ぼくらの太陽 3
包み込むような温かい微睡みの世界から、急激に引っ張り上げられる気配がする。その衝動のままパチッと瞳を開けば、薄暗い天井が見えた。ここ最近で急激に見慣れた、見慣れる事が出来た天井が、カーテンの隙間から漏れる朝日に照らされてよく見える。どうして突然目を覚ましたのか、考える前に体が動いていた。
7時ちょうどにセットされていた枕元の目覚まし時計が、けたたましい音を上げた一瞬後。持ち主の目を覚ますために鳴り響くはずだったベルの音は、一秒にも満たない間に止められる事となった。すかさずバンとボタンを押して止めたのは、伸びきったパジャマの袖に包まれた手の平。あたたかな布団の中からうつ伏せで手を伸ばしたのは、犬の耳を元気よくぴんと立てた十四松だった。ただし、右耳だけはついてしまったクセのせいで垂れたままだ。
薄暗い室内で、起きたばかりだと言うのに爛々と輝く瞳はすぐに自身の隣へ向けられる。大口開けてぐーぐー幸せそうに眠っているその人を見つけて、満面の笑みを浮かべた十四松は大きく手を広げて飛び上がった。
「おそ松兄さん!おはようおはようおはようおっはよーう!朝だよー!起きてー!」
「ブホァッ?!」
元気よく大声を上げながら布団の上にダイブすれば、ちょうど鳩尾にでも入り込んだのか押し潰されたような声が上がる。半分魂の抜けかけたその頬を、現世に戻ってくるようにべろりと舐める。
「兄さん兄さん!朝だよ!目覚ましが鳴る時間だよ!おそ松兄さん!」
「う゛……っ、ゲホゴホ、おま、毎朝起き抜けから元気だな……いや元気な方がいいんだけど……」
顔をしかめながらもゆるゆると開けられる瞼。一瞬だけ虚空を見つめたその瞳が、腹の上に顎を乗せて伏せる十四松を視界いっぱいに映し出す。今まで痛みと苦しみにしかめられていた表情がふっと緩み、親しみを込めてふにゃりと笑いかけてくるその顔が、十四松は何よりも好きだった。眠りから目覚めて一番最初にこの笑顔が見たいがために、無意識に目覚ましよりも早く起きてしまうほどには。
「おはよぉ、十四松」
「おはよう、おそ松兄さん!」
呼ばれるたびに尻尾を振ってしまうほど嬉しい自分の名前に、ぴっと手を挙げる。少しでもお返しになるようににっこり笑い返せば、ぽかぽかした手がガシガシと頭を撫でてくれた。嬉しすぎて振り回される尻尾が布団をばふばふ叩く。まだもう少し眠そうな主人の顔を見つめながら撫でるその手にされるがままでいれば、おもむろに傍らのカーテンが開けられた。途端に飛び込んでくる、眩しい清らな朝の光。突然のそれに目をしぱしぱさせていれば、ふっとニヒルな笑い声が降ってきた。
「グッモーニンブラザー、よく眠れたか?愛するマスターとリトルブラザーが朝日の中仲睦ましく戯れるこの光景、まるでエデンに住まうエンジェルの如」
「はいはいおはようカラ松。朝から俺のアバラ鍛え上げるのやめてぇ寝起きは耐久力無いんだから」
「えっ」
「おはようカラ松兄さん!朝から絶好調だね!」
「お前には言われたくないぞ十四松ぅ?」
人間であるおそ松と、同族のイヌであるカラ松、二人の「兄弟」としっかり挨拶を交わして、今日も十四松の幸せな一日が始まる。
十四松が「十四松」となり、松野おそ松の飼いイヌ……いや、弟となって数日が経っていた。拾われた時は傷だらけのボロボロだった体もすっかり良くなり、逆に体力が有り余っているほどだった。居心地の良い部屋でのんびりと過ごして、出来立ての温かなご飯をお腹いっぱい食べて、大好きで大切な人たちとお話して笑い合って、ぽかぽかの布団でぐっすりと眠る。そんな、今までと比べたら天国すぎる毎日のおかげで、厳しく鍛えられていた身体は贅沢な環境にうずうずとしてしまう。そんな十四松の全てを分かっているかのように手を差し伸べるのは、いつだって輝く太陽の笑顔だ。
「十四松!散歩行こうぜー」
「……はいっ!」
返事の前に若干の緊張をはらんでしまった。カラ松が励ますように優しく背中を撫でてくれる。ありがとうと笑い返してから、ぱたぱたとおそ松の元へ駆け寄った。手招きしていたおそ松の手元には、真っ赤なスカーフが握られている。目の前にやって来た十四松が直立不動でぴしっと立ち止まれば、良い子良い子と撫でられる。
「少しでも苦しかったらすぐ言えよ?」
「あいあい!」
しゅるりと首に巻きつく滑らかな感触。おそ松は慣れた手つきで十四松の首元に鮮やかな赤いスカーフを巻きつけた。少しばかり縮こまっていた十四松の心も、見下ろせば常に存在する赤色に勇気が奮い立たされるような心地がする。しかしこれは、ただ十四松の支えにするためだけのものでは無い。
この国の法律により、人間に飼われている獣人はその証として首輪を付けなければならないとされている。首輪を付けていなければ野良獣人としてそれ相応の国の機関に保護されるべき対象と見られてしまうのだった。どうしても息苦しく感じて首輪を嫌がる獣人も少なくないので、そういった場合は申請を出して手や足に所有の証を取り付ける事になる。幸いカラ松は物心ついた頃からの首輪との付き合いなので今更抵抗は無く、年代物の赤い首輪を毎日大事に大事に付けていた。十四松が以前いた「施設」はイヌたちを外に出さない違法の施設だったので普段は何も付けてはいなかったが、特に首輪に嫌悪感は無い。おそらく松野家で一番首輪を嫌がっているのは、自分は付ける事のないおそ松であろう。
