俺の兄貴がはなまるぴっぴ可愛い







今までのあらすじ:おそ松が可愛い。


カラ松は絶望で以てその事実を頭の中で繰り返す。おそ松が可愛い。ああ、おそ松が可愛い。何度繰り返しても自分の中から否定の言葉は出てこない。当たり前だ、今まで散々、自分自身で何度も口にしてきた真実なのだから。そうだ、おそ松は可愛いのだ。それはいくらカラ松が考えた所で、覆らない世界の真理なのだ。
例えその相手が、同性の、六つ子の兄弟の、己の唯一の兄だとしても。

「いや、思い悩むのが遅すぎるよね、それ」
「うんうん、もっと早くその事に気付いて悩むべきだったよね。ほんとニブニブカラっぽ松兄さんなんだから」

ひそひそと囁く三男と六男の声が聞こえるが、カラ松はその言葉に反論する術を持たない。全ては弟たちの言う通りだと自覚していたからだ。そうだ、全て遅すぎたのだ。やっぱり、実の兄を「可愛い」などと思ってしまったあの時に、その意味をもうちょっとよく考えてみるべきだったのだ。
全てはもう、今更な事だ。カラ松は取り返しのつかないほど深みにはまった後の今、ようやく気付いたのだから。
おそ松を他の誰よりもたくさん、一番可愛いなどと思うのは……「好き」、だからなのだと。

「……好き……」

絶望と共にカラ松は呟く。横から「すき?スキ?すき焼き?!おれ大好き!」という賑やかな声が聞こえるような気がするが、視線を向ける気力も無かった。ただただじっと、見慣れた自室の古い天井を見上げるのみだ。
パジャマ姿で、目を覚ましたままの姿勢で、カラ松は布団の中からぴくりとも動かないまま呆然としている最中だった。邪魔、と隣で寝ていた一松にいくら蹴られようとも、どうしたって動けなかった。今カラ松を支配しているのは絶望である。実の兄弟に恋心を抱いてしまったという罪に、打ち震える事しか出来ない状態だった。
そう、これは罪だとカラ松は思っている。頭空っぽだと自他共に認めてきたその頭でも、一応倫理観とか禁忌とか、一般常識的な思考は持ち合わせていたのである。その頭が昨日、「好き」を自覚したその時からガンガンガンとうるさく警報を鳴らしているのだ、それはおかしい事だ、と。兄弟に肉親以上の愛を持つなどとんでもない事である、と。まったくもって、遅すぎて役立たずにもほどがある警報だった。
これは一種の気の迷いだ、きっと一晩寝て起きれば正常な感情を取り戻している、と一抹の希望を持って昨晩は何も考えずに眠ったのだが。どうやら、この頭の狂いっぷりは残念ながら、夢ではないらしい。

「カラ松ぅ、なーに死んだ魚の目して転がってんの?起きてんなら飯食おうぜー」

宙に漂わせたままの視界にその時、ひょっこりと顔を覗かせた後光の差す愛しい顔。いや冗談じゃなく、カラ松には本当に朝日よりも清らかな光が差し込んでいるように見えたのだった。最早可愛いを通り越して神々しい。ギルティすぎる想いを背負ったカラ松を救い、同時に絶望へと突き落とす笑顔がそこにあった。寝起きのぼけぼけした笑顔でカラ松を見下ろしているのは、今の悩みの全ての元凶である兄のおそ松だ。

「なあ、急に目押さえてどしたの」
「っく……!目が、目が潰れるっ……!」
「は?なに、起き抜けに俺喧嘩売られてんの?」
「ち、違うんだ、俺のこのギルドアイには清らかなヴィーナスの微笑みが耐え切れなくて……くっ、闇に堕ちた俺をそんなに見つめないでくれ……!」
「あっそ。早く目覚ませよー色んな意味で」

ひらひらと手を振ってあっけなく離れていったおそ松に、カラ松は長い溜息を吐いた。慌てて吐きだした言葉は事実で、あのままじっと見つめられ続ければ自分がどうなっていたか分からなかった。ああ、己のこの気持ちに気付きさえしなければ、起きたばかりで眠気もまだ残る瞼の重そうなあの瞳を、思う存分可愛いと愛でる事が出来たというのに。気付いていなければ実の兄を過剰に愛でる事は問題ないのかと言う所は、考えない事にする。
起きてしまったものは仕方ないので、他の兄弟とともに朝食を食べる。寝癖つけ放題のパジャマ姿のまま、まだまだ眠そうな瞼を半分こじ開けたまま、普段よりゆっくりゆっくり箸を動かしてご飯を咀嚼するおそ松の姿は、毎朝眺めているというのにこんなにも可愛……。

「っく!!!!」
「カラ松ぅぅぅぅ?!どうしたーっ!!」

ばしゃっと自らアツアツの味噌汁を顔面にぶちまけるカラ松に、チョロ松が大声でつっこんでくれた。他の兄弟は大体引いている。焼けるような味噌汁の熱さに目を見開いたカラ松は、横で呆けていたおそ松へと顔を向けて、勢いのまま箸を持ったままのその手を両手で掴んだ。一晩と今まで考えに考え抜いて、とうとう覚悟を決めたのだった。

「おそ松!」
「はひ?」

もぐもぐごくんと、口の中に詰め込んでいた卵焼きを飲み込んだおそ松が目を丸くして見返してくる。訳も分からぬまま急いで口の中のものを飲み込んで話を聞く姿勢を取ってくれるのも嚥下する喉の動きも全てが可愛、いくない!可愛くない!可愛くないはずだ!
そう、同じ歳の成人した同性の兄を、可愛いと思うはずが、ないのだ!

「俺はたった今から、お前の可愛さから卒業する!」
「……は?」

高らかに宣言すれば、ぽかんと口を開けたおそ松と、似たような表情をした周りにいる弟たちに一斉に見つめられる。いやそもそも、元々俺可愛いとかねえし、とか何とかおそ松がブツブツ言っているが、必死なカラ松には聞き取る事が出来ない。例え聞いていたとしても、可愛かったんだから仕方ないだろう!と逆切れする未来しかなかっただろう。

「今まで俺は、悪戯なゴッドに惑わされていたようだ……もしかしたら心配をかけてしまったかもしれない、すまない兄貴」
「あー、まあ、心配はしたな、頭の」
「だがもう大丈夫だ。俺は目を覚ました。これからは今まで通り、愛するブラザーとして接する事をここに誓おう。これからも六つ子の次男としてよろしくな、おそ松兄さん」

殊更兄であることを強調して、カラ松は微笑んだ。強調したのはもちろん己自身に言い聞かせるためだ。お前、目の前にいるこの人は俺の兄さんなんだぞ、間違ってもそういう意味で可愛いなどと思ったりすんなよと、脅しにも似た言葉をかけたのだった。間違いを正すために。六つ子の輪を乱さないように。何より弟に可愛い可愛いと言い寄られていた可哀想な実兄をこれ以上困らせないためにも。
カラ松は、どうしてか狂ってしまった己の頭を正す決心をしたのだった。

「……そ、っか」

力強いカラ松のそれを受け止めたおそ松は、一回だけ俯いた。まるでカラ松の言葉をしみじみと噛み締めているようだった。対面したカラ松が不思議に思う前に、ぱっと顔を上げてきた表情はいつもの元気に笑ったおそ松のもので。

「そりゃあよかった、お兄ちゃんも安心だわ。構ってもらえるのはそりゃ嬉しかったけどさあ、限度ってもんがあるしねー。もう血迷った事言ってきたりすんなよ?」
「フッ、任せろ。俺はもう、やんちゃなリトルデビルに惑わされたりしないぜ……!」

ぱちんと手を合わせて、長男と次男は笑い合った。上手く笑えていますように、とカラ松は願った。ぽかぽか笑う目の前のおそ松の顔に、今は慣れた例の感情が浮かび上がらないように必死に己を抑えながら。

「……ねえ、どう思う?僕はね、一週間で前言撤回すると思うよ」
「クソ松がそんなに耐えるはずがない。おれは三日で」
「えー!ぼくはねー明日にはもう今までのカラ松兄さんに戻ってると思う!」
「お前ら実の兄たちを賭けの対象にすんなよ……あ、僕二週間ね。これぐらいはもつだろ」

後ろの方で弟たちがわちゃわちゃと好き放題に言っている内容は、生憎自分自身で手一杯なカラ松には聞こえていなかった。





その日からカラ松の己との戦いが始まった。
まずは、おそ松から物理的に距離を取る事にした。傍にいるだけで気配を追い、可愛い瞬間を逃さぬようにしようと体が無意識のうちに身構えてしまうからだ。ここ最近での己の癖のようなものになっていた。だからまずはなるべく同じ空間にいることを失くし、おそ松がいない空気に体を慣れさせる事にしたのだった。
まあ、これは簡単だろう、とカラ松は思った。今までも日中は別行動をする事が主だったし、家にいたって四六時中一緒にくっついていた訳では無い。事情を否応なしに把握している兄弟たちにも協力してもらって、一時的にカラ松は時間をずらして一人で夕飯を食べ、一人で銭湯に行き、一人客室で寝てみる事にした。おそ松が一度も視界にさえ入らない、初めての一日だった。この状態でまずは一週間耐えてみようと、決意を胸にカラ松は挑んだ。
そうしたおそ松と完璧に離れた一日目を過ごした、翌朝。

