悪魔バルバトスと魔法使いの国 3







これはまずい事になった。バルバトスは重い溜息を吐き出す。あたりは薄暗いが、目を凝らせばかろうじて周りの景色を確認することが出来る。と言っても、どこまでも硬い岩肌ばかりが続く面白みのない光景しか視覚出来ないのだけれど。
ここはどうやら、洞窟の中らしい。滑らかで凹凸の少ない壁の表面を見るに、天然で空いたものではない。どうせ魔法かなにかで掘り進めたものなのだろう。ここは魔法大国アカツェリカだ、バルバトスを攫ってきたアイツらも、どうせ魔法使いに決まっている。お揃いのローブ着てたし。
そう、バルバトスは突然攫われてきてここにいる。狭っ苦しい檻の中だ。先程町の通りの店先に見た、カラスを入れていた鳥かごにとても良く似ていた。一つだけ違うのは、鍵の部分に人間と同じ手を持つバルバトスが器用に開けてしまわないように魔法がかけられている点だ。おかげでバルバトスがいくら錠を上げようと力を入れても、うんともすんとも言わない。
バルバトスを袋に閉じ止めてここまで連れてきたのは、赤いローブに身を包んだ怪しい男だった。真っ暗な袋の中から出されて、あっという間に鳥かごの中に入れられてしまってから、バルバトスはようやくその姿を見ることが出来た。フードを目深に被って顔がよくわからず、ニヤついた口元だけ表に出した不気味な男だった。そしてそんな不気味な赤ローブは一人ではなかった。
背丈だけが大小様々な赤ローブが、かごの中のバルバトスを囲んで無数の視線をじっと向けてくる様は、悪魔でさえも背筋をゾッとさせるような光景だった。

「ちくしょー、あいつら俺をこんなところに閉じ込めたままどっか行きやがって……せめて誰か残れよな!めちゃくちゃ寂しいんですけど!」

檻の鉄棒を掴んでかごをゆらゆら揺らしながら、バルバトスは大声をあげた。怒りに滲んだ声は洞窟内を反響して、誰にも聞き取られる事なく消えていく。返事ももちろんない。この割と広い洞窟の中にひしめいていた沢山の赤ローブは、バルバトスひとりを置いて今はどこかへと立ち去ってしまっていたのだった。

「人のこと散々小さい小さいバカにしやがって……好きでこのサイズでいるんじゃないっつーの」

狭い檻の中に閉じ込められていることを差し引いても、今のバルバトスは機嫌が悪かった。赤ローブの連中から口々に、小さい小さすぎると連呼されたからだ。

「我らはジルニトラ。偉大なる祖先でありこの世の支配者である竜を崇拝する選ばれし民だ」

と、赤ローブの一人は言った。
そのまま長々と語り出した彼らの話を要約すると、この赤ローブ集団ジルニトラは竜を熱狂的に信仰する秘密の教団らしい。それも、竜の体が大きければ大きいほど神聖さが増すのだとか。つまりはそう、彼らにとって今のバルバトスは、珍しい種類の竜であるのにあまりの小ささに価値の薄い微妙な存在だという事だ。

「噂には聞いていたが、今までに見た事の無い姿の竜だ、何と珍しい。惜しむらくはこの小ささよ」
「この、あまり知性を感じられない顔、まだ幼体か?成長すればどれほどの大きさとなるのだろう」
「人型を取っているならば、やはり人より大きくはならないのでは」
「何と残念な……」
「おっお前ら言いたい放題言いやがってー!ここから出せ、八つ裂きにしてやるぅぅぅ!」

赤ローブたちは檻を囲んで散々バルバトスを馬鹿にした後、念のためにもっと詳しく調べてみなければとかこれからアレをどうするかとかブツブツ話し合いながら全員で洞窟の向こうへと移動してしまった。後には怒り心頭のバルバトスがむなしく一人で残されてしまったという訳だ。無理やり連れてきたくせに待遇が悪すぎやしないだろうか。ビタビタと苛立ちのまま尻尾を床に叩きつけながら、バルバトスは虚空を睨む。赤ローブたちが去った方向が外へと続くのか洞窟の奥に繋がっているのか、それすら分からない。
彼らはとにかく話を聞かない人間たちだった。バルバトスがいくら自分が竜では無い事を訴えてもまともに取り合わず、バルバトスの事を新種の竜であると信じ切っている様子だった。ヒフキヒトガタツノハネトカゲというでたらめな種族の名前を持ち出しても、そんなトカゲ聞いた事無いと一蹴された。やはりこちらが普通の反応で、カラ松たちが特別騙されやすい人間だったのだろうか。今更まともな反応に出会ってもまったく嬉しくない。
散々ためらってから、最早これしかないと正体も明かしてみた。しかしバルバトスがいくら「俺は竜種じゃなくて、実は悪魔なんだ!」と真実を口にしても、誰も信じてくれなかった。曰く「そんなアホ面の悪魔がいる訳がない」と。

「っあーもう、ムカつく!ムカつく!呪い解けたら頭から魂バリバリ食ってやろうか!ってトリスタンともう人の魂はむやみに食わないって約束したんだったーもおー!」

バルバトスがいくら苛立って手足をばたつかせても、檻はびくともしないし誰も戻ってこない。一人で暴れていても虚しくなるばかりで、バルバトスはしゅんと肩を落とした。思い出し怒りも持続しない。ただひたすら、ここから出して欲しかった。退屈だし窮屈だし、何より心細かった。
泣く子も黙る悪魔様が何を、と思うだろう。バルバトス本人も思っている。以前は一人で気ままに下界を飛び回っていたはずなのに、傍に寄りそう体温を知ってしまうとどうしてもそれが恋しくなる。元来バルバトスは人懐っこく、誰かと一緒にお喋りしたり騒いだりするのが大好きな悪魔だ。ずっと共にいたいと願う唯一の存在が出来てしまってからは、そんな性格が顕著となっている気がする。
そうしてバルバトスが檻の中で一人しょんぼりしている最中だった。

キュゥン

突如聞こえた謎の音にバルバトスはビクリと飛び上がった。そのまま檻の天井に頭をぶつけて、一旦床に崩れ落ちる。今のはめちゃくちゃ痛かった。巻き角が片方柵に当たってカァンと高い音を立てたのも、なんだか無性に恥ずかしい。

「ってー……!なっ何だよ今の音!誰かいるのか?!」

羞恥心を振るい落とすように大声を上げる。他に誰も居ないと思っていた洞窟内に、再びキュウと控えめな音が響いた。心細い思いをしていたバルバトスには、それが生き物の声である事がすぐに分かった。音はどうやら、背後から聞こえてきた。

「……えっ?」

慌てて振り返る。バルバトスの入れられた檻は洞窟の壁際にぶら下げられていたので、今まで後ろを気にしてはいなかった。振り返った先には誰も居ない。無機質な岩肌が戸惑う声を反響させるだけだ。だが、そこから視線を下に向けると……それは、いた。
下を見ようと身を乗り出さなければ確認できない死角に、青色の物体が床に転がっていた。薄暗くてよく分からなかったが、青色で間違いない。おそらく外で見れば目の覚めるような鮮やかな青をしているのではないかと、そう思わせる体色だった。どうやら手足を丸めて縮こまっているらしい。バルバトスに見えているのはきっと青色の背中だった。それを証明するように、体の色と同じ幼い翼が生えているのが見える。翼のある生き物。この洞窟の持ち主たちを思い出して、バルバトスはまさか、と思った。

「お、おーい。そこのお前、だれ?大丈夫?」

恐る恐る声を掛けると、青色は反応して首を持ち上げた。途端にジャラリと硬質な音が鳴り響く。青色の首には太い首輪がかけられていて、岩に打ち付けられた杭に鎖で繋がれているようだった。青色は顔を持ち上げてバルバトスを見上げた。目が合う。

「お前、もしかしなくとも、竜?」
「ギャウン」

体中どこを取っても青一色のそいつは、どう見ても竜だった。今まで見た中で一番小さな竜だ。見た限り、床に力なく垂れる尻尾を入れても全長1mにも満たない。きっと子供なのだろう、幼い竜が逃げられないように首輪をされて、キュウキュウ悲しそうに鳴いているのだった。

