泣き出す寸前の空の下、バチカル上層部から下を見下ろしたアッシュはあっけに取られた。一部に大穴が空いていたのだ。おそらくあれがさっきの爆発音で出来た穴だろう。という事は、あの下に皆がいる事になる。大丈夫だろうか、いやすぐにはくたばりそうに無い連中だから大丈夫かとアッシュが考え込んでいると、とうとう降り始めた雨の雫がポツンとアッシュに落ちてきた。その瞬間、例えようも無い喪失感がアッシュを襲う。ひどく大切なものを無くしてしまったようなその不可解な感情にとっさに振り返った。そこには、今しがた自分が飛び出してきた屋敷が聳え立っている。
「……!」
アッシュは何故だか取り返しがつかないような焦る気持ちに急き立てられ、すぐさま駆け出した。誰が止める間もなく通り過ぎた玄関を逆戻りする。時間的には5分もかかっていない。アッシュが外へ出たのは本当に僅かな時間であった。ちょっとだけ外の様子を見てみようと思っただけなのだ。
それなのに、それなのに……。
「ルーク!」
声を張り上げて飛び込んだ中庭。そこにいるはずの半身はいなかった。代わりにほとりほとりと降り出した雨に遮られる視界の中、中庭の真ん中に立っていたのは、ここにいてはいけない人物だった。
「……どうして貴様がここにいる」
「アッシュか。守らねばならぬものから目を離しては、いかんな」
「答えろ、ヴァン!何故貴様がここにいる!ルークをどうした!」
激昂したアッシュが剣を抜いてもヴァンは嫌な笑顔でこっちを見るだけで動こうとはしなかった。しかしアッシュも斬りかかる事は出来なかった。一見立っているだけのこの男のどこにも隙がない事が分かっているからだ。睨み殺そうとするかのようなアッシュの目に、ヴァンは鼻で笑ってみせた。
「随分と丸く成長したものだ。私の知るアッシュはもっと荒々しかったぞ」
「何の事だ!」
「あの出来損ないに感化されたみたいだな。嘆かわしい事だ……」
そのヴァンの言葉に、アッシュは訳も無く怒りが膨れ上がった。言っている事の半分も理解できないが、何か大切なものが侮辱されたような気がしたのだ。ヴァンはアッシュに笑いながら、一歩後ろへ引いた。
「まあいい、ルークは私が預かっていく。お前はここで待っているがいい」
「っ!待ちやがれ!」
とっさにアッシュが手を伸ばしたが、目の前に立つヴァンは高らかに笑いながら宙へと消えた。それっきりだった。中庭に1人になるとアッシュは思いっきり地面を蹴り上げた。それだけでは身の中の怒りが収まらず、膝を突いて拳も叩きつける。
何も出来なかった自分が悔しくて情けなくて仕方が無かった。何故あの時1人で飛び出してしまったのか。置いていかれたと勝手に憤り何も見えなくなっていた。後ろからルークの声が聞こえたのに。頭上から降り注ぐ雨が容赦なく全身を濡らしていくが、心の中の高ぶりは冷める様子もない。
「っちくしょう……!」
呻くように吐き捨てたアッシュは、やがてのろのろと立ち上がった。出かける前にかけられた、クロの言葉を思い出す。
『ルークを、頼む』
「………」
アッシュは怒鳴られる事罵られる事覚悟で、雨の中そっと目を閉じた。
「あいてっ」
爆発によって面影もほとんどなくなってしまった廃工場の瓦礫の中を懸命に進んでいた仲間達の中から唐突に声があがった。進みにくいわ雨は降ってくるわ疲れてくるわでしばらく文句を垂れていた皆が沈黙していた中だったので、その声は余計に響いた。見れば、顔をしかめて頭を押さえるシロがいる。
「あーいたっこれこれ懐かしいムカつく頭痛。アッシュ?」
「どうやらそうらしいな」
隣で平然とした顔でクロが答えるので、シロは睨みつけてやった。何で自分だけこんなに痛くて堪らない目に合わなければいけないのだ。しかし、どうしてアッシュは2人に回線を繋いできたのか。繋いだっきり沈黙したままのアッシュに、シロは怪訝そうに声をかけた。
「アッシュ?どうした?」
「……何かあったのか」
何かを感じ取ったのか、クロの声が険しくなる。一呼吸の間があって、アッシュはようやく口を開いた。
