ぼくらの太陽 4





十四松はその特異な生まれ育ちのせいで知らない事の方が圧倒的に多いが、決して物覚えの悪いイヌではなかった。一度聞いた歌は歌詞がうろ覚えでもメロディを大体覚えている事が出来たし、文字の練習はカタカナまで完璧にマスターした。口に入れて不味かったものはずっと忘れる事が無かったし、一度嗅ぎ覚えた匂いは誰がどの匂いか瞬時に嗅ぎ分ける事が出来る。もちろん、一度歩いた街並みのきちんと頭の中に記憶していて、二度目に通れば必ず以前通った場所だと思い出す事が出来た。
そんな十四松だからこそ、今歩いているこの道が初めて通るものなのだと、確信をもって理解することが出来たのだった。
その日は、浮ついた十四松の心を写し取ったかのような晴れた日であった。いつものように首に赤いスカーフを巻いてもらった十四松は、おそ松と手を繋いだまま器用にスキップをしてみせていた。その心は今日の予定が決定したその日からわくわくと楽しみに跳ねていて、こうして体や尻尾までも軽くしている有様だった。今ならどこかまだ恐ろしさの残るはずの外もへっちゃらのような気がした。手は、繋いだままだけれど。
十四松が動く度に上下左右に引っ張られまくりのおそ松は、それでも手を離さぬまま微笑ましそうに笑ってくれている。

「十四松ぅ、随分と嬉しそうだな」
「うん!だってだって、今から揃うんでしょ?兄弟が、皆!」
「そだよー。十四松も入れて六人兄弟!俺の弟たちが揃うんだぜー楽しみだな!」
「楽しみだねー!」

おそ松とカラ松、そしてこの間会ったチョロ松に彼の飼っているネコ二匹、そして十四松。全員合わせて六人兄弟だとおそ松が胸を張る。まだ会った事のない兄たちとの邂逅も合わせて、十四松は兄弟全員で集まる事が楽しみで仕方が無かった。その中に自分も含まれる事が嬉しくて嬉しくて、尻尾は常時揺れているし体が勝手に飛び跳ねてしまうほどだった。
チョロ松の元へとあるものを取りに行く約束をしていた今日この日、一人と二匹は十四松が初めて見る道を歩いていた。見慣れた近所の住宅街を通り過ぎて、人通り車通りの多い大通りからすぐに逸れて、閑散とした路地を並んで歩いていく。あと五分も歩けばつくよ、と教えてもらい、十四松は一際大きくぴょんと跳ねた。
興奮が一周回って落ち着いて来たので、十四松はふとおそ松を挟んだ反対側へと視線を向けた。

「ねえねえカラ松兄さん!それなに?」
「ん、これか?これはチョロ松たちへの手土産だ」
「はあ?何か持ってんなーって思ってたらお前律儀に土産用意したわけ?」

カラ松が得意げに掲げてみせたのは、どこで手に入れたのか目に眩しいラメ色に輝く袋であった。あの中に手土産とやらが入っているらしい。おそ松が呆れたような声を上げれば、ノンノンと芝居がかった仕草で指を振る。

「こういう細やかな心遣いがイカす大人な男の必須条件だぜおそ松?所謂OMOTENASHIの精神ってやつさ」
「や、俺達が出向くんだからおもてなしされんのはこっちの方なんじゃ」
「それに!それに、だ!こうして手土産で少しでも喜ばせる事が出来れば!……俺へのあたりも和らぐかもしれないだろう……?」
「あー……」

カラ松が汗を流し、おそ松が遠い目をする。そう言えばカラ松のいつもは元気に振られている尻尾も心なしか足の間に縮こまろうとしているように見える。ビビっている証拠だった。一体何が待ち受けているのか、十四松は僅かな不安と大きな期待に包まれた。頑張れ、とおそ松が青い肩をぽんぽん叩いてやっていたので、とりあえず真似して十四松もぽんぽん叩いてやった。
そうして歩きながら戯れていれば、ふとおそ松が足を止めたので引っ張られるように十四松も立ち止まった。どうしたのかと振り返れば、おそ松はにやりと笑って傍らに建つ建物へと指を差してみせた。

