悪魔バルバトスと魔法使いの国 2







魔法学校書庫の一角に、妙な沈黙が降りる。
おそ松と呼ばれた赤黒マントの男とカラ松は、視線を合わせたまま一言も発する事無くその場から動かない。険悪な雰囲気、と言うにはカラ松の表情はあまりにも切望に揺れたものであったし、おそ松はそんな視線を受けても飄々とした食えない笑みを崩さなかった。どうにも口出ししづらい場面に、未だカラ松の指先に首元を掴まれぶら下げられたままのバルバトスは空中で身動きさえ取れない。硬直した空気を打ち壊してくれたのは、背後から無理矢理身を滑らせてきたチョロ松だった。

「ちょっと、カラ松!そっちは書庫の番人用の休憩スペースなんだから勝手に入るなよ!」
「え、あ、ちょ、チョロ松、すまない……」

後ろから押されて、ようやく我に返ったようにカラ松が狭い空間を横に移動する。すり抜ける様に細身の体を休憩スペースに押し込んできたチョロ松は、水晶玉の上に座ったままのおそ松とうろたえるカラ松の間に、まるで視線を塞ぐように立ってみせた。

「はあ……いいけど、そこの不良教師は別に匿っていた訳じゃないよ。勝手に来て勝手にサボってるんだからな、これ」
「ええーちょっとチョロ松、人聞き悪くない?お兄ちゃんとして書庫の番人新人ちゃんな弟を心配して様子を見に来てるだけなのにー」
「確かにまだ新人の域だけど、もう番人になって二年は経ってるわ!それから毎日のようにここで昼寝三昧してやがる行為を見守ってるだなんて死んでも言わねえんだよ!」

唇をとがらせるおそ松に対するチョロ松の振り向きざまの怒鳴り声は、今までよりも明らかに乱暴な言葉づかいだった。それがふざけた事を言われた苛立ちによるものなのか、兄弟による遠慮のない掛け合いなだけなのかは定かでは無い。
……兄弟、なのだろう、おそらく。おそ松がこれ見よがしにお兄ちゃんと弟とか言っていたし。口ぶりからしておそ松が兄、チョロ松が弟か。見た所歳はそんなに離れていないようだが。

「あ、騒がしいと思ったらおそ松兄さんがいたのかあ」
「おっトッティもいるじゃん、久しぶり!」
「トッティはやめてってば?!」

ようやくひょっこりカラ松の背後から顔を出したトド松も、おそ松と知り合いのようだ。カラ松に対するものとは嘘のように親しげに会話し出す。自分以外の全員が知り合いという居心地悪い空間で、バルバトスは人知れず不機嫌に尻尾をぶらぶら揺らしていたが、カラ松がようやくぶら下げられた足を手の平の上に降ろしてくれた。視線は相変わらず、チョロ松やトド松とばかり話すおそ松へとひたすらに注がれている。あまりにも鬼気迫る様子だったので、気になったバルバトスはぺんぺんと手の平を尻尾で叩いて何とか注意をこちらへと向けた。

「なあなあカラ松、あいつ誰?おそ松って言ってたっけ、さっきもその名前聞いたんだよなあ」
「えっ?!……あ、ああ、おそ松はな、」
「あーっそうだそうだ!ほら見ておそ松兄さん、この子、おそ松兄さんにそっくりだと思わない?」

バルバトスの言葉に答えたのはカラ松ではなかった。バルバトスの声を聞いて突然思い出したかのように声を上げたトド松が、カラ松の手からその小さな体を奪い取ってずいっとおそ松の目の前に突き出してみせたのだった。ぱちくりと瞬きを繰り返す大きな顔と小さな顔は、確かに言われてみれば似ていなくもない、とバルバトスは一応思った。そしてそれは相手も同じ感想だったようだ。

「ふーん、まあ似てなくもないか?ところでこいつ何?」
「この子はバルっていって、怪我して倒れてた所を僕が拾って、今はカラ松兄さんが面倒見てあげてるんだ」
「なんちゃらっていう珍しいトカゲなんだってさ。体力が戻らないから調べて欲しいって僕の所に来たんだよ、こいつら」

トド松とチョロ松の説明に、ほほうと頷いたおそ松は遠慮なしにバルバトスの胴体を掴んで持ち上げてみせた。突然のことに不覚にも「ひえっ」と悲鳴が漏れてしまう。このまま握りつぶされるのではないか、という恐れに肩を震わせるバルバトスとは対照的に、おそ松の瞳は好奇心にキラキラと輝いていた。
慌てたのは周りの人間だ。

「ちょ、ちょっとおそ松兄さん、いくら小さくても生き物なんだからもっと大事に扱ってよ!」
「お前ほんと雑なんだからそのままうっかり握りつぶさないようにしろよ、マジで!」
「分かってる分かってる!へーえこれがトカゲねえー」

じろじろと不躾に眺めまわした後、数秒だけおそ松はバルバトスと真正面から目を合わせてきた。面白おかしそうな今までとは打って変わって、その時だけは視線だけで全てを見透かすように真剣な瞳を向けてきた。軽そうな第一印象とは真逆の鋭い目線に、バルバトスの背筋がぞわりと反応する。我知らずまだ飛べない羽をピンと逸らしている間に、目の前の顔はすぐに子供っぽい笑みを浮かべてみせた。

「お前、どんだけ珍しいの?売ったら金になんじゃね?」
「くぉら馬鹿長男?!」
「何言ってんの守銭奴松兄さん?!」
「ジョーダンだって!俺、カリスマレジェンド魔法教師なおそ松、よろしくなチビトカゲ!」

握手代わりに上下に体を振られて、その激しい動きに目が回りそうになる。バルバトスが完全にのびる前に、コラッと横からチョロ松がおそ松の頭を叩いて止めてくれた。

「あててて。んで、こいつが何だって?」
「だから、体調が戻らないから調べてくれないか、って。さっき主だったトカゲ図鑑捲ってみたんだけど、似たような種族が見当たらなかったんだよね。そんなに珍しいトカゲなわけ、お前?」
「えっ」

困ったような顔でチョロ松に覗きこまれて、バルバトスはとっさに返事も出来ない。バルバトスが詳しく載っている書物を探すなら、禁書に該当するものじゃないだろうか。だってカテゴリはトカゲではなく、悪魔だ。もちろんそんな事を正直に言えるはずも無いので、曖昧な笑みをへらへら浮かべる事しかできない。
そんなバルバトスの様子をしばらく眺めたおそ松が、不意ににやりと笑った。

「元気、だって?そんなの一発喝入れれば案外治るんじゃね。ちょっと目瞑っててみ、チビ」

きょとんと瞬くバルバトスの額辺りに、おそ松の人差し指が向けられる。……とてつもなく嫌な予感がする。体を握る大きな手にとっさに爪を立ててもびくともしない。助けの声を上げる前に、口の中でぶつぶつと何事かを呟いたおそ松は、

「ほい、元気になあれ!」
「ぎゃんっ!」

ピンッとバルバトスの額を弾いた。所謂デコピンであるが、手の平サイズに縮まったバルバトスにとってそれは予想以上の衝撃だった。思っていたより威力があったそれに、小さな体はおそ松の手からすっぽ抜けて空中を飛ぶ。そのまま後頭部を本棚に並ぶ分厚い背表紙に強かに打ち付けて、バルバトスはへろへろと床に落ちた。慌てて駆け寄り真っ先に拾い上げてくれたのは、やはりというかカラ松だった。今まで静かに控えていたのに、情けない悲鳴を上げて床に転がるバルバトスを持ち上げる。

「う、うわああああバルウウゥゥ!大丈夫か、生きてるか!っおそ松!お前は昔っから対応が大雑把すぎるだろう!リトルアニマルには優しくッ!」
「悪かったってえ、そんなに気持ちよく飛んでくとは思わなくてさ」
「もーっ、バル大丈夫?潰れてない?」
「ああもう、こんな狭い所で暴れるなよな……騒いで怒られるのは僕なんだから」

カラ松の手の平の上に慎重に乗せられて、バルバトスはぐらぐら揺れる景色をようやく落ち着かせた。同時に襲い来る額と後頭部の痛みに、まったく悪びれないおそ松の間の抜けた顔も重なって、ぐあっと一気に怒りが吹き出す。その衝動のまま、バルバトスはおそ松へと飛び出した。
おそ松の鼻先まで飛んで行って、怒りのまま口から炎を吐きだしつつ怒鳴り散らす。

「くらぁっこのポンコツ魔法使い!いきなり何しやがんだ!俺のこの形の良い頭に瘤でも出来たらどーすんだよ!責任とれっ!」
「うおおアチチ。……なはは、ほら見ろ、元気になっただろぉ?」
「うるせえ!あんな仕打ちで元気になる訳ないだ……あれ?」

そこでバルバトスもようやく気が付いた。飛んでいる。炎が出せる。どれもこれもかつてはバルバトスが当たり前のように出来ていて、呪いを受けてからはどうにも出来ていなかった事たちだ。それが今、出来ている。試しにケプ、と炎を吐きだしてみれば、小さな小さな火球が思った通り口から零れ落ちて、そのまま消えていった。背中の羽も力強く自身の体を宙に浮かせたまま保ってくれている。体の大きさは小さいままなれど、バルバトスはいくらかの自由を取り戻していた。