とりあえずそういう訳で、晴れておそ松に飼われる事となった十四松も本来ならばすぐに首輪を付ける事が望ましいのだ。外を出歩くならなおさらだった。しかし肝心の首輪がまだ手元に届いていない。
『十四松ー、お前首輪どんなのが良い?』
『カラ松兄さんと同じやつ!』
『んんっ?!』
数日前おそ松に尋ねられて即答した時の事を思い出す。あんなの古いよ、最近はもっと良いデザインのとかあるよ、としきりにカタログを見せられたが、何を見たって十四松の意見は始めから変わらなかった。これは子どもの頃おそ松が手ずから選んでくれたものなのだと嬉しそうにカラ松に自慢されてから、ずっと心に決めていたのだ。
『だってボクたち兄弟なんでしょ?だからボク、兄さんとお揃いがいい!』
拳を握りしめて熱弁すれば、渋っていたおそ松も頷くしかなかった。ちなみにカラ松には感動のあまり泣かれた。お揃いがいいなんて言われた事が今まで無かったらしい。
そんな流れで十四松の首輪は昔のデザインのせいで特注となり、出来上がりまで時間が掛かってしまうらしい。そのためのこのスカーフだ。新しい首輪が届くまではこの赤色のスカーフが、十四松がおそ松の「家族」であるという証となるのだ。出掛ける時だけこうやって身につけているが、おそ松にスカーフを巻いてもらう今の状態も何となく好んでいる十四松なのだった。
「おーい十四松、ボーっとしてないで行くぞー」
「あ、ハイハーイ!」
すでに玄関へと向かっていた赤と青の背中を慌てて追いかける。まだ履き慣れないスニーカーをもたもた履いていた十四松を待ってくれていたおそ松が、にっと笑って手の平を差し出した。
「ほら、お兄ちゃんの手握んな。このカリスマレジェンドの手さえ掴んでおけば、怖いもんなんて何もないんだからな!」
いつでも十四松を心ごと拾い上げてくれるあたたかな手。震える足を叱咤してパーカーの長く伸びた裾に隠れたままの手を伸ばせば、力強く握りしめられ引っ張り上げられる。そのままお日様が照らす明るい外へと足を踏み出す。
十四松は未だに外が少し怖かった。壁の内側に閉じ込められたままでは決して見る事の出来なかった景色を見て回るのは胸がワクワクしてむしろ好きだったが、知らない人間と対峙すると途端に臆病な心が表に出てきてしまう。連れ戻されるんじゃないか、乱暴されるんじゃないかと、有り得ない事だと自分でも分かっているのに考えてしまって、体がぎくりと固まってしまうのだった。そんな十四松の体と心を途端に解してくれるのが、この手の平を包む太陽の温度なのだ。
「フッ、今日もサンシャインが惜しげも無く俺に降り注ぐぜ……」
「そだねーいい天気だねえ。十四松、暑くないか?大丈夫?」
「!大丈夫でっす!」
左手側で何やらポーズを決めているカラ松とのんびり会話しながら、右手に握る十四松をおそ松は事細かに気遣ってくれる。大丈夫である事を伝える様にぎゅっと握りしめる手に力を込めれば、そうかそうかと嬉しそうに笑ってくれる。十四松はおそ松の笑顔が大好きだった。だから自分もいつでも笑い返せるように笑顔でいようと、口を大きく開けるのだ。
「ん?十四松、なーんか随分とご機嫌じゃね?」
「えへへ、おそ松兄さんとお散歩すんのが楽しくてぇ」
「おーそっかそっかー俺も楽しいよぉーもーかーわいいなーお前はー!」
正直な気持ちを言えば、おそ松もでへへと笑う。そうやって顔を見合わせてほのぼのと笑い合っていれば、反対側からどこか寂しげなオーラが漂ってきた。しょんぼりと肩と尻尾と耳を落として丸くなった青い背中が見える。はっとおそ松と目を合わせて、十四松は慌てて声を上げた。
「あ、あーごめんなさい!カラ松兄さんも!カラ松兄さんも一緒でボクめちゃくちゃ楽しーし嬉しーよ!」
「もーこんなんで拗ねんなよカラ松ー!お前と十四松と俺と、三人で散歩してるからこそ楽しいに決まってんだろー」
「そうだよ!元気出して兄さん!ボク、おそ松兄さんとカラ松兄さんと一緒に散歩すんの好き!」
十四松がばたばたと袖を振り、おそ松が肩に手を回して引き寄せれば、しゅんと垂れていた耳と尻尾は途端に元気を取り戻した。寂しそうに下がっていた眉もきゅっと持ち上がって、あっという間にいつものかっこつけなカラ松へと戻る。
「サンキュ―ブラザー!俺は思い知ったぜ……お前たちの尽きる事の無いラヴを!ラヴアンドピース……!」
言ってる事の意味はよく分からなかったが、元気になってくれてよかったと尻尾を揺らす十四松。こいつやっぱちょろい、とおそ松が小声で呟いていたが、幸いカラ松には聞かれなかったようだ。
カラ松兄さんも手繋ごう!と持ちかけてみれば、嬉しそうに頷いたカラ松がいそいそと空いていたおそ松の左手を掴む。今の話の流れじゃ十四松と手を繋ぐべきだったんじゃね?何で俺?とぼやくおそ松を挟んで一人と二匹でくっつき合いながらぶらぶら歩く散歩はとても楽しかった。傍をすれ違う人に少しだけ肩がびくつく事もあったが、その度におそ松が元気づける様に身を寄せて手をぎゅっと握ってくれるし、カラ松は耳を動かして出来るだけ人が少ない道へと誘導してくれているようだった。こんなに大事にしてもらえて、幸せじゃないはずが無かった。兄たちに連れられた日課の散歩は、そういった幸福に満ちた時間だった。