「なに、もしかしてお前もあの赤いやつらに捕まったの?」
「ギャウ、キュゥン」
「そっかそっか。俺もなんだー。あいつらマジムカつくよな!」

動物の言葉はある程度理解し会話することのできるバルバトスだった。しかしこの青い子竜はだいぶ幼いので、バルバトスでも細部を読み取る事は出来ない。それでも子竜がバルバトスの問いかけを肯定し、悲しんでいる事はよく分かった。
あの赤ローブたちが己たちの理想とする竜を追い求めて捕まえていたのは、バルバトスだけではなかったらしい。体の大きな竜を探しているくせに、捕まえるのはこんなに小さな竜ばかりなのが馬鹿なのかと思うが。
心細そうに鳴いていた子竜は、バルバトスを見つけて少しだけ気を持ち直したらしい。興味深そうに無垢な瞳を向けてくる。バルバトスも自分以外の捕らわれ仲間を発見して喜んでいた。

「俺はバル、一応トカゲってことにしといて。お前は?」
「ギャウ」
「うーん?上手く聞き取れないな……仕方ないかあ、お前まだ赤ん坊みたいだし」

竜は生後いつまで赤ん坊として扱うのか詳しくないバルバトスにはよく分からないが、この子竜は赤子と呼んでも差し支えないように思える。大人の竜なら鎖の1本や2本軽々と壊して逃げ出す事が出来そうだが、赤ちゃん竜には厳しそうだった。そのためにあの赤ローブたちはこんな小さな竜を捕まえたのだろうか。

「なあチビ、お前その首輪、上手く抜け出せないの?頭を縮めてすっぽ抜けさせるとかさ」
「キュウ?ギャウ、ギャウゥ」
「あーダメか。それじゃあ鎖は?引き千切ったりとか……出来ないよなあ、まだ」

頭を振ってじたばたもがいたり、鎖をガジガジ噛んでみたり、バルバトスが指示した通り子竜は動いてくれるが、やはり力が足りない。バルバトスは仰向けになって檻越しに岩の天井を仰いだ。強力な仲間の登場に、ようやくここから抜け出せると思ったのだが。

「あーあ、せめて俺がもうちょっと火力高かったらなあ。こんな檻も鎖も溶かしてやったのに」

ぽふ、と吐いた炎の欠片はもちろん金属を溶かすほどの熱は無い。元の体に戻って本気を出す事が出来れば、このどこまで続くか分からない洞窟内も一気に灼熱へと変える事が出来るだろうが、無い物ねだりをしてもしょうがない。後はバルバトスがいない事に気付いた過保護なカラ松あたりの助けを待つしかないだろう。バルバトスはぐったりと諦めかけていた。
ぽっ、ぽっ、と苦し紛れにマッチほども無い炎を吐きだしたバルバトスは、暗い洞窟の中に生み出されたわずかな光源を見つめてふと、気が付いた。ごろりと転がって下を見下ろす。子竜はまだ諦め悪く鎖をガジガジ噛んでいた。

「チビ、おいチビ!お前竜なんだから、炎吐けないの?」
「ギャウ?」
「赤ん坊だからまだ無理かなあ?竜って皆炎吐けるイメージなんだけど、合ってる?ちょっと吹いてみ?」

バルバトスは竜に詳しくないので全てが憶測で想像だった。竜という生き物は、とにかく炎を吐いて尻尾を振り回し、空を高速で飛び回っては山の上に篭るという、何者も寄せ付けない暴れん坊というイメージだ。その大体は今日見たリンドヴルムの竜たちによって塗り替えられてはいたが。どんなに小さな赤ちゃん竜でも、元気よく炎を吐けるんじゃないかと思ったのだ。バルバトスの頭の中では、それこそ卵から孵った瞬間天へ向かって炎を吹く生き物だった。
子竜は期待の篭った悪魔からの視線にぱちぱちと瞬きをした。あどけない様子にさすがに不安が募ってくる。こんな無垢な子竜が、金属を溶かすほどの炎が吐けるようにとても見えない。

「ま、まあ、ものは試しだよな、うん。ほら、手始めにそのガジガジしてる鎖にさ、ボーって」
「キュウキュウ?」
「え、どうやるの、って?お前炎吐いた事無いの?」

ギャウ、と困ったような声が洞窟内に響く。もしかして炎の吐けない竜もいるのかな?と思いながら、バルバトスは唇をとがらせて子竜にも見える様に身を乗り出した。

「ちょっとフーッてしてみな、こうやって。お前の体の中にある熱いのをこう、喉から口に向かって一気に吹き出す感じ、出来る?」

ポッとバルバトスがひと欠けら炎を吐きだしてみれば、瞳を輝かせた子竜がさっそく真似を始めた。フーッフーッと一生懸命息を吐き出しているが、そこにオレンジ色の炎が乗ってこない。

「あーダメダメ、もっとお腹の底から吐き出すように」
「ギャウゥ」
「もっと勢いよく、もっと熱く!周りを全部消し炭にしてやるっていう気合を込めろ!」

バルバトスはそれからしばらく、ケフケフと懸命に炎を吐こうとする子竜を励ましながら付き合った。普段であれば面倒くさがってこんな事しなかっただろうが、要するにとてつもなく暇だったのだ。子竜も途中で諦める事無く、バルバトスからの教えやエールに答えようと挑戦を続ける。その間、赤ローブたちは一度も戻っては来なかった。見えない場所で一体何をしているのだろうか。
外が見えないので時間がはっきりとは分からなかったが、おそらく日が落ちてたっぷりと時間が経った後。とうとう努力が実る時がやって来た。

「グ、グ、グ……」
「そうだ、そうやって溜め込んで、マグマを吐き出す勢いで!自分の中のありったけの力を腹に集中させるんだ!」

いつの間にかバルバトスは拳を握りしめて本気で応援していた。子竜が素直にバルバトスの言う事をいちいち聞いてくれるので、つい指導に熱が入ってしまうのだった。全身に力を入れた子竜がぐっと口元をすぼめる。檻の中のバルバトスにもチリッと焼け付く気配が感じられた瞬間、とうとう子竜の口からゴウと音を立てて炎が吐き出された。

「お、おおおーっ!やったなチビ、炎吐けたじゃーん!」

バルバトスが思わず拍手している間に、吐き出される炎に振り回されるようにしばらく天を向いた子竜は、周辺の岩肌を真っ黒にした後やがて炎を吐き終わりころりと転がった。始めての行為で加減が出来ず、力を出し切ってしまったらしい。目を回して横たわる子竜を見て、バルバトスはようやく本題を思い出した。
本題、つまり今どうして自分は、見ず知らずの竜の子どもに炎の吐き方を教える羽目になったのか、だ。

「……はっ!そうだ、鎖!今ので溶けて……は、ないよなあ。おおーいチビー、チビ助ー、しっかりしろー、のびてる場合じゃないぞお」

バルバトスがいくら懸命に呼びかけても、子竜は起き上がろうとはしなかった。しばらくは動けそうにない。子どもなので無理も無い事だったが、期待を裏切られたバルバトスは頭を掻きむしるしかなかった。

「何だよお、これじゃ教え損じゃん!チビのばか!あーもう早くこっから出たーい、おなかすいたあ」

唯一の希望が無くなりバルバトスが肩を落とした、その時だった。

ドォン!