「ふあぁ……カラ松兄さんおはよー。どうだった?一人の夜、は……か、カラ松兄さん?カラ松兄さんんんんんんっ?!!」

朝、様子を覗きに来た寝起きのトド松が目撃したのはミイラだった。まるで体内の生きるのに必要なエネルギーを根こそぎ吸い取られたようなやつれた人間がそこに倒れていた。叫び声を聞きつけて集まってきた兄弟たちが戦慄したのは言うまでもない。

「え?カラ松?え?一晩?一晩でこの有様?いや、おそ松兄さんが足りないだけでこの状態ってどういう事?」
「人間止めてるわこいつ」
「ほらねー!カラ松兄さん、一日で耐えられなかったー!あははは!」
「え、なになに、カラ松今どんな状態なの。俺にも見せてー」
「ふ、不用意に近寄るなおそ松兄さん!この状態で一度におそ松兄さんを大量に摂取したらカラ松がショック状態に陥るかもしれない……!」
「チョロ松お前何言ってんの?」
「俺だって何言ってるか分かんねえよちくしょう生きろカラ松ーっ!」

このままでは生命の危険も考えられたので、ドクターストップならぬブラザーストップによりカラ松はおそ松と徹底的に離れるのは止められた。蘇生はとりあえず視界に入らないように離れたおそ松からの「カラ松ー」という呼び声によってなされた。名前を呼ばれる事によってハッと肌のうるおい、瞳の輝き、身体の活力を取り戻したカラ松に、末っ子は思わず悲鳴を上げて物陰に隠れていた。四男は蹴りを入れていた。オカルトである。
ちなみにその後一日だけ、「もしかしたら六つ子の状態から一度に一人になったせいかもしれない」という可能性も考慮されて、じゃんけんで負けたチョロ松が傍について二人だけで隔離もしてみた。結果、カラ松のおそ松不足ミイラは同じように誕生した。

「……カラ松、徐々に体に慣れさせていこう。ほんとに自分でも何を言っているのかよく分からないけど、おそ松兄さん分を一度に失うとお前マジで死にそうだから」
「……ああ、そうする……」

しみじみとしたチョロ松の助言に、カラ松は従う事にした。おそ松と同じ空間を共有することを己に許し、但し一定の距離を保ってなおかつ視界に入れないようにする事にしたのだった。こうすればおそ松の声は聞けるし気配も感じる事が出来る。あの鮮やかな赤色をこの目で見られないのが辛いが、まったく存在すら感知できないまま過ごすよりはずっと良かった。己の血迷った恋心が正気に戻って死に絶えるまでの我慢だ。鏡を覗き込みながら、カラ松はカラ松に微笑んだ。
そうして三日が経った。四日目の朝、疲れ切ったような顔をしたトド松に肩を掴まれて凄まれた。

「緩めよう?」
「えっ?」
「おそ松兄さんに近寄らないのと視界に入れない事だっけ?今の制約。それ緩めよう、カラ松兄さん」
「な、何故だ?確かにおそ松兄さんと言葉も交わせないし見る事も出来ない今が身を裂かれそうなほど辛いが、これを耐え切らなければ俺はっ……!」
「とっくの昔に耐えきれてないから言ってんの。カラ松兄さん、それだけ鏡見ていて気付かないの?自分の顔が今どんな事になっているか」

顔?トド松に言われてカラ松は、いつも手に持っている手鏡を覗き込んだ。そこに写るのは普段と変わらぬキリリとかっこいい自分の顔。……いや、ちょっと待ってほしい。よくよく見てみると、目つきがほんの少しだけ、いつもと違うような気がする。

「目元がいつもより少々勇ましい気がするな」
「少々なんてものじゃないし、勇ましい程度のものでもないよ!人殺しそうな目してんの!カラ松兄さんさあ、自分の寝起きや不機嫌な時の目つきの悪さ自覚してないでしょ?キレる手前の一松兄さん並みにすごいからね?それがここ最近ずっと僕たちに向いてんの!無意識に!気付いて!早くっ!!」

がくがくと勢い良く揺さぶられて驚いた。カラ松にはまったく自覚が無かった。確かに心に余裕はない。今まであれだけ可愛がっていたおそ松を、ろくに見る事も出来ない日々なのだ。おそ松はカラ松の意志を汲んで自分もなるべく視界に入らないように立ちまわって協力してくれている。しかもその状態で、カラ松の事を無視したりないがしろにしたりせずに普段通りに接してくれる。正面に回らないよう横から肩を叩かれおはようと言われたり、鏡を見て過ごすカラ松の背中側に座って漫画を読んだり、銭湯の着替えで並んでも慌てて離れずひらひらと手を振って先に抜けてくれたり。己の都合でかなり振り回している自覚があるのに、それを感じさせない態度でカラ松を受け入れてくれている。カラ松はそれが嬉しかった。同時にとてつもなく辛かった。今の気持ちを一昔前に流行った言葉を借りて言うなら、「そんなんされたら惚れてまうやろ!」状態である。長男の優しさが、途方も無く嬉しくて辛い。土下座しながらありがとうと連呼しつつ撫で回したい。己の奇行を許すあの笑顔が見たい。絶対可愛い。ああ、耐えられない。
……もしかしなくとも、そういった感情が顔に出ていたのだろうか。しかもままならない想いが弟たちに向かっていたなんて、とカラ松は申し訳なく思った。

「す、すまん……俺はそんなにひどい顔をしていたか?」
「してたよ!特に寝る時挟まれてる僕なんてストレスで急激に痩せそうだよ!寝転がりながら僕越しにおそ松兄さんが見えないからってこれ幸いとすっごい睨み付けてくるじゃん!対象が僕じゃないって分かってても無理!あの視線は無理!僕もうやだよこんなダイエット方法!」
「ね、寝る時……?」
「あーほらーもー無自覚でしょー?!僕たちがおそ松兄さんと会話しているだけで羨ましそうにその視線向けて来るし!限界!カラ松兄さんもだけど僕も限界なの!だから緩めて!お願い!もっと簡単な所から始めよう?!」

必死に懇願してくるトド松に、最早頷く事しか出来ない。こうしてカラ松は更に己への制限を取っ払う事となった。おそ松を視界に入れても良い。必要最低限の言葉も交わす。しかしそれ以上の事はしない。頭はもちろん撫でないし、可愛いなどと口走らないし、必要以上に後をついてもいかない。そうやって宣言した時、おそ松以外の兄弟たちは皆揃ってほっと息をついていた。ほぼ全員がトド松と同じようなプレッシャーに晒されていたらしい。申し訳ない。唯一おそ松だけは、いつもの食えないような笑顔で分かったと頷くだけだった。
最初と比べたら緩すぎる日々を開始してすぐにカラ松は気付く事となる。そうやって必要以上におそ松へ干渉しない日常と言うのは、おそ松を「可愛い」と認識する前と、ほぼ同じものであるという事に。

「不思議なものだ……こんなにも胸の内が寒くて凍えそうなエブリディを、かつての俺は平然と過ごしていたなんて……ギルドガイにもほどがある……信じられないぜ……」
「カラ松兄さん、寂しいの?」

河原の土手に座り込んでたそがれるカラ松の隣で、十四松が首を傾げている。今まで二人で日々の鬱憤を晴らすようにキャッチボールをしていた所だった。ただし晴らしていたのはカラ松の方で、十四松はもやもやしていた兄に付き合ってくれただけだ。かなり力の入ったボールの投げ合いに痺れた手の平を放り出して、暮れかけの空を見上げる。トド松にお願いされておそ松への規制を緩めてから、約一週間が経とうとしていた。

「寂しい、か……確かにそうかもな。俺は孤独と静寂を愛する男、そんなオンリーロンリネスガイが、寂しさを感じるなんてな……」
「おそ松兄さんとお話出来ないから?」
「ん……う、うんまあ、そうだな。その通りだ。認めなければならないな……やはり唯一の兄貴と必要以上に話せないのは弟として寂しいものだ。そう、弟としてな」
「そっかあ。カラ松兄さん、おそ松兄さんの事大好きだもんね!」
「んんっ?!い、いやいや、そんな事は無いぞ。いや、兄弟としてはもちろん好きだ。しかしそれ以上の事は無い。本当だ。別にそういう意味で好きなんじゃない。そうだろう俺」

