悪魔バルバトスと魔法使いの国 4







バルバトスの額から汗が一滴垂れ下がる。何とか平静を保とうとしながら、心の中では暴風の嵐が吹き荒れていた。何故。何故。何故。目の前で不敵に笑うこの不良教師は、バルバトスの正体を暴く事が出来たのか。今まで竜と間違えられる事は数あれど、悪魔だと看破された事はなかったのに。

「なあに、そんなに俺に見破られた事が驚きだった?尻尾の先まで固まってるよ」
「そ……そんな事……ねえし。悪魔だなんて、そんな、身に覚えがないし……」
「お前、悪魔の癖に嘘が下手だなあ。本当に高位の悪魔なわけ?俺よりへたっぴじゃん」

くすくすおかしそうに笑ったおそ松は、ぎこちない動きで宙に浮くバルバトスに顔を近づけた。間近に迫った瞳には、慌てふためくこちらを楽しんでいる色が浮かぶ。

「何でバレたんだって顔してるけどさ、悪魔だとは分からなくても普通怪しむでしょ、お前の事」
「えっ」
「何だよヒフキヒトガタツノハネトカゲって。んなトカゲいる訳ないじゃん。まだ新種の竜ですって言われた方が信憑性あるわ。まあそれは自称ドラ研が傍にいたから出来なかったんだろうけどさ。それにしたって、もうちょっとなんかあっただろー」
「っだよなー!そうだよなー!普通、そういう反応だよなー!」
「お、おお……?」

戸惑うおそ松を前に、バルバトスは今になってようやく確信出来たのだった。人間が全体的に馬鹿な訳では無く、バルバトスが出会った人間が特別騙されやすいお馬鹿さんだったのだ、と。今までこの国で出会った人々のあまりの騙されやすさに、違和感と若干の心配を抱いていたのは間違いでは無かったのだ。
すっきりしたーと晴れやかな気持ちになっていたバルバトスだったが、そうやって油断していたせいか、目の前からおもむろに伸びてきた腕から逃れる事が出来なかった。水晶玉が音も無く近寄ってきて、おそ松が宙に浮くバルバトスの身体を掴みあげたのだ。

「ぎゃあっ?!」
「さっきも言ったけど、お前ほんとに悪魔ぁ?天下の大魔法使い様の前で随分と油断しすぎでしょ」
「な、何偉そうなこと言ってんだよ不良教師の分際で!離せよ!」

書庫で初めて会った時のように胴体を握られ、あたふたともがく。目の前でニヤニヤ笑う顔に小さくとも炎を吹きかけてやろうかと息を吸い込む前に、事前動作を察したおそ松が握りしめてくる指にぎゅっと力を入れた。

「おおっと、炎なんか吐くなよ?その前に体を握り潰されたくなければな」
「く、くっそお!」
「なはは、まあそんなに殺気立つなって。言ったでしょ、俺はお前とお話がしたいだけだって」

殺気立っているのはどっちだ、とバルバトスは睨む。こちらを見下ろす瞳は楽しそうに歪んでいるのに、降り注ぐ視線は凍えるように冷たい。まだ先ほどのように馬鹿にされた目の方がましだった。ムカつくけど。

「なあ、いい加減さっさと教えてくんない?何でお前はあいつにいつまでも付きまとってんの」
「あいつ?」
「とぼけんなよ、カラ松だよカラ松」

瞳を細めたおそ松の手の平が、自然と強張ったのを感じる。

「理由なんて置いといて問答無用で滅しちゃってもいいんだけど、ソラが友達に何すんだーって怒るからさ。理由ぐらい聞いてやろうって言ってんの。アカツェリカにいる数多の魔法使いの中であいつを選んだ何かが、あるんだろ?それを答えろよ、悪魔」
「えっ」

バルバトスは思わずぽかんと呆けた。こんな恐ろしいオーラを纏っている男からそんな質問が飛び出してくるとは思わなかったのだ。あんなに威圧的に話をしようなどと言うからてっきり、魔法の実験材料にしてやるとか、死ぬまでこき使う奴隷として契約しろとか、世界征服を手伝えとか、ろくな話を振られないと思ったのに。強張った口元から出てきたのが、直接自分とは関係がないはずのカラ松と共にいる理由、それだけとは。
あまりにも予想外の質問だったために、バルバトスは口を滑らせた。

「……それだけ?」
「ああ?」
「いてっいてて!くっ苦しい!握りしめんなって!」
「質問してんのはこっちだっての。ほら、さっさと答えろよ。あのお人よしな部分に付け込みやすそうだったから?それとも別な理由?」

ギリギリと力を入れてくる指にもがきながら、バルバトスは慌てて首を振る。

「いや、いやいや!別にそんな大層な理由がある訳じゃないんだけど!あいつが怪我した俺を拾ってくれただけだよ!」
「ああそれは聞いた。でも、本当に拾ったのはトド松で、怪我を手当てしたのは一松だったんだろ?あいつら皆俺の弟みたいなもんだからどっちみち手出したら許さないけどさ、そこからどうしてカラ松だけに狙いを絞ったんだよ。あいつの家にばっか居候してるみたいじゃん……せっかくお前が一人でも生活できる程度に呪いを軽減してやったっていうのに」
「えっ?」

バルバトスは書庫での一件を思い出す。今と同じように胴体を掴まれ、容赦のないデコピンをおそ松から受けた時の事だ。本棚にぶち当たって床に落ちた後、今までの重い体が嘘のように軽くなり、何の前触れも無く宙を飛んで炎を吐けるようになった時のアレだ。驚く周囲など気にも留めず「知らない」と素知らぬ顔をしていたのはおそ松だったはずだ。

「お、お前、あの時やっぱりなんか魔法使ってたんだな!それで俺の呪い半分取っ払ってくれたんだな!」
「そうだよ。こいつ悪魔じゃんって一目見て分かってたからね。めちゃくちゃ執念深い呪いがついてたし、身動き取れる様になれば気まぐれ悪魔の事だから魔力もさほどない魔法使いの傍からはすぐに離れるだろ、ってあの時は軽く考えてた。んだけどねえ」

おそ松はうんざりとため息を吐く。命を握られているも同然のバルバトスは思わず身をすくめた。

「まさか未だに正体隠してこの世界一魔法使いのひしめく国に留まってあいつから離れないとは思わなかったよ。一体どんな理由があるわけ?まさか既に騙くらかして魂の契約結んでる訳ないよな?」
「なっ……!んな訳ねえだろ!」

さすがのバルバトスもムカムカと怒りが込み上がってくる。今までおそ松の態度がやたらと険悪だったのは、バルバトスがカラ松に一方的に付きまとっているからだと思い込んでいたためらしい。しかしならばバルバトスにだって言い分はあるのだ。個人的な理由で離れがたく思っていたのは確かだが、この居候生活が始まって長引いている理由はそれだけではない。

「悪魔だって無暗に魂の契約結んだりはしませんー!そもそも俺の事一松やトド松から自ら引き取ったの、カラ松自身だからな!」
「はあ?」
「ほんとだかんな!悪魔はくだらない嘘つかない!あいつらに聞いてみろよ、カラ松の奴はドラゴンとトカゲってなんか似てるからって理由ごり押しで俺の事引き取ってくれたの!」
「いやその理屈はおかしい」
「俺も思ったけど!」

おそ松はものすごく疑った目つきでじろじろと見つめてきたが、バルバトスだって負けじと睨み返す。数秒間の睨み合いの中で、どうやら嘘は言っていないらしいと悟ったらしいおそ松が険しい顔を僅かに崩して困惑の色を乗せた。

「え、なんで?なんであいつ、こんな得体の知れない生き物引き取ったの?竜ではないって知ってたんだろ?」
「それは知ってたみたいだけど、俺になんでと聞かれても……」

そこでバルバトスは思い出した。書庫の帰り、トド松にこっそり教えてもらったカラ松の真実だ。あの時は「この大悪魔様になんて失礼な!」と憤慨したものだが、あれほどおそ松に意味深な視線を向けているカラ松ならば、きっと本当の事なのだろう。

「俺が、お前に似てるから……」
「……へっ?」
「トド松が言ってた。俺の面倒をあれだけ積極的に見てくれるのは、俺の顔がお前によく似てるからだって。何でか知らないけど、お前ら喧嘩してんだろ?今まで何年も会ってなかったって言うし……俺にお前を重ねてちゃって、ほっとけなかったんじゃないの、カラ松のやつ」