「十四松、目的地到着!ここがチョロ松んちだよ」
「えっ!ここが?」

十四松は体ごと向き直って、目的地だというその建物を見上げた。車が一台通るか通らないかといった路地の途中、三階建て程度の低めのビルに挟まれてそこに存在していたのは……そのビルよりも一、二階分縦に長く、その分横の幅が異様に狭い、ひょろ長い不思議な家であった。十四松の口があっけにとられたようにぱかんと開いた。

「す、すっげー!長い!」
「長いよなあ。前の持ち主の趣味だったらしいけど。何でもネコ好きだったとかで」
「ネコ?ネコ……あ、猫!」

細長い家の全長を何度も見つめていた十四松の視界に、途中途中の出窓の屋根上に丸まる猫の姿が映った。四本足で毛むくじゃらの、獣の方の猫である。よくよく見れば猫は家のあちこちに丸まったり寝転んだりしてくつろいでいる。黒白灰色茶色、しまブチ三毛と様々な毛色や模様を持つ猫たちは、大きな欠伸と眠そうな瞳で十四松たちを待ち受けていた。

「ああ、こいつらみんな、たぶん一松んとこのだよ」
「えっこの子たちがみんな一松兄さん?!はじめまして一松兄さんたち!ボク十四松です!」
「違う違う違う、んな訳あるか!みんな一松の友達ってこと!一松自体はちゃんと獣人だから!」

盛大に勘違いしかけた十四松を慌てておそ松が軌道修正する。このまま放っておけばまた変な思い込みをしてしまうと、そのまま引き摺ってさっさと家の中へ入る事にした。ノックもせずチャイムも押さず、勝手知ったるとばかりに思いきりドアを開く。十四松はそのまま中へと放り込まれた。

「おっじゃまっしまーす!チョロ松一松トド松ー、お兄ちゃんとお前らの新しい弟がきたぞー!」
「フッ、新たなブラザーとの邂逅……待ちに待ったこの瞬間を、俺はこれから忘れることは無いだろう。さあ、感動の抱擁をグハァッ!」
「にーさああああん?!」

十四松の目の前で、家の中に足を踏み入れたカラ松が一瞬のうちに姿を消した。動体視力の良い十四松の視界にはきちんと、カラ松に向かって凶悪な厚さの辞書みたいな本が遠慮のない速度で顔面に叩きつけられたのを知覚出来ていた。本が跳んできたのは家の中からだったので、そのままカラ松はゴロゴロと外へ転がっていってしまった。あっけにとられる十四松の横で、何でも無いような顔でおそ松が笑う。

「相変わらず容赦ねえなあ。カラ松のやつ、まだ何もやってなかっただろ?」
「ケッ、アレは存在そのものが許されざるクソワン公だからいいんだよ」

おそ松の言葉に答えたのは初めて聞く声だった。ハッと首を巡らせば、いつの間にかおそ松の傍に一人の、いや一匹の獣人が気だるげな表情で立っていた。本が飛んできた方向だった。この人があの剛速球を、と体ごと向き直った十四松は、まじまじと相手を見つめる。
ぐったりとした猫背、どこか眠たげな顔、薄暗い室内に合う闇のオーラを纏ったそのぼさぼさ頭には、イヌのものとは違う三角のふさふさな耳がちょんと立っていた。視線を下へとずらせば、ジャージのズボンの向こうに垂れ下がる長く細い尻尾が暗がりに溶けて存在している。イヌとは明らかに違う彼は、確かにネコの獣人だ。ほとんど黒に見える濃緑の首輪の下に着ているのは、十四松たちと色違いの紫パーカーだった。
十四松がじいっと注視する中で、彼も十四松をやる気の無さそうな目で、それでも見つめている。二匹の間に立ったおそ松が、まずはネコの彼の頭をぐりぐりと撫でて紹介してくれた。

「十四松、こいつが一松だよ。えーっと順番的に言えば、こいつが四男になるか?お前の四番目のお兄ちゃんだ!」
「おお!これが本物の一松兄さん!」
「ほんもの……?」
「一松兄さん!はじめまして!ボク、十四松です!新しい弟です!よろしくおなしゃーっす!」