冷や汗を流しながら必死に軌道修正しようとするカラ松に、無邪気な十四松が不思議そうに追い打ちをかけてくる。

「カラ松兄さんはおそ松兄さんの事が嫌いなんすかー?」
「へ?!いや、別に嫌いって訳じゃ」
「じゃーやっぱり好きなんだ!」
「す……!ち、違うぞ十四松、俺は、そう、好きじゃない!つまり嫌いだ!うん!おそ松兄さんが嫌いなんだ!」
「えーっそうなんすかー?!おそ松兄さんのどこが嫌いなの?」

勢いに任せて嫌いなどと言ってしまった。しかし十四松に尋ねられて、カラ松は自然と言葉が飛び出していた。

「そりゃ、パチンカスギャンブラーのニートだしいつまでたっても小学生メンタルで子供っぽい悪戯を繰り返しては迷惑かけてくるし弟の金勝手に盗みやがるし弟のものは俺のものとでも思っているかのような暴虐武人だし構ってちゃん極めすぎだしとにかく嫌になる所は挙げたらきりがないな!」

すらすらと挙げられるおそ松の嫌な部分に、カラ松は自分で自分にホッとしていた。ほら、こんなにある。挙げようと思えばまだ挙げられる。自分は兄に対して盲目的な恋などしていない。駄目駄目な兄の駄目な所をこんなにも知り尽くしている普通の兄弟なのだ。
うんうんと頷きながら聞いてくれる十四松に、調子に乗ったカラ松はそのまま己の口が動くまま言葉を重ねていった。

「本当、おそ松はどうしようもない人間だな!パチンコや競馬で勝った時のはじけるような笑顔は可愛いし負けた時のしょんぼりした顔も可愛いし子供っぽく悪戯しては鼻を擦って笑うのも微笑ましくて可愛いしお金盗んだ事をバレて怒られて少しでも反省している姿は慰めたくなるぐらい可愛いし兄弟に威張って大暴れするのも構って構ってとくっついてくるのも可愛くてどうにかなりそうになるが、俺はそんなおそ松兄さんの事がー……」

訪れる沈黙。べらべらと思うがまま勝手に動いた口が紡いだ言葉を頭の中で反芻して、カラ松は沈黙した。あれ、今確か、おそ松のここが嫌いって所を話していたんじゃなかったっけ。あれ。
ぽんぽん、と混乱する頭に感じる柔らかい何か。隣に座った十四松が、ものすごく微笑ましそうに笑っている。頭に触れる袖に隠れたその手は、まるで慰めるような感触だった。

「カラ松兄さんはほんとーに、おそ松兄さんの事が大好きなんだねえ!」

反論は出来なかった。カラ松は泣いた。





「何故だ、神よ……」

カラ松は仰向けに転がったまま、絶望と共に神へと嘆いた。十四松と河原で話し込んでから一晩経った、昼間の子供部屋での事だった。この何故、という問いは今まで己自身に何度も詰問していた難題で、一向に答えが見つからないものだ。とうとう神に問い質したくなるほどまでに追い詰められていた。
おお神よ、どうして俺は実の兄の事をこんなにも可愛いなどと思ってしまうのですか。

「消えない……」

むしろ増えてる、と零すカラ松の表情は今にも泣きだしそうなほど。おそ松の可愛さから卒業すると決めた日からすでに二週間近く経っている。色々試してきたが、未だにろくな進展はない。だからこそ、膠着状態だった自分の心を無理矢理抑えて早く殺してしまおうと思った。殺すのはもちろん実兄に向けられる身の程知らずなこの醜いハートだ。鏡を見つめて何度も何度も「おそ松は可愛くない可愛くない」と呟いて己に言い聞かせ、「確かにその通りだけど何度も言葉にされるとムカつく」と拗ねるおそ松を宥めすかして、最後に神に祈って眠りについた。結果無理だった。すぴすぴ眠る朝のおそ松はやっぱり可愛かった。罪でしか無い恋は消えなかった。薄々感づいていたが、しかもそれは日を追うごとに巨大化しているような気がするのだった。
昨日なんか、居間と廊下の入口でたまたまおそ松と出会い頭に額をごっつんこしてしまい「あらーごめんね」と照れたように笑ったその顔を久しぶりに至近距離で見てしまったためか、「かわい」まで喉から飛び出してしまった。言い切る前に隣の壁にガンガン頭をぶつけたので事なきを得たが、危ない所だった。突然弟が壁に頭を打ち付けだした光景におそ松がビビっていたような気がしたが、それどころではない。ちゃんと「おそ松の可愛いから卒業」宣言したからには、まだまだ思ってはいても言葉にだけは出すものかという意地だった。
意地を張る時点で、自分がこの気持ちを捨てる事も殺す事も出来ていない事は、カラ松自身よく分かっていた。

「ブツブツうるさい。邪魔」

不機嫌そうな声がカラ松の思考を遮る。部屋の隅に、猫を抱きかかえてじろりと睨み付けてくる四男の姿を見つけた。今日は他の兄弟はこの部屋に誰も居ず、自分と二人きりになるなんて一松にしては珍しい、とカラ松は少し驚いた。

「す、すまない、ちょっと考え事をしていてな……」
「どうせおそ松兄さんとの事でしょ」

間髪入れずに一松が吐き捨てる。それ以外に無いのでカラ松は頷いて、ゴロンとうつ伏せに転がって床に拳を打ち付けた。

「だって!忘れようと封じ込めようといくら頑張っても、溢れ出てくる想いを止められないんだ!おそ松に対するこの気持ちがどうしても殺せないんだ!俺はどうしたらいいんだ一松ぅぅぅぅ!!」
「はあ?知らないよそんなの、ちょ、来んな、死ね」

どうしようもなくてとうとう一松に縋り付いたら、容赦なく足蹴にされた。ですよねー。地面に倒れて打ちひしがれる頭に大きな舌打ちを頂く。言う事を聞いてくれない自分の心を持て余している今は、そんな一松の厳しさが逆に有難かった。

「……、つーか、」

ぼそり、と。二人しか存在しない空間でも耳を凝らさなければ聞き逃してしまいそうな小声が、僅かに空気を揺らした。

「何で、自分で殺す必要があんの」
「…………。……へ?」

あまりにも予想外な言葉すぎて、反応が遅れてしまった。はたと顔を上げたカラ松を、猫を抱いたまま立ち上がった一松が睨み下ろす。

「自分で殺せないなら、殺してもらえばいいんじゃないの。無理矢理抑え込んでクソ松が余計クソみたいにウザくなるぐらいならさ」
「こ、殺してもらう?」
「おそ松兄さんに潔く告白してこいよ。んで、とっとと容赦なく殺されて来い。本人に伝えて玉砕すれば、いくらクソ松でも諦めがつくんじゃない」

こくはく。一松の言葉がぐるぐると何度も頭の中を行き来する。こくはく。告白。おそ松に、告白。たっぷり数十秒は考え込んだだろうか。イライラしてきた一松がその呆けた顔を踏んでやろうと足を持ち上げかけた所で、ようやくカラ松はその言葉を理解した。

「……っこ?!こくはくっ?!」
「わ!びっくりした……大声出すな喉潰すぞ」

びくっと毛を逆立てた一松の腕から、同じくびっくりしたらしい猫が逃げてしまう。視線で殺さんばかりに睨み付けてくる一松に、しかしこの時ばかりはカラ松も怯むことなく起き上がって詰め寄った。

「こ、こ、告白って、お、おそ松に?!何を?!」
「何って、好きなんだろ、おそ松兄さんの事が。それ以外何があんだよ」
「す?!い、いや、でも、でもな、一松、」

カラ松は一松の両肩に手を置いて、だらだらと冷や汗を流していた。あの、その、と要領を得ないおどおどした言葉に、今すぐ張り倒したい思いを懸命に抑えて一松は待ってくれた。カラ松はしばらく迷うように視線を彷徨わせた後、ぐっと、覚悟を決めたように喉を鳴らして口を開いた。

「お……俺だぞ?」
「……は?」

素で首を傾げる一松に、苦しげに歪めた顔でカラ松がなおも言い募った。

「だ、だから、俺なんだぞ?おそ松兄さんに、お前の一番上の兄さんに、告白しようとしているのが、他の誰でもない、この俺なんだぞ」
「……だから?」
「だからっ……!……き、気持ち悪く、ないのか?」

