知らなかった。ただの水の塊でしかない雨の雫でも、高速に叩きつけられたらこんなに痛いんだ。アッシュは顔に当たりまくる宙を舞う水滴をまともに受けながら、若干現実逃避気味に感心していた。特に惜しげもなく晒されたおでこに当たるのでそれがちょっと気になる。少し昔、シロが「アッシュはまだ生え際気にならないんだな」と小馬鹿にするような言葉を至極真面目に言っていたことを思い出した。どんどんと髪型を気にし始めてきているのは大人になった証なのだろうか。前に宿屋でクロが一心不乱にじっと鏡を覗き込んでいるのを発見したときほど見てはいけないものを見てしまった気分になった事はない。ああはなりたくないなあとアッシュがぼんやり考えていると、背後から声が掛けられた。


「アッシュ、ボーっとしていると落ちるです」
「あ、ああ……。それより、お前は何でバチカルにいたんだ」


アッシュは不安定な空中で振り返った。そこには、怪鳥の足にぶら下がるアリエッタの姿がある。ぶら下がっているのはアッシュも同じだが。アリエッタは雨の中なのにいつもと変わらず抱きしめているぬいぐるみに顔をうずめて、照れた様子を見せた。どうでもいいがぐっしょり濡れているぬいぐるみがいつにもまして不気味だ。


「遊びにきた、です。アッシュもシロもバチカルに帰ったって聞いたから……」
「俺が言えたものじゃないが、仕事をしろ」


呆れたように言ってみるが、内心アッシュはアリエッタが遊びに来てくれたことに心底感謝していた。完全に旅仲間達から出遅れたアッシュが追いつくには最早空でも飛ぶしかなかったところだったのだ。望みどおりに空を飛べているこの現実はアリエッタのおかげである。しかし正面からお礼を言えないツンデレ属性のアッシュは心の中で呟いておいた。ありがとよ、アリエッタ。


「そうそう、あんたの仕事全部こっちに回ってきてるんだよね。いい加減にして欲しいよまったく。連絡寄越さず何してるかと思ったら敵に1人置いてかれてるし鮮血が聞いて呆れるよ」
「で、貴様は余計に何でここにいるんだシンク!」


投げつけられる真実の罵倒に少し傷つきながらアッシュは隣に怒鳴った。そこには三匹目の怪鳥が並んでいて、その下には何故だかシンクがぶら下がっていたのだ。アリエッタはまだしもなんでこいつまでここにいるのか。


「仲間が1人でのこのこ敵地に行く現場見ちゃったら無視するわけにもいかないでしょ」
「……つまりアリエッタが心配でついて来やがったのか」
「っ人聞きの悪い事言わないでよねこれでも参謀役だからね統率の取れない六神将の監視役だよ監視役!」


シンクはアッシュの言葉にすごく早口に反論してきた。まあそういう事にしといてやるかとアッシュは視線を前に戻す。昔からこんな感じなので慣れたのだ。よくこの2人を、いつ進展するのかなあとワクワクしたシロと一緒に眺めていたものだ。


「おい、アクゼリュスにはいつ頃つきそうだ」
「雨でちょっとスピード落ちてるから、分からないです……」
「ちっ……先回り出来たらいいんだが」


舌打ちしながら呟いたアッシュが真に先回りしたいのはヴァンではなく、親善大使一行(但し親善大使不在)だったりする。誰よりも早く、少なくともクロよりは先にルークを救出してみせる決意をしているのだ。この時点で目的が少しだけずれてしまっている事にアッシュは気付かない。ぎらぎらした瞳を雨に遮られる前方へと向けるだけだ。
思い出すのは、最後に自分の背中に掛けられた、あの声。


「……待ってろよ、ルーク」


色んな気持ちに苛まれながらも、アッシュは目を逸らす事無くただひたすら前へと進むのだった。





一行は特に何事も無く砂漠を抜ける事ができた。ケセドニアでも何事も無く船に乗る事ができたし、船の上でも何事も起こらずカイツール軍港へとつくことが出来た。とても順調な旅だった。順調すぎて怖いぐらいだ。おかげで予定より早めにアクゼリュスにつくことが出来るかもしれない。
今歩いているのは、アクゼリュスは目前、という所のデオ峠だ。本当に順調だったので、疲れたイオンを休ませるために休憩を入れる事に誰も異議を唱えなかった。皆が思い思いにその辺に腰を下ろす。その中で1人だけ、崖っぷちに立って休もうとしない人物がいた。