散歩コースは毎日変わる。それは飽きっぽい飼い主のせいでもあったし、まだまだこの町を知らない十四松のためでもあった。今日はこっちを行ってみよう、今日はこっち、と毎日変わる散歩の景色は、十四松に新たな発見を次々ともたらしてくれる。本日辿り着いたのは、この辺で1,2を争う賑やかさなのだという大きな公園だった。
今日は平日なのでそれほど人が多い訳では無かったが、休日ともなると近所の子供たちがあちこちを駆け回るらしい。下手に気に入られると纏わりつかれてうっとおしいのなんの、とぐちぐち説明してくれるおそ松は、言葉とは裏腹に楽しそうな笑みを浮かべている。子供と遊ぶのが嫌いじゃないんだなあと十四松でさえほっこりした気持ちになった。もう少し人に慣れたら仲間に入れてもらいたいと思った。
「ここはなあ、獣人連れも結構来るんだよね。よくその辺で尻尾並べて井戸端会議してるんだよ」
ほら、とおそ松が視線を向けた先では、確かに数人の男女がベンチに座って何やら熱心に語り合っていた。その半数の頭には様々な形の獣の耳がついている。獣人と飼い主同士の情報交換の場でもあるらしい。少しだけ気になって、十四松はちらとおそ松を見つめた。
「おそ松兄さんは行かないの?」
「ん?ああ、俺はああいうのはいいや。獣人に関する欲しい情報はチョロ松からもらうし、リア充たちの輪に入るのは面倒くせえし。それにあんまり飼い主付きの獣人には近寄んなって言われてるしなー」
「?」
チョロ松とは、しっかりとした説明は受けていないが確かおそ松の兄弟だったはずだ。それは分かるが、りあじゅうってなに?飼い主付きには近寄るなってどういう事?気になる言葉が次々に飛び出して来たので、十四松はとっさに反応できなかった。尋ねようと思ったが、その前にカラ松が前方を指差して弾んだ声を上げた。
「見ろ十四松、お前はこれを初めて見るんじゃないか?」
「え?……うおおおー!」
十四松は思わず声を上げていた。公園の中を並んで歩いて、いつの間にか辿り着いていたのはちょうど敷地の中心部。舗装された円状のレンガの道に囲まれるようにそびえ立つそれは、十四松の身長の二倍以上ある大きな水の塊だった。今まで平べったいか蛇口から出てくる姿ぐらいしか見た事の無かった十四松は、空中からじゃばじゃばと水が流れ出る摩訶不思議な光景にすっかり興奮してしまった。握られていない方の手を振れば、伸びた袖がばたばたと音を立てる。
「すげー!何すか何すか!あれ何すかー?!」
「噴水見てこんなに興奮するやつ俺初めて見たわー」
「そう、あれは噴水といってな、このガーデンで羽を休めし俺たちを清涼なる光景で癒してくれるウォーターなオブジェなのさ……!」
「ほらよく見てみろ十四松、水ん中に石像があんだろ?あれの先から水がぶわーって吹き出してんの」
難しい言葉を使って胸を張るカラ松の横から、おそ松が簡単に説明してくれる。よくよく見れば確かに、流れ落ちる水の壁の内側に何かが見えた。水瓶を持った背の高い女の人の周りに、小さな子供たちが数人戯れている石像だった。どうやらてっぺんに掲げられた水瓶の中から水が噴き出しているらしい。ふんすい、と十四松は覚え込むように繰り返した。
「すげー!すげー!なんでいつまでも水があふれてんの?!」
「フッ、それはあのヴィーナスのミラクルマジックが」
「あの石像の中に水道管が入ってるんじゃねーの」
「そっかー!」
尽きる事の無い空中の水模様に、十四松は釘付けとなった。ぱたぱたと噴水に駆け寄って、縁に手をついて鼻先に水が掛かるギリギリまで近づいてみる。尻尾は先ほどからぶんぶんと元気よく振られっぱなしで、通りすがった老夫婦が微笑ましそうにそれを眺めていた。
噴水に夢中な十四松を後ろから見守りながら、カラ松がおそ松へと話しかける。
「あの調子じゃすぐに喉が渇いてしまいそうだ。ちょっと飲み物を買ってくる」
「おー頼むわ。十四松は任せろ」
今度から水筒持参するべきだなあなどと軽く会話してから、カラ松がその場を離れる。おそ松はのんびりと十四松の横について、そしてキラキラ輝く瞳を邪魔する事無く見守りに徹した。このままの勢いだと噴水に頭から突っ込みかねないが、興味のあるものに集中する姿を尊重したいという思いからだった。せめてもと最低限の注意だけが飛んでくる。
「十四松ー、それ飲み水じゃないから飲むなよーカラ松が後で飲み物買ってきてやるからなー」
「あいあい!」
お利口に返事をして、今しがた舐めてみたいと思っていた気持ちを慌てて捨てて、十四松はしばらく噴水を見つめて過ごした。時々傍を知らない人間が通り過ぎたが、すぐ横におそ松がいてくれたため恐ろしく感じる事も無かった。くあ、とあくびが一つ出る。気持ちの良い天気の下、ただひたすら水の流れる音と様子を感じ取っていれば眠たくなってきそうなのどかな時間に、その時ふと第三者の声が割り込んできた。
「お、松野じゃん、久しぶりー」
「おそ松さん久しぶりです!」
「ん?ああ何だお前らか」
十四松の知らない人間と獣人だった。最も今の十四松が知る人間なんておそ松以外にいないし、獣人でもカラ松ぐらいしかいないのだが。おそ松と同じ歳ぐらいの男と、それより若い素直そうなイヌが一人と一匹で親しげに話しかけてきたのだ。気軽に返事したおそ松はすぐに十四松へ振り返った。
「こいつ俺の同級生。近くに住んでてたまに会うんだよ。怪しいやつとかじゃないから安心していいからな」