必死に、とうとう言い切ったカラ松に、一松は眠そうな目を見開いた。カラ松の手は震えていた。本心から、それを恐れていた。だって一松はこう見えて兄弟が大事で、でもカラ松の事は嫌いで、嫌いだけどやっぱり兄弟の一人として受け入れてくれていて、だから六つ子の兄弟としての輪を自ら乱すようなこの想いは、到底許されないだろうと思っていたのだ。一松だけでなく、ほかの兄弟だって。兄弟が兄弟に恋するなんて、そんなのおかしい。罪でしかない。だから認めてはいけない。カラ松はそう思ったし、他の皆だってそう思っているだろう。そう考えていたから、この何の手違いか生まれてしまった想いを自覚してから、軽々しく口になんて出来なかったのに。
それなのに。他の兄弟ならまだしも、一松が。カラ松は心から驚いていた。
だってあの一松だ。あの一松がカラ松に自分から告白しろだなんて。そんな。
そんな、まるで、カラ松が抱くこの罪でしかない想いを、表に出していいのだと肯定するかのような。そんな。
生まれた事こそが許されないはずのこれを。
そんな。

「………」
「………」

部屋の中央で二人は無言で顔を突き合わせる。先に動いたのは、一松だった。珍しく大きく開けた目をぱちりと一つ瞬かせると、口を大きく開いた。大きな声が飛び出す直前だ。どんな罵声が飛び出すか、とっさにカラ松は首をすくめた。

「………。はあっ?」

そうして身構えたカラ松に叩きつけられたのは、心の底から呆れ果てた声だった。

「お前……おいクソ松、それお前、本気で言ってんのか、ああ?」
「ひっ?!や、その、これは、」
「今っっっ更なんですけどぉ?!」
「……えっ?」

今度はカラ松が大きく目を見開く番だった。きょとんと瞬けば、とうとう一松が胸倉を掴んで頬を殴ってきた。いつもよりはあんまり痛くなかったけど、やっぱり痛かった。

「痛っ?!」
「もうクソ、ほんとクソ。お前さ、今までの自分の行動振り返ってみろよ。お前がおそ松兄さんの事ウザいぐらい撫でて可愛い可愛いってとち狂った事言い始めた頃から今までの事だよ、いくら脳みそ空っぽでも思い出せんだろうが。なあ、そんなお前を傍からずっと見せられる羽目になった俺たちの事も想像してみろよ、おい」
「えっ……」
「今っ更だろうが。そんな気色悪い兄弟の姿こちとら見慣れちまってんだよ。お前の反吐が出そうなムカつく笑顔もおそ松兄さんのらしくない顔も見飽きてんだって言ってんだよ。いっそ殺せって俺が何度思ったかクソ松お前知ってんの?あ?そこに今更、今っ更告白程度で気持ち悪いのどうのこうのって。こっちはとっくの昔にその辺の山場乗り越えてんだよクソが。この壁乗り越えんのてめえが六つ子の中で最後だよ確実に。分かったらそのゴミみたいな心配とっとと捨てて死んで来いよ。あの人今下にいるからさあ!」

締め上げるようにぎりぎりと掴まれていた胸倉が、勢いよく剥がされる。カラ松は一歩二歩後ずさって、丸い目で肩で息をする一松を見た。あんなに早口で長文を捲くし立てる一松は初めて見たのではないだろうか。一松は視線で人を殺せるなら五回ほどカラ松を嬲り殺しにしながら、ふいと視線を逸らして、どすどすと部屋の隅に行ってしまった。膝を抱えて座り込んで顔を伏せてしまった弟は、それから何と呼びかけても顔を上げてはくれなかった。

「……一松……」

呆然と呟いたカラ松は、しばらく立ち尽くした後ぎゅっと拳を握りしめて、部屋の出口へと向かった。外へ出る前に一度だけ振り返って、じっと動かない一松を見つめる。

「……ありがとう、一松。俺、死んでくる」

いくら空っぽだの鈍いだの言われている頭でも理解していた。今一松は、カラ松の背中を思いっきり蹴飛ばしてくれたのだ。もしかしたら今日部屋に残っていたのだって、立ち止まったままうだうだしていたカラ松の事をこうやって前にぶっ飛ばすそのためだったのかもしれない。思えば兄弟たちは、カラ松がおそ松を撫でたり可愛いと連呼したりしても、うざがったり睨まれたりはしてきたが、止めろとは一言も言わなかった。つまりはずっと前から、そういう事だったのだ。
下にいるという想い人の元へ、カラ松は今しがた貰った勇気を胸に足を踏み出していった。その後ろ姿を、そっと伏せた顔を上げた一松が静かに見送って、そして一言だけ文句を零す。

「……ほんっと、うちの上二人のクズ、面倒くさいんですけど……」

後はどうにでもなれ、と溜息を吐いてから、一松は今度こそきゅっと目を瞑った。





かくしておそ松は居間にいた。一人でちゃぶ台の前に腰をおろし、つまらなそうな顔でテレビを見ていた。他には誰もいなかった。カラ松が二階から降りてきて部屋の入り口で立ち止まった事に気付いて、笑顔で振り返ってくる。

「おーカラ松、お前今まで二階にいたんだよな?何かぎゃーぎゃー騒がしかったけど何してたの。また一松と喧嘩でもした?」
「おそ松。話があるんだ」

真剣な顔でそう告げれば、おそ松は小首を傾げてみせた。

「お前もう俺と普通に話していいの?俺はいいけど」
「ああ、その事についても話す」

カラ松のその表情で、おそ松は朧げに察してくれたらしい。気の抜けた笑みを少しだけ引き締めてから、テレビを消してカラ松に向き直ってくれた。カラ松も部屋の襖を閉めて、おそ松の正面に正座した。八人家族の居間だとは思えないほどの静寂が二人を包み込む。口火を切ったのは、汗がにじむ手の平を膝に擦り付けたカラ松だった。

「まずは謝らせてくれ。ここ数日間、俺の我儘に付き合わせてしまってすまなかった」
「え?ああ、いや別に、そんぐらい何でもねえけど」
「さらに、散々付き合わせてしまったというのに、今からそんな数日間を台無しにするような事を言う。それを許してほしい。俺としては、こうしてここまで来るのに必要な時間だったのかもしれないとは思うが」
「……まどろっこしい事言ってないで、さっさと要件言ってみな」

胡坐をかいた足に片肘をついて、おそ松が促してくる。頷いたカラ松は、すうと息を吸い込んで、吐いて、また吸って、おそ松の目を見据えて、ありったけの想いを詰め込んで吐き出した。

「俺は、おそ松の事が好きだ」

おそ松の目が軽く見開かれる。絶句するほどの驚きではなかったようだが、その理由をカラ松も知っていた。だってこの想いはきっと、おそ松本人にもとっくの昔に気付かれていただろう。兄弟が皆知っていたのならば、誰よりも弟たちの事を見ているこの人が知らないはずがないのだ。

「最初は本当に、おそ松の事が珍しく可愛いって思っただけなんだ。俺が一番最初にお前の事を撫でた朝を覚えているか?あの時、撫でられただけであんなにおそ松が照れるとは思っていなくて、そんな思ってもいなかった反応に可愛いって思ったんだ。本当に初めて可愛いって思った顔は実はもっと別にあるんだが……とにかくその時の「可愛い」が、すでにお前の事を好きだって思う意味での可愛いだったのかは俺にもよく分からない。けど、今は確実に、言い切れる」

ごくりと音を立てて唾を飲み込んで、この視線から胸の内で暴発しそうに膨れ上がっている想いを感じ取ってくれればいいと、カラ松は一心不乱に目の前のおそ松を見つめる。

「俺はお前に惚れている。惚れているからおそ松が何をしていても好きだって思うし、好きだから全部が可愛いって思う。事あるごとに撫でていたのも、撫でればおそ松が可愛い姿を見せてくれるからだ。どんな反応をされても本当に可愛かった。思っていたより柔らかな髪に触れるのも好きだったし、何度撫でても顔を赤くして照れるおそ松が可愛かった。好きだったんだ」
「………」
「しばらくは、俺のこのおそ松が可愛いと思う気持ちがどこから来ているのかまったく気づかなくて好き放題してしまったし、気付いた後はこの気持ちを捨ててしまおうと思って兄弟たちも巻き込んでしまった。本当に迷惑をかけてばかりで申し訳ないと思うんだが……でも、この気持ちは、本当なんだ。おそ松」

口を挟む事無く、ただ静かにカラ松の言葉を受け止めるおそ松。その心に響くように、酸欠不足で喘ぎながらもカラ松は必死に言いつのった。止まらなかった。

「好きなんだ、本当に。殺そうと思っても殺せなかったんだ。この気持ちはいくら捨てようと思っても、どうしても捨てられなかった。無かった事になんて出来なかった。お前の可愛いから卒業するとか言っておきながら、ごめん。でも、やっぱり無理だ……おそ松の事が、好きで、好きで、仕方ないんだ……!」

身を乗り出して、畳の上で拳を固く握りしめて、カラ松は全てをぶちまけた。おそ松はそれを全て聞いていた。はあはあと肩で息をするカラ松が言葉を止めるまで、ずっと穏やかな瞳で見ていてくれた。