お人よしなのもあるだろう。今ではバルバトス自身も気に入ってくれているだろう。それを分かっていても、きっかけはトド松の言った通りなんだろうなと、今のバルバトスなら素直にそう思えた。
バルバトスの言葉を受けて、おそ松はしばらく目の前の自らと似ているという悪魔の顔を凝視した。無言で、ぴくりとも動かないまま、ぽかんと開けた口と見開いた瞳で見つめ続けた。居心地が悪くてバルバトスがもじもじと身をよじっても、しばらくそのまま動かなかった。この魔法使いがこれほどまでに隙を見せるのは初めての事だった。
小さな手の平を振っておーいと呼びかければ、ようやく瞼が降ってくる。何度かぱちぱちと確かめる様に瞬きしたおそ松の、その後の反応は顕著だった。
ボッ、と音が実際に鳴ったのかと思った。バルバトスは気付かぬうちに己の口から火球でも飛び出したのかと一瞬本気で思いかけた。それほどまでに唐突に、急激に、著しく。おそ松は一気に顔を真っ赤に染め上げたのだ。

「な、なに、それ、お、おれに似てるからって……ば、ばっかじゃねーの。いや、馬鹿だ、あいつ馬鹿だったわ……知ってた……」

しどろもどろに独り言を呟いて、視線をあちこちに彷徨わせるその姿は、明らかに動揺していた。必死に平静を保とうとしている様子だったが、握り込む手の平には一気に汗をかいているし、顔の赤みは一向に取れないしで全て台無しだった。自分の寝床から様子を見守っていたソラも何事かと身を起こしている。
あっけにとられていたバルバトスは、やがてにやりといやらしく笑った。反撃のチャンスであった。

「あれれー?いきなり真っ赤になってどうしたのかなおそ松せんせー?」
「う、うるさい、なんでもない!お前が変な事言うから……」
「変な事ってなんだよぉ、俺は事実しか言ってないしー。もしかして、照れちゃってんの?かーわいー」
「うるさいっつーの!照れてねえし!」

力の抜けた汗まみれの手の中から抜け出すのは造作も無かった。するりと宙に浮いたバルバトスは、おそ松の熱を持つ頬をつんつんとつつく。

「うーそーつーけーよー。ここ、こんなにしちゃって誤魔化せると思ってんの?悪魔より嘘が上手いんじゃなかったのかなー?」
「くっそ……一気に調子に乗りやがって」
「つーかさ、そんな反応するって事はカラ松の事嫌ってる訳じゃないんだよな。それなのにあんだけつっけんどんにしちゃって、カラ松落ち込んでたよお?なんで素直にならないの?」

振り払われても、バルバトスはおそ松の周りをぐるぐる回る。水晶玉の上で俯いたまま、おそ松は少しの間口を閉ざした。

「……なあ、悪魔。お前は俺とカラ松の事、どこまで聞いたの」
「どこまで?えーっと、昔はめちゃくちゃ仲良かったのに、今は喧嘩してるって事とー、その原因になったのが、お前が召喚した赤い竜だったって事とー、その赤い竜にカラ松の右足が食われちゃったって事、ぐらいかな」
「……そ。割と聞いてんだね」
「まあねー俺の地獄耳舐めんなよ!悪魔なだけに!」

鼻を擦りながらのバルバトスにおそ松はくすりと笑う。頬の赤みは残ったままだが、その瞳には冷静な色が戻っていた。バルバトスを見つめる視線からも、最初のような刺々しい雰囲気が抜けかけている。

「ま、おおむね話の通りだよ。俺がヘマして、カラ松の足を失わせてしまった。取り返しのつかない事をしてしまったんだ」
「だから避けてんの?カラ松はまったく気にして無さそうだったけど」
「……あいつさ、競竜乗りになるのが昔からの夢だったんだ」

おそ松の瞳が遠くを見る。懐かしむような、寂しがるような、懺悔するような、複雑な感情を乗せた笑みが浮かんでいた。

「ただでさえ入団が難しいリンドヴルムの、さらに一部の人間しか認められない競竜乗りだよ。生まれ持った才能と、血の滲むような努力を重ねてようやくスタートラインに立てるような職業なんだ。カラ松はあいつ、学校卒業してからわずか一年でリンドヴルムに入って、競竜乗り見習いにまでなったんだぜ。さすが、勉強と魔法は死ぬほど苦手でも箒の扱いだけは学校一だった男なだけあるよな。俺も飛行の授業だけはあいつに絶対勝てなかったし。周りは皆、カラ松はいずれ夢を叶えるだろうって疑ってなかった」
「へえ……」
「……それなのにもう、あいつは二度と竜に乗れない」

おそ松が俯き、己の頭を帽子ごと抱える。キュウ、と心配そうに鳴いたソラが、寝床から抜け出しておそ松に寄り添った。

「俺があいつの夢を、未来を奪ったんだ。どんな顔してあいつに会えばいいんだよ。あいつは心底馬鹿だから、本当に気にしていないのかもしれないけど、俺は無理だよ。こんな事しでかした自分を、あいつの、カラ松の傍に置く事なんて、許せるわけないだろ……」
「キュゥン」

ソラが頬を摺り寄せても、おそ松は微動だにしなかった。後悔に沈むとんがり帽子を、バルバトスは空中から見つめる。やがて宙を移動し、ソラがくっつく反対側の微かに震える肩の上に腰掛けた。

「……まあ、お前の気持ち、分からないでもないよ。俺も似たような事、今も考えてるし」

バルバトスの頭の中には、カラ松と似ていて、しかしカラ松とは違う笑顔が浮かび上がる。聖なる騎士様が悪魔なんて選んでいいの、と尋ねた時、向けられた穏やかな笑顔だった。バルバトスの全てを受け入れてくれるあの笑顔が何よりも大好きで、何よりも大切だったから、だからこそその笑顔を受け取りきれなかった自分を重ねていた。
トリスタン。

「俺にもそういう、馬鹿の知り合いがいてさ。俺は見た通り悪魔で、あいつ人間なのに、それでもいいって笑うんだよ。俺だからいいってさ。そいつが、その、ちょっと、いや結構カラ松に似てて、」
「……カラ松に?」
「うん、そう。顔とか、そういう馬鹿なところとか特にね。俺から別れたのに、あいつとカラ松がどうしても似てたから、何だか離れがたくってさ。一緒にいたのは、それだけの理由。カラ松を悪魔的にどうこうしようって考えは全然ないよ。もうちょっと元気になって呪い解いて、俺の気が済んだらこの国から離れるつもりだから、そこは安心してよ。何もしないって誓う」

バルバトスは慰める様に腰掛ける肩をそっと撫でた。罪悪感で傍にはいられなくて、でも気になって、危険からは守ってやりたくて、でもやっぱり会う事は出来ない。そんなジレンマを抱えるただの人間を、どこか愛おしく思った。俺って人間に染まりすぎて悪魔的思考からどんどん離れていくよなあ、と心の中で溜息を吐く。嫌では無いのがまた救えない。
おそ松はそのまま大人しく俯いて、左右からもたらされる温度にじっと感じ入っているようだった。何分かしてようやく顔を上げると、そこには平静な笑顔を取り戻していた。

「あー、取り乱しちった。ごめんねえ悪魔くん」
「別にいいよお、弱った人間をいたぶる趣味はもう捨てた悪魔なんで」
「捨てる前は持ってたのかよ、こええ。ソラも心配してくれてあんがとな」
「ギャウ!」

よしよしと撫でられて嬉しそうに擦り寄るソラの姿を見て、そう言えば、とバルバトスが声を上げた。

「なあ、今更なんだけど、お前とソラって一体どういう関係なわけ?」
「は?どういう関係って?」
「いやだってそいつ、ソラ、お前の事ずっとさ……」

バルバトスには、あの初めて会った洞窟でソラがおそ松を見て何と呼んでいたか、最初から聞き取れていた。他に気になる事や、考える暇もない展開に揉まれてろくに気にしたことは無かったのだが、ここに来る前のカラ松パパ呼び事件を踏まえていよいよ気になり始めたのだった。

「ママって呼んでるよな?何度も、何度も」

帽子の先からブーツの踵までじろじろと観察してみる。いや、やっぱりどう見ても、おそ松は男だろう。人間だし。それがどうして、子どもの竜にママだなんて呼ばれ懐かれているのか。