「あれ、そいつ新顔?松野、お前あの青い番犬どうしたよ。四六時中くっついてたじゃん」
「カラ松は今おつかい中ー。こいつは十四松、俺の新しい弟。この間から色々あってさー」
十四松の頭を軽く撫でてから、おそ松はその同級生の男と世間話を始めた。十四松の事は詳しく話さず、当たり障りのない話題を振ってくれている。十四松はさっきまであれほど夢中になっていた噴水から目を離し、ひたすらおそ松の様子を見つめた。
おそ松と話し込む人間の男はまだ良い。十四松が気にしたのは、男が連れていたイヌの方だった。白い首輪をつけたイヌは主人の隣に控えながら、その視線はひたすらおそ松へと向けられている。小ぶりな茶色い尻尾も喜びに振られていた。あのイヌはたまに会うというおそ松に懐いているのだ。それを理解した十四松の心に、暗くモヤッとしたものが現れる。
「?」
十四松は首を傾げた。己の中に初めて芽生えた感情をまだ理解出来ていなかった。それでも、何となく、本能に近い部分でこう思った。
(なんか、いやだな)
何が、と自問すれば、あのイヌが、と心が囁いた。初対面なのに、十四松はおそ松に熱い視線を送るあのイヌに負の感情を抱いていた。思わず自分で自分に戸惑ってしまう。何故かは全く分からない。分からないのに、嫌な感じのモヤモヤはどんどんと降り積もっていってしまう。
十四松は呆然としながらも、無意識に色々と考えていた。何でこんなにモヤモヤするんだろう。何もされてないし言われても無いのにな。おそ松兄さんのお話はいつ終わるのかな。あのイヌはいつまでおそ松兄さんの事を見ているんだろう。あんなに嬉しそうに。
ボクの兄さんなのに。
「ん、どした十四松?疲れたか?」
ぐるぐる考え込んでいた十四松に目ざとく気付いてくれたのはおそ松だった。話を中断してまでこちらに顔を向けて、労しげに頭を撫でてくれる。それだけで十四松の心に巣食っていたモヤモヤは吹き飛んでしまったような心地がした。いつの間にかしゅんと垂れていた耳も尻尾も一気に元気を取り戻す。心配そうなおそ松に、大丈夫だよと答えてみせる、その前に。慌てたような声がおそ松へと縋り付いてきた。
「あ、おっおそ松さん!僕も撫でてくださいよー!」
「はあ?お前のご主人様に撫でてもらえばいいだろー、ったくしょうがねえな」
白い首輪のイヌがおそ松へ必死に訴えていた。脇の同級生の男が「お前ほんと松野大好きだなー」などと呑気に言っている。きっと、いつもの事なのだろう。あのイヌはおそ松に撫でてもらえるのを待っていたのだ。慣れた様子でそのお願いを受け止めたおそ松も、十四松から手を離して待ちわびるイヌへとその手を伸ばし、そして。
そして。
十四松の心に一気に、先ほどよりも強烈な暗い衝動が込み上げる。全身の毛がぶわりと逆立った心地がした。頭は追い付かないまま、体は正直に動いていた。
「だめ!」
気が付けば十四松は、伸ばされかけたおそ松の腕にしがみついてその場に縫い止めていた。おそ松がびっくりした顔で振り返ってくる。正面の男とイヌも同様だった。しかし一番びっくりしていたのは、十四松本人だった。
あれ、ボクどうして今、あんなに嫌だって、だめだって思ったんだろう。どうしてこの手にしがみついてしまったんだろう。
「……っはー、松野、お前さあ、相変わらずの獣人キラーだなあ」
やがて同級生の男が、心底感心したような声を上げる。その目は十四松を面白そうに見つめていた。男の発言にハッと我に返ったおそ松が、非常に不本意そうな顔を作った。
「ちょ、そのあだ名やめろっての、そんなんじゃねーよ!」
「発案者は松野弟だったっけ?ハハ、新入り君も将来楽しみな番犬二号じゃねえの。それじゃ、番犬一号が戻ってこない内に俺も帰るわ。またなー」
同級生の男はあっさりと別れを告げた。傍らの白い首輪のイヌが「あ、え、」と名残惜しそうに主人とおそ松を交互に見つめていたが、やがて男に諦めろと引っ張られてすごすごと立ち去っていった。その後ろ姿からは撫でられたかったという無念がこれでもかと滲み出ていたが、十四松は少しも気の毒だとは思わなかった。そんな自分の心に困惑する。
「うーん、あいつとお前の相性が悪かったのかね。イヌ同士でもそういうのってあるんだなあ」
「あ、あの、おそ松兄さん、ごめんなさい……」
「うん?何でお前が謝るんだよ。俺の方こそごめんなー変な気分にさせちゃったな」
あのイヌを退けた事に後悔は無かったが、そのせいでおそ松に変な気を揉ませてしまった事は申し訳なかった。素直に謝ると、気にするなと笑ってくれる。やっぱりおそ松のこの笑顔が好きだった。心から安心できた。その笑顔を、さっきのイヌに向けて欲しくは無いなあとぼんやり思った。
そんな十四松とおそ松の元へ、ようやくカラ松が戻ってきた。
「待たせたなブラザー!大いなる甘美な潤いを探し求めてちょっとしたアドベンチャーに旅立っていてな……ん?何かあったのか」
「いや?大したことじゃねえよ。あんがとな」
ペットボトルを受け取りながら、おそ松は同級生と会った事をかいつまんで説明した。ふんふんと聞いていたカラ松は、十四松の本人でさえも不可思議な対応を聞いて、なるほどと頷いたのだった。
「なあ、これやっぱイヌ同士の相性が悪かったの?十四松も分かってないっぽいんだけど」
「そうだな、ある意味そうとも言えるな……フッ」