伸びた袖を振り回し、大きな声で自己紹介をし思いっきり頭を下げる。すぐに顔を上げれば、一松は少々びくついた顔でこちらを見ていた。目が合ったのでにぱっと笑えば、余計にうろうろと視線を彷徨わせて挙動不審になる。一体どうしたのだろうか。尻尾をせわしなく振って落ち着きのない様子の一松に首を傾げれば、おそ松がおかしそうに笑った。

「一松は人見知りの激しい奴でさ、初めて会ったばっかのお前にまだ慣れねえみたいだな」
「!そうなんだ!」
「ほら一松、お前も挨拶しろよ。チョロ松から十四松の事、事前に説明はされてたんだろ?」
「あ、う……」

縋るように一度だけおそ松を見た一松は、促されて仕方なさそうに頭を掻いた。

「……おれ、一松。……よろしく」
「うん、よろしく!」

どうやら一松は奥ゆかしいネコらしい。目線はあまり合わせてくれないが、挨拶を返されて十四松は嬉しくなった。とそこで、奥の方からチョロ松がひょっこりと顔を出してくる。

「ああ、いらっしゃい。無事に挨拶を交わせたみたいで良かったよ」
「約一名無事じゃない奴もいるけどなー」
「ああ、それは……まあ、いつもの事だし」

チョロ松とおそ松の会話で、十四松はようやく吹っ飛ばされたカラ松の存在を思い出した。慌てて振り返れば、鼻を痛そうに押さえながらも復活したカラ松が戸口に立っていた。片手を壁について何とも無さそうにかっこつけて微笑んでいるが、ぶつけて赤くなった鼻は誤魔化せていない。

「オーケイ、心配するなブラザー、俺はこの通りぴんぴんしているぜ。久しぶりの再会に照れているんだろう?相変わらず恥ずかしがり屋さんだな一松は」
「黙れクソ松入ってくんな兄さん置いて帰って死ね」
「い、いくらブラザーのお願いでもおそ松は置いて帰らないからな?!」

突然死ねなどと罵倒する一松にも驚いたが、そんな罵倒をお願いなどと変換するカラ松もカラ松だ。のんびりと眠そうだった目を凶悪に歪ませながら毛を逆立てて威嚇する一松の姿にあわあわと戸惑ったが、それは十四松だけのようだった。おそ松とチョロ松はまるで子猫同士のじゃれ合いを眺めているかのように落ち着いている。

「ほんとあいつら会うたびにあんな感じでよく飽きないよなー。ってそういやトド松は?」
「ああ、今ちょっと野暮用があるとかで出掛けてる。なるべく早く戻るって言ってたからもうすぐ帰ると思うよ」
「へーそっか。じゃあ、トド松が帰ってきたら6人揃う訳だな!」

楽しみだなあと鼻を擦りながら笑うおそ松は本当に楽しそうで、その笑顔を見ているだけで十四松も嬉しくなってくる。尻尾をパタパタ揺らしていれば、何ご機嫌なんだよーと頭を撫でられてさらに尻尾を振る。すると、背後から視線を感じた。振り返れば口論を止めたらしい一松が、どこか羨ましそうにこちらを眺めていた。

「一松兄さんもなでなでされたいの?」
「ぅえっ?!」
「ん、そうか?一松も昔から撫でられんの何気に好きだよなー。ほれほれ、喜べ喜べー」
「あ……アザーッス……」

十四松の言葉に反応して手慣れたようにわしわし撫でるおそ松に、照れくさそうに視線を逸らしながらも一松はその手を受け入れている。耳がぴくぴく嬉しげに動いていて、一松もきっとおそ松の事が大好きなんだろうな、と十四松にも容易に感じ取る事が出来た。

「んじゃ、獣人は獣人同士でちょっと交流しててな。俺はチョロちゃんとちょっとやる事あるから」
「あいあい!」
「チョロちゃん言うな。あと一松、カラ松はともかく十四松はあんまりいじめるなよ。一応お前の弟になるんだからな」
「へいへーい」
「ブラザー、俺の事もともかくしないで欲しいんだが……!」