「ああ、その事。まあ……ソラの卵を孵したのは俺だかんね。色々あって、もうすぐ一年経つかな、産まれてから一緒に住んでんの。なあソラ?」
「ギャウーン!」

ソラが元気よく飛び回る。ママ、ママ、と大変嬉しそうだ。おそ松がソラを見つめる瞳にも慈愛が込められていて、良い親子関係を結んでいるようだ。そんなおそ松の視線が、ちらりと移る。未だ宙に浮いていた本の開かれたページの上だ。

「ああ、そうか、バルバトスって動物の声を聞き分けられるのか。しまったなあ……この事、他の誰かに言った?」
「いやまだ言ってないけど。つーかそんなことまで書いてあんのその本?!」
「まあ禁書だからねー、悪魔の事、いろいろ書いてあるみたいよ」
「マジかよー誰だよ書いたの。個人情報ろーえーじゃん。地獄に帰る事あったらサタン様にチクっとこ」
「……それより」

ぐるん、と突然おそ松がバルバトスを振り返る。思わずその肩から飛び上がったバルバトスの尻尾が素早く摘ままれた。悲鳴を上げても放されることは無い。

「いたいっ!尻尾は止めろ尻尾は!」
「なあ、今の誰にも言わないでくれない?頼むよ」
「何が?!」
「だから、俺がソラのママだってことだよ」
「なんで!」
「だってほら、男の俺がママとかかっこわりぃじゃん。それに、ああそう、ソラ育ててんの学校側に無許可だし。家賃倍取られたら困っちゃうんだよ。な?いいだろ?なあ?」
「分かった!分かったから放せー!」

必死にこくこく頷けば、ぎゅうとつままれていた尻尾はようやく解放された。デリケートで密かに敏感な場所なのだから扱いには気を付けて欲しい。そこでバルバトスは、今のおそ松の言葉に引っかかるものを感じた。

「……ん?学校?なんで学校側の許可がいんの?」
「ああ、だってここ学校だもん。魔法学校の城の塔。ソラのスピードで外から見えなかった?」
「そ、そうだったの?!」

バルバトスは慌てて窓から外を覗いた。部屋の中から一見青空しか見えなかったのは、この部屋がとても高い場所にあるからだった。大きな灰色の城の、外れにぽつんと建つ長い長い塔の最上階。それがこのおそ松の住居にあたるらしい。
ああそうか、と下を覗き込みながらバルバトスは納得した。眼下には城の真ん中に開けられた中庭もしっかりと見える。書庫を訪れたあの時、カラ松が見つめていたのはこの部屋の事だったのだ。

「ここがお前の部屋だって、カラ松は知ってんの?」
「えっなんで?謹慎が解けてから宛がわれた部屋だからあいつを入れた事はないけど、チョロ松あたりに聞いてたら知ってるんじゃない?」
「へーえ、なるほどねえ」

にやにやと下世話な笑みが浮かぶが、とりあえず黙っておいてやることにした。また今度良いタイミングでこっそり教えて、おそ松を再び赤面させてやろう。弱みを握るのは相手が誰でも気分が良い。
バルバトスが窓から身を乗り出していると、ソラも真似をするように隣にひょっこり顔を出してきた。空をあれだけ自在に飛び回るソラにとっては、とても住みやすい家だろう。しかし人間にとっては少々寂しい場所のように思えた。城の中で一番高いこの塔は他に同じ高度の建物が周りに無く、まるで空の中に隔離されているかのようにぽつんと聳え立っている。

「ここ、住みにくくない?」
「そんな事ねえけど?ほとんど誰も来ないからソラも一緒に暮らせるし、空を飛べば出入りに不便な事もないし。この通り、景色もいいしな」

おそ松もバルバトス達の上から顔を出す。この部屋に一つしかない大きな窓は、確かにおそ松の乗る巨大な水晶も楽々通り抜けられるようになっている。おそ松が指差す方向には橙色の屋根がひしめくアカツェリカの町が広がり、その周りをリンドヴルムのテントが張られた草原が囲み、あちこちに点在する森や池、遠くの山なんかも綺麗に見渡せた。ただ、日常的に空を飛べる者にとっては別段珍しい景色とは言えないかもしれない。

「そう?景色なんてこれぐらい、空飛べばいつだって見られるじゃん」
「ばっかだな、これを常日頃見られる事が重要なんだっての。アカツェリカの結界とか、ここからなら何かあったらすぐに見えて分かるじゃん」
「結界見えんの?どこ?」
「ギャウ?」

そうやって外を眺めながら会話していると、コツンという硬質な音を耳が拾った。一回だけでは無い。気付けばコツコツという音が途切れる事無く、しかも大きくなっていく。近づいてくる。どうやら下から響いているようだ。
ソラも聞こえたらしい。落ち着きなく辺りを見回し始める。

「なあ、なんか音が聞こえない?」
「ギャウ、ギャウ!」
「え、何の音」
「下の方から段々と近づいてくる……これは、足音?」
「っ!」

おそ松がハッと室内を振り返るのと、ちょうど今いる窓とは反対側の壁が、重ねられたテーブルの山の向こうでゴリゴリと音を立てて動き始めたのはほぼ同時であった。おそ松がさっと顔色を青くして杖を振り上げる。

「嘘!待って待って!今片づけるから!」

おそ松が杖を一振りするたびに、部屋の中にあふれかえっていた荷物が慌てて逃げ出し始める。どう見ても異次元に繋がっているとしか思えないクローゼットやタルやツボ、カーペットの下なんかにも次々と、よく見れば学校の備品としか思えないものたちが隠れていく。ものが退かされたことでようやく全貌が見えるようになった向こう側の壁は、石畳が自動的にパズルのように折りたたまれ、向こう側と行き来できる出入り口が出来上がっていた。魔法で動く隠し通路だろうか。風通しが良くなって空気がひゅうと外へ流れる。おそ松の片づけはあっという間に終わり、あれだけ足の踏み場もないほど散らかっていた部屋が綺麗さっぱり、ついでに掃除もしたかのようにぴかぴかに輝いていた。魔法ってすごい。残ったのはものたちが隠れていったクローゼットたちと、部屋の隅にソラの寝床、机の真ん中におしゃれな丸いテーブルとイスが二脚、その上にお皿とナイフとフォーク、そして何故か新鮮な魚が一匹。それだけだった。自分のベッドさえ片づけてしまったらしい。
窓枠の埃チェックをしてから、おそ松は水晶玉から降りて慌ただしく隠し通路の入口へ向かう。一体なにが、とバルバトスが固唾を飲んで見守っていると、コツコツという足音がとうとう隠し通路の向こう側へとやってきた。そのまま躊躇いもなく部屋の中へと入ってきたのは、一人の女性だった。黒を基調としたとんがり帽子とマントだけ見ればおそ松と似た格好だが、可愛らしいフリルのついた衣装や一部編み込まれた長い髪などから男には出せない艶やかな雰囲気を放つ。何より容姿が美しい若い女性だった。
女性が部屋の中へ足を踏み入れた途端、華やかな良い香りが一気に広がった。一瞬で濃厚な花畑の中へと転移させられたのかと錯覚しそうになる。そしてそんな匂いに不快感を抱かない事がバルバトスには不思議だった。余程の良い香りという事だろうか。

「おそ松くん、いるわね?お邪魔するわよ」
「トト子ちゃんいらっしゃーい!今日も良い香りだねえさすがアカツェリカ一の調香師だよー」
「ふふん、そお?今は花の香りを研究している所なの。磯の香りはもうマスターしちゃったしぃ、トト子ってば色んな才能に満ち溢れすぎちゃってると思わない?」
「もちろんだよトト子ちゃん!天才!可愛い!」

何だこれ。バルバトスが呆ける中、トト子と呼ばれた女性がこれはこういう香りを混ぜ込んでいてね、と勝手に語り出し、にこにこ笑顔のおそ松が文句ひとつ言う事無くウンウンと聞き入っている。隙あらばすごいだの可愛いだの褒めそやす事も忘れない。今までのおそ松の様子とは一線を画するだらしない笑顔だった。何なんだこの女は。確かに可愛いけども。

「それにしてもおそ松くん、相変わらず辛気臭い所に住んでいるのね。トト子ここまで来るのにいっぱい階段歩いて疲れちゃったあ」
「あーっごめんね、俺結構ここ気に入っててさあ。トト子ちゃんなら箒で窓から入ってくれてもいいのにー!」
「外から他人に近づかれないように不可視の結界かけてあるのに?」
「トト子ちゃんの事は隠し通路と同じように最初から対象外に設定されてあるに決まってるじゃん!」