「え、嘘、なんで突然……」

驚きに呆然とするバルバトスだったが、それ以上に驚いているのはおそ松以外の人間たちだった。

「バルが、バルが飛んでいる!すごいぞバル、パワーが戻ったんだな!」
「い、いや、それより今こいつ、火吹かなかった?火吹いたよね?」
「えっ嘘、いきなり飛んだのにもびっくりしたけど、何で火吹けるの?トカゲなんだよね?」

あっやべっ。とっさの事で自制できず、思うがまま炎を吐いてしまったバルバトスは、猛烈に後悔した。カラ松は宙に浮くほど元気になったバルバトスに素直に喜んでいるようだが、チョロ松とトド松はさすがに疑問に思ったようだ。そう、ただのトカゲが炎を吐けるはずがない。疑いの視線を二人分受けて、とっさに言い訳を並べ立てた。

「じ、実は俺、今まで黙ってたんだけど、トカゲ界の中でも超超超〜希少なヒフキヒトガタツノハネトカゲっていうんだ!黙っててごめん!」
「「ヒフキヒトガタツノハネトカゲ?!」」

うん、さすがにこれは苦しい。誰よりも一番にそう悟り、追及の声を覚悟して目を瞑ったバルバトスだったが。

「火を吹けるトカゲまでいるんだな!ますますドラゴンみたいじゃないか!俺が世話をして正解だったな!」
「へえー知らなかった、世界には色んなトカゲがいるんだね」
「ますますどんな図鑑でも見た事ないよ、そんなトカゲ。どんな本に載ってるもんかな……」

し、信じてるー!やっぱり人間ってめちゃくちゃ馬鹿だー!
心の中で人間たちの色んな意味での純粋さに感謝しつつ、これ以上本でも引っ張り出されて調べられないようにさっさと話題を移す事にする。そもそもバルバトス自身、気になって仕方の無い事柄があった。

「いや、でも何で俺、いきなり力が戻ったんだろう?自分でも訳分かんないんだけど」

瞳を瞑って己の体を意識してみれば、あれほど体中に巣食っていた呪いの残滓は半分以上が消し飛んでいた。それでも奥深くに根を張る闇の根源はしぶとく残っているようで、手の平サイズの大きさから戻らない体の訳はこれだろう。完全復活とはいかないが、バルバトスの身体には今自分ひとりで生きていけるほどの力が戻っていた。原因は、不明だ。人間の手に掴まれるという情けない姿から今までの間に起こった事と言えば、デコピンされて本棚に激突して床に落ちた、たったそれだけしかない。

「ね。一見おでこにデコピンされて頭ぶつけただけだったのに。まさかおそ松兄さん、何かしたの?」
「まっさかー。俺は元気になあれって気持ちを込めてデコピンしてやっただけだよ。頭のちょうどいい所にぶつかったとか、偶然ぶつかった本が影響したとかじゃないの」
「本、ねえ」

バルバトスがぶつかった本を取り出してチョロ松が眺める。背表紙のタイトルを見ると「世にも不思議な17つ子の謎」と書かれていた。あまり関係は無さそうに思える。

「……17つ子パワー?いやいや、そもそも17つ子とか有り得ねえし、フィクションかこれ」
「六つ子ぐらいならギリギリ存在しそうだけどねー」
「まあね。ああもう、訳分かんないなあ!」
「元気になったなら何でもいいじゃん。俺も元気になるためにもっと昼寝しないとぉ」

くあ、と欠伸をしたおそ松が、さっそく水晶玉の上に再び器用に寝転がる。そのままひらひらとあいさつ代わりに手を振った後、顔の上に帽子を乗せて昼寝へと戻ってしまった。ここで寝るな、と怒鳴りたい所をぐっと我慢している顔をしたチョロ松が、バルバトス達に向き直る。

「……まあ、おそ松兄さんの言う通り深く考えるのはやめよう。そいつが元気になったならもうトカゲの事について調べなくてもいいよね?僕にも番人としての仕事があるし、用が無いなら今日は帰ってもらいたいんだけど」
「分かったよ」
「あ……」

トド松は素直に頷いたが、カラ松はとっさに返事をしなかった。名残惜しむかのように水晶玉の上のおそ松を見て、しかし言葉を掛けられずに見つめるだけだ。そんなカラ松の腕を、トド松が呆れた顔で引っ張る。

「もう、チョロ松兄さんの邪魔になるから帰るよ、カラ松兄さん!また今度改めて来ればいいじゃん」
「いや……その……」
「おそ松兄さんだって、この学校で教師やってるんだからいくらでも会う機会はあるよ。そうでしょ?」
「……ああ、そうだな……」

揺れる瞳は躊躇いながら、それでもようやくカラ松はふらふらと元来た隙間を戻り始める。宙に浮いたままだったバルバトスもトド松に手招きされて、その肩の上に収まった。眉を寄せて複雑そうな顔をしたチョロ松に見送られながら、バルバトス達は本の匂い立ち込める書庫を後にした。

「……いやいやいや!めっちゃ気になるんだけど!何なのあいつら!」
「どしたのバル?何か気になる事でもあった?」
「ありまくりだろ!カラ松とおそ松ってやつ!あいつらどんな関係なの?!散々意味深な光景見せつけられといて、一切説明無かったんだけど!」
「あー、やっぱり?」

バルバトスは城内を歩くトド松の肩の上で憤慨した。カラ松は数歩前をとぼとぼと歩いていて、こちらの会話に注目してはいないようだ。それを確認してから、トド松がバルバトスにだけ聞こえるように声を落とす。

「カラ松兄さんとおそ松兄さんはね、幼馴染なんだよ。小さい頃からずっと一緒につるんでて、魔法学校生だった時も二人一緒に色々やらかして伝説残してるんだけど、まあそれぐらい仲良かったんだよね」
「え、仲良かった……?」
「家族ぐるみの域でね。おそ松兄さんとチョロ松兄さん、そしてさっき会った十四松兄さんで三人兄弟なんだけど、僕と一松兄さんと向こうの弟組も上二人にくっついてよく皆一緒に遊んでたよ。その縁で今も仲良くしてるんだけどさ」

先ほどの印象とは真逆な話に、バルバトスは腕を組んで首を傾げる。その疑問も当然だろうと、トド松はくすくす笑った。

「昔の話だよ、ほんとに四六時中一緒にいるレベルで仲良かったんだから。けど何年か前、ちょっと、大きな事故があって……その時二人は仲違いしちゃったみたいなんだ」

僕も二人の詳しい事情は知らないんだけど。と、呟く横顔はどこか寂しそうで、残念そうだった。

「カラ松兄さんは未練がましくああやって会いたがってるんだけど、おそ松兄さんがとことん避けてるみたい。今日偶然顔を合わせたのは年単位で久しぶりの事だったんじゃないかな」
「ふうん……」
「まったく、一体どんな喧嘩別れしたんだろうね。……って事で、カラ松兄さんが今バルに執着してる理由、分かったでしょ?」
「へっ?!」

話が突然飛んだ。何故今その話になるんだ、と見返せば、同じぐらいきょとんとした顔がそこにあった。

「だってさっき言ったでしょ、バルはおそ松兄さんにそっくりだ、って」
「え……そんなに?!」

当事者なので似てるかどうかなんてよく分からない。バルバトスは良いのだが、悪魔の容姿にそっくりだと言われる人間ってどうなのだろう。ほんのちょっぴりおそ松に同情したバルバトスだったが、よくよく考えてアレッと気が付いてしまった。

「……つまり、俺はあのポンコツ魔法使いの替わりにされてるって事?!この俺を?!」
「どの俺かは知らないけど、まあ、おそ松兄さんに似てるからっていうのはカラ松兄さんがバルを引き取った理由の八割ぐらいを占めていると思うよ」
「割合多っ!くっそ、馬鹿にしやがってえ!」

バルバトスは腰掛けていたトド松の肩から飛び上がって腕を振り回した。本当は所構わず炎も吐きたかったが、お利口さんなトカゲらしく自重しておく。自分が誰かの代わりにされていたなどと知って、喜ぶ奴なんて存在するだろうか。少なくともバルバトスは怒り心頭だった。
そこへある意味良いタイミングでカラ松が振り返ってきた。どうやら一人で頭を冷やしてようやく立ち直った所らしい。

「フッ、一人でずいぶんと楽しそうだなバル、トド松と一体どんなトークをしていたんだ?」
「うるっせえ!近寄んなこのコーガンムチ男!ジュンジョーな心をもてあそびやがって!俺との事は遊びだったのねっ!」
「ホワイ?!何故いきなり浮気された彼女のような事を……いてっいてて!ま、待て、ストップだバル!引っ掻かないでくれぇ!」
「へえ、トカゲもわりと難しい言葉知ってるんだねー」