おそ松とチョロ松はそのまま部屋の奥へと消えていった。手を振って見送ってから、そこで十四松はようやく部屋の様子に注目する事が出来た。
本である。ドアから入ってすぐの部屋の四方に本屋か、あるいは図書館かと思うようなたくさんの本棚が、様々な本をぎゅうぎゅうに詰め込んだ状態で頭上に向かってずらりと並んでいた。外から見た通り部屋も吹き抜けでどこまでも高く、本棚は背伸びしてもジャンプしても到底天辺までは届きそうにない。あちこちに足場みたいな場所はあるが、普通の人間ではどうしたって届かなさそうな場所にばかりある。走る事は得意な十四松であれば、外から助走して一番低い足場へ辛うじて届くかもしれない。梯子みたいなものはここからは見つけられなかった。
色々疎い十四松でも、この大量の本棚が一般的には使いづらいものである事が分かった。とにかく量はあるがあまりの高さのせいでそのほとんどに手が届かない。この部屋にはそんな本棚と、中央にテーブルといくつかの椅子、本棚の隙間の一角にカウンターがあるだけだったので、二人が引っ込んでいったカウンター奥の出入り口にチョロ松たちの住居があるのだろう。それではこの部屋は、何のための場所なのだろうか。

「すっげー本がいっぱいだね!一松兄さんたちは本屋さんなの?」
「え、いや……」
「ああ、説明してなかったか。一松やチョロ松たちはな、国の獣人保護機関に所属しているんだ。ここは住居兼その隠れ支部って所だな」
「じゅうじんほごきかん?」

初耳である。十四松が驚きに耳をぴんと立てれば、カラ松は大量の本たちを指し示すように両手を広げた。

「良く見てみればわかるが、ここにある本は全部獣人に関するものだけなんだ。チョロ松の先代がアナログを愛するオールドレディだったらしくてな、それを引き継いで資料なんかは全部こうして本で保管しているらしい」
「ふーん?でもでも、あーんな高い所にある本とか、どうやって取るの?あそこの一番低い足場だってボク、助走しないと多分届かないよ」
「じょ、助走すれば届くのか十四松……イヌなのに」
「ヒヒッ、イヌのくせに根性あるじゃん」

一般的にイヌは駆けるのが早く持久力もあるが、ジャンプは苦手としている場合が多い。十四松はその中でも昔から他のイヌより高く跳ぶ事が出来た。戸惑うカラ松を余所に、一松が面白そうに笑って近づいてきた。

「正解は、高い所に引きこもるのが得意なゴミペットに命令して取りに行かせる、でしたー」
「へっ?」
「まあ、つまり、」

一松はその場に少しだけ身を屈めた。たったそれだけで、ひょいと、猫背だった背を伸ばして高く跳躍する。頭上にある足場に手や足を使って一松は、いとも簡単に立ってみせていた。ぱかんと口を開けた十四松の表情に満足してから、また身軽な動作で床へと降りてくる。

「……こういう事。ま、腐ってもネコですから」

へっと卑屈気味に笑ってみせた一松に、十四松はばふばふと袖に包まれた手を叩いてみせた。その目は興奮にキラキラと輝いている。ネコの事はもちろんそのしなやかな体を使ったジャンプが得意だと知ってはいたが、目の前でそれを見たのはこれが初めてだった。想像以上に簡単に跳んでみせてくれたので、憧れと感動で胸がいっぱいになった。

「すっげー!一松兄さんめっちゃ高く跳べるんだね!めちゃくちゃすげー!!」
「え……いや、これは別に、おれが特別高く跳べるわけじゃないし……普通にネコだら誰だって出来るし……」
「それでもすげーよ!だってボクはネコじゃないから跳べないもん!一松兄さんはネコだからすげーよ!ボクもそんだけジャンプしてみたいー!」

尻尾を振り回して興奮する十四松に、一松はあっけに取られていた。やがてじわじわと浮かんできた笑みは、今までの薄暗い卑屈なものとは違って、純粋に嬉しそうなものだった。あの一松が素直に笑ってる、と隣で密かに戦慄していたカラ松であった。

「……お前、変な奴だな。当たり前の事にそんなに興奮するなんて」
「変?!ボク変なの?!変かな!」
「変だよ。……でも、悪くないと思う」

最初に会話した時よりも柔らかな声で一松が笑ってくれたので、嬉しくなった十四松もにぱっと笑った。このネコの兄とも上手くやっていけそうである。さすがおそ松の弟に認定されただけあって、良いヒトばっかりだ!
交流を深めた所で、一松は中央のテーブルに案内して座らせてくれた。ちなみにカラ松とは「お前に座らせる椅子はねえ!」と一悶着あったが、十四松がどーどーと間に入ってとりあえずは落ち着いた。カラ松は結局空気椅子だが。

