「かーすろっと……?」
異常事態に、いつもは静まり返っているテオルの森も警告を促すようにざわめいている。そんな中、目の前にいきなり現れた六神将の一人シンクの放った聞きなれない言葉に、ルークは地面に膝をつくアッシュを案じながらも首をかしげた。今すぐにでも駆けつけてあげたいがシンクが邪魔をしているし、意味不明の言葉を投げかけられるしで、最初の一歩を踏み出せずにいた。
「お前邪魔っ!そこどけよ!アッシュに何したんだ!かーすろっととか意味わかんねえよ!」
「うるさいなあ、それに邪魔だって?僕は親切心で壁になってやってるのに、その言い草はないだろ?」
「そんな壁いらねえよ!どけってば!」
アッシュは立ちはだかるシンクの向こう側で苦しそうに顔をしかめながら腕を押さえている。おそらく、先ほどシンクに攻撃を受けたのだろう。傷の具合は今の場所からは良く見えないが、あのアッシュがなかなか立ち上がらないほどのダメージを負っているのだ。浅いものではないのだろう。
痺れを切らしたルークが無理矢理特攻しようとした時、ルークよりも先に一歩踏み出したものがいた。びっくりして隣を見れば、そこには思い詰めた表情をしたイオンがいた。
「シンク……!カースロットとは、まさか……!」
「カースロットといえば、ひとつしかないだろ?導師様ならこの術の意味、当然分かるよね」
シンクが嫌な表情で笑う。イオンは沈痛な表情でひとつ頷く。そんな2人を見比べて、ルークは変な既視感を抱いた。そうだ、よく見てみればシンクもイオンも同じような緑の髪で、背丈も同じだ。性格や印象はまったく違うのに、だから「似てる」と感じてしまうのか。
「イオン様!カースロットって一体何なんですか?」
トクナガを巨大化させて強行突破しようかどうか迷っているらしいアニスから尋ねられて、イオンは一瞬躊躇った後ゆっくりと口を開いた。
「カースロットとは……ダアト式封術のひとつです」
「ダアト式封術って、導師しか使えない術じゃなかったのか?」
昔クロに教わった事を思い出してルークがイオンを振り返ると、そこにはひどく悲しそうな顔があった。どうしてイオンはこんなに悲痛な表情をしているのだろう。ひとつだけ頭を振った後、ルークの質問には答えずにイオンは先を続けた。
「カースロットとは、簡単に言えば人を操る術です。その力は、術者と被術者の間が近ければ近いほど強まります」
「そ、それじゃ今は無茶苦茶やばいじゃん!アッシュが操られちまう……!」
「落ち着いて下さい、ルーク。カースロットは基本的に、本人が望んでいない事を操って行わせる事は出来ません」
「へ?」
それは一体どういう事だろうか。それでは操る意味がないような気がするのだが。ルークと同じ事を疑問に思っているのだろう、アニスもティアも今はまだ何も仕掛ける気がないらしいシンクを警戒しながらも視線はイオンに向かっている。
「理性を麻痺させ、心の奥底に潜む抑えられた欲求を解放させる事で操るのが、カースロットです」
「そう、なかなか使い勝手が悪い術だよね。でも、こいつの場合はどうかな」
仮面に覆われていない口元を歪めながら、シンクは背後を顎で指し示した。そこにはアッシュが依然として蹲ったままだ。訳が分からなくてルークはイオンからシンクへと視線を戻した。
「どういう意味だよ」
「普段は何とも思っていなくても、心に少しでも黒い思いを抱えていればこの術はそれを引っ張り出す事が出来るのさ」
「だから!それが何だっつーんだ!」
人間誰だって心に大小の闇を抱えている。それはルークだって分かっているのだ。シンクが一体何を言いたいのか分からない。強気に睨みつければ、シンクは笑いながら、ルークを真っ直ぐ指差した。
「あんた、アッシュのレプリカだろ?」
「?!……そう、だけど」
「勝手にレプリカを作られた被験者の気持ち、分かる?僕にも分からないけどさ、多少なりとも思う事、あるんじゃないかなあ」
「……!」
ルークは目を見開いた。シンクの言葉が全身に響いた。初めて会った時からアッシュはルークをレプリカだからと責めた事はない。だから、考えたことがなかった。自分が生まれた事で、アッシュが何を思ったか。どう感じたのか。例え今はアッシュの言うとおり何とも思っていなくとも、自分のレプリカなのだ、何も思わなかった訳がない。
「しかもアッシュの代わりに屋敷に戻されたんだっけ。レプリカに自分の家追い出されて、自分に成り代わられて、何を思っただろうね」
「止めてください、シンク!」
イオンが制止の声を上げても、シンクは鼻で笑うだけであった。ルークは力無く俯く。思えば今まで、自分がレプリカだという自覚をする事はあまり無かった。真実を知った時も、今までも、周りは柔らかくて温かかった。自分が他の人とは違う生まれ方をし、違う体を持っている事なんて、今でもほとんど実感が無いぐらいだ。