「……おーい、シロもこっちに来て休まないか?」
「いい、大丈夫」


ガイが声をかけても、背を向けたシロは振り返りもせずに首を振った。皆がそっとため息をつく。理由は分からないが、順調な旅が続けば続くほど、つまりアクゼリュスが近づくにつれてシロの表情は固くなっていった。クロは変わらないままだがこっちは普段から固い表情なので比べる意味も無い。シロの様子は峠に入ってからますます顕著になっている。


「一体どうしたのかしら……ルークを置いてきた事に関係があるのかもしれないわね」
「そういえばルーク…様?って大丈夫なのかなぁー」
「話ではアクゼリュスにいるはずらしいし、今俺たちは先へ進むしかないな」


すっかり蚊帳の外の仲間達もある程度の説明はされている。曰く、置いてきたはずのルークはヴァンっぽいものに連れ去られ(聞いた直後発狂したガイを止めるのには苦労した)無事だったアッシュは何とかして追いついてくるかもしれないとの事。そしてルークはおそらくアクゼリュスにいると思うからとりあえず先へ進むしかない事。大まかにこんな事を聞かされている。もっと詳しい事を聞き出そうとするのだが、その度に人間壁(=クロ)が立ちはだかるのでそれも出来ていない。大体今の状態のシロからは何も聞きだせそうにないが。


「やれやれ。こちらは好きでない推測をするしか無いじゃないですか」
「しかし……シロも随分思い詰めた表情をしていますわ。何も無ければいいのだけれど……」


小声でひそひそと囁き心配そうな目を向けてくる仲間達に、シロは振り返らなくとも気付いていた。皆は優しい。道中さりげなく心配してくれているのが手に取るように分かった。その度にシロは差し伸ばされた手を弾いて、俺のことは放っておいてくれと逃げ出したくなるのだった。優しい仲間をあんな刺々しい雰囲気にさせてしまった「あの時」の自分に、どうしようもなくなるのだ。
そして、これから行く瘴気にまみれた町で自分が何をしたのか、突きつけられるようだ。何年経とうとも許される事のない罪に改めて苛まれる。

その時、シロの背中がドンと何者かに押された。崖っぷちに立っていたシロはもちろん重力に逆らう事無く落下しそうになる。


「う、うううぎゃああー!あああ何すんだーっ!」
「落としてないだろ」


体の傾いだシロは首根っこを掴まれて再び元の位置に戻る。その一瞬で腰の抜けたシロは座り込みながら、涙目で背後の人物を睨み上げた。シロの背中を押して首根っこ掴んで助けた人物、クロはそ知らぬ顔で立っている。


「今の行為に何の意味があるんだよ!俺を脅かして何が楽しいんだっ!」
「自分の世界にどっぷり漬かったどっかのアホをこっちの世界に呼び戻すためだ」
「うっ……」


ボーっとしていた、というか考えていた事を自覚しているシロは思わず黙り込む。クロは視線をシロの後頭部から真正面へと変えて、他の誰にも聞こえないぐらいの小さな声でそっと呟いた。


「そんな風になるなら、ここに残ってろ」
「……はあ?」
「俺はお前をアクゼリュスに連れて行きたくない」


小声で、しかしはっきりとクロはそう言った。シロにとってアクゼリュスがどんな所かを知っていて、そう言うのだ。シロはそれを感じて、強く首を振った。クロの言葉はとても温かい。しかし自分にとってアクゼリュスはとても重い、背負わなければならないものだ。誰かに寄りかかって甘える事など許されない。シロは立ち上がって、しっかりと地面を踏みしめた。


「俺は行くからな。どんなに止められたって、絶対に行く」
「てめえがそう言うから俺は何も言わねえんだろうが」
「クロって優しいよなあ」


シロにしみじみとそう言われて、クロはとっさに顔を背けた。何言いやがる馬鹿かお前と照れ隠しに怒鳴る歳はとうに過ぎた。なので、代わりとばかりに夕焼け色の頭を軽く叩いてみせる。シロはいてえと呟いて笑うだけだった。よほどの事がないと自分の半身は寄りかかろうとしない事をクロは改めて確認した。忌々しい。しかしそれ以上に……。


「……俺は隣にいる。それは忘れるな」
「うん」


素直に頷いたヒヨコ頭は、それでもまだ寄りかかる素振りも見せてくれない。






   もうひとつの結末 15

06/10/21