「……カラ松」

煮えたぎるような熱いカラ松の告白が途切れたタイミングで、柔らかな声がカラ松の名を口にした。カラ松が見つめる中、優しい瞳が愛しげに細められる。

「俺はお前に、前にもこうやって伝えたよな」

少しだけ困ったように、しかし慈愛も乗せて微笑まれるそれは……どこまでも、弟の全てを包み込んでくれる、「兄」の笑顔だった。

「お前のそれは、勘違いだよ」

優しい顔はそんな風に、カラ松へと息の根を止める刃を振り下ろす。

「………、え、」
「お前は昔っから、長男である俺の事を密かに憧れてくれてたよね。自分で気づいていたかは知らないけど。そういう気持ちをさ、俺を撫でた時の反応だっけ?その時の普段のカッチョイイ俺とのギャップみたいなの見ちゃって、勘違いしちゃったんだよ。お兄ちゃんの事好きなのかもーって。ほーんと、ポンコツな頭してんなあ童貞。俺も人の事は言えないけどさ」

やれやれ、と仕方なさそうに息を吐くおそ松に、ぽかんと呆けたカラ松は慌てて詰め寄ろうとした。聞き捨てならなかったのだ。

「ち、違う!勘違いなんかじゃない!俺は、本当におそ松の事が!」
「カラ松ぅ」

おそ松の肩を掴むと同時に、己の両頬ががしりとおそ松の手に固定される。必死なカラ松を覗き込んできたその表情は、聞き分けない子供に何事かを言い聞かせる母性さえ溢れるものだった。

「俺は長男。お前は次男。六つ子の兄弟同士。なあ、そうだろ?」
「……っ!」
「兄弟同士の恋愛なんてさあ、普通ないでしょ。まず男と男だし。無い無い。いや世の中にはそういう嗜好持ってる人がいるってのは分かるけどね?無いよ。俺は無い。兄弟だし。兄弟はさ、兄弟として愛したいよ。兄弟として愛するべきなんだよ、カラ松。俺とお前は、兄弟なんだよ」

ゆっくりと、聞き逃されないように、おそ松はカラ松を覗き込んだまま話す。カラ松は震えていた。兄の手のぬくもりを感じながら、必死におそ松からの言葉を受け止めた。ぐちゃぐちゃになった思考が、それでも何とか答えを弾き出した。
おそ松は……おそ松は、殺してくれているのだ。カラ松に芽生えた兄への恋心を。勘違いだと優しく笑いながら、ぬるま湯のような力で首を絞めて、確実に殺そうとしている。その気持ちは抱く事さえ罪なのだと、言い聞かせながら。

「可哀想になあ、カラ松。童貞拗らせちゃって、お兄ちゃんに恋したみたいな錯覚起こしちゃって」

当初の目的通りだ。おそ松はカラ松に変わって、この間違った恋を正そうとしてくれていた。兄として。弟に告白された嫌悪を欠片も出す事無く、受け止めたうえで、殺してくれているのだ。
何て優しいのだろうか。
何て、ひどいのだろうか。

「あーあ。お前はホント泣き虫だねえ」

頬に添えられた指が、ぐいっと目元を拭ってくる。カラ松は涙を流していた。おそ松はぐすぐす泣きだしたカラ松を見て、面白おかしそうに笑った。

「なあカラ松、大丈夫だよ。お前の心は今めちゃくちゃ混乱しているだろうけど、きっとすぐに元通りになるよ。なんてったって俺たち、生まれた頃からずっと一緒にいたろ?だからさ、いつも通りに過ごしていればすぐに元に戻るって。元通りの、松野家長男次男に戻れるから。な、だから泣くなって」
「ッう……!お、おぞまづ、おれっ……!」
「うんうん、分かってる分かってる。心配すんな、俺めちゃくちゃ頼れる長男様だから。どんな事があったって、お前は大事な弟だよ。今回の事で嫌ったり嫌になったりなんてしねえよ。だからお前は安心して戻ってこい。な?」

違う。そんな事を心配しているんじゃない。伝えたいんじゃない。それでもカラ松はぼろぼろ泣きながら、頬を優しく撫でるその手に縋る事しか出来なかった。だっておそ松が、それを望んでいる。カラ松がおそ松への「好き」を封印して、捨てて、殺して、弟に戻ってくる事を望んでいるのだ。カラ松はおそ松の事が好きだ。兄としてもそうだが、それ以上に一人の人間として好きだった。だからこそこれ以上、何も言う事が出来なかった。
好きな人がこれ以上を望まないなら、それに従うしかないのだ。

「……っおそ松……おそ松、兄ざん、ごめん……!」
「ん?」
「もう、ちょっど、時間いると思うげど……っ、……おれ、おどうど、戻る、がらっ……」
「……うん」

俯いて、大粒の涙をこぼしてしゃくりあげるカラ松の頭に、ぽんと温かい手の平が乗せられる。何よりも大好きな温度がカラ松の頭を撫でてくれた。何だか、久しぶりにこの感触に出会った気がする。ここ最近はずっと、カラ松がおそ松の事を撫でていたから。

「ったく、しかたないやつだなあ」

くしゃりと撫でてくれるその手に導かれるように、カラ松は顔を上げていた。カラ松を撫でてくれるその顔は、涙で溶けたその瞳を見張るほど、眩しかった。おそ松本人にも伝えられなかった、あの日カラ松が初めて「可愛い」と思った、蕩けるような兄の微笑んだ顔がそこにあった。胸の内に炎が宿って、同時にぎゅうと締め付けられるような痛みが走る。カラ松の心を芯から揺さぶる笑顔だった。この顔に導かれて、カラ松は許されない恋と出会ったのだ。
ほう、と思わずため息が零れ落ちる。あれほど見たかった笑顔が、この恋が終わるその時に見られるなんて、何て出来た運命なのだろうかとカラ松はまた一つ涙を零した。






「ただいまー……って、あれ、カラ松だけ?」

居間の襖を開けて、外から帰ってきたチョロ松が顔を覗かせた。ちゃぶ台の前に一人座り込んだカラ松は、小さな声でおかえりと伝える。チョロ松はすぐにカラ松の普通でない様子に気が付いて、傍に寄って腰を下ろしてきた。

「え、ちょっと、どうしたのカラ松。……うわ、ひどい顔してんだけど?!何でそんな泣いてんだよ」
「チョロ松……」

ずび、と鼻をすすってから、カラ松はチョロ松へと顔を向けた。困ったようなへの字口が何か言う前に、先に口を開く。

「今まで迷惑かけてすまない。特にお前には、色々と話も聞いてもらっていたし、余計な気も揉ませてしまったと思う」
「へっ?」
「もう、大丈夫だから。もう、こんな事が無いように、気を付けるから。……俺はちゃんと、おそ松兄さんの弟になるよ」

カラ松のその言葉で、何があったのかをチョロ松は大体察してくれたらしい。そっか、と呟いてから、傍にあったティッシュ箱を何も言わずに黙って差し出してくれた。何枚か抜きとって鼻をかみながら、カラ松は二重の意味でありがとうと伝えた。

「……おそ松兄さんは?」
「パチンコ行ってくるって、さっき、出ていった」
「そう。……あのさ、カラ松、」

チョロ松は何事かを言いかけて、しかしすぐに躊躇うように口を閉じてしまった。カラ松がいくら待っても続きの言葉は出てこない。苦しげに眉を寄せてから、はあ、と重い重い溜息を吐くだけだった。

「……ごめん。本当は諦めんなとか、追いかけろよとか、言うべきなのかもしれないけど。……僕の口からは、それが言えなくてさ」
「いいんだ、ありがとうチョロ松。その気持ちが、嬉しい。……だって当たり前だ、俺と兄貴は、お前の兄なんだから。嫌な気持ちにさせて、ごめん」
「いや……そういうのじゃ、ないんだけどね……」

チョロ松が兄弟の恋愛という泥沼を目の当たりにしても、応援しようとしてくれただけでカラ松は満たされるような思いだった。複雑そうな顔をしたチョロ松は首を振ってみせた後、未だに瞳を潤ませたままのカラ松に少しだけ笑って、腕を伸ばしてくる。さっき長男に撫でられた頭が、今度は少しだけぎこちない動きで三男に掻き混ぜられた。

「もう、泣くなって。ったく、これじゃどっちが兄か弟か分からなくなるだろ。世話の焼ける兄さんだよ、お前はさ」
「チョロ松」

慰めようとしてくれる弟の気遣いがこんなに嬉しい。温かくなった気持ちのまま、カラ松はチョロ松を見つめる。カラ松の頭を撫でながら、チョロ松は笑ってみせた。一つ上の兄を思って見せてくれるそれは、どこまでも親愛の情が灯ったくすぐったくなるような笑顔だった。チョロ松がいてくれてよかったなあと、カラ松は弟にとてつもなく感謝した。
同時に、あれ、と思った。

(違う)