怒りのまま傷のある頬にさらにひっかき傷を作るバルバトス、訳が分からず悲鳴を上げるばかりのカラ松、そんな二人を止める事無くドライに見守るトド松。やがて学校関係者に城内で騒ぐなと怒られ追い出されるまで、三人は賑やかにじゃれ合った。






(……まあ、俺も人の事言えないんだよなあ)

バルバトスがある程度の力を偶然?取り戻したあの日からさらに数日後。バルバトスは未だカラ松の元で療養生活を送っていた。自力で移動する術は手にしても、サイズがこれほどまでに小さければ長距離を移動することが出来ない。炎を吐き出せるようにはなっても、手の平サイズの身体から出るのはマッチの炎と大差無く、その他の魔法は未だ使えず仕舞い。カラ松も全快するまでここにいれば良いと歓迎してくれたので、お言葉に甘えて木の上の掘っ立て小屋での居候生活を続けているのだった。今日も今日とて馴染みとなった籠のベッドの中で大あくびをかましながら、引っ掻いてカラ松を責めた先日の事をぼんやりと思い出しつつ、考えたのは冒頭の自嘲した呟きである。
カラ松がバルバトスの事を、あのおそ松の身代わりにしていたという件だ。自分だって今現在同じような事をしているという自覚があった。視線の先で、今日はまだ気持ちよさそうに固いベッドの上でカラ松が眠っている。その顔は何度見ても、バルバトスが心から愛するあの騎士と瓜二つなのだった。油断しきった顔で涎を垂らしながら「にくぅ」と好物を寝言で呟いている所なんか、本当にそっくりだ。

「……トリスタン……」

零れ落ちた声は、自分で思っていたよりも寂しげに響く。自らが望んで傍を離れたはずなのに、時々こうしてどうしようもなく会いたくなる。
今、どうしているだろうか。また襲われたりしていないだろうか。憎き悪魔が傍にいない事で、少しでも平穏な毎日を過ごせていればいいけれど。
そういう未練がましい気持ちが、バルバトスをカラ松の元へと留まらせている。離れようと思えば、僅かにでも力を取り戻したバルバトスならば不可能な事ではない。魔法使いに正体のバレる危険を冒すよりは、森にでも逃げ込んで動物たちにこの身を隠して貰う方がずっと安全かもしれない。それでもバルバトスは、トリスタンの面影が色濃く残るこの男の傍から、どうしても離れられないのだった。
そんな小さな居候の心の葛藤などどこ吹く風で呑気に眠るこの顔が、いっそ憎らしい。ぷっと炎を吐いたバルバトスは極小の火球の行方を見ないまま再び籠の中でごろんと丸くなる。尻尾を抱き締めて目を瞑れば、すぐに聞こえてくる声に胸がすくと同時に安心もするのだから、どうしようもないなと思った。

「アチチッ?!ばっバル!今日も寝ぼけて目覚ましのバーニングを吹いてしまったのかぁ?!起こしてくれるのは嬉しいが、このままじゃ俺のヘアーが毎日チリチリになってしまう……おおい聞いているのかバルー!」



以前ならば怪我や体力を理由にめったに外に出してくれなかった過保護なカラ松だったが、バルバトスが自力で飛べるようになった今はその制限も緩和されていた。一人で飛び出しては危ないからと何が何でもついて来ようとはするが、よく外へと連れ出してくれるようになったのだった。肩に乗せてもらい、魔法の箒での空の散歩が最近の毎日の日課になっている。今日もそれを楽しみにしていたのだが、髪の毛先を少々チリチリさせたカラ松はいつもと違う誘いをかけてきた。

「バル、今日は少々面白いものが見られるぞ。一緒に出掛けないか」
「面白いもの?何それ」
「それは……見てのお楽しみだっ」

バチン、とかっこつけて飛ばされるウインクはこの場にトド松がいればイッタイねえー!といちいち飽きもせずツッコんでくれそうな出来だったが、よく同じ顔をしていたトリスタンですでに慣れているバルバトスにとっては、アバラが多少ボキボキ鳴るぐらいのレベルで落ち着くというものだ。とりあえずカラ松がかっこつけてウインクをかますぐらいはその面白いものとやらに自信があるらしい。興味津々のバルバトスが断る訳もなく、こくこくと頷いて胸を高鳴らせた。悪魔はいつだって退屈が嫌いで、楽しげなものを求めているのだ。
さっそく朝食を片付け(ちなみに未だトド松が定期的に提供してくれるトカゲ用木の実を食べさせられている)、準備を整え、定位置となったカラ松の肩に乗せてもらい、バルバトスは空へと浮き上がった。カラ松ザブルーム、という名の特製箒は今日も大変調子がいい。旅をしている間は毎日長距離を飛んでいるのだから当たり前だ、と、カラ松は得意げに持ち手を握っている。

「そういや、その旅ってのは次いつ出るんだよ。話ぶりからいって、普段はこんなに長期間この国に留まったりはしないんだろ?」
「んん?ああ、まあな」
「……それって、やっぱり俺がいるせい?」

バルバトスは遠慮がちに視線を送る。薄々は感じていたのだ。いつも、どこの国に行ってどんなものを見たのか、どんな人に出会ったのか、どんなドラゴンを研究したのか、と旅の様子を楽しそうに語ってみせるくせに、あまり滞在しないのだという粗末な我が家にいつまでも留まり、次の旅の準備を一向に始めようとしないカラ松を見て。毎日せっせと怪我をした小さなトカゲ(自称)の面倒を見てくれている様子に。この男はこの為だけに残ってくれているんだろうなあ、と、少し前から思っていたのだ。別にバルバトスが世話をしてくれと頼んだ訳では無いが、少しは悪いなと思っていたりもする。カラ松の元に身を寄せる理由が理由なだけに、罪悪感もひとしおなのだ。
申し訳なさそうに肩の上でモジモジしているバルバトスに、前を向いたままキョトンとした後カラ松は優しげな瞳を向けてきた。周りの空に他の人影も鳥影もなく、多少よそ見しても支障はなさそうな快晴だった。

「確かにお前が心配だというのもあるが……俺がマイホームに長期滞在している理由はそれだけじゃないぞ」
「えっ?」
「バルは聞いたことはないか?この辺りでは有名なんだが……毎年このアカツェリカでこの時期に行われるフェスティバル、祭りのこと」
「祭り?」

そもそもバルバトスはこの辺りに住んでいた訳では無いので初耳だった。余計なことは言わずに首だけ横に振ってみせれば、カラ松は楽しそうに笑う。

「とても大きくて賑やかな祭りなんだ。今は準備期間で、訳あって俺はその祭りに合わせて故郷に戻ってきていたところだったのさ。だからバルは気にせずにマイホームに滞在してくれ。1人よりはお前がいてくれた方が俺も嬉しい」

カラ松の笑顔にも言葉にも嘘は感じなかった。引き取った動機はどうであれ、今はバルのことを心から気に入ってくれているのは確かだ。こいつもトリスタンと同じようにお人好しなんだなあ、とバルバトスは密かに呆れる。俺、実は悪魔なんだけど、ともしも打ち明ける日がくれば、さすがにその時は追い出されるだろうか。

「これから向かう場所で見られる光景も、その祭りと関係しているものなんだ。楽しみにしていてくれ」
「……ふーん、分かった」

現実には正体なんておくびにもだせないまま、バルバトスはそっとカラ松の頬に身を寄せた。
箒はアカツェリカの中心からどんどんと離れていった。ただでさえのどかな草原が広がるばかりだった下界の景色が、木々の生い茂る濃い緑へと移り変わっていく。小さくなったバルバトスにも、国を覆うほどの結界の力をピリピリと感じ取れるぐらい端のほうへとやって来た。起伏の激しい深い森の上をビュンビュン飛んでいけば、やがて前方にそこだけ木々のあけた小高い山が現れる。カラ松はそこを目指しているようだ。
カラ松が片手を伸ばし、前方を指さす。アカツェリカを囲う森をも通り過ぎた先、転移してこの国にやってきたバルバトスにとっては未知の世界が広がっているはずだ。

「見えるか、バル。森の向こう側はもうアカツェリカの外になるんだ。つまり目視できない結界が目の前に広がっているわけだな」
「へーっ、カラ松もその結界って見えないの?魔法使いなんだろ?」
「あー……俺はそっちは苦手分野だからな……」

気まずそうに目を細めるカラ松いわく、どんな優秀な魔法使いでも魔法の種類によって得意不得意があるのだと言う。本人が言うには、カラ松は箒やドラゴンなどに跨り操る能力は歴代でも指折り数えるレベルの才能を持っているそうなのだが(真偽は定かではない)、その他の魔法能力に関してはそれほどでもない、らしい。取り繕うような言い方を見るに、おそらく「それほどでもない」という評価を割と下回る実力に違いない。そういえば普段の生活の中でも、食事は火を通したものが出てくることは少なく、たとえ火を起こす際でも道具を使うか、「炎の神よぉぉ俺に力をぉぉぉハアッ!!」と両手を振り上げ全身全霊の力で魔力を解放し、仄かな炎をポンッと手の平に出現させるのがやっとという有様だった。おかげでバルバトスが僅かな力を取り戻してからというもの、燭台に火をつける役目は専ら任されるようになっている。
つまり、カラ松は一般的な魔法使いとしてはそれほど強くはない、という事だ。それなのにトド松が出会った初日、将来有望な魔法使い三兄弟だと胸を張って語っていたのだから、飛行能力に関しては本当に優れているのかもしれない。簡単に操ってみせているこの箒も、かなりのスピードを出しても一度も暴走させたりせず、常に安定した飛行を続けてきていた。