おそ松が引いた椅子に、すかさずトト子が腰掛ける。疲れたという割には息一つ乱れた様子の無いその可愛らしい顔が、おもむろに窓へ、バルバトスの方へと向いた。

「あらソラちゃん、元気?今日も可愛いわね、トト子の次に!」
「ギャオーン!」

隣にいたソラもトト子を知っているらしく、高々と鳴いて挨拶をしている。微笑ましそうなトト子の視線が、何故だか固まるバルバトスへとゆっくり標準を合わせた。何故だろう、初めて会う人なのに、この女には逆らってはいけないと本能が叫んでいる。悪魔の直感、大事。

「それと、はじめましてね、バルバトスくん。アカツェリカには珍しい悪魔のお客様だけど、ゆっくりしていってね」

ほら!ほら!ほらー!第一声で正体を当てられて、バルバトスは半泣きでおそ松の元へと飛んだ。

「なんであいつ俺の事知ってんだよ?!お前喋ったの?!」
「いや、俺はお前の事一言も喋ってないけど、まあトト子ちゃんなら何でも知ってておかしくないよね!可愛いし!」
「さっきからお前のそのテンションなんなの?!恐いんだけど!」
「もう、そんなに怖がらなくたっていいのに。私はトト子、今は調香師やってまーす。おそ松くんと同じく、この魔法学校に勤めているの」

トト子がにっこりと笑った拍子にまた良い香りが広がる。香りを扱う魔法使いならばこの不思議な香りにも納得だった。本人への不可思議な恐れにはまだまったく納得できないが。

「それで、いきなりこんな所にどうしたのトト子ちゃん。何か用事でもあった?」
「うーん、ただまだ会う機会が無かったバルバトスくんに挨拶したかったっていうのも理由なんだけどー」
「ひええ俺が今日この時間にここにいる事どうして知ってるんだよこの人ーやっぱりこええよー」
「おそ松くんの様子を見に来たっていうのがメインかな」

ガタガタ震えるバルバトスの隣で、おそ松が軽く目を見張る。トト子は気遣わしそうな瞳でおそ松を見つめていた。

「今、あいつらが活発に活動しているじゃない?私にもなかなか尻尾を掴ませないなんて生意気な奴らよね。それで、ソラちゃんの事もあったしおそ松くん大丈夫かなって思ったのよ」
「ええっ俺の事そんなに心配してくれたの?ありがとートト子ちゃんやっさしー!んでも大丈夫だよお、俺がそんな簡単にへこむような人間に見えるぅ?」
「見えるから言っているのよ。だっておそ松くん、へらへらしているように見えて案外脆いとこある情けない男じゃない」
「ひゃーっトト子ちゃんひじょーにキビシーッでもそういう所がまた良いー!」

トト子とおそ松の弾んでいるんだか何なんだかよく分からない会話に、好奇心の塊であるバルバトスは首を突っ込まずにはいられなかった。

「なーなー、あいつらってなに?この不良教師、やっぱり命でも狙われてんの?」
「おま、やっぱりって何?!いきなり俺に失礼すぎねえ?!」
「あら、バルバトスくんもきっとよく知っている奴らの事よ」

トト子はテーブルの上の魚をフォークで突きながらにっこりと笑う。

「ジルニトラ、という名前に聞き覚えは?」
「え、無い」
「いやいやいや、そんなはずねえよ」

呆れ顔のおそ松に否定され、ムッとしながらもバルバトスは考えた。ジルニトラ。ジルニトラ。言われてみれば確かに、聞き覚えがある気がする。しかも最近の事だ。一生懸命に記憶を辿ると、とある色が脳裏に閃く。
赤だ。記憶の中で赤いローブがにやりと笑った。

「あ!俺の事攫いやがったあの赤ローブ集団!」

散々サイズの小ささを馬鹿にされたせいで怒りのあまりよく覚えてはいなかったが。奴らは確かに、ジルニトラと名乗っていたはずだ。彼ら以外は皆が皆、赤ローブ集団とだけ呼んでいたのでなかなか思い出せなかったのだ。
正解よ、とトト子がウインクする。悔しいが可愛い。

「彼らはジルニトラと名乗る過激派集団で、最近動きを活発化させてきた危ない奴らよ。何でも、このアカツェリカを人間の手から奪い返し、より高等な生き物である竜の楽園に戻す事を目的としているらしいわ。かつて人と竜が共に暮らしていたのがこの国の始まりなのに、奪い返すとか何なのかしらね。無理矢理奪ったわけでもないのに、人間にも竜にも失礼な奴らだわ」
「へえー。だからあいつら、竜の召喚する本とか盗み出してたって事か?」
「そういう事。あなたやソラちゃんが攫われるという実害も出た訳だし、とっととそんな集団ぶっ潰したい所なのだけど……」

可憐な唇から物騒な言葉を吐きながら、トト子は困ったように眉を寄せた。

「ごめんなさいね、おそ松くん。私ちょっと野暮用があって、しばらくアカツェリカを出ることになったの」
「え、この時期に?星竜祭には出られないってこと?」
「そうなの、ちょうど星竜祭が終わってから戻る形になると思うわ、もうほんと残念!でもでもー今回の相手は海の王様だしートト子が一番お世話になっている人だからどうしても行かなきゃいけなくってー。ああまたポセさんの惚気を聞かされるんだわ、かわりに大量の磯の香りをぶんどってこなきゃ。そういう訳だから、ジルニトラの捕縛は私が帰ってきてからになってしまう訳なの」

フォークに刺したままの魚を戯れに指先でくるくる回しながら、トト子がおそ松を見る。純粋に心配をしている顔だった。

「賑やかなこの期間に乗じて奴らが何か動きを見せるかもしれないわ。あなたの情報が漏れている可能性もある。おそ松くん、十分に気を付けなさいよ」
「へへ……トト子ちゃん、ほんと優しいね。だーいじょうぶだって!トト子ちゃんの留守中はこの大魔法使いおそ松様に任せといてよ!俺のこの磨き込まれた自宅警備スキル舐めんなよってね!」
「……もう、せっかくトト子が真剣に心配してあげてるのに」

じろりとおそ松を睨み付けたトト子は、やがて華麗に椅子から立ち上がる。魚はいつの間にかどこかへ消えていた。傍にいたソラの頭を一撫でして、出入り口へと歩み出す。

「なるべく早く戻ってくるようにはするから、よろしくね。あと、あんまりカラ松くんと喧嘩しないようにね?トト子と約束よ」
「ウッ……へいへーい」
「よろしい。それじゃあ行ってくるわ」

ひらひらと手を振ってから立ち去る、前に、トト子がバルバトスを振り返った。首を傾げている間にちょいちょいと手招きされる。正直、得体の知れないオーラを感じるこの魔女にはあまり近づきたくないのが本音だったが、目を合わせてわざわざ呼ばれたのに行かない訳にはいかなかった。バルバトスはおそるおそるトト子へ近づいた。

「な、なに?」
「バルバトスくん、まだしばらくアカツェリカにいるでしょう?……その間、おそ松くんをよろしくね」
「へ?」

トト子の声は周りに聞かれないように潜められていた。音量だけでなく魔法も掛けられているのか、背後のおそ松にはまったく聞こえていない様子だった。

「あと、カラ松くんも。あの子たち暴走しがちだから時々ちゃんとフォローしてあげないとね。まぁったく、昔から手が掛かるんだから」
「いや、あの、」
「トト子のお願い聞いてくれたら、ご褒美あげちゃうから」
「ご、ご褒美?」
「そ!楽しみにしててね」

楽しそうにくすくすと笑ったトト子は、踵を返してあっさりと部屋を出て行った。コツンコツンという足音が遠ざかると、穴の開いた壁がパタパタとまた元通りに閉まっていく。出入り口が完全にふさがれたのを確認してから、おそ松はようやく深く息をついた。

「ふう!トト子ちゃんってばいつも予告なしに尋ねてくるから焦ったぁ。んでも今日も可愛かったなー」
「……な、なあ、おい、あのトト子ってやつ何者なんだよ。随分と底知れないし、偉そうだし、お前の事も俺の事も色々知ってたし!」

おそ松が気を抜いたからか、クローゼットやツボなんかからぽこぽこと仕舞われていたガラクタたちが飛び出してくる。そんな騒がしい光景の中でバルバトスが詰め寄ると、おそ松は少しだけ迷うように視線を彷徨わせた。