何が違うのか、とっさに分からなかった。でも心は叫んでいた。違う。これは違う。あれと違う。あれとは、先ほどの笑顔だ。おそ松が撫でてくれている時に見せてくれたあの笑顔だ。おそ松の笑顔とチョロ松の笑顔が違うのは、いくら同じ顔でも当たり前の事だ。でもそれでも、カラ松の心臓が明確に「違う」と主張しているのだ。一体何が違うと言うのか。
カラ松の脳裏に、おそ松の笑顔と並んで浮かび上がる顔がある。おそ松と同じぐらい蕩けるように笑った顔だった。幸せなのだと見ている側にもはっきり伝わってくるような笑顔だった。実際にその笑顔が心底幸せであったことを、カラ松は知っていた。当たり前だった。
おそ松と同じように笑っていたのは、先日トド松に見せてもらった、おそ松を撫でている時の自分の顔だった。

『やっぱりカラ松兄さんは、おそ松兄さんの事が大好きなんだね!』

無邪気な弟の声が蘇る。弟たちを撫でた時のカラ松と、おそ松を撫でた時のカラ松の、その両方の顔を知っている十四松がそうやって教えてくれたのだ。

『だって、カラ松兄さん、おそ松兄さんを撫でてる時が一番幸せそう!』

これはカラ松が、一番幸せな時の笑顔だ。そんな笑顔が、自分を撫でたおそ松の顔と重なる。そうだ、これだ、と心が叫ぶ。チョロ松ももちろん、愛を以てカラ松に触れてくれた。しかし愛の種類が違うのだ。愛の種類を知る心が、チョロ松とカラ松の笑顔を違うと言い、おそ松とカラ松の笑顔が同じだと言っていた。
無意識とはいえ、愛しい人を、恋する人を撫でる至福な顔のカラ松と、おそ松を。

「……え、っ」

呆然とした声が転がり落ちる。どうしたの、と言うチョロ松の戸惑う声に応える事も出来ずに、カラ松は頭を抱えた。
あれ。あれ。何で、あの時のおそ松の笑顔が、自分に重なるんだろう。あの時おそ松は、「弟」を撫でていたはずだ。そんな恋は捨てよう、兄弟に戻ろうと語りかけてきた「兄」が撫でていたはずだ。それなのに、想い人を撫でていたカラ松に重なるなんて。「兄」を撫でていたチョロ松に重ならないなんて。

「どうして……」

疑問を口にすれば、答えはころりと心の中に生まれた。あっけなく生まれた。だってそんなの考えるまでも無い。同じ顔が、同じように笑っているのだ。決まっているのだ。
同じ気持ちを持っているからに、決まっている。

カラ松とおんなじ、気持ちを。

「……っ?!」

カラ松は音を立てて立ち上がった。視線は真っ直ぐ、先ほど赤い背中が出ていった玄関へ伸びていた。
いつから。いつから?あの時のおそ松の笑顔は、いつからカラ松に向けられていた?初めてでは無かった。もっと前に見たものだった。ああ、そうだ。確かに思った。あの時、思い出していた。カラ松が不毛な恋に目覚めた日。酔っぱらって、心の殻が剥がれた剥き出しの感情のまま、カラ松に撫でられた事で嬉しそうに笑ってくれた、あの時と同じもの。
嘘だろう。じゃあ、少なくともあの人は、その時から?

「ちょ、カラ松、どうした?」
「……チョロ松」

戸惑いながらもつられて立ち上がるチョロ松に、カラ松は一度だけ視線を向けた。チョロ松はものすごく驚いた顔をしていたが、今自分がどんな表情を浮かべているのか、必死なカラ松には分からなかった。

「ごめん。本当に、ごめん。でも俺はやっぱり、あいつの事が……っ!」

言い切る前に、足が動いていた。名を叫ぶ三男の声を置き去りに、カラ松は玄関から外へと飛び出した。空はいつの間にか夕焼け色に染まっていて、ついこの間映画館デートみたいなものに出かけた時の事を思い出す。あの時もおそ松は、勘違いだと穏やかな笑顔でカラ松に言い聞かせてきた。まだ自分の気持ちに気付いていなかったカラ松を、そっと、気付かせないまま終わらせようとしていた。
自分は「こんな」気持ちを、抱え込んでおきながら。

「おそ松っ……!」

カラ松は駆け出した。家で待っていれば、じきに兄は戻ってくる事など分かっていた。それでも今行かねばならないと思った。そうしなければもう手が届かないようなそんな気がして、カラ松は全力で夕暮れの街を駆けた。

一方。一人居間に取り残されたチョロ松は、すとんとその場に腰を下ろした。開け放たれたまま、閉める事も忘れ去られた玄関を見つめて、仕方なさそうに息を吐き出す。

「はあ。……今僕は、三男としてあいつを止めるべきだったのかな、おそ松兄さん」

でもさ、と、聞く者が誰もいない呟きは、それでも今一人でどこかを彷徨っているはずのあの人へ向けて、優しく空気へ溶けていった。

「僕はカラ松兄さんにも、あんたにも、幸せになって欲しいと思うよ」

だって、兄弟だからね。
そうやって目を瞑ったチョロ松が思い出すのは、つい昨日あったばかりの出来事だった。





その時はたまたま、子供部屋に次男以外の六つ子が揃っていた。

「おそ松兄さんも、カラ松兄さんの事が大好きなんだね!」

野球から帰ってきた十四松が、ちょうどそこにいたおそ松の懐に飛び込んで、おーよしよしと頭を撫でられていた、その時の事だった。俺にもおそ松兄さんを撫でさせて!という可愛らしい弟の頼みを断る事無く、いいよいいよと二つ返事で了承した長男の頭を、わしゃわしゃわしゃと思い切り撫でまくった後、めちゃくちゃ嬉しそうな笑顔でそうやって十四松がのたまったのだ。

「……突然なーにを言ってんのかな、十四松くんは」
「そうだよ十四松兄さん。逆でしょ。カラ松兄さんが、おそ松兄さんの事を好きなんだよ」

十四松のおでこをぴんと弾くおそ松に、やれやれと訂正してあげるトド松。チョロ松も一松も十四松だからよく分かってないんだろうなあと微笑ましそうにその光景を見つめていた。十四松だけが心底不思議そうに大きく首を傾げて見せていた。

「えーっ!だってね、見ててね!」

十四松はまたおそ松の頭を撫でる。何だ何だ、と首を竦めるおそ松は、それでも珍しく弟に撫でられる事が照れくさくとも嬉しいのか、にこにこと笑っていた。十四松は次にパタパタと、ダブダブな袖を振って他の兄弟たちを呼んでみせた。

「ほら、兄さんたち、トド松も!おそ松兄さんを撫でてみて!」
「う、うん?」
「ええー?一体どんな罰ゲームだよ……」
「おいこらチョロ松、お兄ちゃんを撫でるのが罰ゲームってどういう意味かなあ?」
「面倒くさ」

ブツブツ言いながらも、立ち上がった兄弟たちは皆でおそ松を取り囲んで、順番にその頭を撫でてみせた。皆なんだかんだとこの五男には甘い。四人分の腕が次々と座り込む長兄の頭をぐしゃぐしゃにする。傍から見たらちょっと奇妙な光景だろう。最後まで大人しく撫でられたおそ松は、さすがに恥ずかしそうに僅かに頬を染めてから十四松を見上げた。

「おら、これで満足か?んで、一体何がしたかったんだよ十四松」
「ほらね、やっぱり!」

ぴょん、と嬉しそうにおそ松の目の前にしゃがみ込んだ十四松は、満面の笑みを浮かべてみせた。

「おそ松兄さん、やっぱりカラ松兄さんとおんなじだね!」
「……へ?」
「カラ松兄さんに撫でられてる時のおそ松兄さんがね、一番顔赤くってね、一番恥ずかしそうでね、一番幸せそうだよ!おそ松兄さんを撫でてる時のカラ松兄さんとお揃いだね!」

にっこにっこ。一切の邪気無く十四松は言い放った。おそ松が動きを止める。他の兄弟たちもびっくりしてしばらく立ち尽くした。やがて沈黙に満ちる室内で、何とかチョロ松が渇いた笑い声をあげる。

「は、はは。いやいやいや、十四松。いきなり何言ってるのさ……ほら、おそ松兄さんは今、カラ松のせいで撫でられ慣れてるし」
「そ、そうだよね!おそ松兄さん、今まで散々撫でられてきてるからね!今更僕たちが撫でても耐性がついているって言うか!最初に撫でたカラ松兄さんの時が一番反応しちゃうのも当たり前って言うか!……ね?そうだよね、おそ松兄さん?」
「……おそ松兄さん?」