「えーと、十四松だっけ」
「はい!十四松です!」
「お前の事は軽くだけどチョロ松に聞いてる。だから、おれの事でなにか聞きたい事でもあれば答えてやるよ。自分から話すの、面倒だし苦手」
「そっか!じゃあじゃあ、一松兄さんはいつからおそ松兄さんの弟になったの?」

カラ松は確か物心つく頃にはすでに飼われていたと言っていた。ならば一松はどこでチョロ松の飼いネコになり、おそ松の弟となったのか。気になって尋ねてみれば、そこからきたか、と一松が虚空に視線を向ける。

「あー、おそ松兄さんに弟にしてもらったのはチョロ松に飼われる事になった時だから、学校卒業してからだな。初めて会ったのはその前だけど」
「???ガッコー?」
「そう、おれたち学校でまず知り合ったの。人間と獣人共同の学校ね。赤塚学園ってとこ。おそ松兄さんとチョロ松と、そこのクソ松とおれ、中等部でたまたま同じクラスになってさ」

一松の説明に、十四松は首を傾げた。あまりにも不思議そうな顔をしているので、一松も同じ方向に首を傾げる。その様子を黙って見ていたカラ松が、やがて合点がいった顔で十四松へと話しかけた。

「十四松、学校は勉強をする場所だ。人間の子どもは皆一定の期間学校に通って勉強する事になっている。義務ではないが、獣人も試験をパスすれば共同の学校でも人間と一緒に通えるようになっているんだ」
「おおー!べんきょーする場所!」
「そうだ。俺はキッズの頃からおそ松に飼われていたから、一緒についていって学校に入れてもらった。一松とは中等部で、あー、何年か学校に通っている途中で出会ったんだ」
「そこから説明が必要だったのかよ……」

一松ががくりと肩を落とす。ずっと施設内に閉じ込められていた十四松はもちろん学校などに行ったことは無かった。どんな所か気にはなったが、それは今度改めて教えてもらう事にして、今は一松だ。カラ松の説明を聞いて疑問に思った事があるのだ。

「それじゃー一松兄さんは、ガッコーに行ってるときはチョロ松兄さんじゃない別な人に飼われてたってこと?」
「ああ……そうだけど、そうじゃない」
「んん?」
「チョロ松に飼われたのは確かに卒業してから。でも、それまでおれの飼い主はいなかった。……おれ、野良生まれだから」

野良。十四松は目をぱちくりさせた。人間の飼い主が誰もいない、首輪をしていない獣人だったという事だ。十四松とて施設の中で暮らしていた際明確な飼い主が一人いた訳では無かったが、あえて野良と言うにはどこかの施設で生まれた訳では無いのだろう。十四松の予想を肯定するように一松がにやりと笑う。

「親は知らない。気付いたら路地裏で猫たちと一緒に暮らしてた。まあこんなゴミ、捨てられたとしてもおかしくないしね」
「一松、そんな自分の事をゴミだなんて、」
「うるっせ黙ってろクソ松。……まあそういう訳で、10歳かそこらまでその日暮らしで気ままな野良ネコ生活を送っていたんだけど、ある日とうとう国にとっ捕まって、無理矢理獣人保護施設に入れられて学校に行かされた、と。そういう流れ」

分かった?と聞かれて、十四松はこくこくと頷くしかなかった。一松の過去は、十四松の想像を越えた所にある暮らしであった。人間の手を離れて、自分だけの力で世間から隠れて生きていくことを、考えも出来ない環境の中にいたからだ。しかも一松は、野良時代もそれはそれで楽しかったと、どこか懐かしむ顔をしているのである。

「まー捕まって最初の頃は、自分でも引くぐらい荒れてたよ。猫たちから離されちゃったし。学校も真面目に通おうなんて思ってなかった。けどそこで、あの人に会っちゃったから」
「あの人?」
「決まってるでしょ、おそ松兄さんだよ。獣人キラー松野おそ松」