「何者って言われても……トト子ちゃんはトト子ちゃんだよ。お前こそ、さっきトト子ちゃんに何言われてたわけ?」
「や、特には何も……」
「ふーん?ま、別にいいけど」

別に隠しておくような内容ではないと思ったが、トト子がわざわざおそ松に聞かれないよう伝えてきたのなら、話さない方が良いのだろうとバルバトスは考えた。おそ松も無理に聞き出そうとはせず、すぐに引き下がったのはやはりトト子に配慮したためか。

「トト子ちゃんは見た通り可愛い。そしてすごい。それだけだよ」
「お前の事と、カラ松の事も昔から知っている感じだったんだけど?」
「あーそうだね。昔からカラ松ともども世話になったりしてるよ。学生時代はよくカラ松と一緒に「ヤらせてくれ!」って頼み込んでは物理的にコテンパンにされてきた感じかな」
「お前ら揃って最低じゃねーか!」

水晶玉に座り直したおそ松は、悪魔に最低などと言われた事など気にしない様子で懐かしむように笑みを浮かべた。今現在のカラ松と顔を合わせるとあんなにも冷たい態度を取り続けているのに、過去の出来事を思い返す彼はとても柔らかな笑顔を見せる。

「ほんと、トト子ちゃんとは長い付き合いになるね。俺なんか特に世話になりっぱなしでさ。今でもああやって定期的に顔を見に来てくれるんだ。俺とカラ松の関係だって気にかけてくれて……アカツェリカ一の、いや世界一の良い女だよ」
「言うねえ。なに、お前あいつに惚れてんの?」
「いやいや、何を当たり前のことを。トト子ちゃんに一度でも惚れない男はいないでしょ!さっき言った通り、俺の学生時代、大体カラ松と一緒にトト子ちゃんの尻追っかけてたんだかんね」

バルバトスは呆れた。トト子の事だけでなく、さっきからちらほらと必ず名前が出てくる人物に対しても、だ。

「さっきからカラ松カラ松って、お前カラ松としか行動してなかったの?必ず名前出てくるじゃん」

そうやってツッコまれる事を予想していなかったのか、おそ松の目が見開かれる。完全に無意識だったらしい。羞恥にジワリと頬が赤くなるが、その表情には苦みの方が色濃く浮かんでいた。

「あー……ハハ、しゃーねえじゃん……。俺、昔はマジで、カラ松と四六時中ふざけ合ってばっかりだったんだからさ……」

今までの浮かれた態度とは一変、力無く肩を落としてしまったおそ松の姿に、さすがのバルバトスも気の毒になってくる。母親が気を落とすとすぐに傍に寄ってきてくれる健気な子竜の姿も、より一層哀れに思えた。

「そんなに辛そうにすんなら、せめてカラ松に正直な気持ち打ち明ければいいのに」
「……言っただろ、俺が一番俺自身を許せないの。お人よしなあいつがどんな反応するか分かってて、言えるわけないんだよ……」
「ギャウゥ……」

べろりと頬を舐めたソラの頭を優しく撫でてやりながら、それでもおそ松は決して首を縦に振る事は無かった。

「はあ、人間ってマジ、めんどくせえなー」

後頭部に両手を回して、バルバトスは口を尖らせた。それもすぐに、おそ松と似たり寄ったりの自嘲的な笑みに変わる。

「……ま、俺も人の事言えない悪魔なんだけど」





普段は排他的なアカツェリカの町が一年で一番活気づく日、それが星竜祭の行われる時期だった。この日ばかりは近隣諸国や旅人、商人などが結界を越えてアカツェリカに集まり、連日町中が文字通りお祭り騒ぎとなる。橙色の屋根は空から星屑が降ってきたかのように例外なく光り輝き、色とりどりの壁には魔法で作られた着色料で様々な模様が描かれる。無風でも空にたなびくいくつもの旗には、真っ白な竜のシルエットが必ず描かれているようだった。よくよく見れば家の壁に描かれているのもそのほとんどが竜だ。星「竜」祭に相応しい装飾に囲まれたメインストリートには、空を飛べない外部の人間のために所狭しと屋台が並び、普段よりも快活に呼び込みの声が飛び交っている。祭りのために国境の検問が緩くなっている今がチャンスだと、魔法使い由来の品を求めて人々が殺到する通路は石畳の地面が見えないぐらいの混雑ぶりだった。アカツェリカ住民の魔法使いたちは、そんな喧騒を眼下に見ながら空を飛んで移動するのが毎年の常だ。

「祭り一日目からこんな大騒ぎなの?星竜祭ってすげーんだな」
「まあ、この国で一番の祭りだからね。はあ……これだからこの時期は外に出たくないんだよ……」

バルバトスはカラ松たち三兄弟と共にアカツェリカの町上空から祭りの様子を見下ろしていた。定位置であるカラ松の帽子の上から窮屈そうな人ごみを眺めるのは少々気分が良い。家から無理矢理連れ出された一松は杖の上でブツブツと文句を言い、己の乗り物だと高く飛べないトド松がその後ろに腰かけながら引きこもりの兄を呆れた顔で見つめる。

「一松兄さんは年中外に出たがらないでしょ。そんなんじゃ頭の上からキノコでも生えてきちゃうよ?」
「そうしたらそのキノコを薬の材料にするからいい……」
「ノンノン一松、たまにはこうやって賑やかな外に出てサンシャインの光を浴びなければ病気になってしまうぞ。さあ、このサンシャインと同じように輝く兄カラ松と共にドラゴンスターカーニバルを楽しもうじゃないか!」
「うるせえクソ松そのまま日没と共に死ね」

いつもの通りうっとおしい笑顔でうっとおしい事を言うカラ松を、一松が一刀両断する。しょぼくれたカラ松の肩を、しかしここ数日は律義に慰めてくれる青色の存在があった。

「ギャウ、ギャウウ!」
「おおリトルブルースカイ、俺を慰めてくれるのか……!お前はなんて良い奴なんだ!」
「チッ、バルといいソラといい、どうしてクソ松ばっかり小動物に好かれやがるんだ……!」
「一松兄さん、気持ちは分かるけど嫉妬は見苦しいよー」

相変わらずバルバトスにしか聞き取れない竜の鳴き声でパパ、パパ、とカラ松を慕う青色子竜のソラは、バルバトスがおそ松の部屋から退散した後も毎日のようにカラ松の家へ遊びにきていた。本日も意気揚々とやってきて、祭りに出かけるバルバトスたちに当然のようについてきた。バルバトスがこっそり、おそ松の事はいいのかと尋ねたが、ママの許可は貰ってきている、という事だ。あいつソラの世話をこっちに丸投げしているんじゃないだろうな、とバルバトスは疑っている。
動物大好きな一松はソラの事も気に入って構いたそうにソワソワしているが、人懐っこくて愛想の良いソラはそれでもカラ松に一番懐いていた。そのせいで兄への塩対応に拍車が掛かっているようだ。ドラゴン研究家としての俺のオーラのおかげだ、とカラ松は豪語しているが、理由は誰にも分かっていない。バルバトスでさえ、おそ松の影響かな、という程度の認識だ。それでもソラは魔法使い三兄弟に受け入れられて、今日も後をついて回っている。

「まあ、あの大通りの屋台は外の人間向けのものだからねー。僕たちアカツェリカ民は、断然あっちでしょ!」

トド松が指を差すのは、町の城壁の外だ。カラ松も一松も当然と頷き、そちらへ箒と杖を向けて移動する。向かう先には、複数の巨大なテントとそれに群がる人々、そして竜の姿。祭りの何日も前にやってきて腰を落ち着けている竜一座リンドヴルムだった。彼らは星竜祭に合わせてこのアカツェリカへとやってきて、祭り期間中は竜たちと共に様々な催し物を行い人々を楽しませるのだという。星竜祭の名前の由来の一つである。祭り自体はリンドヴルムよりも遥かに歴史が古く、かつてアカツェリカで人と竜が共に暮らしていた頃からの伝統的なものであるらしい。異なる種族がそれでも手を取り合って生きている事への奇跡を祝うものなんだとか。

「んで、星竜祭の「竜」の理由は嫌ってほど分かったけど、「星」ってどういう意味?夜にやる祭りなのかなって最初聞いた時思ったんだけど、思いっ切り真昼間から祭りってるよな?」
「ん?ああ、説明していなかったか。まあバルの言う事もある意味間違ってはいないぞ」

