」の世界は、今どうしているんだ?皆は……元気なのか?」
命をかけて救った世界、共に歩んだ仲間達。脳裏に一瞬にして蘇る大切な思い出たちが鮮やかに頭の中を駆け巡る。ローレライは、微笑んだようだった。
『最早惑星予言でさえも読めぬ未来の事だ、私にははっきりと分からんが……お前たちの救った世界だ、私は信じているよ。これからは自分の足でしっかりと歩んでいく事だろう』
「……そうだな、そうだよな……!ありがとう、ローレライ!」
『こちらこそ。久しぶりに話が出来て、よかった』
シロが大きく手を振れば、ローレライも手を振ってくれた、ような気がした。それをはっきりと確認する間もなく、シロの意識はあっという間に浮上したのだった。その場に残ったローレライが、意識を第七音素に溶け込ませる前にポツリと呟く。
『ルークよ、忘れるな。お前たちは自分自身を幸せにするために、ここにいるのだ。お前たち自身が、幸せにならねばならないのだ……』
その声はこの空間から出る事もなく、海の様な第七音素の光に巻き込まれ、そして消えた。
もうひとつの結末 31
09/04/06
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