突然、頭上から凄まじい破壊音が鳴り響いたと思ったら、目の前に割られた岩の塊が落ちてきたのだ。

「ひいっ?!な、なになになにっ!何が起こったの?!」

辺りは一時、砂埃に包まれる。目を瞑ってケホケホと咳をしていると、今までこの洞窟内ではほとんど感じなかったものがビュウと吹き荒れた。風であった。
風は瞬く間に砂埃を攫っていき、視界を正常のものへと戻す。瞼を開けたバルバトスの目に飛び込んできたものは、薄暗かった洞窟を照らす月の光だった。頭上に空いた人一人分すり抜けられそうな穴から光は零れ落ちている。先ほどの音は明らかにこの穴が開けられた時のものだろう。そんな穴の真下に、まあるく輝く大きな球があった。
水晶玉だった。

「見ぃつけた」

すぐに一人の人間が穴から降り立つ。とんがり帽子を片手で抑えて、やけに長いマントを靡かせてバルバトスの目の前に現れたその人物は、助けに来るにしても予想だにしていなかった顔だった。

「お、お前は、不良教師!」
「よおトカゲくんじゃないの、ごきげんいかが?って聞かなくても分かるか、だはは」

キュー・スティックのような細長い杖を持った魔法使いは、昼間に睨まれた魔法教師おそ松だった。檻の中に閉じ込められたバルバトスを一瞥すると、おそ松は愉快そうにケラケラと笑ってみせる。

「なあに、トカゲくんもあのイカれた狂信者どもに捕まったの?竜と間違えられて?うけるー!」
「ううっうるさい!俺だって好きで間違えられた訳じゃねーし!俺はトカゲだって言ったし!向こうが勝手に思い込んでるだけなんだからな!」
「ハイハイ分かった分かった。あんま騒ぐなよ、あの赤ローブ連中が戻ってきちゃうぞ」

ハッと己の口元を塞いだバルバトスだったが、すぐに思い出す。さっきバルバトスの大声よりも何倍も大きな騒音が響いて天井に穴が開いた事を。

「……いや、俺よりそっちが鳴らした音の方が大きかったじゃん!助けにくるにしたって、もっと丁寧にできねーの?!」
「さっきのは防音の魔法を掛けてあったから大丈夫ですー。それと俺、別にお前の事助けに来た訳じゃないからな」
「はい?」

おそ松はスタスタとバルバトスの目の前を素通りすると、何かを見つけてしゃがみ込んだ。大事そうに両手で抱き上げたのは、力尽きて転がっていた子竜であった。

「やっと見つけたぞソラぁ、助けに来るのが遅くなってごめんなあ」
「キュウ……?ギャウ、ギャウウ!」

ようやく目を覚ました子竜は、目の前のおそ松に気が付いて喜びの声を上げてしがみついた。よしよしと子竜の背中を撫でてやるおそ松の手つきは驚くほど優しい。おそ松の目的はどうやら、子竜の方だったようだ。
ぐりぐりと頭をこすりつけて甘える子竜を撫でてやっていたおそ松が、ふと何かに気付いたように子竜の口元を覗き込む。

「……ん?お前、まさかとは思うけど、口から炎とか吐いてないよな?」
「ギャウン?」
「ああ、吐いたよそいつ、一回だけな。初めてだったみたいで、すぐに出しきっちゃったけど。俺が教えた」

子竜の代わりにバルバトスが答えてやると、驚きに見開かれた瞳が振り返る。

「は?炎、吐いた?こいつが?」
「え、うん」
「……確かにさっき、この辺りから炎の気配を感じたけど……そうか、お前炎吐けたのか」

どこか感慨深げに瞳を細めてそう呟いたおそ松は、右手に持ったままだった杖を振って子竜の首輪をコンと叩いた。すると、今まで頑なに締め付けていた子竜の首からぽろぽろと、まるで一瞬のうちに何百年が経ったかのように風化し崩れ落ちてしまった。バルバトスがギョッとしている間に、身軽となった事に気付いた子竜がギャウギャウと喜んでさらにおそ松へとくっついた。

「あはは、分かった、分かった。もう人間なんかに捕まらないようにな?……さて、」

一仕事終えたおそ松が、改めてバルバトスへと向き直る。その瞳に宿る冷たい炎に、バルバトスは背筋を凍らせた。

「お、おい、何だよ、何する気だよ」
「……お前さあ、目障りなんだよね。どこからこの国に入り込んできたか知らないけどさ。よりによってあのお人よしの傍から離れようとしないし」
「え、えっ?」
「あいつが見ていない今が、絶好のチャンスなんだよなあ……」

おそ松の持つ杖が、真っ直ぐバルバトスへと向けられる。杖の先から迸る魔力の気配を肌で感じ、バルバトスは喉の奥で悲鳴を上げた。こいつ、何故だか分からないけど俺を始末しようとしてる!
とっさに逃げようとしたが、小さな檻の中では満足に移動も出来ない。おそ松は檻の隅で縮こまる哀れな悪魔を無感動で見つめると、何のためらいも無く杖を振り上げようとした。絶体絶命。体を震わせてぎゅっと目を瞑ったバルバトスの窮地を、しかしとっさにおそ松の腕にしがみついて救おうとする青色がいた。

「ギャウ!ギャウワウッ!」
「ソラ?」

子竜であった。杖を持つ腕に必死にしがみつくその姿に、優しげな瞳に戻ったおそ松が戸惑いを見せる。

「なに、いきなりどーした?」
「ギュウ、キュウン」
「……お前……」

おそ松へと必死に訴える子竜の言葉を、バルバトスも理解出来た。子竜は炎の吐き方も教えてもらったんだと、バルバトスは悪いやつではないと懸命に説明しているのだ。はじめて出来た友達なんだ、と。友達の件はバルバトスにとって初耳だが、ここで横やりを入れる無粋な性格はしていない。
子竜の鳴き声を正確に理解しているのか定かではないが、ぽかんと呆けた様子だったおそ松は、やがて苦笑して右手を下げた。

「まぁったく、お前ってやつは……その甘っちょろいとこ、一体どこの誰に似たんだか」

よしよしと子竜を撫でるおそ松からは、もう殺気を感じなかった。子竜の説得の甲斐あって、バルバトスをどうこうする気は収まったらしい。ほう、と思わず安堵の溜息を吐き出す。

「しゃーない、こいつに免じて今日は見逃してやるよ。感謝しろよぉトカゲくん?」
「そりゃどーも……」
「ま、何か余計な事したらその時は容赦しないかんね、って事で。そんじゃーな」

子竜を抱いたまま踵を返すおそ松。すたすたと水晶玉の元へ歩いていくその後ろ姿に、一瞬怯んだバルバトスは慌てて声を掛けた。

「ちょ、ちょっと待って!えっ、もしかして俺の事、このまま放置していくの?!閉じ込められてる可哀想なこの俺を!」
「はあ?そこまで面倒見れませーん。命助けてやっただけ有難く思いな」
「ヒエーッこいつサラッとさっき本気で俺の事殺すつもりだったって言ったよぉー!マジでおいてくの?!ここからちょいと出してくれるぐらいしたって罰は当たらねえよお!」

格子の間から必死に腕を伸ばすバルバトスに、おそ松は一瞥をくれてやっただけだった。さっさと水晶玉の上に器用に腰掛けると、ふわりと浮かび上がる。

「心配しなくても、もうじき飼い主様が助けに来てくれるだろうからここで大人しく待ってな、おチビちゃん」
「へっ?」
「あ、そうそう、」

水晶玉が天井の穴に吸い込まれる直前、月の光に照らされたおそ松が、バルバトスを振り返り妖しい瞳でにやりと笑う。

「ここで今見聞きした事、俺とこのソラ、青い竜がいた事。決してだぁれにも話さないように。もしも誰かに一言でも話したら……分かるよな?」

ニィと唇を歪ませるその様は、悪魔よりも悪魔らしい。顔色を青くしたバルバトスがこくこくと頷くのを確認して、おそ松は子竜と共に穴の向こうへと消えていった。地面に落ちていた岩も後を追うようにふわりと浮き上がり、自ら穴へとはまり込んでぴったりと動かなくなる。天井は元通りの何もない岩肌へと戻り、薄暗さを取り戻した洞窟内には今度こそ正真正銘、バルバトス一人だけが取り残された。
檻の中でへなへなと尻餅をついたバルバトスは、その事に寂しさを覚えるよりも、思わず安堵せざるを得なかった。

「な、な、何なんだよあの魔法使い……絶対ただのサボり魔教師じゃないだろ……!割とマジで命の危険感じたし!」

身に覚えのない恨みさえ篭ってそうなあの時の瞳を思い出し、ぶるりと震える。置いていってもらえたのは正解だったかもしれない。そういえば、庇ってくれた子竜に礼を言う暇も無かった。また会う機会はあるだろうかと、バルバトスは天井を見上げた。
そのままぼおっと宙を眺めて、どれほどの時が経っただろうか。時折ぱた、ぱた、と赤い尻尾を動かす音以外何も聞こえてこなかった空間に、外から微かな喧騒が届いてきた。おや、とバルバトスが首を巡らせる間にも、音はどんどんと大きくなっていく。近づいてきている。それが何やら人間が争う音だと気付いた時、確かに聞き覚えのある声が自分を呼んだ。