「何だよ自分だけ分かったみたいな顔しやがって」
「ハッハー、おそ松には分からんだろうなあ」
何やら楽しげに笑ったカラ松は、不満そうなおそ松を横目にきょとんと瞬く十四松へ近づき、ぽんと頭を撫でてきた。おそ松の全てを包み込むような温かさとは違ったが、力強い手の平は十四松に十分な元気の出る撫でられ心地を与えてくれた。
「十四松はおそ松を守ろうとしてくれたんだな。偉かったな」
「……まもる?」
予想もしていなかった言葉にぴんと耳に力が入る。カラ松は訳知り顔でうんうんと頷くだけで、詳しい説明はしてくれなかった。
「大体あいつはおそ松にいつもいつも馴れ馴れしかったんだ、十四松が威嚇してくれてちょうどよかったぞ、うん」
「???」
「十四松、これからもおそ松の事よろしくな」
「?うん分かった!」
よろしくな、と言われても具体的にどうよろしくすればいいのか分からない。しかし十四松は親愛なる主人の身を先輩イヌに任された事が嬉しくて、とっさに手を上げて返事をしていた。優雅に尻尾を揺らしてにこにこ笑い合うイヌ二匹を眺めながら、納得がいっていない複雑な顔をしていたのはただ一人だけであった。
「ええー……何こいつら、イヌ同士でなきゃ分かり合えない何かでもあんの?お兄ちゃん寂しい!」
十四松が不思議なモヤモヤする気持ちを体験してから数日。困った事にあの暗い気持ちはたびたび十四松の心に現れるようになった。それは決まって、おそ松に知らない誰かが近寄ってくる時だ。特におそ松に触れようとする誰かを見てしまったら、形振り構わず飛び出して必死にその手から大好きな赤い体を遠ざけたくなってしまう。抑えようと思っても、気付いたら全身の毛がぶわりと逆立ち喉の奥から物騒な唸り声を上げてしまいそうになるのである。知らない人間を恐ろしいと思う気持ちがこうさせているのだろうかと、十四松は大いに悩んだ。
しかし、知り合いとの邂逅をいちいち十四松に邪魔されてしまうおそ松はケロリとしていた。曰く、「カラ松も似たようなもんだし慣れてる」、とのことだった。この良く分からない感情はイヌ特有の何かなのだろうか。カラ松に尋ねてみても、「運命のスウィートブラザーを守護する葛藤に苛まれる……俺たち」などと意味の読み取れない言葉を貰うだけだった。まだまだ十四松はこの兄についていくことが出来ていない。慣れだよ、と遠い目をしたおそ松に慰められた。
突然の来訪者が松野家に訪れたのは、十四松がそんなモヤモヤを持て余していたある日の事だった。ピンポーン、という電子音が、部屋の中に突如鳴り響いたのだった。
「あーっと、あいつだわ。カラ松よろしく」
「ああ」
十四松は文字の特訓中、おそ松はそれを向かいからぼやーっと眺め、カラ松は何やら鏡を熱心に見つめている、のどかな午後の事であった。あまり鳴る事の無いチャイムの音にビクリと敏感に反応した十四松に、おそ松が手を伸ばして頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれる。
「だいじょーぶ、変な奴が来た訳じゃないよ。ていうかお前初めて会うっけ?あの時はまだ寝てたしなあ」
「えっ?」
首を傾げながら、すんと匂いを嗅いでみる。精度の高い十四松の鼻は来訪者の匂いを正確に感じ取る事が出来た。途端に不思議な気持ちになる。これは確かに初めて嗅ぐはずの匂いなのに、何故だかしっくりと馴染む気がしたのだ。今まで色んな人間の匂いを嗅いできたがめったにない事だった。
尻尾を揺らしながらうーんと考え込んだ十四松は、すぐに答えに辿り着いた。そうだ、この匂いは……どこか、おそ松に似ているのだ。
「さあ、ようこそブラザー!我がマスターとニューブラザーと俺の愛の巣へ」
「お前それ毎回言うけど愛の巣とか普通に気持ち悪いからね。ま、おじゃまします」
カラ松と会話しながらリビングにひょっこりと顔を覗かせてきたのは、への字口のおそ松だった。……匂いのせいもあって、十四松は一瞬本気でそう思った。思わずキャンと驚きの声を上げて、突然現れた緑のパーカーを着たおそ松と目の前にいる赤いパーカーのおそ松を忙しなく見比べていると、赤い方のおそ松がげらげらと笑い転げる。
「ひいーっそんなに驚く?!見たかよ、今めちゃくちゃびくーって飛び上がったぞ十四松のやつ!かんわいー!」
「お前な、僕の事こいつに説明してなかったわけ?飼いイヌ驚かせて楽しむなよこのクソ長男!」
ぽかんとおそ松の頭を叩くと、緑のおそ松はその隣に腰をおろし、十四松に向き直った。ああ、よくよく見れば表情もそうだし、顔も微妙に違う。呆れていた顔を気の毒そうなものに変えて、緑のおそ松がぺこりとお辞儀をする。
「えーっと、こうして言葉を交わすのは初めてだね。僕はチョロ松、君の飼い主であるこのクソ兄の双子の弟だよ」
「……ああー!あなたが!」
ぽん、と黄色い袖と袖を合わせた十四松はようやく納得出来た。今まで何度か名前を聞いていた噂のチョロ松ご本人だったらしい。実の兄弟、しかも双子であれば匂いまで似ている事にもうなずける。なるほどと理解してから、慌てて十四松も自己紹介をした。
「あのあの、ボク、十四松でっす!おそ松兄さんに拾ってもらったイヌです!よろしくお願いしまっす!」
「うん知ってるよ。よろしく」