だが確かにルークはアッシュのレプリカで、それまで「ルーク」であったアッシュの代わりにファブレ邸へ「ルーク」として戻った。それは事実だ。その事にアッシュが憤りを感じる事があったとしても不思議ではない。自分だって、いきなりそっくりのレプリカを作られ、今のこの居場所を追い出されたら、何と思うか。
そう、つまり。
アッシュはルークを、憎んでいたのかも、しれない。
呆然と立ち尽くしている間に、蹲るアッシュが動いた気がした。しかし、ルークはそちらに目を向けることが出来なかった。起き上がったアッシュの、カースロットによって心の奥底の思いによって操り動くアッシュの目を見ることが、出来なかった。恐ろしかった。今まで当たり前のように隣に立っていたアッシュに憎悪の光が灯った瞳で睨まれる事に、耐えられるとは思えなかった。
ルークは自分が酷く弱い生き物である事をその時自覚した。きっと今アッシュに己を否定されてしまったら、その場に立ってはいられないだろう。それだけ不安定な足場に立っていた。レプリカという生について、ルークは初めて自覚したのだ。
明らかに動揺した様子のルークに、シンクはくつくつと笑い声を漏らす。その背後で、とうとうアッシュが立ち上がった。カースロットを受けた腕を押さえていた利き腕は今は外されていて、剣の柄へと伸びている。それを肩越しに眺めたシンクは、静かに脇に避けて道を作った。オリジナルとレプリカが、真っ直ぐ向き合えるように。
シャランと音を立ててアッシュが剣を抜いた。ルークは正面に立つアッシュの、足元をジッと見つめていた。ゆっくりと一歩が踏み出される。周りは息を呑んで様子を見守っている。シンクだけが笑っていた。
アッシュの剣が静かに掲げられた。足元にグッと力が込められる。――来る!
ルークはぎゅっと目を瞑った。飛んでくるはずの刃を受け止めるという思考も沸き起こらなかった。ただ、アッシュに斬りつけられる事が恐ろしくて、身をすくませる事しか出来ない。誰かが後ろでルークの名前を叫んだ気がしたが、頭に入ってはこなかった。
そうして次に聞こえてきたのは……剣が風を切る音と、誰かが草を踏みしめて飛び跳ねた音と、誰かの驚愕したような息を吐き出した音だった。
ルークに斬撃は、襲い掛かってこなかった。
「っ何故!確かにカースロットは効いているはず……!」
シンクの怒りと焦りの篭った声に、ルークはハッと顔を上げた。確かにこっちを向いていたはずのアッシュが、シンクに向かって剣を振った姿でそこにいた。忌々しそうに舌打ちするアッシュを、ルークは呆けた顔で見つめる。
「ああ……確かにカースロットとやらが効いてるらしいな。この場にクロやら眼鏡やらがいたら、間違いなく斬りかかってる所だった」
「そう、そりゃよかった。で?あそこのレプリカはどうしたのさ」
シンクに指されてビクリと肩をすくめる。アッシュはゆっくりと振り返ってきた。静かな翡翠の瞳がルークを正面から映し、そうして確かに、かすかに微笑んだ。よく見ていなければ分からないほどの一瞬のものだったが、確かにアッシュはルークを見て笑った。まるでルークを安心させようとするかのように。
「はっ、お前の狙いは仲間割れか。だが残念だったな。俺がルークに斬りかかる事は、いくら待っても無いだろうよ」
「何でだよ!あんた被験者だって自覚あるの?!」
「当たり前だ。ルークは俺のレプリカだ」
立ち尽くすルークから視線を戻したアッシュは、動揺を隠しきれずに怒鳴るシンクに向かって、堂々と仁王立ちながら言い切った。
「だが、俺がルークをレプリカだからと恨んだり憎んだりした事は一度もない」
「……嘘だろ、そんな事、ある訳無い!」
「嘘じゃねえよ。……まあ、俺一人だったら違っていたかもしれないが。幸いにも俺の傍には、俺に憎む暇も与えなかった奴が一人、いたからな」
それに、と、アッシュは剣を握る逆の手でそっと自分の後頭部へと手を伸ばした。そこにかつてあった、王族の証であり誇りであった長い真紅の髪はもう無い。しかしそれを後悔する心はアッシュの中のどこにも無かった。
「この髪を切り落とした時、そんな思いは全部捨てちまったんだよ」
己のレプリカを、ルークを、この手で守ると決めたから。そのための決意の証だったから。
絶句するシンクへ切っ先を突きつけながら、アッシュは不敵に笑った。
「さあ……覚悟しやがれ」
もうひとつの結末 26
07/12/17
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