「バル!おーい、バル!どこだ!どこにいるんだー!」
「カラ松?!」

バルバトスの驚いた声が反響して向こうにも届いただろうか。バタバタガシャガシャと特徴的な義足の駆ける音が聞こえたと思ったら、必死な形相のカラ松がバルバトス一人の空間へ飛び込んできた。隅に鎮座する檻をすぐさま発見したカラ松が、バルバトスの姿を見て一気に顔を綻ばせる。

「バル!!よかった、やっと見つけたぞ!無事だったか!」
「か、カラ松ぅ!」

すぐさま駆け寄って来てくれたカラ松は、檻の鍵を開けようとする。しかし魔法で閉められている錠はそのままではどうしても開ける事が出来ない。魔法の存在にすぐに気が付いたカラ松が、あわてて後方へ声を張り上げた。

「チョロ松、チョロ松ー!来てくれ!魔法で鍵が閉められているんだ!」
「はいはい、何の鍵が閉められてるって?……ああ、バル、ここにいたの」

傍まで来ていたのか、呼ばれてすぐに姿を見せたのはチョロ松だった。諦め悪く錠前と格闘しているカラ松を押しのけて、腰にぶら下げてある無数の鍵から一つを無造作に掴み、錠穴に差し込む。カチリと回せば、まるで魔法なんて無かったかのようにあっけなく檻の鍵は開かれた。バルバトスは逸る衝動を抑えられないまま、両手を差し出すカラ松へと飛びついた。

「カラ松ー!」
「おおバル、よかった……!すまない、俺が目を離している間にこんな所まで連れてこられてしまって」
「ホントだよ!俺マジ危ない目にあったんだからな!もっと早く助けに来いよぉ!」
「そんな目に合っていたのか、何と可哀想なバル!おのれ、あの赤ローブ共め……!」

カラ松はバルバトスを攫ったあの赤ローブ集団に怒りを覚えているようだが、バルバトスを命の危険にさらしたのは正確には彼らでは無い。しかし正直に言えばあの悪魔な魔法使いに何をされるか分からないので、何も言わないでおいた。

「なあ、どうしてここが分かったの?ていうか、ここどこ?俺袋に入れられてたから、ここがどこかもさっぱり分かんないんだけど」
「ああ、ここはアカツェリカ奥地の山の中だ。お前が町中でいなくなった事に気づいて一松たちと探していたら、付近で怪しい赤ローブの男を見たという目撃情報を手に入れてな。チョロ松たちにも協力してもらって赤ローブたちのアジトを探していたらここに辿り着いたんだ」
「おかげで僕らも奴らの隠れ家を見つけることが出来てある意味助かったけどね」

チョロ松はすでにバルバトスたちのそばから離れていて、しきりにあたりを観察していた。すぐに地面に落ちている首輪の残骸を発見して眉を寄せている。

「何これ。首輪みたいに見えるけど……バル、何か知ってる?」
「え、あー……それね、俺がここに来た時にはすでにその状態で放置されてたよ。一体何なんだろうなー、それ」
「ふうん?他の竜か何かを捕まえていた跡かな。まあ、僕には関係ないか」

一瞬怪しんだチョロ松だったが、目的のものではなかったようですぐに興味を逸らした。他にめぼしいものが無い事を確認すると、元来た道へとせかせか戻っていく。

「別な部屋に保管されているのかもしれない。僕は次の部屋に行ってくる」
「あ、俺も行くぞ!バルを助けることが出来たんだ、そちらにも協力するぜ」

バルバトスを手の平に乗せたまま、カラ松もすぐ後をついていく。バルバトスが閉じ込められていた空間を出ると、曲がりくねった狭い通路がぐねぐねと伸びているようだった。途中でいくつも枝分かれしていて、壁にぽつぽつと何が光源か分からない小さなランプが並んで頼りなく周りを照らしているだけだ。すぐに迷ってしまいそうな薄暗い洞窟の中を、チョロ松は迷いない足取りで進んでいく。遠くから複数の人間の声や足音が聞こえてくるのは赤ローブたちだろうか、それともカラ松たちの他にも侵入者がいるのか。

「チョロ松、何探してんの?」
「盗まれた本だそうだ。ほら、本泥棒が出たとか数日前書庫を訪ねた時言っていただろう。その犯人が赤ローブ集団であると突き止められたみたいで、チョロ松達書庫の番人はちょうど奴らを探していた所だったらしいんだ」
「へえ、あいつら竜だけじゃなくてそんなもんまで泥棒してたんだ」

これで何故チョロ松が一緒にいたのか理由が判明した。カラ松たちは赤ローブを追っていたチョロ松含む書庫の番人たちに偶然会い、目的が同じという事で協力して探していたらしい。そこで、チョロ松が何個目かの分かれ道を曲がったあたりで、息を切らせてやってきた一松と十四松に鉢合わせた。

「クソ松、バルは?!」
「一松、十四松!ちょうどよかった、バルが見つかったぞ、ほら」
「わーい、ホントだバルだー!大丈夫?ケガしてない?」
「……よかった……」

カラ松の手から奪い取られたバルバトスは、一松の手の上でもみくちゃにされた。二人も随分と心配してくれていたようで、バルバトスが居なくなった事に責任さえ感じていたらしい。

「おれ、町にあまり出ないから薬草買うの久しぶりで、つい夢中になっちゃって……クソ松なんかに任せちゃって、こんな事になってごめんね」
「一松ぅ?なにか棘を感じる言い方じゃないかぁ?」
「ぼくもね、まだバルのにおいを覚えきれてなかったから、追いかけられなかったんだー、ごめんね!今度からちゃんと覚えとくよ!」
「に、においってなに?どゆこと?ってやめろー!嗅ぐなー!」

ちょうど背中の羽の付け根あたりに鼻をくっつけてすんすん嗅いでくる十四松に、バルバトスは慌ててもがいた。くすぐったいやら恥ずかしいやら。その間にも頭を撫でることを止めない一松や一人首をかしげるカラ松で、バルバトスの周りは一気に騒がしくなる。一人で檻の中に閉じ込められているよりはずっと良いと、身を捩りながらも嬉しく思う。

「……ああーっ!あったー!」

その時、一人でどうやら奥へと進んでいたらしいチョロ松の声が通路を通して響いてきた。顔を見合わせたカラ松たちは、慌てて声の元へと向かう。洞窟のさらに奥、一段と狭い通路を通り抜けると、バルバトスがいた部屋よりももっと小さな空間に辿り着く。木箱や古い棚やが乱雑に押し込められていて、おそらく物置として使っていたのだろう。整理整頓がまるで出来ていない隅に、分厚い本が積み上げられていた。チョロ松はその前に立っていた。

「信じられない!貴重な禁書を盗んだあげくこんな雑に放置しているなんて!傷んでいたり破かれていたりしたらマジで承知しないからな、あいつら!」

チョロ松は目を吊り上げて怒り狂っていた。一番上の本を手に取って確認のためにぱらぱらと捲っている。その背中からも見るからに怒りのオーラが立ち上っていて、うかつには近寄れそうになかった。

「そ、そういえば赤ローブたちってどこ行ったの?全員捕まえた?」
「いや……それが、俺たちが来た時にはすでに逃げ出した後だったんだ。直前まで集会していた痕跡はあったんだがな」
「数人取り残されてたけど、下っ端の下っ端だったらしくてすぐ降参してきたよ。他の奴らがどこに行ったのかまったく知らない様子だった」
「チョロ松兄さん!本大丈夫だった?!」

バルバトスがカラ松と一松と共に背後でひそひそと会話している間に、十四松が恐れを知らない様子でぴょこぴょことチョロ松の手元を覗き込んでいる。実の兄相手だからこそ出来る芸当だろうか。チョロ松も少しだけ怒りを治めて弟へ応対した。