「じゃあ、得意なやつは結界が見えたりすんの?」
「おそらくな。ただ、かなりの素養がないと目で見る事は出来ないらしいぞ。俺も結界を見られると言っていた人間は、今まで一人ぐらいしか会った事がない」
「へえー」

話ながらカラ松が徐々に高度を下げていく。目的地へと到着したようだ。バルバトスも目測で着陸する山の上を眺めて、そこに先客がいる事に気付いた。

「あれ、誰かいない?」
「うん?……ああ、先に来ていたか」

バルバトスの言葉に目を丸くしたカラ松は、しかしすぐに嬉しそうな笑みを浮かべる。その笑顔の理由を、バルバトスもすぐに察することが出来た。先客は知った顔だった。

「……あっやっぱり来た!カラ松にいさーん!トカゲくーん!」
「遅いぞクソ松」

岩肌と岩肌の間に柔らかな長い草が生えた山のてっぺんに、二人仲良く並んで空を眺めていたのは十四松と一松だった。十四松は初めて会った時のようにキャンバスを広げて絵の具まみれになっていて、その傍らに一松が大人しく座り込んでいる。カラ松がふわりと山の頂に着地すれば、紫ローブがつかつかと歩み寄ってきて肩の上のバルバトスを柔らかく手のひらの上に招き寄せた。

「久しぶり、バル。怪我はもう随分と良くなったね。……クソ松はちゃんとお前の世話してくれてる?」
「人聞きが悪いじゃないか一松?!俺とのパーフェクトかつワンダフルな生活によって、バルも健やかに毎日をエンジョイしてくれているぞ!」
「まー確かにこの通りのこいつのおかげで退屈はしてないかな」
「そう……クソ松が嫌になったら今すぐでもうちに来ていいから」

熱心に勧誘してくる一松が指先で優しく頭を撫でてくれる。本人はカラ松宅に来たことはないが、バルバトス用に調合した薬は毎日カラスとか猫とかが届けてくれていた。おそらく一松の使い魔なのだろう。その証拠に、みんな挨拶替わりにカラ松をつついたり引っ掻いたりして去っていた。
一松の後ろから覗いてきた十四松も、真似をするようにちょいちょいとバルの頭を指先で撫でる。そういえば先日会った時は絵を描くのに不便そうなブカブカの袖をしていたが、今はしっかりと腕がまくられて全ての指が外に出ていた。

「トカゲくん飛べるようになったんだってね!よかったねーヨシヨシヨシー!」
「十四松、こいつバルって名前だから」
「バル!」
「お、おう。お前らこんなとこで何やってんの?」

撫でられすぎて頭を上下左右に揺らされながらバルバトスが尋ねれば、二人は顔を見合わせた。何を当たり前のことを、と言いたげな表情だった。

「毎年恒例のアレを見に来たよ!」
「バルもそうでしょ。だからクソ松とこんな所までわざわざ来たんじゃないの」

毎年恒例の、アレ?心当たりのない言葉にカラ松を振り返れば、得意げに大きく頷いた。

「バルには今から何が見られるのか、まだシークレット中なのさ」
「ああ、そういうこと……」
「あははー、きっとびっくりするよ!すっごい迫力!ぼく毎年ちょー楽しみ!」

どうやら一松も十四松もこちらと目的は一緒らしい。十四松が大げさな身振り手振りで興奮を伝えてくるので、期待は否応なしに上がっていった。それならば、こんな僻地で見知った顔が計ったように揃った事にも納得がいく。

「ははーん。てことは、お前らみんなここで待ち合わせてたってこと?」
「は?クソ松なんかとする訳ないだろ」

しかし一刀両断。容赦のない一松の言葉に、確かにそうだけど、とカラ松が悲しそうに肩を落とす。待ち合せていないのに偶然同じ日同じ時間にこんな場所で出会うこともあるのだろうかとバルバトスは首をかしげた。答えはすぐに十四松がくれた。

「ぼくたち昔からこの時期ここに集まってたんだ!最初に見つけたのはおそ松兄さんとカラ松兄さんでー、学生の頃は毎年6人!でも今日はトド松は取引の用事があるから来られなくて、チョロ松兄さんにもおそ松兄さんにも忙しいから無理って言われちゃったんだー、へこみー」
「じゅ、十四松?みんなに声をかけたのになぜ俺には声をかけてくれなかったんだじゅうしまぁつ?!」
「うるせえ、お前はアカツェリカにいる時は誘わなくても必ずここに来てるからだろうが!」

どうやら彼ら三兄弟×2たちにとっては馴染みの場所らしい。十四松はおそ松とチョロ松の弟だったっけ、と先日書庫で会った顔を思い出す。幼馴染で、昔は仲が良くて、しかし今は顔もあまり合わせない仲になってしまったという、二組の兄弟の上二人。現在の姿しか知らないバルバトスには、彼らが一体どんな顔をしてこの場所を揃って見つけたのか、皆目見当がつかなかった。
カラ松は懐かしむように空を見上げる。

「……ああ、ほら、噂をすれば、やってきたようだ」

呑気にお喋りしていた一松も十四松も、その言葉にばっと顔を向けて空を見上げた。バルバトスも釣られて全員が視線を向ける方へ顔を上げる。カラ松がアカツェリカの外だと言って指を差した方向だった。
緑の大地よりも上、限りなく地平線に近い空の向こうに、宙を飛ぶ豆粒な何かが見える。豆粒なのはおそらくそれだけ遠いからで、その証拠に豆粒はむくむくとその大きさを変えていく。現在のバルバトスは当たり前に、人間のカラ松たちよりも豆粒の正体はどうやらかなり大きい。視界に映る面積が増えていくにつれ、豆粒は豆粒ではなくなり、数も増え、色も判明していく。アカツェリカの市街地で見た家々の壁を思い出した。あの好き勝手に塗られていた統一性のない壁と同じように、漆黒や白色、緑色、濃青色、鱗を輝かせる黄金色など、様々な色がひしめき合って空を飛んでくる。カラ松ザブルームよりも明らかに速いスピードで、その大群はバルバトスたちの方へと向かっていた。

「な……んだ、あれぇ?!」

飛び上がったバルバトスは慌ててカラ松の元へ舞い戻り、その肩にしがみついた。なんだ、と尋ねなくともバルバトスにもそれの正体は分かっていた。一松がいつもは半分閉じている瞳で空を見上げ、十四松が興奮した様子でキャンバスに筆を叩きつけている中、カラ松だけがバルバトスの分かりきっていた答えを口にした。

「見ての通り、ドラゴンの群れだ」
「ななななっ何でこんなに大量のドラゴンがっ?!竜ってこんな群れるもんだっけ?!」
「落ち着けバル、大丈夫さ。よく見てみろ、あの群れにいるのはドラゴンだけじゃない」

色とりどりの群れはそうしているうちにあっという間に頭上までやってきていた。巨大な風の塊が轟々と空気を震わせて移動していく。大小さまざまな竜たちの通り過ぎる風の音で、大声を上げなければ会話も出来ない。そんな中カラ松に空を指さされ、バルバトスは肩を縮み上がらせながら必死に通り過ぎていく竜を見つめる。そして気付いた。

「……えっ、もしかして……人が乗ってる?!」

確かに見えた。全ての竜に、ではないが、少なくない数の竜の背に、人間らしき生き物がしがみついている。ザッツライト、とカラ松が嬉しそうに頷いた。

「このドラゴンたちは様々な理由で人間が保護し、共に暮らし、世界中の空を飛びまわっているのさ。そして年一回、アカツェリカの星竜祭に合わせて必ずこの地に立ち寄る。かつて竜と人が共に暮らしていたアカツェリカが彼らの発祥の地だからだ。その名も、ドラゴン旅一座、リンドヴルム!」

ドラゴンと共に、世界を回る旅一座。ほんのりと噂を聞いたことはある気がするが、お目にかかったのはもちろん初めてだ。あまりの迫力に尻尾をくるんと抱き込みながら竜に覆われる空を見上げていたバルバトスの視界に、その時一同から外れる一匹の竜が映り込む。あっという間に頭上を通り過ぎた群れから飛び出した灰褐色の竜は、真っ直ぐこちらへとやってきた。竜の背中には男が一人乗っているようだ。人の二倍以上の身長を持つ竜の迫力に、バルバトスは思わずカラ松の背中へと隠れた。

「カラ松、今年は出迎えてくれたのか!元気そうだな」
「先輩!お久しぶりです」

快活に声を掛けてきた男に答えたのはカラ松だった。バルバトスが目を丸くして肩の上から顔を覗き込ませている間に、大きな翼で竜が空中に留まる中二人の会話はぽんぽんと弾む。