大きな声で名乗る事が出来た十四松に、チョロ松はにこっと微笑んでくれた。どこか神経質そうだった表情も、微笑めば途端に柔らかいものに映る。この人もきっと良い人なんだろうなと十四松が直感でわかる事の出来る笑顔だった。さすが太陽の兄弟といった所か。
チョロ松は十四松からおそ松へと視線を移し、どこか嬉しそうに話しかけている。
「話には聞いていたけど、随分と元気になったねこいつ。最初見た時は本当にボロボロだったのに」
「なー、目が覚めてからが早かったんだぜ。きっとイヌの中でもカラ松並に体力があるんだろうな、十四松のやつ」
ほのぼのとした兄弟の会話に、十四松は首を傾げた。チョロ松とは確かに今日初めて会うはずだが、今の口ぶりはまるで十四松の事を前々から知っていたかのようなものだった。
「チョロ松兄さんは、ボクのこと知ってるんすか?」
「……チョロ松、兄さん?」
「おそ松兄さんの双子の弟なら、チョロ松兄さんもボクの兄さんだから!」
もしかして兄さん呼びは駄目だっただろうかとハラハラ見守れば、ああそうかと頷いたチョロ松は特に嫌がる事も無く受け入れてくれたようだ。
「で、ええと、君の事知ってるかって話だったね。そう、知っているよ。君がおそ松兄さんに拾われてすぐの頃、この家に来て君の事を診たからね」
「みた?」
「そう。こう見えて僕は職業柄、獣人専用の医療資格を持っているから。いきなり呼び出された時は何事かと思ったけどね……」
チョロ松が少し遠い目をする。十四松の全身に負った傷を診てくれたのはこのチョロ松だったという訳だ。
「それじゃあ、チョロ松兄さんはお医者さんなんすか?!」
「あーいやいや、そんな大層なものじゃないよ。今の僕はどっちかと言えば窓口業務がメインだし。学生の頃の実技はこいつに負けてたし、なっ!」
「イッテ!やーめろってチョロ松ぅ、お兄ちゃんの才能に嫉妬すんのは分かるけどぉ」
「嫉妬っていうか、サボりまくりのお前に負けてた自分が悔しいんだよクソッ!」
チョロ松が隣のおそ松を肘で小突いた事を皮切りに、双子は何やら小突き合いながらぶつくさと文句をぶつけ始めてしまった。話の内容に色々と聞いてみたい言葉はあったが、とても質問出来る雰囲気ではない。自分が出した話題がきっかけでこんな事に、と十四松が口元を覆ってあわあわしていると、横で静かに控えていたカラ松が安心させるように優しく肩を叩いてくる。
「十四松、心配しなくていい。あの二人は昔からずっとあんな感じだ。あの喧嘩ごしの戯れがおそ松とチョロ松の何よりのコミュニケーションになっているんだ」
「そ、そうなの?」
「ああそうだ。つまりは人間の言葉でいう、『喧嘩するほど仲が良い』状態という訳だな」
「へーそっかあ!勉強になったー!」
「おいコラカラ松!てめえ相手が新入りだからって変な事教えんなよ!別にそういうんじゃないから!」
途端にガラの悪い声が飛んできてビックリする。チョロ松がおそ松の頬を引っ張りながらカラ松をギリギリと睨んでいた。十四松は思わず尻尾をくるんと巻いてしまったが、強い視線に晒されても平気な顔をしているカラ松は余裕を見せつけるかのように尾を揺らしている。
「それと。今でこそ大分丸くなったが、昔のチョロ松はそれはもうヤンチャボーイでな……こう見えて沸点が低いやつだからあまり怒らせないようにな」
「そーそー。口と同時に手が出るタイプだから、十四松も気をつけろよぉ?こわいぞぉ」
「誰が一番怒らせてると思ってんだこの愚兄に駄犬がー!」
チョロ松がますます吼えるが、おそ松もカラ松も楽しそうににやにや笑うだけだった。賑やかに戯れる兄たちを眺めて、十四松の頭には一つの疑問が浮かび上がる。どうしても気になったので、十四松は隣のカラ松へと尋ねかけてみた。
「ねえカラ松兄さん」
「うん?どうしたブラザー」
「チョロ松兄さんはおそ松兄さんの事を兄さんって呼ぶけど、どうしてカラ松兄さんはおそ松兄さんの事を兄さんって呼ばないの?」
以前おそ松が、カラ松はお兄ちゃんて呼んでくれないとか何とか嘆いていた事を思い出す。血がつながっているかとか種族とかそういった事を抜きにしても、おそ松が自他共に認める一番上の兄、長男である事は紛れも無い事実だった。それなのにどうしてカラ松はおそ松が望んでいてもそれを振り切ってまで兄とは呼ばないのだろうと、大変不思議に思ったのだ。
「それはグッドな質問だ十四松。何故俺がおそ松を兄と呼ばないか。それはな……この俺が、おそ松の弟ではないからだ!」
両手を広げてポーズをとってみせるカラ松。十四松はただひたすら首を傾げるしかなかった。おそ松もチョロ松も「何言ってんだこいつ」という目を向けている。
「???おそ松兄さんはボクの兄さんで、カラ松兄さんもボクの兄さんなんだよね?」
「ああ、そうだ」
「それなのにおそ松兄さんはカラ松兄さんの兄さんじゃないの?」
「いや、おそ松は立派に俺達の兄さんさ。ただ俺が、おそ松の弟じゃないってだけだ。何故なら俺達は!対等!だからだ!」
「た、タイトー!」
「そうだ!決して企業の名前じゃあ無いからなじゅうしまぁつ」
ノンノンと指を振ってみせたカラ松の瞳には、確固とした意志が宿っていた。対等。十四松の太陽と、対等。そうやって言い切るカラ松が十四松にはとても眩しくて、そして羨ましく感じる。大事で大切で温かい、あの輝かしい太陽と自分が対等だなんて、十四松にはまだまだ言えそうになかった。