「まあ、むやみに傷つけられてはいないようだね。こんな洞窟の中だからちょっと湿気ってる気がするけど。はあ、マジで許さん」
「ふーん!盗まれた本は全部あった?」
「待って。ちょっと確かめる。えーと、ひ、ふ、み……そうだね、多分全部あるかな。よかった……」
「どんな本があるの?!」

止める間もなく十四松はチョロ松がチェックしていた本をいくつか手に取る。バルバトスにも表紙や背表紙が見えた。いずれも古めかしく、いかにもいわくありげな見た目をしていた。さすが魔法大国で禁書に指定されている本たちである。竜、という単語がいずれの本にも刻まれている事を確認したところで、チョロ松が慌てて本を回収し始めた。

「こ、こら!全部禁書って言っただろ!基本的に、外部の人間に見せちゃいけない事になってるんだから!」
「大丈夫だよ!だってチョロ松兄さんとぼく、兄弟だから外部じゃないよ!内部だよ!」
「アホか!そういう意味じゃ……」

賑やかな二人の声が、ふいに途切れた。微笑ましく背後から眺めていたバルバトスたちが不審に思うほど、それは唐突にやってきた。二人は未だ複数の本をその手に持っていて、その内のとある一冊に視線を注いでいるようだ。ふわりと浮き上がったバルバトスには、一部の文字だけ読み取ることが出来た。

(……なんだ、「先祖」……?)
「ドゥーン!」
「あ、ちょ、コラッ十四松!いきなり何すんの!」

何の脈絡も無く突然十四松が暴れ出す。二人が持っていた本が数冊宙を舞い、チョロ松が悲鳴を上げて手を伸ばす。残念ながら一冊だけキャッチ出来ず、バルバトスたちの目の前に落ちてきた。カラ松が身を屈めて床に落ちた本を拾おうとする。

「十四松、貴重なデンジャラスブックを粗末に扱うのは感心しないぜぇ?……お、っと、これは」
「あっ……」

後ろに控えていた一松も目を見開いて反応する。落ちた本は表紙がこの場にいる誰の目にも触れられるような状態で床に広がっていた。今度こそバルバトスは最後まで本のタイトルを読むことが出来た。

「竜の召喚術教本?」
「ああ……竜の召喚術はアカツェリカでは禁術になっているからな、もちろんそんな召喚術が載っている本も、禁書扱いだ」

一瞬手を止めたくせに、何事も無かったかのように説明してくれるカラ松。そのまま本を拾い上げ、チョロ松に手渡す姿に声を上げたのはバルバトスではなく、一松だった。

「……何でお前、そんな冷静でいられるんだよ。自分の足を失わせた原因の魔術だろ」
「えっ?!」
「確かにそうだが一松、あれは事故だっただろう。術にも術者にも何の責任も無い」
「お、おれだっておそ松兄さんを責める気持ちはない!けど、お前があまりにも平然としてやがるからおそ松兄さんだって……!」
「は?え?おそ松?」

一松の言葉に大混乱中なのはバルバトスだけだ。何故ここで唐突のおそ松の名前が出てくるのか。おろおろと宙に浮かぶバルバトスの姿に、ようやく己の失言に気付いた一松がさっと顔色を青くする。

「あ、ご、ごめ……チョロ松、十四松、おれ、ほんとに、」
「あー分かってるって、お前が未だにおそ松兄さん慕ってくれてるのは知ってるから」
「気にしないでー一松!」
「う、うう……でもおれ、箝口令が敷かれてるのにしゃべっちゃった……どうやって償えば……」
「わーっだから気にすんなって一松!大丈夫だから脱糞しようとすんな!」

極度の緊張に震えながらローブを捲りかける一松を、必死の形相でチョロ松が止める。そのまま振り返って睨んできたので、バルバトスはヒッと飛び上がってカラ松の後ろへと隠れた。

「バルも、今一松から何も聞いてない!そうだよな?!」
「は、はい、何も聞いてません!」
「よし!一件落着!全員本を回収して!僕に渡して!そうだ!ありがとう!これでよし!それでは解散!」

全員俊敏な動きで有無を言わせぬ様子のチョロ松に従い、本をかき集めた。どんな本だったか記憶に留めておく暇すらない。唯一手に持ってきていた鍵付きの己の本を開いて次々と禁書を収納していったチョロ松は、全てを収め切ると颯爽と洞窟内を戻り始める。未だ青い顔の一松と珍しく口を閉ざして静かな十四松、そしていつも通りのカラ松と共に、バルバトスはただその緑の背中を追いかける事しかできなかったのだった。






「ふーん?それで禁書捜索協力のお礼と口封じとお詫びでこの品物かあ、いいなー。僕も取引がなければついていったのに」

あれから数日後、カラ松宅にて。久しぶりに遊びに来ていたトド松に、カラ松とバルバトスは交互にこの間の誘拐事件の顛末を話してきかせていた。少々ガタつくテーブルの上には山盛りのフルーツが籠いっぱいに盛られている。本日ちょうど書庫の番人代表名義で届いたところだった。

「この時期トド松は忙しいだろう。仕方ないさ」
「そうなんだよー、僕の名前も売れてきたって事で嬉しいんだけどさ、つまりこの調子だと来年からもずっとこの忙しさだよ。リンドヴルムの凱旋がずっと見られないって事じゃん!それはやだなあ」
「何で来年からもずっと忙しいって分かるんだよ」
「僕農場持ってるって言ったでしょ?一年で一番アカツェリカに人が集まるこの時期にどうしても取引なんかが増えてさあ……いや嬉しい事なんだけどね!」

いいなー、と言っておきながらトド松は遠慮なくフルーツを手に取ってカプついている。脇で同じようにバルバトスがテーブルに座り込んで必死に果物の分厚い皮をはぎ取っていると、よしよしと優しく頭を撫でられた。

「それにしても災難だったねバル、竜と間違えられたなんて。確かに僕も初見で勘違いしたけどさ」
「ん、まあね。結局閉じ込められただけで何もされなかったし、いーんだけど」
「ほんと無事でよかったよねー。犯人は禁書まで盗んだ怪しい赤ローブ集団なんでしょ?謎の儀式の生贄にされたり、解剖されたり、呪い掛けられたりされてもおかしくなかったんじゃない」
「ひえっ……」

己の腕を抱きしめ、改めて何事も無かった事に喜びを噛みしめるバルバトスであった。多少の何事かはあったし、現在進行形で呪いはすでに受けているのだが。
バルバトスが二の腕を擦っている間にも、トド松は知らん顔で桃色のフルーツを頬杖を突きながらしゃくしゃくと齧っている。

「にしても、竜の召喚術かあ。その竜狂信者たち、召喚するつもりかな」
「どうだろうな。チョロ松は、禁書の庫に所蔵されている竜と名のつく本を片っ端から盗んだだけだろうと話していたが」
「でも目を通しているなら可能性はあるよね。……あー、でも竜の召喚術には莫大な魔力が必要なんだっけ。その辺の凡人魔法使いには無理か」
「そうだな、おそ松でギリギリだった、という話らしいから」

向かいに座って呑気に箒の手入れをしていたカラ松を、トド松がぎょっと目を見開いて凝視する。すぐにバルバトスにも顔を向けられたので、何でもないように頷いてみせた。

「この間聞いた。カラ松の右足の原因、おそ松の召喚術が暴走したせいだって」
「なっっっんで話した?!他言厳禁だって話だったじゃん!」
「え、ええとな、成り行きで俺が耳にして、カラ松にほんとかって聞いたらほんとだって教えてくれたんだけど……ごめん?」
「バルが悪い訳じゃないよ。悪いのはそこのポンコツ松兄さんだから」

トド松の大声にバルバトスがびくついていると、カラ松には撫でられトド松からは優しい言葉が掛けられる。こいつら俺に甘いなーと内心悪魔は思う。

「実は一松がぽろっと口を滑らせてな。聞かれていたのはバルだけだったし、バルだから別にいいか、と」
「カラ松兄さんはいいかもしれないけど、おそ松兄さんがどう思うかでしょ、それ!誰のための箝口令だと思ってんの!」
「フッ……皆の心配を一身に集めてしまうギルドガイな、俺」
「お前って言ってごめんだけどお前じゃねえー!」