「去年は西の方に行っていてタイミングが合わなかったんだったか。今年は祭りの最後までいるんだろうな」
「そのつもりです。先輩は今年も競竜に出るんですか」
「ああ、こいつと一緒にな。そうだカラ松、こいつを覚えているか?お前がリンドヴルムにいた頃はまだ、二回りほど小さかったんだが」
「まさか、サラマンダー、お前はサラマンダーか!はは、こんなにビッグになっていたとは」
「お前も存分に賭けてくれていいぞ、何せ優勝候補だ。なあ、サラマンダー」

灰褐色の竜が、大きな口を開けて答えるようにガオンと鳴く。それだけで体の奥まで痺れるような音波に直撃したので、バルバトスはますますカラ松の背中に縮こまった。悪魔の癖に、と思わないでほしい。マッチほどの炎しか吐けないこの小さな身では、いくら天下の悪魔様でもこんな巨大生物なんて恐怖の対象でしかないのだ。
そういえば一松と十四松もビビッているだろうか、とこっそり二人に目を向けてみる。一松は目の前まで迫った竜を普段と同じ眠そうな目でボーっと眺めていて、十四松は未だにバリバリとキャンバスに絵を描き続けているだけだった。鋼の精神か。

「なあカラ松。せっかく居合わせたんだ、お前も少しこいつに乗ってみないか?サラマンダーもお前を覚えているようだし、リンドヴルム内でも随一に大人しい奴なんだ」

バルバトスがよそ見をしている間に、男からとんでもない提案が飛び出して来た。カラ松ならすぐさま飛び乗ってしまうんじゃないか、とギョッとして顔を戻す。カラ松が少しでも動けば道連れにされないようにすかさず逃げ出すつもりだった。しかしそこに見たのは興奮とは真逆の、静かに薙いだ微笑みだけであった。

「……先輩、お気持ちは嬉しいですが、俺はもうドラゴンには乗れません」
「しかしカラ松、」
「確かに俺は稀代のドラゴンライダーの中でも凄まじい才能に満ち溢れた男……先輩が惜しんでくれる気持ちはとても分かるがっ!」
「いやそこまでは言ってない……」
「だがしかし!……いくら義足が身体に馴染んでいようと、足を一本失った状態で乗りこなせるほど、ドラゴンライダーは甘くない。そうだろう、先輩?」

パチン、と気障ったらしくウインクしてみせたカラ松に、今は誰もツッコめなかった。言葉に詰まった先輩と呼ばれる男は、やがて諦めたように重い息を吐き出す。

「悪かった、その通りだ。それにその、無駄にトゲトゲした爪の義足じゃこいつの肌を傷つけそうだしな」
「フフーン、俺が自らデザイン発注した特注品です。クールなドラゴンレッグを身に着ける、俺……!ちなみに値段は倍吹っかけられました」
「やっぱ馬鹿だなお前は。こんな馬鹿でも、竜に乗る技術は人一倍優れてたってのに、ホントもったいないよ。あの事故さえなければな……」

心から惜しむような目をした男は、すぐに我に返って頭を下げた。

「悪い、巻き込まれただけのお前が一番悔しいだろうに……ついつい考えちまうんだ。お前がリンドヴルムに残っていれば、俺より優秀な競竜選手になれたろうに、ってな。未練がましい戯言だ、忘れてくれ」
「いえ……」
「まあ竜に乗れなくたって、俺達はいつでもカラ松を歓迎するぜ。またいつでもリンドヴルムに遊びに来い。それじゃあな」

気まずい空気を吹き飛ばすように、竜が大きく羽ばたいた。男を乗せたまま竜は、飛び去って行った仲間を追いかけて空を上る。灰褐色はそのまますぐに見えなくなった。後には無言のバルバトス達がぽつんと残された。
声を掛けにくい雰囲気というのは、悪魔にだって分かる。バルバトスが恐る恐る肩からカラ松を見上げると、思っていたより顔には何の感情も浮かんではいなかった。それが逆に何だか怖かった。
そんな、息が詰まりそうな空気をぶち壊してくれたのは、ずっとキャンバスに向かっていた十四松だった。

「描けたー!!えへへ、あんなに近くで竜を見られる機会あんまりないから張りきっちゃったー」
「おおそうか、どんな力作が出来たんだ十四松?」

カラ松がわくわくと十四松の元に向かう。一緒に移動したバルバトスがちらと見た一松の顔の方が、よほど複雑そうな表情を浮かべていた。悔しいような、怒っているような、前に見たトド松と似たような瞳でカラ松をギッと睨み付けた後、一松も十四松の傍に寄る。キャンバスには、群れを成して空を飛ぶ大きな竜の姿が、真下から描かれている迫力ある一枚だった。バルバトスも素直に感心した。

「へえ、すげえじゃん。今の短い間にこれだけ描けるなんて」
「いやあ照れますなー。今の大移動を見るのは初めてじゃないから、大まかなあたりを事前に決めてて細部だけ今描いたんだよ!」
「それでも十分すごいし……お前相変わらず筆が早いね。絵の具は散らばるけど」
「エクセレント、素晴らしい迫力だ!まるでこのまま飛び出してきそうなドラゴンたちだ……と、飛び出したりしないよな、十四松?」
「あははー、急いで描いたから飛び出さないように描くのが逆に大変だった!もしかしたらちょっと魔力乗ってるかも!飛び出さないうちに早く兄さんたちに見せなきゃ!」

不穏な事を言いながら、十四松が慌てて絵描き道具を片づけ始める。今からこの絵を見せに行くつもりらしい。

「俺達も町へ行こう。リンドヴルムが毎年借りてる町はずれのスペースで祭りの準備をしているはずだ。それを眺めるのも楽しいぞ、バル」
「ふーん?それなら見てみようかな」
「みんなで町に行くの?やったー!一松、行くよー!」
「え?!ちょ、ちょっと十四松、おれまだ行くとは言ってな……あああー!」

町、と聞いて面倒くさそうな顔をしていた一松の首根っこを強制的に掴んだ十四松が、かつて見た時のように勢いよく走り出す。せめておれの杖に乗ってえー、という断末魔の叫び声はだんだんと小さくなっていった。バルバトスはアチャーという気持ちで一松に言葉の出さないエールを送ったが、カラ松は微笑ましそうににこにこ笑って二人の背中を見送った。

「相変わらず一松と十四松は仲が良いなあ。さて、俺達もこのカラ松ザブルームでドラゴンに負けないスピードを出すぞ、バル!」
「へいへーい」

元気よく箒に跨るカラ松に従いながら、バルバトスはちらと思い出していた。とある二つの事が、バルバトスの心にしっかりと書き留められていた。
一つは、先ほど見せてもらった十四松の絵の中に、空を悠々と飛ぶ真っ赤な竜が描かれていた事。そしてもう一つは、頭上を通り過ぎた竜の団体の中には、あんなに色鮮やかな赤は一匹もいなかった事。
誰も何も言わなかったので尋ねはしなかったが、こうして頑なに絵の中に赤い竜を紛らわせていく十四松の訳を、バルバトスはさっぱりと分からないのだった。







「俺は竜ってもっとこう、希少価値の高い生き物だと思ってたよ」

バルバトスはカラ松の肩に頬杖をついて愚痴った。箒で浮かぶ空の上、眼下には草原のあちこちで羽を休める竜の姿があった。さっそく昼寝をするもの、他の竜とじゃれ合うもの、人間の傍に寄りそうもの、様々な竜が少なくとも二十匹以上はアカツェリカの町の傍らで群れていた。とても竜が、世界中でめったに見られない幻の生物だとは思えない光景だった。

「まあ、こんな光景が見られるのもアカツェリカだけだろうから、珍しい事は珍しいでしょ。リンドヴルムが人里近くに降りるなんて、ここ以外無いらしいし」

同じく宙に浮かびながら一松が答えてくれる。腰を下ろしているのは以前鍋をかき混ぜるのに使っていた猫の手型の一松の杖だった。後ろには十四松が大人しく背中にひっついている。途中まで自らの足で大暴走した十四松は、道中一松に宥められてようやく落ち着いたようで、無事杖に乗せる事に成功したようだ。それからは杖と箒と並んで空を飛んでここまで来た。
竜たちの傍では人間たちが忙しく動き回りながら、餌らしきものを準備したり巨大なテントをいくつも建てたりしていた。町の城壁からはそんな準備の様子を一目見ようと住民たちが溢れ出てきていて、遠巻きに竜を眺めては歓声を上げているようだった。旅一座リンドヴルムの訪問を、町全体が歓迎しているようだ。

「なあ、そういやカラ松ってさあ、そのリンドヴルムっつーのに入ってた事があんの?」
「ん?」
「さっき先輩ってやつがそんな事言ってたじゃん。俺初耳なんだけど。あれに混ざってたとかすごくない?」