「いやお前は昔っから俺の弟だからね!」とぷんすか文句を言うおそ松の言葉などには耳を貸さず、自慢げに黒々とした尻尾を振ってみせるカラ松は高らかに宣言する。
「庇護される弟ではなく、いわば俺はおそ松を守るナイト!百歩譲って番犬!元々イヌだし!そう言う訳だから俺は松野家長男を補佐し守る立場にある対等な次男として、おそ松を兄とは呼ばない事を己に戒めているんだ。十四松、アンダスタン?」
「おおーカラ松兄さんかっけー!あんだすたーん!」
「……おい、待てカラ松」
黄色い袖を振り回して感嘆する十四松だったが、どこかおどろおどろしい声が聞こえてびくりと身を竦めた。声の主はチョロ松だった。剣呑な瞳でカラ松を睨み付けながら、ピッと指を突きつける。
「一回そこになおれ」
「どうしたんだチョロ松、俺の事を殴りつける前の一松のような目をしているぞ」
「そりゃまあ仮にもあいつの飼い主だし?ってそうじゃねえよ。俺が言いたいのはそこじゃねえ。今お前なんつった」
部屋の中に二つの影が立ち上がる。一人は物騒な顔をした人間。一匹はドヤ顔を披露する獣人。背丈がほぼ同じな二対の目が、正面から睨み合う。
「松野家次男は、お前じゃなくて俺!戸籍上でも生まれた時間も正真正銘俺だから!お前が何度言い張っても長男であるおそ松兄さんの一つ下は、双子の弟である俺、松野チョロ松以外ありえねえから!そこんとこいい加減理解しろよこのポンコツイヌ!」
「フッ……チョロ松、お前こそいい加減認めるんだ。お前はおそ松の弟、これは揺るがない真実だ。すると、おそ松と対等である俺の下となるのは必然っ、つまりお前は三男に格下げされ、俺こそが真の次男という事になるだろう!」
「ならねえよ!俺どころか俺んちのネコたちにも格下に見られてるお前が次男になれるわけないだろ!」
「そ、それは言わない約束だろブラザァァァ?!何で一松もトド松も俺を兄と認めてくれないんだー!」
「俺が知るかーっ!」
今度はカラ松とチョロ松がやいのやいのと言い合いを始めてしまった。しかもチョロ松が一人称が変わるほど怒ってるっぽい。十四松が呆然と眺めていれば、今度はおそ松がにじり寄って宥めてくれた。
「恐がんなくていーよ十四松、あれはあいつらなりのスキンシップなだけだから。仲良しの証拠ってね」
「それ、おそ松兄さんとチョロ松兄さんがお喋りしてた時にカラ松兄さんも言ってた!えーっと、喧嘩するほど仲が良い!」
「あーうん、それそれ。特にチョロちゃんってばすぐ怒るんだから。でも大丈夫、本気で怒ってる訳じゃねえのよあいつ。すぐ怒る代わりにすぐ落ち着くし。だからぜーんぜん怖くない」
「こわくないの?」
「そ。あいつ他人にはライジング気味だから、ああやって大声で怒鳴るのは気を許してる証拠みたいなもんなんだよ。兄弟の証、みたいな?だからこうやって微笑ましげに眺めときゃいいんだよ」
おそ松はその言葉を体現するように、非常に穏やかに微笑みながら弟たちの言い争いを眺めている。相手がどんなに怒っていても恐れを抱かないという関係は、この上なく心を許しているものだと十四松は思った。怒鳴られても殴られてもいずれは必ず許せる関係、それがきっと、家族なのだ。十四松が先日入れてもらったばかりの温かい関係なのだ。家族が笑顔だと十四松も嬉しい。丸めていた尻尾もぱたぱた動き出して、チョロ松の怖さなんてどこかへ飛んで行ってしまった。覚えたての言葉を実感した瞬間だった。
この温かな輪に自分が含まれている事がどうしても嬉しくなって、十四松はおもわずチョロ松へと身を乗り出していた。
「チョロ松兄さん!ボクにも怒って!」
「っはあ?!いきなり何!」
「ボクもチョロ松兄さんともっと仲良くなりたい!『喧嘩するほど仲が良い』を、ボクにもやってほしいっすー!」
さあ来い!と身構える。どんな罵倒が飛んできても受け止め、笑顔を返す心積もりだった。この間テレビで見た、勇ましい顔つきを真似て顎を突き出してもみせた。何だコノヤロー、と付け足すのも忘れない。
チョロ松はあっけに取られたようにしばらく十四松を見つめていた。さっきまで熱く言い合っていたはずの空気が急速に弛緩する。ちなみに睨み合っていたはずの相手だったカラ松は気が抜けたような顔を晒していて、おそ松は声無く爆笑しながら床を転げまわっている。ぱたぱたと十四松の尻尾が振り回される音がやけに部屋の中に響いた。
やがてふっと息を漏らしたチョロ松の顔には、笑顔が取り戻されていた。
「はあ、お前な……怒る気力も失せただろ」
「えーっ?!じゃあ、『喧嘩するほど仲が良い』出来ないの?!」
「ああごめん、悪いけど……」
溜息を吐き出すチョロ松からは、確かに先ほどまでのピリピリした空気は感じる事が出来なかった。せっかくの機会なのに、としょぼくれた十四松は、すぐに傍でひーひー笑うおそ松へと目を向ける。
「それじゃあ、おそ松兄さん!ボク、おそ松兄さんと『喧嘩するほど仲が良い』したい!」
「んー?お前、俺と喧嘩したいの?」
「喧嘩したら、もっともっと仲良くなれるんでしょ?ボクおそ松兄さんともっともっともーっと仲良くなりたい!」
「んじゃ、十四松。俺に怒ってみな」
にこにこ笑顔でおそ松が両手を広げた。え、と十四松の動きが止まる。怒る。おそ松を、怒る。あまりにも未知の体験すぎて、思考が止まってしまう。だって、そんな、十四松の全てを救ってくれるこの太陽に、怒るなんて。嬉しい事しかされた事が無いのに怒るなんて、そんな。