おどおどと慌てる弟たちに囲まれて、おそ松は黙って俯いていた。静かな長男の様子にあれ、と不思議に思って、全員で十四松の隣に並んで、その顔を覗き込んでみれば。

「おそ松兄、さん……?」

まるで湯気が立って見えるほど、真っ赤に染まっていた。

「兄さ、」
「ッあー!何だよ、何でだよ!絶っっっ対顔に出してなかった、はずなのに!てめえ、十四松ぅぅぅぅ!!」
「どひゃああああ!」

十四松の頭を掴んで両側からぐりぐりと負け惜しみのように拳を押し付けて、おそ松は赤い顔のまま秘密を暴いた弟にお仕置きした。幸い時間は短かった。じたばたもがく十四松からすぐに手を離してそのまま立ち上がったかと思うと、やけを起こしたように怒鳴り散らす。その目は興奮のためか羞恥によって若干涙目だった。

「しゃーないだろ!とっくの昔に俺の中では決着がついていたのに!兄弟のまんまでいいやって、これはこのまま墓に持っていくってずっと昔に一人で誓ったってのに!今更っ!今更あいつが、めちゃくちゃ嬉しそうに俺撫でてくんだよ!可愛いとか頭おかしい事言ってくんだよ!今更!諦めたのに!捨てたはずなのに!息の根を止めたはずのアレが、反応しやがるんだよ、どうしても!マジ、ふざけんなよ!何で今更そーいう事してくるかなあ?!もう訳分かんねえんだよ自分でも!抑えられねえんだよ!少しでも嬉しいって、思っちまうんだよちくしょう!悪いかよ!悪いんだよ!何年も弟相手に片恋拗らせたクソ童貞舐めんなよ!!」

まるで、積年の恨み辛みが篭ったような長い叫びだった。あまりの驚きにその内容のほとんどをとっさに理解出来なくて、チョロ松たちは揃って固まってしまう。ぜえぜえと肩で息をするおそ松の取り乱した顔を眺めながら必死に考えて、ようやく、じわじわと今の爆弾発言を受け入れ始めた。

「……は、え……とっくの、むかし?おそ松兄さん、一体いつから……」

ぽつんと震える声を上げたトド松に、目を見開いたおそ松はその場で踵を返した。足を踏み鳴らして向かうのは部屋の出口で、そのままおそ松が逃げようとしている事に弟たちは遅れて気が付いた。

「ちょ、おそ松兄さ……!」
「チョロ松。一松。十四松。トド松」

部屋を出る直前。ぴたりと足を止めたおそ松の声が低く名を呼ばう。憤怒一歩手前のようなおどろおどろしいその声に、条件反射的に飛び上がった四人は背筋を伸ばしていた。怒られたわけではないと分かってはいたが、弟としてのサガのようなものだ。
おそ松は襖に手を掛けたまま、一度も振り返ろうとしなかった。

「今の、カラ松には絶対言うなよ」
「えっ」
「お前らは何も聞かなかった。何も知らない。俺は今日ずっと競馬行っててこの部屋にはいなかった。何も話さなかった」
「そ、そんな、」
「……受け入れられないなら別に俺の事軽蔑してくれていいから。だけど、カラ松にだけは絶対言うな」
「おそ松兄さん……」
「あいつには俺から言っておくから、目覚ませって。説得が遅くなって悪かったよ」

最後の言葉に全員で驚く。だってカラ松はあからさまにおそ松の事が兄として以上に大好きで、今のを聞いている限りおそ松も負けてはいないはずなのに。

「どうして、おそ松兄さん」

呆然と立ち尽くす四人の中から、困惑した様子の十四松が一歩踏み出し、心から不思議そうに尋ねかける。

「カラ松兄さんも、おそ松兄さんも、おんなじ大好きなのに、どうして?」

おそ松は数秒黙り込んだ。決して振り返らないまま、ぎゅっと、固く握りしめた拳を胸に当てていた。
やがて届いた声は、普段快活な兄から発されたとは思えないほど、小さくくたびれて聞こえた。

「……こんなクソ重い気持ち、これからずっと持っとかなきゃならないなんて……あいつが可哀想だろ」

そのままおそ松は部屋を後にして、階段を下りて行ってしまった。玄関が開いて閉まる音を聞きながら、その時の弟たちは同じ顔に浮かべた同じ表情を、静かに見合わせる事しかできなかった。



「クソ松、ようやく行ったの」

はた、とチョロ松が脳内の回想から戻ってくれば、背後からのっそりと一松が歩み寄ってきた所だった。どうやら今まで二階でずっと息を潜めていたらしい。振り返って目を合わせ、二人は同時に微笑んでいた。

「一松、お疲れ」
「そっちこそでしょ。俺は何もしてないから」
「またまた。……まあこれで、収まるべきところに収まればいいけど」

並んでちゃぶ台の前に座り込んで、同時に溜息。チョロ松も一松も態度はどこまでも面倒くさそうにしながら、その表情はどこか晴れやかだった。

「うちの上二人は世話が焼けるね」
「それな」
「ただいまーっするはっする!」
「ただいまあ。あれ、二人だけ?おそ松兄さんとカラ松兄さんまだ?」

ちょうどいいタイミングで十四松とトド松が帰ってきた。質問には答えずに、チョロ松はさて、と立ち上がる。

「あれ、どこいくのチョロ松兄さん」
「ああ、タオルを準備しておこうと思って」
「タオル?」
「うん」

首を傾げるトド松に、チョロ松は事も無げに笑ってみせる。

「多分もう少ししたら、誰かさんたちが並んでずぶぬれで帰ってくるだろうからさ」

え、空、晴れてたけど。という末っ子の戸惑う顔に、答えたのは四男の鼻で笑う声だけだった。






「おそ松っ!」

よく行くパチンコ屋、コンビニ、路地裏、ありとあらゆる場所を駆け巡ったカラ松がようやく探し人を見つけたのは、空の端で仄かにけぶる夕焼けが夜の闇に押しつぶされようとしていた時間帯だった。煌々と光る街灯の下、人っ子一人いなくなった公園の隅っこに、俯いて動かない同じ背丈の赤い背中があった。公園の中に飛び込んで声を張り上げれば、あからさまにその肩が跳ねる。

「……カラ松?」
「おそ松、いた、よかった……!さ、探したんだっ」
「どうしたんだよ、パチンコ行ってくるって言ったろ?今日は俺ボロ負けちゃってさあ、傷心中なの。今の俺に近づくと際限なくたかるぜ?悪い事言わねえからあっち行ってな」

しっしっとおざなりに手を振られるが、顔はこちらを向こうとしない。声は穏やかだったが、漂う気配は絶対に近づいてくるなとピリピリ語っていた。プレッシャーが数メートルも離れたここまではっきりと届く。いつもなら、そんな言葉のない兄の拒絶に従って近づこうとは思わなかっただろう。しかし今のカラ松は、流れる汗を拭って躊躇なくおそ松へと歩み寄った。

「金なら後でいくらでもたかっていいから、もう一度俺の話を聞いてくれないか」
「いや散々話したでしょ。今日はもう疲れたからさあ、明日以降に……」
「おそ松。俺はやっぱり、お前が好きだ」
「……はあ?」

のんびりしていたおそ松の声が、途端に低くなった。ひくりと動いた背中は、それでもやっぱりこちらを振り返らない。

「お前さあ……あれだけ俺が言ったのに、まだそれ言う?結構優しく言い聞かせたつもりだったけど、まだ理解出来てなかった?」
「理解はした。一回は受け入れようとも思った。でも、受け入れられない事情が出来た」
「何それ。どんな事情があっても俺は無理なんだって。カラ松、分かんねえんならお前のその空っぽな頭にも分かるように言ってやるよ」

ぎゅっとおそ松の両側の拳が握りしめられる。聞こえる声はトゲトゲとささくれ立っていて、全力でカラ松を傷つけようとしていた。後一歩進めば手が届く距離まで近づいて、カラ松は立ち止まった。

「あのな。兄弟が好きだなんて、普通に考えて頭がおかしいの」

断言する声は、触れるもの全てを裂いてしまうような鋭利な刃であった。

「それが仮に男女であっても兄弟だったら普通に許されないし、まず血を分けた兄弟に恋とかする?しないでしょ。ましてやそれが男だよ、男。同性。ありえないね。気持ち悪い。これが一般論だよカラ松。お前のそれは、気持ち悪いの。兄弟が兄弟に恋とか、異常なんだよ。分かる?」
「おそ松……やめてくれ」
「やめねえよ、やめる訳ねえだろ。お前に自分の異常さを少しでも分かってもらえるまではお兄ちゃんやめないよ。なあ、カラ松、分かったらさっさとそんなもの、捨てちまえ。何かの手違いなんだから。無かった事にしろって。そんな気持ち悪いもん、持ってるだけでお前、腐っちまうぞ」
「っおそ松!もうやめろ!」

とうとう一歩の距離を詰めて、カラ松の手がおそ松の腕を捕まえた。とっさに振りほどこうと振り回される腕を、決して離すものかと指に力を込める。チッと舌打ちするその後頭部に、カラ松は叫んでいた。