はぐらかされるかな、と思っていた問いに、カラ松は予想外にあっさりと頷いてみせた。

「ああ、まあ学校を卒業してから数年だけな。下っ端の内に辞めてしまったから、そんなにすごくはないぞ」
「えー?あの時の男の人、そんな口ぶりじゃなかったけど」
「ふっ、先輩は見る目のあるナイスガイだからな。俺に秘められしドラゴンライダーとしての資質を見出し期待してくれていたんだろう。その期待を裏切ってしまう俺、ギルドガイ……」
「はいはい分かったから」

カラ松の陶酔した物言いにはいつだって力が抜けさせられるが、バルバトスは誤魔化されたりせずに聞きにくい質問を重ねた。

「その辞めた理由ってやっぱり……その足?」

隣に浮かぶ一松と十四松から息を飲む音が聞こえる。義足の理由についてバルバトスがはっきりと尋ねたのはこれが初めてだった。少しだけ黙ったカラ松は、存外柔らかい笑みを浮かべて答えてくれる。

「そうだ。先輩にさっき言った通り、この足じゃ繊細な技術が必要なドラゴンライダーには到底なれない。このままじゃ皆の足を引っ張ってしまうだけだと思って、リンドヴルムを辞める事にしたんだ」
「それで、次はドラゴン研究家?」
「ああ!ドラゴンを愛してやまない事には変わりなかったからな!少しの間だけでもリンドヴルムでドラゴンと共に生活しその生態をある程度把握していたが、全てのドラゴンに通じている訳ではもちろんなかった。人と慣れ合わないドラゴンはまだまだたくさんいる。そんなドラゴンたちの全てを知る事こそが、このカラ松に課せられたディスティニーだったのさ!」

箒の上で器用に両手を広げて大声で語るカラ松。キラッキラと輝く瞳を見るに嘘は言っていないようだ。ドラゴン研究家という職業に不満は無いらしい。そんな事よりバルバトスには、ずっと前から気になっていた事があった。

「んで、何で片足失う羽目になったの。事故が云々ってこの間から耳にしてて、詳細分からなくてすっきりしねーんだけど」

隣の気配が明らかに慌てたが、いい加減バルバトスも思わせぶりな情報だけでうんざりしていたのだ、質問を撤回する気はない。そんな気迫が伝わったのか、カラ松は誰も聞いていなかったドラゴン研究家ディスティニー物語を止めて肩の小さな友人を見た。

「あ、ああ、そうか、それは悪かったなバル、表立って話すような事では無いからあえて説明は省いていたんだが……余計にお前を戸惑わせる結果になってしまったな。これがハリネズミのジレンマ……」
「いいから早く」
「あっはい。と言っても、ドラゴン研究家として語るには少々恥ずかしい事なんだが……」

傷跡のついた頬を掻いた後、カラ松は内緒話をするようにバルに口を寄せ、そっと教えてくれた。

「ドラゴンだ」
「……えっ?」
「ドラゴンに右足を食い千切られた。当時未熟なヤングマンだった俺は、上手くドラゴンを操れなかったのさ。ドラゴンライダーを目指す男として恥ずかしいだろう?だから俺は、もっとドラゴンの事を知り上手く付き合っていけるように、この研究家の道を目指したんだ」

あっけに取られるバルバトスの脳裏に、思い浮かんだのはトド松の顔だった。十四松と初めて出会った時、キャンバスに描かれたものを見て浮かべていた、あの表情だ。トド松があの時何故あんな複雑そうな顔をしていたのか、理由が今ようやくわかった気がした。

「……それって、赤い竜だった?」
「おっ、どうして知っているんだ。バルは実は名探偵かぁ?」

世界最小の名探偵だな!と楽しそうにバルバトスを肩の上から手の平に乗せたカラ松は、憂いや恐れなど感じさせないいっそ晴れやかな笑みを浮かべていた。

「しかしな、バル。ドラゴンのカラーは関係ない。そりゃ、体質的に空を飛ぶのが早いとか、炎を吐くのが得意だとか差異はあるが、赤い竜が特別気性が荒く乱暴だというものではないんだ。この世界を股に掛けるドラゴン研究家が言うんだから間違いない!」
「……そうなの?ほんとに?」
「ああそうさ。あの時は俺の運がたまたま無かったんだ。生まれつきの運の悪さは折り紙つきだからな、仕方ない。その代わり、こんなにクールなオートメイルを手に入れる事が出来たんだからプラマイゼロさ!はあ、今度はもっとスタイリッシュなフォルムをオーダーしてみるか……」

箒に腰掛けたまま、カラ松は己の冷たい右足を恍惚と見つめ始めた。……本人が満足しているのなら、とやかく言うまい。とりあえずバルバトスは納得する事にした。脇で静かに話を聞いていた一松は納得がいかなそうにカラ松を睨み付けているが。
きっと、カラ松のこういう何にも気にして無さそうな態度が、彼を心配する弟たちの神経を逆なでする部分もあるのだろう。慕っているが故のもどかしさだ。一松のクソ松呼びにも納得がいった。

「ねーねーカラ松兄さん、ぼくもっと近くで見てみたい!今後の資料の為にも!」
「そうだな、あのあたりに着地したら邪魔ではないか。よし、降りてみよう」

十四松の無邪気な言葉をきっかけに、話を切り上げてカラ松は高度を下げていった。一松もしぶしぶそれに続く。降り立ったのは町の城壁の外、リンドヴルムの集まりからは少々離れた草原の片隅だった。壁の向こうにはちょうど魔法学校の城がそびえ立っている場所だ。魔法学校の生徒も竜の群れが気になって仕方が無いようで、塀の向こうから何人も空を飛んで草原へとやって来ていた。バルバトスが呆れて城壁を見上げる。

「なあ、前から思ってたけどこの城壁って意味あんの?みんな関係なく飛び越えてきてるじゃん」
「あんまりないな。何度か戦争をしていたらしい大昔には意味があったらしいが、今は草原と町の境目を区切る役割を担うぐらいだ」
「それより今の時間、授業中のはずだけど」
「あの子たちすっげーサボってるね!」

町全体が浮足立っている今、大人しく授業が受けられないのも仕方がないのかもしれない。自身もサボり癖のあるバルバトスは学校を抜け出す生徒たちにウンウンと理解を示した。サボりたければサボればいい。その後の事は知らないけど。
大人しそうなドラゴンに近づいてきゃーきゃー騒いでいる魔法使いの卵たちを眺めていると、視界の隅に見知った帽子がある事に気付いた。草原の端にぽつんぽつんと生えるのっぽの木の陰に、見覚えのあるでっかい水晶玉を発見したのだ。丸い球体の上に器用に仰向けで横たわる赤黒マント、顔にはとんがり帽子。まるで数日前のあの書庫からそのままタイムスリップしてきたかのように全く同じ格好体勢のまま昼寝している人物に、バルバトスは迷った。あいつの事をカラ松に教えてしまっていいものだろうか。しかしそんなバルバトスの気遣いも、十四松にあっさりと破壊される。

「あーっ!おそ松兄さんだ!おーそーまーつーにーいーさあああん!!」
「ふぎゃっ!」

バルバトスに遅れてその姿を発見したらしい十四松が、止める間もなく突進していった。遠目に眺めても加減のない腕でぎゅうとしがみつかれて、潰れた猫のような悲鳴が聞こえる。カラ松があからさまにびくりと動揺した。そんな兄の様子を気にしながらも、一松が慌てて十四松に駆け寄っていく。

「じゅ、十四松、そのままじゃおそ松兄さんが潰れるだろ。緩めて緩めて」
「マジで!」
「ぐふっ……じゅうしまつ、強くなったねえ、お兄ちゃん嬉しいよお」

息を詰まらせながらもおそ松が頭を撫でてやれば、十四松が嬉しそうににぱっと笑う。ばたばたと体のあちこちを探って先ほど描いたキャンバスを取り出すと(どこからあんな大きなキャンバスを取り出したのかは見えなかった)、水晶玉の上で胡坐をかいて大あくびをする兄へ意気揚々と突きつける。

「おそ松兄さん見て見て!さっきぼく障壁の傍までリンドヴルムの大行進見に行ったんだ!いつもの場所!今年もすごかったよ!」
「おーっいい絵じゃん、また腕を上げたなあ十四松。……おっと」

その時、キャンバスからぽろりと一匹の竜が転がり落ちた。無数の竜が飛び交う空の中一匹だけ目立つあの鮮やかな赤い竜だった。明らかに絵の具で体を塗られている小さな魔法生物が、ぴーぴー鳴いておそ松の周りをぐるぐる飛び回る。力み過ぎちゃった!と頭を抱える十四松にケラケラ笑った後、おそ松はそっと絵の具の竜を摘まんでキャンバスの中へと戻してやった。

「絵の技術は年々上がってるけど、制御の方はまだまだですなあ十四松殿」
「ううーっ、面目ないっす。精進しマッスル」
「よしよし。ま、それだけ興奮してたって事だろ?すごいもんなあリンドヴルムの凱旋は。あの特等席からなら、なおさらな」
「うんめちゃくちゃすごかった!だから来年は一緒に見ようよ、おそ松兄さん!」