しばらく固まった十四松は、やがてゆるゆると首を横に振った。その目にはいつの間にやら、零れんばかりに涙が溜まっている。ぎゅっと袖の中の両手を握りしめて、震える声を絞り出した。
「……や、やだ……おそまつにーさん、だいすきなのに、おこるなんて、できないよ……!」
ごめんなさい、と必死に謝れば、耐え切れないとばかりに赤い腕が飛びついてぎゅうぎゅう抱き締めてきた。
「あ゛あ゛ーー!!ごめんからかってごめんなあ十四松ぅ!お兄ちゃんは喧嘩なんかしなくても十四松とずっとずっとずーっと仲良しだから心配しなくていいんだからなー!」
「……ほんと?『喧嘩するほど仲が良い』しなくても、ボクとおそ松兄さん仲良し?」
「うんもう超仲良し!喧嘩してもしなくても、俺達兄弟めちゃくちゃ仲良しだから!な、お前ら」
「え?!あ、う、うん」
「もちろんさ、ブラザー!」
突然同意を求められて、チョロ松はあたふたと、カラ松はすかさず決め顔を作りながら、それぞれ頷いてみせる。十四松へ向ける目は寸分違わず温かいものだ。嬉しくなった十四松は、おそ松へと力一杯抱きつき返した。
「やったああ!ボクたち仲良しー!」
「おう!仲良し仲良しー!」
うりうりと柔らかな頬をくっつけ合うのがとても楽しい。おそ松と共に幸福に包まれた十四松がえへへと笑っていれば、ドスンと鈍い音が聞こえてきた。どうやらいつの間にか床に両手をつけて項垂れていたカラ松が、何故だか拳を打ち付けているらしい。
「ぐうう!俺のブラザーマジエンジェルッ!」
「くっそ……!相手はクズ実兄だし僕は本来ネコ派なはずなのにっ……!一字一句同意するしかない……!」
ドスドスと拳を振り下ろし続けるカラ松はうるさいし、頭を抱えてブツブツ呟くチョロ松は苦悶の表情だしで、なかなかにカオスな空間が出来上がっていた。全員が落ち着いたのはそれから数分経ってからで、テーブルの前に全員で座り直したのちにゴホンと、チョロ松が咳払いをしてみせた。
「あー、ちょっと取り乱したけど、十四松が良い奴そうで安心したよ、うん。この子ならうちのネコ共でも仲良くなれそうだし」
「ネコ?獣人?チョロ松兄さんはネコを飼ってるの?」
「そうそう、チョロ松んちにはネコが二人いんだよ。そいつらも俺の弟だから、お前のお兄ちゃんって事になるな!」
「おおー!にーさん!」
十四松はぱっと破顔した。まさか自分にこんなにも兄が出来るとは思わなかった。しかもネコだ。姿を見た事はあるけれども、今まで暮らしていた施設ではほとんど同族であるイヌとしか交流したことが無かったので、初めてのネコの知り合いとなる。今までちらほらと聞きなれない名前が会話の中に出てきていたが、あれこそが今はまだ見ぬ兄たちの名前だったのだろうか。
どんなネコだろうと考えただけで楽しみに尻尾が揺れた。ただ少しだけ気になったのは、ネコの話題になった途端カラ松が浮かない顔をし始めた事だ。いつもマイペースに自分の世界を生きている兄にしては珍しい顔だと思った。
「カラ松兄さんどうしたの?おなかいたい?」
「え?あ、いや、別に、」
「あー、カラ松はネコたちと相性が悪くてな、あいつらにいじられてばっかなんだよ。ま、十四松なら大丈夫だろ」
「うん十四松なら大丈夫だと思うよ。イタさがないし」
おそ松とチョロ松のお墨付きを貰えて、十四松はますます楽しみを募らせる。いじられる?というのがどんなものかは分からないが、きっと悪いネコでは無いに違いない。瞳を輝かせて尻尾を振る十四松の姿に、チョロ松がくすりと笑った。
「何か今すぐにでも会いたそうだし、今度うちに来れば?頼まれていた例のやつ、明後日届く予定なんだけど」
「え、マジ?そうだなあ、良い機会だし、こいつら連れてお前んち取りにいくか」
話がまとまったらしい。おそ松がにっこり笑顔で、弟たちに宣言した。
「よっし!それじゃ明後日、全員でチョロ松んち行くぞ!十四松、楽しみにしてろよぉ。カラ松はまあ覚悟決めとけな」
「はーい!」
「くっ……立ちふさがる試練……!」
明後日は、明日の明日。あと二回眠ったらやってくる日。頭の中で数えながら、十四松は腕を振り回す。がっくり項垂れているカラ松には悪いが、とてつもなく楽しみだった。
「そういやお前んとこ直接行くの久しぶりだっけ。へへ、チョロちゃーんちゃんとお茶菓子用意しててね」
「お前こそ菓子折りの一つでも持ってこいや、いつもいつもたかるだけたかりやがって」
一喜一憂するイヌたちを眺めながら、双子がまたしても小突き合っている。しかし両者の顔に浮かぶのは笑顔で、どちらも気心知れた相手だからこその態度だと分かる。本物の兄弟なのだから、当たり前だ。
あ、と十四松は心の声を上げた。ぎゅっと胸元を握りしめて、浮かび上がった感情をとっさにごくりと飲み込む。やだな、この正体不明のモヤモヤはどうやら、段々見境なくなってきたらしい。
(いいな)
人間で、本物の血の繋がった兄弟相手の、くすぐったそうなおそ松の笑顔ですら、羨ましいな、だなんて。
浅ましい己の欲求を、ぶるりと身を震わせることで十四松は必死に隠した。
16/06/23
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