リンドヴルムに向けて箒を飛ばしている間に、カラ松が説明してくれる。

「元々星竜祭は昼間にドラゴンを、夜にスターを称える祭りなんだ。昔からこの時期のアカツェリカではシューティングスター……流れ星がよく見られていてな、それに合わせて祭りを行ったのが始まりと言われている」
「流れ星?マジで?今日も流れんの?」
「うーん、実は流れない年の方が多いんだ。さすがに毎年確実に流れるものではなくてな。だがしかし、この時期に見られる確率が高いのは確かだぞ!今年はバルと出会えた記念すべき年だ、もしかしたらものすごいメテオストリームが見られるかもしれないな!」

カラ松は一点の曇りもない顔で笑う。本気で言っているのが誰の目から見ても明らかだった。悪魔に向かってそんな縁起の良い事言うなんて馬鹿だねえと、バルバトスは心の中で呟いた。相変わらずトカゲを装っているので、とても声には出せなかったが。

「……あ、」

リンドヴルムの一団の元へ降下中に、一松が明後日の方向を見ながら何かに反応した。杖が明らかに視線を向ける方へ傾いていくので、トド松が慌てて声をかける。

「ちょ、ちょっと一松兄さん、ふらふらしないでよ。何か見つけたの?」
「十四松だ」
「え、十四松兄さん?」
「どうした一松、十四松がいたのか?」

十四松の名にカラ松も反応する。結局箒と杖は進行方向をぐるりと変え、城壁の外側へと移動した。リンドヴルムのテントからも離れたそこは、祭りの喧騒が遠くから響く閑散とした場所だった。少しの寂しさをバルバトスは覚える。そんな空間で、大きな筆を使ってべったべたと壁にペンキを塗りたくっている一人の黄色い画家がいた。その傍らには、長い鍵型の杖に寄りかかって絵の完成を見守る緑の書庫の番人の姿もあった。

「十四松、それにチョロ松までいるじゃないか」
「ん?ああ、カラ松たちか。今年は三人で星竜祭見物?」
「フッ……違うぞチョロ松、三人だけじゃないぜ。バルとスカイも一緒だ!」
「あーそうだったね、まだあの珍しいトカゲと一緒だったか。バルと……え、もう一人だれ?!」

聞き慣れない名前にチョロ松が振り返っている間に、地面に降り立った一松が素早く十四松へと近寄った。全身を使って一心不乱に筆を動かしていた十四松も、一松に気が付いて動きを止める。

「あっ一松だ!久しぶり、じゃないね!この間ぶりー!」
「うん。十四松、また袖まくるの忘れてるだろ。やってやるから腕出して」
「え?あーほんとだ!どおりで筆握りにくかったんだーあはは!」
「もー十四松兄さんは相変わらずだなあ」
「あっトド松も、カラ松兄さんたちもいるー!みんなで星竜祭見に来たの?いいなあ!」

袖をだらんと垂らしたままの十四松の腕を取って捲ってやる一松に、トド松も微笑ましげについていく。ほのぼのとしたやり取りの背後では、チョロ松が驚愕の表情でカラ松の傍を飛ぶソラを見ていた。

「りゅ、竜?!竜の子供?!カラ松お前こいつ、どうしたんだよ!旅先で拾った?いやでもこの間まで連れてなかっただろ!」
「ああ、こいつはシャイニーリトルブルースカイ。バルの友達だ。俺の天才ドラゴン研究家としての才能に感化されたのか、よく懐いてくれていてな」
「いやいや、なんで名前がどんどん長くなってるんだよ。本当の名前はソラだってば」

チョロ松はカラ松の説明を半分も飲み込めていないような顔をしていたが、帽子の上に陣取ったままのバルバトスの付けたしはきちんと聞こえたらしい。ソラ、と呟きながら、呆然と青い子竜を見つめる。ソラを初めて目撃するようなその表情に、バルバトスは首を傾げた。

「えーと、チョロ松、お前こいつの事知らないの?」
「はっ?何で僕が?野生の竜なんてめったにお目に掛かれない希少種、知り合いな訳ないだろ。むしろお前がどこでどうやって友達になったんだよ」

逆に尋ねられて思わず口ごもる。ソラの本当の飼い主はおそ松だ。それならば、実の弟であるチョロ松もソラの事を知っていてもおかしくないと思ったのだ。チョロ松の怪訝そうな顔を見るに、とても誤魔化しや嘘をついているようには見えない。ソラの事は本当に知らないらしい。赤の他人であるトト子は知っていたのに、変だな、と思った。

「どこで友達にって……その辺散歩してたら偶然会って意気投合したんだよ。なあソラ?」
「ギャオーン!」
「一緒に遊ぶだけだから、こいつがどこから来てどこへ帰っていくのかは知らないよ?もしかしたら誰かに飼われてるのかもしれないけど、俺は知らなーい」

ソラも親が誰なのか明かしてはいけないと言い聞かせられているのか、バルバトスの言葉に調子よく頷いてみせている。チョロ松はあっけにとられた顔でバルバトスとソラを交互に見つめた。

「嘘だろ……いくらアカツェリカでも、リンドヴルム以外に気軽に竜なんて飼える訳がないのに」
「はぐれ竜ってそんなに珍しいの?」
「当たり前だろ。野生の竜は今の時代、ほとんど人間の世界と関わろうとはしないんだ。アカツェリカにだって長い間はぐれ竜の報告がなくって、最近ちらほらと目撃されるぐらいだったんだ……って、こいつがそのはぐれ竜か!?」
「ギャウギャウーン」
「くそっ呑気に鳴きやがって。……おまけにこんな子供の竜、最近生まれたって事だろ。竜の出生率は高くないんだ。一体どこで生まれたんだか……」
「チョロ松、お前そんなに竜に詳しかったのか」

ぶつぶつとソラを見つめながら一人で喋り続けるチョロ松にカラ松が目を見張った。声を掛けられたチョロ松はハッと我に返ってバツが悪そうな顔になる。ほとんど無意識に考え込んでいたらしい。

「そ、そりゃ、アカツェリカと竜は切っても切り離せない存在なんだから、勉強ぐらいするでしょ。書庫の番人だよ、僕は」
「ああ、その通りだ。しかし偉いぞチョロ松。どうだ、俺と共に果てしないドリームが待つドラゴン研究家への道を目指さないか?お前なら見込みがある!」
「やだよそんなほぼ無職みたいな道楽職。僕は兄さんたちと違って全うな職業に就く事が昔からの夢だったんだから」
「む、無職……?!」

ドラゴン研究家とやらがよほど気に入っているらしいカラ松も、さすがにショックを隠し切れない様子だった。無職……と呟きながら沈み込んでしまったカラ松は放っておいて、バルバトスは飛び上がりソラとチョロ松と共に十四松たちへと向き直る。一松に袖を捲って貰った十四松は、身の丈以上の筆を先ほどよりも素早く振り回して壁の絵を完成させていった。その身体は殆どが宙に浮いているように見える。多分、本当に浮いている。

「ところで十四松兄さんは何でこんな所に絵を描いているの?」
「ああこれ、一応魔法学校側から十四松へ正式に依頼した仕事。町中の絵も一部は十四松が描いたやつなんだ」
「えっそうなの?とうとう国から依頼されるほどになったんだ、十四松兄さん!すごいや!」
「マジで……?ちょ、十四松、あとでどこに何を描いたか教えて」

チョロ松の説明に、トド松と一松が沸き立つ。バルバトスも感心した。町民全員で祭りの準備を行う様子はカラ松と共に毎日のように見守ってきたが、壁に絵を描く役目を担った様子の人間はそう多くなかった。おそらく選ばれた人間しか手を出せない装飾なのだろう。それにまだ若い十四松が選ばれたというなら、名誉ある事だとアカツェリカの民でなくてもよく分かる。
絵を描きながらでもこちらの声は聞こえていたようで、十四松が嬉しそうにでへへと笑う。それを眺めるチョロ松は、しかし浮かない顔をしていた。

「確かに凄い事だけど……おかげで僕が四六時中監視してなきゃいけなかったんだよ。特に町中は色んな人の目に触れる事になるから……」
「いや、十四松だってもう学校卒業したプロなんだから、監視とか大げさなんじゃないの。確かに突拍子もない行動をするやつだけど、絵に対しては真摯に打ち込むし、技術はその辺の凡人画家なんて目じゃないぐらいだし、」
「うん、一松の言っている事も分かるよ?僕だって十四松の腕を疑っている訳じゃない。……ただ……」

チョロ松が、十四松の描く壁を見上げる。一松とトド松も釣られて見上げた。バルバトスとソラも同じように見上げた。ようやく立ち直ったらしいカラ松も、近づいてきて後にならう。そこに描かれていたものは明白だった。竜である。町中に描かれた竜の絵を思えば当たり前の事だ。城壁の縦一杯に描かれた竜は恐ろしいほどの迫力で、もしこの絵が町の中心に描かれたものであれば祭りの良い目玉となり人々の関心を集めただろう。
この絵が、燃え盛るほどの赤色を持った竜でなければ。