きっと、真っ先に絵を見せに行ったのはそれが一番言いたかったからに違いない。緊張を孕んで誘いをかけた十四松に、目を丸くしたおそ松はくすりと笑うと、

「……ああ、そうな。来年忙しくなけりゃな」

そう言って、ぽんぽんと頭を撫でるだけだった。十四松は何か言いたげに口を結んで、しかし大人しくこくりと頷くだけに留める。おそらくもっと確かに約束してほしかっただろう。今回は忙しいから断られたと言っていたが、今明らかに暇そうにサボっていたこの飄々とした兄に。そんな十四松の心を汲んだ一松が、じとりとおそ松を睨み付ける。

「それで、おそ松兄さんは今何してんの。ここは学校の外だよ不良教師」
「あ、一松久しぶりー。手厳しいねえ見て分かんない?生徒たちの監視だよ、監視。ほらあいつら学校飛び出してきちゃってるからさ、誰か見てないと危ないだろ?」
「今明らかに昼寝していて見てなかったし、まだ授業の時間内なんだから見てるだけじゃなくて連れ戻さなきゃいけないんじゃないの」
「んもー固い事言うなよいちまちゅー相変わらず真面目なんだからなーお前はー。もっと肩の力抜いて生きなきゃ苦しいだけだぞーって俺前から言ってたろぉ?」
「ちょ、ちょっ、やっやめてよおそ松兄さん……!」

水晶玉から降り立ったおそ松が、がばっと一松を抱きしめてぐりぐりと頭を撫で始める。うろたえる一松は口で文句を言いつつ振りほどく素振りを見せない。十四松も助けようとはしたりせず、微笑ましそうに友人と兄の戯れを眺めるだけだ。

「一松はおそ松兄さんによしよしされるの大好きだもんね!」
「はっ?!そそそそそんな訳ないから!」
「んぇ、そうなの?いじらしい子だねえお前は。俺より自分の兄貴にやってもらえばいいじゃん」
「それだけは絶対に嫌だクソ松なんかに」
「えっ」

少し離れて様子を見守っていたカラ松がついつい寂しそうな声を上げる。そのせいで、ぱっと顔を上げたおそ松と視線が合ってしまった。あ、とカラ松が声を上げる前に、その肩に座るバルバトスへ視線が移動した。
その時。一瞬にも満たない僅かな時間、バルバトスはぞっと己の背筋が冷たく凍えたのを感じた。いくら瞬きしてもそこにいるのはただのサボり魔教師であるはずなのに、あの一瞬、身の毛もよだつような殺気を向けられたような気がしたのだ。あまりにも短い時間だったため、気のせいだったかと思うほどだ。

「……なあに、まだそのトカゲちゃん傍に置いてんの?カラ松」
「えっ……あ、ああ、まあ。バルはまだまだ療養が必要なようで……」
「ふうん?療養ねえ」

じろじろと不躾な視線が寄越される。どうやら疑われているようだ。一体何に対して疑われているのか分からず、先ほどの意味が分からない殺気も合わせて、バルバトスはびくびくしながらおそ松を睨んだ。

「なんだよ、何か文句あんのかよ!カラ松がいいって言ったから泊めてもらってんだからな!お前に何か言われる筋合いはないぞっ!」
「んー。まあ、そうなんだけどね」

バルバトスが尻尾をぴんと立てて威嚇すれば、おそ松はようやく視線をあさってへと逸らしてくれた。途端に身が軽くなった気がして初めて、妙なプレッシャーが己の身に降りかかっていたのだと気づく。あの魔法使いは一体何なのだろう。カラ松の傍にバルバトスがいる事が、何だか気に入らないらしいが。

「それよりお前、授業は本当にいいのか、おそ松。と言うか、普段からちゃんと授業はしているのか?」
「はー?心配しなくてもちゃんとしてますー!俺ってばビッグなカリスマレジェンド魔法教師よ?生徒たちにもちょー慕われてて毎日忙しいんだっての!」
「忙しい……?」

少なくともバルバトスは、おそ松が昼寝している姿しか見た事が無い。ちょうどその時、傍を魔法学校の女子生徒が数人通り掛かり、おそ松へと声を掛けてきた。

「あーっおそ松先生だ!先生またサボりですかー?」
「休憩時間に入ったから私たち出て来たけど、先に外に出てた生徒っておそ松先生の授業の子たちですよね!いいなー」
「今度のおそ松先生の授業の時間、いつも通り自習にして下さいねー!」

きゃらきゃらと笑いながら箒で飛び去っていく女子生徒たち。間髪入れずに今度は男子生徒が数人通りすがった。

「おそ松先生、今度またいつギャンブルの授業してくれるんすかー!」
「もうすぐ競竜始まるから、竜の選び方をまた教えて下さいよ!」
「馬鹿、生徒は競竜禁止だろ、大きな声で言うなよ!」
「ま、おそ松先生が教えてくれた目くらましの呪文でこっそり買い放題だけどな!」

よろしくお願いしまーす、と調子の良い事を言いながら男子生徒も去っていく。生徒たちが遠くなったその場に、沈黙の時間が流れる。全員の視線が集まる先の魔法教師は、口笛を吹きながら遠くの空を眺めていた。耐え切れなくなってつかつかと詰め寄ったのはカラ松だった。

「おそまぁつ?!めちゃくちゃサボってるみたいじゃないか!しかも生徒にギャンブルなんて教えているのか?!」
「お、俺、元々ギャンブル専攻だし」
「この学校にそんな専攻は無い!未来あるボーイ&ガールにあまり不誠実な事を教えるな!」
「あーあーうるせー!お前だって学生時代俺と一緒にこっそり竜券買って競竜見に学校抜け出してたじゃねーか!」
「そ、それとこれとは話が別だー!」

ぎゃーぎゃー言い合いを始める二人の勢いに押されて、ふらふらとカラ松の肩から抜け出したバルバトスを一松がキャッチしてくれる。カラ松はバルバトスが傍を離れた事にも気づかないようで、屁理屈をこねるおそ松を叱り続けていた。あの時はお前だけ叱られた、いいやお前も一緒だった、など互いにしかわからない昔の失敗談まで持ち出して、間に誰も入れない状態となる。突然除け者にされたようで、バルバトスはむくれた。

「んだよ、急に二人の世界に入っちゃってさ。つまんねー!な、お前らもそう思……えっなに、どしたの?」

不満たらたらに振り返れば、一松と十四松は呆然と、どこか懐かしそうにカラ松とおそ松の口喧嘩を見つめていた。兄同士の喧嘩を見るには不自然なほど穏やかで、羨望まで混ざっていそうなその視線にバルバトスは怖気づく。羽を震わせる手元の生き物の反応に、一松がハッと我に返ってくれた。

「あ、ごめん……あの二人のやりとり、かなり久しぶりに見たものだから」
「なつかしーね。昔は毎日ああやって喧嘩して、仲直りして、一緒に飛び出してって、肩を並べて帰ってくる……そんな兄さんたちだったのにね」

十四松が悲しそうに眉を下げる。一松も無言で頷いた。確かにわーわー言い合う様は不思議と今までの印象通りの仲の悪さを感じる事が出来ない。数年顔を合わせていなかったという話だが、そんな時間のブランクなど無かったかのような息の合った応酬だった。
結局、何故か周囲を和ませ切なくさせる二人の口論が終わったのは、それから約十数分経った後であった。しかも両者が満足した、からではなく、突然ハッと空を睨んだおそ松が一方的に会話を打ち切ったためであった。慌てたような視線は頭上から傾いた太陽を見、魔法学校のいくつか聳える塔へと移る。

「お昼が過ぎてるのに……まだ帰ってない……?」
「おそ松?」

様子のおかしいおそ松に、カラ松も怪訝な声をかける。焦ったように見えていた表情は、声を掛けられた事ですぐに取り繕って笑顔の下に隠された。

「あーわりぃわりぃ、そろそろ戻んねえとさすがに怒られそうだわ。これ以上給料減らされたくないからさあ」
「……おい、今のは本当にそれだけか?」
「うるっせえよ。そもそもお前なにふつーに俺と会話してんの。俺達もう、そういう関係じゃないでしょ。そんじゃ……」
「おそ松!」

水晶玉にひょいと飛び乗ったおそ松に、カラ松が大声を上げた。浮かび上がる寸前、おそ松は肩越しに少しだけ視線を送る。僅かなチャンスにカラ松は目力で捕らえられるように強く睨みつけ、数年間抱き続けてきた想いを叩きつけた。

「俺は!お前との関係が変わったなんてこれっぽっちも思っていないぞ!六年前のあの時から、ずっとだ!!」
「っ!」

一度だけ、勢いよくおそ松が振り返る。殺気さえ漂うような恐ろしい怒り顔だった。だが傍から見ていたバルバトスには、何故だかその顔がまるで泣き出す寸前の頼りないもののように思えた。