予想外の所でおそ松の名前が出てきた。しかも以前聞いたことがあるような謎の言葉と共に。十四松は懸命に考えて、やがて辿り着いた答えに震え上がった。

「じゅ、じゅうじんキラー、って……おっおそ松兄さんはそんな事する人じゃないよ!」
「あ?ああ、違う違う、殺獣鬼って意味じゃない。あの人が盗るのは命じゃなくて、獣人の心」

一松は複雑な表情をしていた。忌々しそうな、しかしどこか恍惚とした顔で、おそ松の事を語る。

「あの人はすごいよ。人間には、特に女には全然モテないけど、獣人相手だと何故かモテてモテて仕方ないんだ。おれもよく分かんないけど、あの人と話してると不思議なぐらい軽く言葉が出てくるし、あの手に撫でられると何も反抗できなくなる。ほとんどの獣人がそうだよ。学校に通ってた獣人の99%はあの人に色んな意味で惚れてたね。一番怖いのはそれが本人的には無意識だって事だけど。それ故についたあだ名が、獣人キラー」

一松の話を肯定するように、カラ松が深く頷いている。十四松は驚くあまり口をぽかんと開けてしまったが、心当たりが無い訳じゃなかった。だって十四松にとっては、おそ松は一目見たあの時からずっと、何にも代えがたい太陽みたいな存在なのだから。他の獣人にもおそ松がそうやって見えているのだとしたら、モテてしまうのも仕方がないだろう。
そうして考えて、十四松の中にはもくもくと嫌な気持ちが渦巻いてきた。あの暖かな光で照らしてくれる太陽の笑みを、他の誰かも幻視しているかもしれないと考えるだけで面白くない気持ちになってしまったのだ。ああやって見えるのはボクだけでいいのに、と。そんな不満が顔に出てきそうになって、慌ててきゅっと唇をかみしめて耐える。一松は少しだけ不思議そうに十四松を見たが、何も言わなかった。

「……それじゃ、一松兄さんもおそ松兄さんとお話して、大好きになったんだね!」
「だいす……そっそこまでじゃないけど、まあ似たようなものかもね、うん。学校を卒業したら、そのままおそ松兄さんに飼ってもらいたいって思う程度には」
「え、おそ松兄さんに?」

驚く十四松に、一松は頷いた。

「おれのいた施設は未成年の獣人が対象の所でさ、出来れば卒業と同時に飼い主を決めて出ていくことを勧められてたんだ。本当は野良に戻りたいって思ってたけど無理だし、それならおそ松兄さんがいいかなって。おそ松兄さんも、別にいいよって言ってくれたし」
「でも、じゃあ、どーして一松兄さんは今、おそ松兄さんじゃなくてチョロ松兄さんに飼われてるの?」

当然の疑問を十四松は口にしただけだった。しかし途端に一松の表情は般若のような憎々しげなものに変わり、十四松でない者をキッと睨み付けた。十四松でも一松でもない者は、今この場に一匹しか存在しない。殺気を込めて睨み付けられたカラ松が、空気椅子のバランスを崩してひっくり返った。

「ひいっ?!い、一松、どうしたんだ!」
「どうしたんだ、じゃねえだろこのクソイヌ!お前が!おそ松兄さんの!傍に!いるせいで!俺が兄さんについていけなかったんじゃねえか!」
「そそそ、そんなの言いがかりだっ!第一あの時は俺だってオーケーを出しただろう!」
「お前がオーケーでもおれがノーサンキューなんだよこのクソ松!クソ松!」

しゃっと跳び上がった一松に、悲鳴を上げたカラ松が逃げ出す。突然始まったネコとイヌの追いかけっこに、十四松はぽかんと見つめる事しかできなかった。狭い部屋の中をばたばた走り回る、殺気さえ無視すれば仲良さそうに見えなくもない光景をただぼーっと見守る。騒がしい音を聞きつけたのか、奥からチョロ松が怒り顔を覗かせてきた。