トド松はフルーツも放り出し、ぜいぜいと肩で息をしている。対するカラ松はケロッとした様子でかっこつけた顔をしているだけだ。ノレンニウデオシ。ヌカニクギ。バジトウフウ。バルバトスの頭の中に、友達の忍者が教えてくれた東の国の言葉が蘇る。あの時は似たような表情をしていたトリスタン相手だったか。

「いや、ねえ……確かにカラ松兄さんへの配慮もあるよ?けど、召喚術を失敗したのは誰か、に特に箝口令が敷かれたのは9割9分おそ松兄さんのためだから。思い上がらないで」
「OH……」
「ひ、被害者はカラ松なんだろ?なんかお前らカラ松に手厳しくねえ?」

しょんぼりと肩を落とすカラ松を見かねて、やんわりとバルバトスが口を挟む。トド松は眉をぴくんと上げて答えた。

「近づくなって言われてたのに周りの制止を振り切って召喚された竜へ近づいたのはカラ松兄さんだもん。自業自得だよ」
「あれ、カラ松の目の前で術失敗、とかじゃなかったんだ」
「そうだよ。人里離れた森の中で召喚されたんだ。木よりも大きい赤い竜がめちゃくちゃ暴れまくって、誰も近づけなくてさ。このまま倒すか、封印しようかって遠巻きに話し合っている間に、おそまつぅとか何とか叫びながら一人飛び出したんだよこいつ。あっとうとうこいつって言っちゃったまあいいか。案の定足一本失った状態で発見した時は僕と一松兄さん馬鹿かって絶叫したからね。死んでなくてよかったけど……おかげでおそ松兄さん、禁術の件にくわえて人を傷つけた罰で一年以上幽閉されちゃってたんだから」
「ふーん、一年ねえ」

禁術を使い、人を傷つけた罰にしてはぬるい気がする、とバルバトスは思ったが、トド松はそう思っていないようなので黙っておいた。

「ほんと馬鹿だよ、後先考えずに飛び出して一生モノの怪我しちゃうカラ松兄さんも、禁術なんて使っちゃったおそ松兄さんも。二人とも、あれだけ町中を騒がせてた問題児兼将来有望の魔法使いだったのに……カラ松兄さんはもう竜に乗れないし、あれからおそ松兄さんも極端にやる気を失ってサボり放題のダメ教師。僕が昔から憧れてた、あの大きな背中はいったいどこに行っちゃったのさ……」
「トド松……」
「……どうしておそ松兄さんは竜なんか召喚しようと思ったんだろう。何かの実験?それともただの好奇心?こればっかりは何回聞いても教えてくれないし……」

話している内に、トド松の顔はどんどんと俯いていって、言葉にも力が無くなっていった。心から悔しがっている様子だった。自分ではどうする事も出来ない現状に、打ちのめされているようだ。カラ松が立ち上がり、こつんカシャンと近寄りその肩に手を置いて慰める。

「すまない、トド松、一松も、お前たちには昔から心配ばかりかけているな。悪い兄さんだ」
「……ほんとだよ」
「だがしかし、安心してくれブラザー。このカラ松特注オートメイルを手に入れた俺はまさに無敵だ!世界中のドラゴンを調べつくし、従え、フレンドとなる、予定のこのドラゴン研究家に掛かれば、おそ松だってすぐに恐れをなしてアマノイワトから顔を覗かせてくるようになるに違いない!あ、今の例えは東の国で聞いた神話だ。世界のストーリーを股に掛ける博識な……俺!」
「あああもう!これだから心配する気が限りなく失せるんだよっ!」

ぐっと親指を立てるカラ松にトド松が自らの頭を掻きむしる。心中お察し申し上げます、とバルバトスが静かにトド松へ同情している、その時だった。

コン、コン、コン。

薄い木製の壁を、外から控えめに叩く音が飛び込んできた。風の音などでは決してない。ドアのノックなどではなく、明らかに窓近くの壁の方から響いた。何者かが地上から石でも投げたか、それとも空を飛ぶ何者かがこの地上五メートルほどの木の上にある窓までやってきたか。バルバトスは窓を見た。カラ松とトド松も音に気付いたようで視線を動かした。そこには、抜けるような青空が変わらず広がっていた。
……いいや、違う。青は青でも、似ているが空の青ではない。ごそごそとうごめくそれは、明らかに生き物の体色だった。おまけに人間では無い鳴き声も聞こえる。

「ギャウ、ギャウン」
「?!ひいっ、なになに?!」
「モンスターの襲来か?!」
「あれっ!待って待って、今のその声、その色!」

未知の生物に恐れ戦くカラ松とトド松とは違い、バルバトスには窓に映る青色に覚えがあった。つい先日知ったばかりの色。そして声。宙を飛んだバルバトスがよいしょよいしょと窓を開けてやると、青色はするりと家の中に入りバルバトスへとくっついてきた。

「ギャウ〜ン!」
「おおっやっぱりお前はあの時のチビ助!元気してたかぁ?」

忘れもしない数日前。赤ローブ集団に囚われていたもの同士、成り行きで火を噴く練習に付き合ったあの時の青い子竜であった。子竜もバルバトスの事を覚えていたらしく、ぐりぐりと頭を擦りつけてくる。小さいバルバトスにとっては子どもの竜の力であってもぐいぐい押されてしまう。

「わわわっ落ち着け、落ち着けってば!俺押される!壁に押し付けられるっ!」
「ギャウ?キュウン」
「いやいや怒ってないって。俺に会えて嬉しかったって?へへっ照れるねえ」

あれから数日経つが、子竜はまだバルバトスを慕ってくれているままらしい。純粋な好意を向けられて悪い気はしない。鼻を擦って喜んでいると、恐る恐る声を掛けられた。カラ松だった。

「ば、バル……?そちら様はいったい、どちら様だ?」
「あ?ああ、こちら様は竜だよ。チビっこ竜。この間……えっと、たまたま散歩中に知り合って、仲良くなった的な?」

うっかり、子竜と知り合いそして別れるまでの一部始終を話しかけたバルバトスだったが、すぐにあの悪魔のような魔法使いの言葉を思い出して言い留まった。誰にも喋るなと言われていたんだった。とっさに適当な嘘をついたが、幸い違和感は抱かれなかったようだ。

「……えっ、竜?ほんとに?!こんなに小さいって事は、赤ちゃん?!」
「フウム、ブルードラゴンか。おそらく卵から孵って一年も経ってはいないか?最近新聞に載っていたはぐれ竜とは君の事かい、ベビー?」

途端に興味を持って近づいてくるカラ松とトド松。子竜は寄ってくる二人の顔を交互に見て、ギャウ、と鳴いた。それはバルバトスにはとても嬉しい時に上げる声のように聞こえた。
そっと伸ばしてくるトド松の手を掻い潜り、あっという間に子竜が懐へと飛び込んだのは、カラ松の元だった。勢いにおされてアウチ!とカラ松が尻餅をついても、子竜は胸元にぎゅっと身を寄せて甘えるようにキュウキュウ鳴く。

「い、いきなりどうしたブルーベビー、寂しがり屋さんか?」
「ええーっ、なんで真っ先にカラ松兄さんに懐いてんのこの子。自称ドラゴン研究家だけあって、竜を引き付ける匂いでも放ってるの?」
「それだと俺が臭いように感じてしまうじゃあないか、トド松。ここはこの俺の魅力にあてられた、と解釈するのが妥当だろう!」
「ない。それだけは絶対ない」

兄弟がぶーぶー言い合っている隙に、バルバトスはカラ松にくっつく子竜の元へと身を寄せた。キュウキュウ鳴くその竜の言葉を聞き取ろうとしたのだった。赤ん坊故に全てを正確にとはやはりいかなかったが、その意味は無事に聞き取れた。
バルバトスは正直、戸惑いを覚えた。