「……お前のそういうところ、ほんっと嫌い!」

そうやって吐き捨てた後、おそ松は子供のようにふいと顔を背け、そのまま水晶玉に乗って塀の向こうの学校内へと飛んで行ってしまった。カラ松は追いかけなかった。ただその場に立ち続けて、おそ松が去った方向をひたすらに眺めるだけだった。
そんなやりとりを一部始終眺める事になったバルバトスは、もちろん展開についていけていない。一松の手の平の上で、取り残されたカラ松をぽかんと見つめるだけだ。一松と十四松でさえ何も言葉を出す事が出来ずに立ち尽くしているのだから、彼らの事情をほぼ知らないバルバトスが今のやり取りの真意を察する事など出来る訳がないのだ。分からないことだらけだったので、とりあえず一番気になった事にかくんと首を傾げてみる。

「六年前に、あいつら何があったの?」
「……六年前からなんだよ、あの人たちが今みたいになったの」

疑問符を頭に沢山浮かべるバルバトスを哀れに思ったか、一松が囁くような小声でそっと教えてくれた。

「クソ松が右足を失って、しばらくおそ松兄さんが行方をくらましてから……あの二人は疎遠になってしまったんだ」





それからしばらく後、待たせてしまってすまない、とようやくこちら側に戻ってきたカラ松に謝られ、なんやかんやとバルバトスたちはアカツェリカの町の中にいた。せっかく町までやってきたんだから買い物をしてから帰ろう、とカラ松が言い出したからだ。それに一松は散々渋り、先に帰りたそうにしていたが、出不精ゆえに買い足さなければいけないものが溜まっていたらしく、結局は大人しく後をついてきた。十四松はその付き添いだ。聞けば十四松の家は城壁の中にあるらしい。一応兄のチョロ松と同居している事になるが、数年前から書庫の番人として働き出してからは、あまり帰ってこなくなってしまったという。だがまあ十四松も普段はすぐに旅へと飛び出しているので、おあいこなのだとか。

「あれ、あのおそ松ってのは一緒に住んでないの?あいつも兄貴なんだろ?」
「昔は一緒だったんだけどね、今は学校内にお部屋貰って住んでるんだー。塔の天辺!ぼくも泊めてもらった事ある!その代わりこっちに帰ってきてくれなくてサビシー!」
「え、お前おそ松兄さんの部屋に泊まった事あんの」
「うん!今度一松もお願いしてみようよ!おそ松兄さんならきっと泊めてくれるよ!バルも一緒においでー!……あっカラ松兄さんはさすがに難しいかも」
「ヒヒ、そうだね、クソ松には内緒でな」
「ナイショ!」

一松と十四松が内緒話を楽しげにしているが、隣を歩いているカラ松には全部聞こえていた。残念そうに肩を落とすカラ松が可哀想になって、バルバトスはふわふわ飛んでいって頬に寄り添ってやる。

「カラ松ぅ、どうしても混ざりたくなって不法侵入する時には協力してやるから、元気出せよ」
「バル……俺のためにそんな危険を侵す覚悟をしてくれるなんて、お前はなんて優しいボーイなんだ……!」

慰め方が少々悪魔的にズレていたが、カラ松は素直に慰められてくれたようだ。その後はようやく元気を取り戻してくれたようで、今晩の夕飯を買おうとウキウキ店先を物色し始める。
アカツェリカはさすが魔法使いの国らしく、大通りに面した店はその半分以上が怪しげな物で埋め尽くされていた。猛烈な臭いを放つ壺がいくつも並ぶ店、カラスやヘビや何か蠢いている物体が入った檻が沢山ぶら下げられている店、大特価、大安売り、タイムセール、とやたら安さをアピールした紙が貼られた箒屋、呼びこみのおっさんがやたらと「合法だよ!合法だよ!」と連呼している薬屋、などなど。大通りでこれなのだから、人が一人通れるぐらいの細い道にひっそりと掲げられた看板が何の店なのかは、出来る限り考えたくない。その中からカラ松は、恰幅の良いおばさんが店番をする惣菜屋を選んだ。バルも何度か連れてきて貰った事のある馴染みの店だ。

「ヘイマダム、今日もデリシャスフードをよろしく頼むぜ」
「あらカラ松ちゃんいらっしゃい!トカゲのおそ松ちゃんも一緒ね、こんにちは!」
「い、いやマダム、こいつはバルといって似ているがおそ松とは別トカゲだ、前にも言った通り!」

このおばさんは昔からカラ松たちの事を知っているらしく、何度説明しても「おそ松ちゃんが小さくなった!」と初めて会って騒いだ時以来バルバトスのおそ松呼びを止めようとはしなかった。カラ松はいちいち律儀に訂正しているが、バルバトスは面倒くさくなって最近はハイハイと返事をしてやっていた。

「ええと、今晩のディナーを選びたいんだが。すでに火を通しているやつで」
「もおーっカラ松ちゃんは相変わらずおうちで火を使わないの?!温かくて栄養のある食事を心がけなきゃ、おそ松ちゃんだって大きくなれないわよ!」
「いっいやいや、こいつはおそ松ではなくバルだし、栄養が足りないからこのミニサイズって訳じゃないんだマダム!」

世話焼きおばさんからの稀に良くある説教が始まった。こりゃ長引くぞ、と早々に見切りをつけたバルバトスは、たじたじなカラ松を放っておいて少しだけその場を離れた。一松と十四松を探せば、向かいの薬草を売っている店に立ち寄って何やら物色しているらしい。十四松が匂いを嗅いで、これは珍しいやつだね!と教えて、一松が次々と籠に入れているようだ。薬師よりも薬草の匂いに詳しい魔法画家……と複雑な気持ちになったが、とにかく取り込み中のようだ。

「あーあつまんねー。俺も自分で色々買い物してみたいなー」

金も持っておらず、買ったものも満足に運べない今の身体では夢のまた夢だ。バルバトスは尻尾をぶらぶらと垂れさせながら、通りを行く人々の頭の上を行く当てもなくふわふわと浮かんでいた。カラ松早く買い物終わらないかな、と惣菜屋を見れば、いつの間にか結構な距離を飛んできてしまっていた。店先のカラ松はまだおばさんにあれこれ話しかけられて汗を流しながら受け答えしている。
早く話が終わるようちょっかいをかけてこようかな、とバルバトスがカラ松の元へ戻ろうとした、その時だった。
突然目の前が、暗闇に閉ざされた。

「?!何コレ……うわっ!」

驚きに動きを止めた一瞬後、身体がぐいっと下に引っ張られる。訳も分からずじたばたともがけば、手足に触れたのは布の感触だった。目を閉じても開いても真っ暗なのは同じ。羽を懸命に動かして飛ぼうとしても、四方八方を布に阻まれるだけで抜け出す事が出来ない。慌てながら、バルバトスは感づいた。自分はどうやら、布製の袋かなにかを被せられて、中に閉じ込められてしまったのだ、と。

「は、はああ?!何だよ!一体誰だよこんな事すんの!コラ!出せ!出しやがれー!」
「うるさい!騒ぐな!このまま握りつぶすぞ!」

手足を無茶苦茶に動かしてぎゃんぎゃん叫べば、降ってきたのは見知らぬ男の怒鳴り声だった。バルバトスを閉じ込めた犯人だ。ここで怖気づいては悪魔が廃る、と息を吸い込み、すかさず炎を吐き出す。いくら吐ける火が弱くても、燃やせるものであれば問題ない。着火した炎は広がるし、少しでも穴が開けばそこから抜け出す事が出来る。余裕綽々だったバルバトスだったが、すぐにその自信は裏切られる事となる。

「……え、ええっ?!何で燃えねえの?!」

バルバトスがいくら炎を吐いても、辺りの布は燃え出したりしなかった。手触りは明らかに布なのに、おかしい、おかしすぎる。大混乱な頭の上から、ムカつく男の笑い声が聞こえる。

「無駄無駄。その袋には耐火の魔法が掛けてあるんだ。マッチ程度の炎じゃ燃やせないよ」
「まっマジかよ!」
「そのまま大人しくしてな。悪いようにはしない。このまま我らが隠れ家に招待してやる」

袋から伝う振動から、男は小走りで移動しているらしい。辺りの景色が全く見えないので、今自分がどこをどう連れ去られているのかさっぱり分からなかった。

「隠れ家ってなに?!お前は誰なんだよ!俺が一体何したっていうんだ!」
「お前は何もしていないさ。その存在こそが、我らの求める偉大なる種族なのだ!」
「しゅ、種族……?」

こいつ、トカゲを崇める危ない人?思わずビビるバルバトスに、男は高笑いを上げる。

「ハハハハハ!そうだ!この世で一番すぐれた生命体だ!お前はその中でも今まで見た事のない希少種……一体どんな種類の竜なのか、隠れ家でたっぷり聞き出してやる!」

りゅう?リュウ?……竜?!男の言っている事を理解したバルバトスは、今日一番の大声を出した。

「りっ竜違いです!!俺は竜じゃなあああい!!!」
「嘘をつくなどこをどう見ても竜人のくせに!」
「ギャーッ話聞いてくれないタイプの人間だ!やだー!たっ助けてカラ松ぅー!」

いくら騒いでも暴れても暗闇から解放される事は無く。バルバトスはそのまま、謎の男にどこかへと攫われる事しか出来なかったのだった。
助けてトリスタン、と喉まで出かかった最愛の人の名前を、何とか飲み込みながら。






17/05/21



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