「うるせえ!お前ら暴れるなら外でやれ外で!何度言わせるんだ!」
「チョロ松兄さん、チョロ松兄さん!」
「ん?どうしたの十四松」

ちょうど良いとばかりに十四松が声を掛ければ、恐ろしい形相を収めてチョロ松は相手をしてくれた。

「いま、一松兄さんのお話を聞いてたんだけど、どうして一松兄さんはおそ松兄さんの飼いネコになれなかったの?」
「ああその話ね……。目の前の光景を見れば分かるだろ?」

ほら、と指を差す方向には、爪を出して引っ掻こうとする一松と、それを馬鹿力で何とか振り切るカラ松の姿があった。

「あいつらね、初めて会った時から絶望的に相性が悪いの」
「あいしょう」
「そう。あいつらっていうか多分一松の方なんだけど。カラ松の言動が気に食わなくて仕方ないらしいよ。気持ちは分からなくもないけどさ……。まあそれで、おそ松兄さんにはずっとカラ松がついているから、兄さんに飼われるとなると必然的にカラ松と同居することになる。それがどうしても耐えられなくて、あいつはおそ松兄さんに飼われるのを断念したってわけ」

チョロ松はうんざりといった顔で溜息を吐いた。本棚にぶつかって何冊か床にぶちまける派手な音を聞きながら、仕方なさそうな目でそれを見ている。

「だからあいつは最終的に僕の所に来たの。おそ松兄さんが駄目ならせめて一番近い僕の所で飼われたいってね。在学中双子の兄にしつこくくっついてた、仮にもクラスメイトにそうやって全力の土下座で言われた時の僕の心情分かる?思わず頭踏んづけたら喜ぶし、あの時はほんとどうしようかと思ったね。結局飼わされたし。飼うって言ってもあいつ僕の事主人とも何とも思ってないし。いくら犬より猫派だとしても僕の事可哀想だと思わない?」
「あー、えーっと……」
「っゴラァ!それ以上暴れんなって言ってんだろ!本を滅茶苦茶にする気かっ!」

十四松が答えに窮していると、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしいチョロ松は肩を怒らせて揉め合う二匹の元へすっ飛んで行ってしまった。一松の首根っこを引っ掴んで、何とか引っ掻こうとするその手をカラ松から強制的に遠ざけている。

「いい加減にしろ一松うぅぅ!カラ松が痛ウザいのはもう諦めろっていつも言ってるだろ!」
「えっ」
「ぐふっ、ちょ、チョロ松、首、首輪引っ張らないで、首締まってる……」
「締めてんだよ!少しは反省しろ!」
「ふ、ヒヒッ、これはちょっと、クセになりそう……」
「快感を見出すなよ?!もうお前今日の飯抜きにするぞ!」
「あっすんませんそれだけはご勘弁を」

言葉の応酬を繰り広げるチョロ松と一松は、どちらも仕方がないとばかりに今の現状を語っていたが、十四松の目にはそこそこ仲良さそうな飼い主と飼いネコに見えた。というか首を絞められて何故一松が若干嬉しそうなのかが謎である。

「おーおー随分とうるせえと思ったら、今日も元気にやってるねえ」

チョロ松がいつまでも戻らないので、おそ松も奥の部屋から顔を覗かせてきた。兄さん!と十四松が駆けよれば、嬉しそうに頭を撫でてくれる。

「十四松は一人静かにしてていい子だったなー。何の話してたの?」
「あのね、一松兄さんがどうやっておそ松兄さんの弟になったのか話を聞いてたんだよ!そしたら一松兄さんとカラ松兄さんがわーってなって、チョロ松兄さんが来てぎゃーってなってる!」
「なるへそ。相変わらずあいつら仲が良いなあ。弟たちが皆仲良しでお兄ちゃん嬉しいー」
「「仲良くないから!」」

チョロ松と一松の文句がぴったりと重なった。なるほど、これも「喧嘩するほど仲が良い」という奴なのだなと、十四松は心から納得できたのだった。
と、その時、外に繋がるドアがチャイムも無しにいきなり音を立てて開かれた。びっくりしてそちらを見れば、まず最初に目についたのはピンク色のパーカーと、その上に見える明るい緑色の首輪だった。

「たっだいまー。……って、早速もうやってるし。やめてよもー、埃が舞ってるじゃん」

家の中に入ると同時に眉をしかめて、黒々とした尻尾を苛立たしげに振ってみせたのはネコの獣人だった。その松模様の入ったパーカーのおかげで、彼が何者か初対面の十四松でもすぐに分かった。あれは兄弟の証のようなもので、十四松がまだ会っていなかった兄弟はあと一匹しかいない。答え合わせをするように十四松はおそ松を振り返った。