「目を放すとすぐ、こうやって赤い竜の絵を描きたがるからさ……ほとんど人がこないここなら、描いてもいいって約束して何とか抑えたんだよ」
「ああ……」
「ほんと、十四松兄さんって相変わらずだよね……良くも悪くも」

一松もトド松も、目の前の絵を見て一瞬のうちに納得したらしい。最初とは違い赤い竜にまつわるあれこれを知ったバルバトスも、監視役の必要性をすぐに理解出来た。赤い竜は、アカツェリカでは昔から忌み嫌われる色の竜。その上、この兄弟たちにとっては忌まわしい記憶を呼び起こす痛みを伴う色、のはずだった。
だがしかし、一人だけそんな事情を理解していないような笑顔であっけらかんと笑う者がいた。

「うん!やはり十四松の描くレッドドラゴンの迫力は素晴らしいな!これを町中に描けば祭りももっと盛り上がりそうなものだがなあ」
「あはは、カラ松兄さん言うねえー!」

カシャンと鉄の足音を踏み鳴らすカラ松である。チョロ松も一松もトド松も、バルバトスでさえ呆れた目を向けた。赤い竜を自らの手で描く十四松でさえ苦笑気味だった。一匹だけ何もわからないソラが、キュウ、と首を傾げるだけだ。呆れる一同を代表して、チョロ松が痛む頭を押さえながら口を開く。

「カラ松、お前さ……前々から言ってるけど、赤い竜に少しでも何かしら思う事はないの?」
「うん?そうだな、俺に一番似合うカラーはクールなブルーだと自負しているが、レッドも嫌いな訳ではない。むしろ好きな方だ。情熱的なハートの色……!実際にこの目で見たのはまだ一度きりだが、かっこいいよな、レッドドラゴン!」
「いやそういう事じゃねえ!分かるだろ、僕の言いたい事!あの事件からもう5,6年は経っているけど、お前がまるで何もかもなかった事のように振舞うと、こっちは逆に気にしちゃうんだよ!」
「そ、そうなのか?」

目を吊り上げたチョロ松の言葉に、カラ松は少なからず衝撃を受けたようだった。目を見開いた後、申し訳なさそうに眉を下げている。

「だが、俺のこの足は自業自得のものであって、お前たちが気にする事なんて何もないんだぞ?」
「そういう訳にはいかないんだって……一番気にしてるのは、おそ松兄さんなんだから」
「ああ……あいつにも困ったものだな」

一瞬憂いを帯びた表情をしたカラ松だったが、すぐに笑顔を取り戻す。何も考えてなさそうなムカつく流し目付きではあったが、あえて軽い表情を作っているようにも思えた。

「だがなチョロまぁつ?俺のこの足の事とレッドドラゴンは今、関係がないだろう?」
「はあ?関係大アリだろそんなの……」
「ないさ。俺も前々から言っているはずだ……ドラゴンの凶暴性に、ボディカラーは関係ない、と」

ハッと、チョロ松が目を瞬かせる。横で聞いていた一松とトド松も夢から覚めたような顔をした。会話の内容を全て正確に把握している訳ではないだろうが、ソラがキュウと嬉しそうにカラ松へすり寄った。カラ松の表情には自信が溢れていた。

「このアカツェリカを代表するドラゴン研究家が言うんだから間違いない!長年ドラゴンと共に生きるリンドヴルムでもはっきりと、性格などはカラーに左右されるものではなく人間と同じように個体差であると結論付けられていたんだからな。赤いから不吉だとか、凶暴だとか、悪いドラゴンだとかいうのは、全てただのおとぎ話に過ぎないという事だ。よって!」

カラ松が己の右足を見せつけるように上げた。キシ、と僅かに鳴った無機質な肌を一回だけ叩く。叩いた手の平の方が痛そうだった。

「俺のこのオートメイルな右足も原因は一匹のレッドドラゴンだろうと、全てのレッドドラゴンには当てはまらないという事だ。そもそも何度も言っているが自業自得だしな!だから、お前たちがレッドドラゴンに過剰に反応する必要はどこにもない。わかったな?」
「う、うん……」
「カラ松兄さんの言うとおりだよ!」

声を上げたのは十四松だった。ハッと全員で壁の方を向けば、大きな翼を広げた赤い竜の絵はほとんど完成していた。長い筆を両手に持って、赤い絵の具に塗れた顔で十四松はにこりと笑う。

「竜の色なんか関係ない!青でも緑でも紫でも黄色でも桃色でも、赤でも何でもいいんだよ!ぼくはそれをアカツェリカの人たちに教えてあげたいんだ!いつかこうやって大きな赤い竜の絵を、町の広場の真ん中に描いてやるのがぼくの夢なんだあ!そうしたら!そうしたらさ!」

十四松の視線が上を向く。城壁の内側に、ここからでも遠くに聳え立つ塔が僅かに見える。アカツェリカの民ではないバルバトスでも、あの塔が何なのか、誰が住んでいるのかを知っている。一番知っているであろうソラがギュルルと喉を鳴らしている。十四松の普段は焦点が合っていない事の多い瞳は、塔の中の何かを見通すようにじっと一点を見つめていた。

「あの学校のお城の塔からでも、ぼくの絵がよく見えるよね!」

十四松の笑顔は輝いていた。理由は分からなくとも、赤い竜を描き続ける目的があの塔の中に存在する事は明白だった。赤い竜を召喚し、大事な友人を傷つけてしまったという兄をどうにかして慰めたいのだろうか。町の人の赤竜に大しての認識を改めさせ、学校の敷地内に引きこもってしまっている長男を外出しやすくさせたいのか。彼なりの考えがあるようだがその表情は、自分の行いがいつの日か兄の助けにになる日が来るようひたむきに前を見続ける、希望溢れる眩しい笑顔だった。
あまりの真っ直ぐ具合にバルバトスは慌てて尻尾で目を覆った。人間の無邪気さ純粋さとは恐ろしい。このまま直視していれば火傷でも負いかねない眩さだった。もちろん全て気のせいなのだけれど。

「これだから強くは止められないんだよね……」

溜息交じりのチョロ松も、弟に少なからず期待している部分もあるのだろう。人気が無いとはいえ、町の大事な城壁にこんなに大きな赤竜を描く事を許したぐらいには。複雑な感情を抱く一松とトド松も、自然と笑みを浮かべていた。穏やかな感情が流れる中、十四松の熱意に周りより数倍感化された男が一人いた。

「じゅっじゅうしまぁつ!!それほどまで漲るお前の純粋な気持ち、伝わったぞ!感動したっ!俺にも手伝わせてくれ!レッドドラゴンの悪い印象を払拭するために俺とお前で新たな絵本を作るなんてどうだ?!絵が十四松、文が俺作だ!」
「わはーほんと?!ありがとうカラ松兄さん!でもその絵本案はアカツェリカの人たちの心を負傷させかねないから却下だね!」
「えっ……?!じゃ、じゃあ、紙芝居はどうだ!俺が直々にキッズたちへ読み聞かせをしてやろう!」
「カラ松兄さん直々にかあ!もっとやべーね!最早命の危機!」
「何故だ?!」

勢いが空回っているカラ松に、バルバトスはくすくすと笑みが零れる。今の会話を、彼らの表情をおそ松に話して聞かせてやりたい。お前の心配は明らかに杞憂だぞと、頬を突いてからかってやりたい。あいつはこんなにも許されて、求められているのに。いや最初からきっと、責められてなどいなかった。自分以外には、誰にも。
しかし。

『こんな事しでかした自分を、あいつの、カラ松の傍に置く事なんて、許せるわけないだろ……』

バルバトスの心に、先日のおそ松の姿が蘇る。一人己を責め続ける悲痛なあの表情もまた、泣きたくなるほど分かってしまうために、バルバトスは無責任な言葉を発する事が出来ない。いつのまにかあの魔法使いに感情移入している自分がいた。どこか似たような境遇に、似た想いを抱く姿に、他人事だとは思えなくなってしまっている。悪魔が人間にこれほどまでに共感してしまうなんて、悪魔仲間たちが見たらどう思うだろうか。