『屋敷に、ヴァンが現れた』
「え?!」
シロは言葉を失った。船で一足先にバチカルから離れているはずのヴァンが、何故ファブレ家の屋敷に現れたのか。シロがぽかんと口を開けている間に、クロがアッシュへと声を荒げた。
「ルークはどうした!」
『………』
「っくそ!」
アッシュは何も言わなかったが、それが答えだった。周りでどうしたのかと仲間達が見ている事にも気がつかずに、クロが地面を蹴る。シロはただ顔色を青くした。ルークがヴァン師匠に連れて行かれた。つまり、あの悲劇がもう一度起こるかもしれないのだ。シロは縋るような目でクロを見た。
「クロ……!」
「分かってる落ち着け、そうすぐに落ちるもんじゃねえだろ。……アッシュ」
『……何だ』
ひとまず息を落ち着けたクロはシロを宥めるとアッシュに声をかけた。若干沈んだ声でアッシュが答えると、念を押すように、ゆっくりと言った。
「お前は、そこで待て。ヴァンの野郎の目的地は分かってんだ、俺たちがそのままルークを助け出す」
『っ!冗談じゃねえ!俺も行く!』
「どうせ手も足も出なかったんだろうが、そこでじっとしてろ!」
クロがそう言うと隣からシロが睨みつけてきた。言い過ぎだと目が語っている。しかしクロは目をそらしただけだった。シロがルークに複雑になるのと同じように、クロだってアッシュに思うことがあるのだ。己が昔色んな余計な事をしたし言った事を自覚している。だからこそクロは情けなく思うと同時に、何もしてくれない方がいいと思ったのだ。だが、言い返された相手は押し黙るかと思ったのだが、逆に威勢のいい声が頭に響いてきた。
『これは俺の責任だ、俺がルークを助ける!』
「てめえ俺の言った事が聞こえなかったのか……」
『お前が俺に頼むと言ってきたんだろうが!俺がやらなくてどうするんだ!』
アッシュは一歩も引かなかった。しばらく押し黙ったクロは思案するように目を閉じ、静かに口を開いた。
「……俺たちは待たねえ。来たければ自分で何とかしろ」
『な?!おいちょっ』
成り行きを見守っていたシロは、アッシュの声が途切れると同時に頭痛が鎮まったのを感じた。クロが強制的に回線を切ったのだろう。詰めていた息をゆっくりと吐き出す。クロを見ると、眉間の皺がいつにも増して増えていたので、少しだけ笑いながらシロは言った。
「アッシュは言い出したら聞かねえよ。……あいつも、お前も」
「ふん……無駄口叩いてる暇はねえだろ、いくぞ」
「いででで!照れ隠しに暴力振るうの反対!」
そっぽを向いて頬をつねってきたクロにシロが抗議する。照れ隠しの影に、シロがあまりにも誇らしそうに言ったのでそれにムカついたのもあったのだが、もちろんシロがそれに気付くはずも無い。じゃれあいながらそれでも急ぎ足で歩き出した赤毛たちの背中を、呆然と眺めていた仲間達は慌てて追いかけた。
「私たちってもうすでに蚊帳の外っぽいんですけどぉ」
アニスが愚痴ったその言葉に、仲間達は大きく頷いたのだった。
一方ファブレ家中庭のアッシュも荒れに荒れていた。
「ちくしょうあいつ無理矢理置いていきやがったくせに自分で何とかしろとか無責任にもほどがあるだろうが!」
地団駄を踏むアッシュは、それが自分の未来の姿なのだと気付いて少し凹んだ。しかしいつまでもこうしてはいられない。急いで後を追わなければ。
「……しかし、一体どうやって行ったものか」
アッシュは考え込んだ。行き先はおそらくアクゼリュスだ。海路はどうやら今封鎖されている様子なので行くことは出来ない。かといって陸路で歩いていっては追いつけないだろう。はあとため息をついて、厚い雲に覆われた空を顔に雨が当たる事も構わずにアッシュは見上げた。
「空が飛べりゃあ、楽なんだがな……」
アッシュっぽくない台詞を吐いたアッシュの背後から、その時運命の声が掛けられたのだった。
「ちょうどよかったです、アッシュ。空飛ぶです」
もうひとつの結末 14
06/10/12
→
←
□