「う、うーん……」
「どうしたのバル、いきなり難しそうな顔して」
「いや、このチビ助な、多分だけど……カラ松の事、パパ、って言ってるみたい」
「「パパ?!」」

衝撃の言葉に、兄と弟の声が重なる。途端にトド松が数歩後ずさって、カラ松から距離を置いた。細められた瞳には、いつも浮かぶあざとい光が無い。

「カラ松兄さん……まさか性癖拗らせて竜に欲情するようにまでなって……しかも隠し子とか……さすがに引いたんだけど……兄弟の縁切っていい?」
「とととトド松ぅ?!ぬっ濡れ衣だ!行きずりの竜とそんな、こっ子供なんて作ってない!誤解だ!」
「キュウン」
「あっほら、その子「ぼくのこと捨てるの?お父さん」って目してる!可哀想に、よりによってこの甲斐性無しのイタ松兄さんの子として生まれるなんて……例え親がどんなにイタくても、希望は捨てちゃダメだよ」
「か、甲斐性無しなんかじゃないぞ!俺は責任をしっかり取る男だっ!……いやそうじゃなくて!」

離れない子竜を腕に抱きながら、必死に言いつのるカラ松。論点が徐々にずれてきた所で、トド松は妙にすっきりとした晴れやかな表情で笑う。

「ふう。よし、気が済んだからカラ松兄さんで遊ぶのもこの辺にして、と。何でその子、カラ松兄さんなんかをパパだなんて勘違いしてるんだろうね?」
「あ、遊っ……?!……はあ、さあなあ。それは俺にも心当たりがないんだが……どうなんだ、バル」

溜息を吐いたカラ松に突然尋ねられ、子竜の様子を見守っていたバルバトスは飛び上がってぐるんと宙で一回転した。いきなり自分の話を振られるとは思っていなかったのだ。

「な、なんで俺?!」
「いや、この子はお前の友達なんだろう?」
「言葉も分かってるみたいだったし?」

兄と弟に期待の込められた瞳で見つめられ、バルバトスは勢いよく首を横に振る。

「いやいや。こいつの家庭事情とかちょっと知り合っただけだから知らないし。言葉だってこいつ赤ん坊だから、なんとなーく分かるだけだよ、なんとなーく、な。あ、言葉が分かるのは俺が高機能なトカゲだから、だかんね」
「へえ、トカゲって実はすごいんだね」
「そーそー。どうせパパって呼んでんのも、こいつのパパにカラ松が似てるとかそういうオチだろ、どうせ」

実際にカラ松と瓜二つの男を知っているバルバトスは確信を持ってそう言った。トド松は「兄さんと似てる生き物とかあんまり存在してほしくないんですけど」と不満げだったが、カラ松自身は瞳を輝かせて納得してくれた。

「そうか!この俺に似た父親か……ブルーベビー、お前のダディもよほどのギルドを背負いし男なのだろうな。同じ定めを持つ者同士、他人事とは思えないぜ。この俺の胸で良ければいつでも貸そう」
「ギャウ、ギャウー!」

赤ちゃん竜であるおかげか、子竜はカラ松のイタさにダメージを受ける事無く、素直に喜んでいるようだった。相変わらずパパ、パパ、と鳴いてカラ松にくっついている。竜の親が人間だなんて、少なくともバルバトスは聞いた事がない。こいつはまだこんなに小さいし、少しでも似ている所があって勘違いしちゃっているんだろうな、と思った。眉毛かな?
子竜の頭を撫でながら、まんざらでもない様子のカラ松がつぶらな瞳を覗きこむ。キュウ、と子竜が首を傾げた。

「それで、ブルーベビー。君の名前は何というんだ。ホワッツユアネーム?」
「ギャウ、ガウギャウゥ」
「フンフンなるほど!……バル」
「あー。えっと、ソラっていうらしいよ、たぶん」

バルバトスは子竜の自己紹介ではなく、数日前のおそ松との内緒の邂逅を思い出していた。ソラ、と、確かに彼が子竜を呼んでいたはずだ。その証拠に子竜が嬉しそうに頷いている。その様子を見て、カラ松もパチンと指を鳴らした。

「よし、これからは俺を第二のダディとでも思ってくれ、ブルーベビー、改め……スカイ!」
「ギャウ?!」
「いやいやなんで?!今バルがソラって名前教えてくれたよね?!」

驚きに目を丸くする子竜の代わりにトド松がツッコむ。カラ松は悪びれる事無く、きょとんと眼を瞬かせた。

「でもスカイの方がかっこよくないか?」
「知らないよ?!その子が良いんなら好きに呼べばぁ?!」
「どうだ、スカイ!かっこよくないか!スタイリッシュな響きだろう、スカイ!」
「ギャウ……ギャウン」
「おおそうかそうか!お前も気に入ってくれたか、スカイ!」

バルバトスは、幼い竜が生まれて初めてお世辞で頷いてあげた瞬間を目にした。戸惑い気味の子竜、ソラをカラ松が大変嬉しそうに抱き締めるので、まあ本人が良いならいいか、とバルバトスはそれ以上口出ししない事にした。トド松もすぐに呆れた顔で諦めたようだ。
事態がひと段落したところで、ソラが思い出したようにハッとカラ松の腕の中から抜け出し、バルバトスの元へと飛んできた。バルバトスの背中を鼻先で窓の方へ押しやりながら、ギャウと訴える。

「なになに、いきなり。ついてきてほしい所があるって?」
「ギャウウ」
「え、しかも俺だけ来てほしい?」

バルバトスを促すその懸命な様子は、ただの遊びのお誘いではなさそうだが。ちらっとカラ松たちの方を窺うと、連れ去り事件の後余計に過保護になった男がさすがに難色を示す。

「遊びのお誘いか?しかし、先日の赤ローブたちはまだ大半が潜伏しているはずだ。そんな小さなお前たち二人だけでは危険じゃないか?」
「確かにねー。バルはそれで一回捕まってるんだし」
「うっ」

カラ松とトド松の言う事ももっともで、バルバトスは下手に反論が出来ない。カラ松は意気揚々と己を指さした。

「そこで!この俺がボディーガードとしてついていけば問題ナッシングだろう!どうだバル、スカイ、この頼れる男カラ松と共に、レッツエンジョイしようじゃないか!」

ナイスアイディア!と自分で言って満足そうなカラ松であったが、すぐさまソラがブンブンと勢いよく首を横に振ってしまう。

「ギャウ、ギャーウ!」
「パパはだめ、だって」
「ホワイ?!」
「ギャウウーン」
「パパは特にだめ、だって」
「何故二回も繰り返して強調したんだ?!」

とにかくカラ松は駄目らしい。じゃあ僕は?とトド松が聞けば、少しだけ悩んだ後やっぱり首を横に振る。ソラはバルバトスだけを連れ出したいようだ。

「まあ、今度は人間風情にうっかり捕まらないように高く早く飛ぶし、日が沈む前には帰るようにするからさ。このチビ助、こう見えて炎も吐けるしだいじょーぶだって。ちょっとぐらい行かせてよ」

ソラが縋るような瞳で見つめてくるので、ついついバルバトスは肩を持つような事を言ってしまう。こういう所が悪魔の癖に甘いのだと、知り合いの天使に半笑いで言われてしまう所なのかもしれない。カラ松はなおも躊躇っていたが、まあまあ、とトド松が宥めてくれた。

「あの赤ローブ集団、今は指名手配されてるんでしょ?きっと簡単には出てこないよ。そんなに心配なら、僕がボディーガード特別に貸してあげるから」
「ギャウン?」
「トド松もついてくるの断られてたじゃん」
「僕が直接行くんじゃなくて、これ貸してあげるって事」

トド松から渡されたのは、小さな小さな植物の種だった。バルバトスでも片手で握りしめられるほどの小ささだ。ソラと一緒に種をいくら覗き込んでみても、黒くて丸い小さな種という特徴以外見出す事が出来ない。こんなちっぽけな種が、ボディーガード?