「さて十四松、そろそろその絵、仕上げちゃえよ。もうすぐ競竜が始まっちゃうよ」
「あっそうだった、いっけねー!ラストスパートゥー!」

チョロ松に声を掛けられて、十四松は慌てて止まっていた手を、と言うより体を再び動かし始めた。壁の前を縦横無尽に動き回る黄色い影を眺めながら、そういえば、とバルバトスは周りに尋ねかけた。

「なあ、この間からよく聞く競竜ってなに?今までの話から察するに、賭け事か何かなんだろ?」
「ああそっか、バルは初めて見るんだね」
「ザッツライト、その通りだ!星竜祭恒例、リンドヴルムで数百年の歴史を誇るドラゴンレース、それが競竜だ!」

パチンと指を鳴らし、得意げにカラ松が説明してくれた。
競竜は星竜祭でも一番の目玉イベントで、祭りの三日間連日で行われているらしい。リンドヴルムのスピード自慢な選ばれし竜たちが、決められた空中のコースを疾走し、順位を競い合う迫力のあるレースだ。観客はどの竜が一位か、どんな順番でゴールするかを予想し、竜券と呼ばれるものを買ってお金を賭ける仕組みだった。
アカツェリカの大人たちはこぞって竜券を買い、勝った者はさらなる勝利を手にするために、負けた者は今度こそ運が向いてくると信じ、また竜券を買うという大変不毛な遊びで盛り上がる。未成年は竜券を買えないようになっているが、毎年抜け穴を使って魔法学校の生徒が必ず何人かひっそりこっそり楽しんでいるとか。ここ数年は特に某教師のおかげで竜券を買う生徒の人数が増えているという話らしい。

「で、その某教師はここにいねえの?」
「仕事が溜まってるから来れないとかで、僕におつかいを寄越してきやがったよ。ま、嘘だろうけどね」

チョロ松が、おそらく予想が書かれている紙をひらひらと振ってみせる。カラ松がそっと眉を寄せた。

「おそ松、あいつ、競竜にまで自分で来ないのか」
「……まあね。一番思う所があるんじゃない。時々星竜祭自体は隅っこで楽しんでいるようだけど、競竜だけは絶対に自分で来ようとはしないよ」

昔は授業をサボってまで毎年買いに来てたのにね。寂しそうにそう呟いたチョロ松は理由を話さなかったが、人間の中でも鈍い部類のカラ松でさえ察したらしい。自分の冷たい右足を見下ろして、少しだけ悔しそうに歯を食いしばった。バルバトスはその姿を、複雑な心境で見つめた。カラ松がかつて競竜乗りを目指していた経緯を、当のおそ松本人から後悔と共に聞かされたのはつい先日の事だ。

「ギャウギャウ!ギャウーン!」

ソラが頭の上をぐるぐると飛んで回る。その台詞を聞き取ったバルバトスは、思わず暗い気持ちを一瞬で吹き飛ばして笑っていた。

「こいつ、空を飛ぶことなら任せろーだって。なに、お前も競竜に出たいの?」
「そうか!スピーディリトルブルースカイ!将来の夢は大きいものであればあるほど良いぞ!ビッグなドラゴンを目指そうな!俺も応援するぞ!」
「ギャオン!」

ソラ曰くパパに褒められて、青い体がさらに光速に動く。こいつなら確かにその辺の竜には負けない速さで優勝狙えるかもな、とその身を持って体験したバルバトスは思った。
微笑ましそうに空を見上げていたトド松が、ふと首を傾げる。

「でも競竜ってリンドヴルム所属の竜しか基本的に参加出来ないでしょ?ソラ、リンドヴルムに入るの?」
「ギャウ、ギャウ」
「それは嫌なんだって」
「あ、嫌なんだ……」
「ギャオン、ギャウギャウ」
「出来れば働かずに生きていきたいってよくママとお話してるんだって」
「子供とそんな会話するなんてどんだけ怠け者の母親だよ?!顔が見てみたいわ!」

とっさにツッコむチョロ松に、お前の実兄の事だよとは伝えられないまま、十四松がようやくぴょんと戻ってきた。

「でーきた!さあ、早く競竜見に行こうよみんなー!」

城壁には、手足と翼を大きく広げた赤い竜がまるで本当にそこに存在しているかのように詳細に描かれていた。生き生きとしていて、今にも本当に空へ飛びだしてしまいそうに思える。そういえばこいつ魔法画家だったな、と、少し前実際に小さな竜をキャンバスから逃がしてしまっていた光景を思い出して、思わずバルバトスはひょいとカラ松の背中に隠れるが、幸いこの巨大な竜は今の所飛び出してくる気配はない。
絵描き道具をぱたぱたと体のあちこちに仕舞い込んだ十四松が駆け出そうとする前に、慌てて引き留めたのは一松だった。

「十四松、十四松、ちょっと待って。お前絵の具塗れだから……いくら体に害は無くても、赤い絵の具塗れはさすがにやばい。主に人目につく」
「あはー、偽スプラッタ!ありがとう一松!」

確かに十四松の全身がまるで返り血を浴びたように赤塗れだった。一松が甲斐甲斐しく十四松の顔にくっついた絵の具を拭い、赤塗れの服を本人ごとどこからともなく取り出した大釜に入れて洗い流すのを待って、バルバトスたちはようやく移動を開始した。
リンドヴルムの人間や竜が寝泊まりしているテントの向こう、空にいくつもの旗が等間隔に並んではためいている広大な草原の一角が競竜のコースらしい。今年の星竜祭第一レースはこれから行われるらしく、竜券売り場にはアカツェリカの民であろう人々が殺到していた。

「わあ、さすがに第一レースは人が多いね、買えるかな」
「うう、人多すぎ、無理、帰りたい……」
「一松大丈夫?!ぼくたちはもうちょっと人が少なくなってから買おっか?!」
「フッ、男は黙って第一レースから勝負するものさ。さあ弟たちよ、立ち向かうぞ!」
「あ、じゃあカラ松兄さん僕たちの分もよろしくー」
「えっ」

弟組はあっさりと人ごみから離れ、その場に残ったのはカラ松とバルバトス、そしておつかいを頼まれているチョロ松だけだった。チョロ松もうんざりした顔をしているが、頼まれ事はしっかりと遂行するつもりらしい。

「はあ。面倒だけど仕方ないな。いくぞカラ松。こうなったら一山当ててあのクソ長男からおつかい駄賃多額にぶんどってやる」
「あ、ああ。バル、人ごみに紛れないように俺にしっかりと捕まっているんだ。オーケイ?」
「おーけーおーけー。帽子の上に乗っとくからだいじょーぶ。ソラもここに捕まって……あれ?」

バルバトスが辺りを見回した時、すでにソラの姿はどこにも見えなかった。この竜券売り場に来るまでは確かにそばを楽しげに飛んでいたはずだったが。もしかしたら人間の多いところへ近づいてはいけないと言い聞かされているのかもしれない。

「ソラがどこか行っちゃった」
「本当か?まさか迷子になってしまったんじゃないだろうな……」
「いや、あいつ野生の竜なんだろ?警戒心が強いはずだから人ごみから逃げただけじゃないの。そもそも竜が竜券買うとは思えないし」

そこまで言って、チョロ松がじっとバルバトスを見つめてきた。何かを疑うような表情だった。

「……そういえば、お前も竜券買うの?トカゲのくせに?」
「なっ……!馬鹿にすんなよ!俺だって賭け事の一つや二つ、今まで嗜んできてんだからな!トカゲ舐めんなよ!」

実際はトカゲではないし、魔界の魔物を使った競竜と似た賭け事だってあったし、競ケルベロスで三連単を当てた事だってあるのだが。人間よりもはるかに長い人生の中で一度だけ。

「へえ?そこまで言うならお手並み拝見と行こうか。ま、トカゲの運に人間の僕が負けるとは思えないけどね」
「ムッキー言ったな?!絶対絶対俺の方が勝つんだからな!竜とトカゲってほら、似てるし!人間よりぜってー見る目あるから!てことでカラ松お金貸して!」
「ホワッツ?!そういえばバル、お前一文無しじゃないか!か、賭け事はほどほどにするんだぜぇ?」

チョロ松に思いきり馬鹿にされて頭に血が上ったバルバトスに、嫌な予感がしたカラ松が控えめに抑えようとするが、焼け石に水状態である事は言うまでもない。
こうして、おそらくアカツェリカ史上初の、竜券を買って競竜に参加したトカゲもとい悪魔となったバルバトスなのだった。

ちなみにこの日バルバトスは全てのレースで一度も勝つことが無く負けた。
チョロ松も負けた。






17/09/08



 |  |