「もう自分を貶めるのはやめてくれ……!」
「っは?意味分かんねえ、俺はお前の事言って、」
「だって、おそ松、お前、俺の事が好きだろう!」

カラ松の腕から逃れようと力を込めていたおそ松の身体が、確かにギクリと止まった。続いて上がったのは、乾いてひび割れた笑い声だった。

「は、はは。ナルシストここに極まり、か?自惚れんなよ。んな訳ねえだろ気持ちわりぃ」
「自惚れてなんかいない、事実だ。俺はお前の事が好きで好きでたまらなくて、ずっと見ていたんだ、分からない訳ないだろう!お前は、俺の事が好きなんだ!」
「んな訳ねえって言ってんだろうが!」

おそ松が怒鳴る。その顔は決して振り向かない。カラ松はぎゅっと、己の心臓が引き絞られるように痛むのを感じた。おそ松の言葉や態度に傷ついた訳ではない。もっと心苦しい光景が目の前にある。
気丈に立ち続け、カラ松に反抗し続け、ずっとこちらを見ないその肩が、小刻みに震えている事に気付いてしまったためだ。たまらなくなったカラ松は、強引に掴んでいた腕を引っ張って、おそ松をこちらへと振り向かせた。

「おそ松……!」

やっと視界に入ったその顔。歯を食いしばって、睨み付ける瞳に赤赤と燃える怒りを滾らせたまま、おそ松はぼろりと大きな雫を零した。街灯に照らされたその頬ははっきりと濡れている。涙だった。目を見張るカラ松の目の前で、おそ松は声を上げる事無くぼろぼろと泣いていた。

「んだよ!見んなよ!」

おそ松が激しく抵抗するが、カラ松は絶対に手を離さなかった。離してなるものかと思った。それはもしかしたら大人になって初めて見た、おそ松の感情的な涙だったのかもしれない。よくよく見れば目元は真っ赤で、カラ松がここに来る前からおそ松がその瞳から涙をこぼしていた事を物語っていた。
こんな、誰もいないさびしい場所で、この人は一人泣いていたんだ。好きな人に好きだと言われたその言葉を、自分で切り刻んで捨ておきながら、その痛みに一人で耐えて泣いていたんだ。普段はめったに泣かないこの長兄が、ここまで心を震わせて悲しみに泣いていたんだ。
それはなんて、なんて可哀想な姿なんだろうか。

「……っ、ごめん……!」

気付けばカラ松の目からも涙がこぼれていた。目の当たりにしたおそ松の涙があまりにも痛々しくて、可哀想で、喉の奥からこみあげるまま泣いていた。

「え、おま、何でお前が泣いてんの……?!」
「っき、気づかなくて、ごめん……!」
「は、?」
「一人で泣かせて、ごめん、ごめんな……!俺がもっとはやく、気付いていれば、おそ松をこんなに泣かせることも無かったのに……!」

胸が苦しくなるほどに痛んだ。きっとこれは罰なのだろうとカラ松は思った。例え悲しませるつもりでなかったとしても、おそ松の泣いた顔が見たいなどと軽率に思った罰なのだと。無自覚の恋に浮かれて、きっと可愛いだろうと軽く考えて、泣かせてやろうと一度でも考えた罰なのだ。実際はどうだ。覚悟していた痛みなんて比べ物にもならない。赤く染まった目元も、涙の筋がいくつも残る荒れた頬も、時折しゃくり上げる息も、涙にかすれた声も、おそ松の泣く姿の全てが痛々しくてカラ松の心を抉った。
泣かせるべきではなかった。一度として泣かせるべきではなかったのだ。こんなにも可哀想な想いをさせるぐらいならば、一生見られなくてもよかったと本気で思った。

「おそ松、ごめん、ごめん……!どうかもう、泣かないでくれ。お前が泣いていると、俺の心臓がぎゅっとなって、悲しみのあまり死んでしまいそうだっ……!」

掴んだままの腕を痛いぐらい握りしめて懇願するカラ松の姿に、少しの間呆けたおそ松は涙を湛えたまま、ふにゃっとその表情を僅かに変えた。本人的にはもしかしたら、笑ったつもりなのかもしれない。

「な、んで、俺が勝手に泣いてんのに、お前がそれ以上に泣いて謝るんだよ……意味わかんねぇ」
「ご、ごめんっ」
「分かった、分かった、から……」

ぐすんと鼻を鳴らすカラ松を宥めてから、しばらくおそ松は黙ってべそをかくその顔を見つめてきた。嗚咽を堪えてカラ松も同じ泣き顔を見つめ返す。いつの間にか完全に夜の帳が支配する空の下、街灯の白々しい光に照らされた目の前の顔は、静かな分濡れた頬がより際立って見える。どうしても痛ましく思ってそっと空いていた手の平を添えれば、目を細めて払う事無く受け入れてくれた。

「……なあ、カラ松」

誰の声も聞こえない二人きりの公園に、小さなおそ松の声は迷子のように震えて聞こえた。

「お前、それ、重くねえの」

おそ松は何が、とは言わなかった。それでもカラ松はその言葉の意味を正確に読み取った。だから目尻に残る水滴を飛ばす勢いで、ぶんぶんと首を横に振ってみせた。

「全然重くない、し、」
「し?」
「おそ松だけが、重い思いをしているのは、絶対に嫌だ」

カラ松の答えにおそ松はふはっと笑ってみせた。その瞳から零れ落ちた涙の一粒が、頬に添えるカラ松の手の甲をつうと滑り落ちていく。

「俺、さ、お前が思っているよりずっとクソ重いもん持ってるよ。お前きっと、押し潰されちゃうよ」
「俺は力だけはあるから、大丈夫。二人分持てる」

壊れないように、傷つかないように、なるべく優しく頬を撫でれば、怯える様に微かに擦り寄られる。意識してか、無意識か、そうやってカラ松の手の平の温度を感じ取った唇から、ほう、と綿のように柔らかい息が零れ落ちる。カラ松の指先が震えた。悲痛に濡れていた表情が、自分のぬくもりに触れて微かにでも安堵に解ける様を目の前にして、湧水のような激情が思わず喉を塞いだ。

「やだよ。だって俺の方が絶対重いもん。年代物だよ。こんなん知ったらお前、軽々しく俺の事可愛いなんて絶対言えなくなるからな」

子供のように頬を膨らませて駄々をこね始めた兄に、カラ松もようやく笑う。そっと握っていた腕を離せば、すぐさま縋るように指を掴まれた。指先に感じる熱いほどの温度に、荒れ狂う激しい熱情を何とか飲み込んで、逃げられないように指と指を絡めてみせる。
絡んだ指にきゅっと力を入れれば、同じだけ返される温度があった。

「……ああ、それなら受けて立とう。お前が何をどう足掻いても、俺にとってはおそ松の全部が全部可愛いんだ。覚悟してくれ」
「キモい。気でも狂ってんじゃねえの」
「自覚はある」
「それでも俺の方がよっぽど気ぃ狂ってると思うよ」
「何だ、俺たちお似合いじゃないか」
「気持ち悪いってば」
「気持ち悪くない。好きだ」
「お前ほんっと趣味悪いな」
「お前はよっぽど趣味がいいぜ」
「……なあ、いいの?」

ぼろりと、宝石のような透き通る涙を再び溢れさせながら、おそ松は唇を振るわせた。

「俺、お前の事がずっと前から好きだったんだけど、いいの?」
「だって、おそ松が俺の事を好きでいてくれたから、俺は今ここに立っているんじゃないか」

あの日、カラ松が初めて「可愛い」と出会った笑顔。好きな人に頭を撫でられて、思わず蕩けてしまった極上の笑みがカラ松へと向けられたからこそ。
カラ松は、この狂おしくも愛しい恋に出会えた。

「おそ松。俺の事を好きになってくれて、ありがとう」

心からの礼を述べ、頬に添えていた手で久しぶりに頭を優しく撫でれば、おそ松はやっと、くしゃりと笑ってくれた。
大粒の涙の雨を降らせながら、ようやく許された想いに微笑むその顔は、カラ松がこの恋に出会ってからずっと、ずっと焦がれていたものだった。

「おそ松、可愛い」

やっと見られたその顔が、涙に浸った潤む瞳が、熱を持って上気した頬が、全てが可愛い。零れる涙さえもったいなくて思わず口を近づける直前、ふと思い直して、カラ松は言い直した。
カラ松はもう、この「可愛い」の名前を知っていた。

「おそ松、好きだ」

そうすれば、飽きずに撫でる手の平の下で、おそ松は太陽よりもまぶしく笑った。

「ばーか、俺の方が何倍も好きだよ」

唇で掬い取った雫は、しょっぱくて甘い恋の味がした。
絡めたままの指ごととうとうその腕の中に愛しい可愛い人を抱き締めながら、カラ松は心から思うのだ。


俺の兄貴が、こんなに好きだ!






16/03/03



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