「あー、今ちょっと馬鹿にしてるでしょ。これ、僕のとっておきの種なんだから。地面に植えてちょっと刺激を与えれば、僕特製の魔法植物がにょきにょき生えてきて身を守ってくれるんだよ。まだ試作段階だけど十分働くはずだから。不審者に追いかけられた時にでも使ってよ」
「マジで!すげー、さすがファーマー!」
「ふふん、それほどでもあるかなあ。まあ、まだ改良途中なんだけどね。それ貸す代わりに、使用した時は事細かな感想聞かせてくれればいいよ」

やけに快く貸してくれると思ったら、サンプルが欲しいらしい。断る理由もないので、ありがたくバルバトスは種を受け取っておくことにした。懐に入れておけば、いつでも取り出せるだろう。
愛する弟トド松からのとっておきを受け取ったバルバトスを、カラ松もこれ以上引き留める事が出来ないようだった。諦め悪くむぐむぐと何か言いたそうにしていたが、やがてがっくりと肩を落とした。

「仕方がない……知らない人間には絶対についていかないようにな。不審な人物を見つけたらすぐに離れる事。何かあった時は大声で俺を呼べ、速攻で駆けつけよう。あとお菓子をくれると言われても絶対に貰っては、」
「あーもううるせーっ!俺は幼児かっての!こんなナリでもちゃーんとお前より大人だわ!この過保護松!もう行こうぜチビ助!」
「ギャオン!」
「ああっバル!スカイ!本当に気を付けるんだぞ?!」

まだ何事か喚くカラ松と、いってらっしゃーいと軽く手を振ってくれたトド松を背にし、バルバトスはソラと共に窓から外へと飛び出した。このままだと後から追いかけてこられそうなので、急いで木の上の家から離れる。ソラが鼻先を向けるのは、どうやらアカツェリカの町の方向らしい。
すると、ソラが空中でバルバトスへと身を寄せ、まだ爪も鋭く尖っていない前足で器用に腕を引いてきた。

「ギャウ、ギャウ!」
「ん?飛ばすから、背中に乗れって?え、背中に乗っていいの?」

ソラは嬉しそうにこくこくと頷く。バルバトスも喜びに顔をほころばせた。実は、あのリンドヴルムの人と竜を見たその時から、竜の背中に乗ってみたいという憧れを持っていたのだ。残念ながら竜の知り合いはいないし、そもそも今はこんな小さい体のサイズだし、と半ば諦めていたのだが、赤ん坊竜であるソラはバルバトスが跨るにはちょうど良いサイズである。願ったり叶ったりな状況だった。

「やった!そんじゃ、遠慮なくぅ」
「ギャウーン!」
「飛ばすぜ!って?はいはい、分かった分かっ」

正直な話、バルバトスは舐めていた。ソラは明らかに子供の竜で、炎さえこの間バルバトスの指導の下初めて噴いてみせたぐらいだ。そんな子供が空を飛ぶ速度なんて、たかが知れているだろうと思っていたのだ。だから、ソラの綺麗な青色の背中にしがみついた時も、完全に油断していた。言葉の途中でゴッ、と音がするほどの風に巻き込まれ、身体が急激に後ろへと引っ張られるまでは。

「う、うわああああ?!ま、ままま、待って!待って?!」
「ギャオーン!」
「待てってば!はっ速い!速すぎぃ!振り落とされるぅ!おいチビ助!ソラ!ソラ様ぁ!」

ソラの飛行速度はおそらく、カラ松の箒並であった。しかも生身の竜には乗っている者への威力を減退させる魔法なんて掛かっていないため、勢いと風が直接体に襲いかかってくる。案外固い竜の身体へ必死にしがみつきながら呼びかけるバルバトスだったが、ソラは聞こえていなようで機嫌良さそうに恐るべき速度で空の上を飛んでいく。景色を見る余裕も速度を堪能する余裕も何もない。そのまま空色の塊は、悪魔の悲痛な叫び声を響かせながら真っ直ぐにアカツェリカ上空を移動した。
目的地へと着くまでには、あっという間の出来事である。
固く目を瞑ってソラへ必死にしがみついていたバルバトスは、どれほどの時間が経った後だったか、不意に自分の身体が前へ放り投げられた事を知った。すいすいと空を泳いでいたソラが、急ブレーキをかけて停止したためだった。勢いを殺せるはずもないバルバトスはそのまま前方へ放り出され、すぐに固くてふかふかしたものの上へと落ちてしまう。

「あいだっ!……いっつつ……おい、こら、ソラぁ、待てとは言ったけどいきなり止まんなよお」

めまぐるしい速度の変わりっぷりに、しばらくバルバトスは大の字で転がったまま目を回していた。ギャウ、と傍で申し訳なさそうに鳴くソラの声がする。しばらくそのまま体を落ち着けて、ようやくバルバトスは周りを気にする余裕が出てきた。
ここは一体、どこだろう。

「……へーえ、そのままソラの上に乗ってきたの?あのスピードに振り落とされずに来るなんて、ちっこいくせに意外と根性あるじゃん」

バルバトスでも、ソラでもない声がくすくすと笑った。バルバトスはハッと身を起こす。そうしてようやく、自分が今まで横たわっていたのが絨毯の上だった事に気が付いた。くすんだ色の古びたワインレッドの絨毯だ。その上に座り込んだまま、目線を上げていく。
石レンガの壁に囲まれた、円形状の部屋だった。一つだけある大きな窓は開け放たれていて、雲一つない青空しか見る事が出来ない。おそらくここから中へ放り込まれたのだろう。カラ松の掘っ立て小屋より少しだけ広いその部屋は、整頓されていない物置と形容するしかないほど雑多としていた。バルバトスが絨毯の上に落ちた事も奇跡と呼べるほど足の踏み場がない。それは古びた椅子や机だったり、使い古した用紙の束だったり、欠けたビーカーやフラスコの群れに、ヒビの入った黒板まである。普通の家には置いていない備品たちが沢山積まれた山と山の間の隙間に、辛うじて生活出来そうなベッドや棚、テーブルが見えた。何者かが使っているのだ、このガラクタばかりの物置部屋を。そこでバルバトスはようやく、正面に陣取る人物を視界に収める。先ほどのからかうような声の主であり、この部屋の持ち主であるはずの彼を。

「……あ、ああっ!またお前かよ!」

バルバトスが思わず「また」と声を上げてしまったその男。大きなとんがり帽子に引きずるほどの長い赤黒マントを身につけた、水晶玉の上に胡坐をかく悪魔よりも悪魔らしい笑み。会う度にろくな目に合った事がない気がする不良教師、おそ松その人であった。

「よおトカゲくん。わざわざ一人で来てもらって悪いねえ」
「は?も、もしかして……ソラを使って俺をここに呼んだの、お前?!」
「使うなんて人聞きが悪いな、俺はちゃんとソラに正当にお願いして、お前を連れてきてもらったの。なあソラ?」
「ギャウーン」

ソラがバルバトスの傍から離れて、おそ松の伸ばした手にじゃれつく。そのまましばらく撫でられたあと、気が済んだように部屋の隅に飛んでいき、その一角だけ綺麗に片づけられている楕円型の籠の中に収まった。体を丸めて欠伸をしているあの落ち着き具合を見るに、あそこがソラの寝床なのかもしれない。
バルバトスは慌てて飛び上がり、宙に僅かに浮く水晶玉の上のおそ松と同じ目線に留まった。見下ろされるのは好きじゃない。あと、この方が何かあった時すぐに窓から逃げられる。一度は本気で己を殺そうと杖を向けてきた相手に、さすがのバルバトスも油断なんて出来なかった。

「そんで、俺に何の用だよ?あの洞窟でお前とソラに会った事は、約束通り誰にも喋ってねえけど?」
「それは知ってる、約束守ってくれてあんがとねえ。今日はちょっと、お前さんとちょっとお話したいなーって思っただけだよ」
「はい?」

にっこりと、一見友好的に微笑んでみせたおそ松は、手に持っていた杖を一振りした。すると、脇に折り重なっていた教材の本の山の中から一冊の本が飛んできて、おそ松の目の前でぱらぱらと勝手に開いていく。黒表紙の本はすぐに目的のページに辿り着いて、その中身を主に見せつけた。

「ふーん。三十の軍団を率いる地獄の伯爵、或いは公爵、ねえ」
「……、えっ?」
「まあこれは人間の手で書かれたものだから、実際にはどこまでほんとのことだか知らないけど……とりあえずどっちかっていうと、偉い部類に入るわけ?トカゲくん」

いや、と。唇を弓形に歪ませて、目を見開く小さな自称トカゲを見つめながら、おそ松は微笑んだ。

「お前がどうして、何の目的であいつの傍にいるのか。今日こそ話して貰おうか。呪われた小さな悪魔、バルバトス」






17/07/31



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