「トド松?!」
「ピンポーン、十四松くん正解!あいつこそが俺の最後の弟、トド松だ!」
「おそ松兄さんいらっしゃーい。あ、その子が噂の新しいイヌの子だね」

部屋の真ん中で暴れる一人と二匹をさっさと避けて、トド松はおそ松と十四松の元へやってきた。出掛けていたためか帽子を被っていたが、それを脱げばネコの耳がぴょんと出てくる。くりんとした瞳と小さめの口が特徴的な、愛嬌のあるネコの獣人だと思った。同じネコでも表情だけでこうも一松とは違うものなのか。そのまま笑顔でトド松が手を差し出してくる。

「僕はトド松、おそ松兄さんに最後に弟にしてもらったから末っ子だよ、よろしくね十四松くん!」
「ボク十四松!そっかあ、じゃあ今度はボクが最後になったから、ボクが末っ子になるのかな!よろしく、トド松兄さん!」

差し出された手を袖の中からぎゅっと掴んでぶんぶん振り回す。微笑みかけてもらったのでにっこり笑い返したら、トド松はすっと真顔になってしまった。あれ、何か変な事を言っただろうか。十四松が戸惑っていると、トド松は何かを考え込むような難しい表情になってしまう。

「と、トド松兄さん?」
「……違う」
「えっ?」
「僕ってほら、この通り可愛いから、「兄さん」ってキャラじゃないんだよねー。どっちかっていうと甘やかされてちやほやしてもらえる末っ子ポジションが似合ってると思うんだけど、どう思う?」
「え?えっ?と、とどまつ、にいさんは、かわいいと思うよ?」
「だよねー!!って事で、」

トド松は改めてきゅっと握りしめた手に力を込めて、上目遣いに見つめてきた。身長は多分同じぐらいだけど、そうやってまるで媚びるように見つめられたことが無いのでなんだか落ち着かない気持ちになってくる。気持ちを鎮めるためにぱしんと一発尻尾で自分の足を叩いた。

「これからは僕の事はトド松って呼んで、十四松兄さん」
「っへあ?!に、にーさん?」
「そう、特別に僕が五男の座を譲ってあげる!だから十四松兄さんは僕の兄で、僕は十四松兄さんの弟だよ。ねっ!これから弟として、よろしくね!」

勝手に決められてしまった。ぱちんと可愛らしくウインクしてみせたトド松にどう返したらいいか分からず、助けを求める様におそ松の方を見れば腹を抱えて笑っている最中だった。どうやら何かがツボに入ったらしい。

「お、おそ松兄さん……!」
「ぶっははは!そう来たかー!っはー、まあいいんじゃね?十四松がそれでいいならさ。俺の弟である事に変わりはねえし!」
「ね!十四松兄さん、いいでしょ?」
「う、うん、いいけど……」

十四松は胸がドキドキしていた。てっきり兄が5人出来るものだと思っていたのに、突然弟が出来る事になるとは思っていなかった。初めての弟である。にこにこと笑うトド松が、弟だと思うだけで余計に可愛い存在のように思えた。湧き上がる衝動のまま、十四松はこくこくと頷いた。

「うん、ボク、トド松のお兄ちゃん頑張るよ!弟なんて初めてだから、おそ松兄さんたちみたいに上手く出来ないかもしれないけど、その分いっぱいいっぱいお兄ちゃん頑張るから!」

十四松が精一杯の気持ちでそう宣言すれば、トド松は少々驚いたようだ。目を軽く見開いて凝視してきたと思えば、困ったように目を逸らされてしまう。

「うう、想像以上に真っ直ぐな子だったよ……どうしようおそ松兄さん、今更なんか罪悪感が……」
「そーだろー十四松は良い子だろー。責任もってちゃーんと十四松お兄ちゃんを慕うんだぜ?末っ子トド松くん」

にやにや笑うおそ松に、トド松はしょーがないなーと頷いた。何はともあれ、これで十四松は兄弟全員に会えることが出来たわけだ。長男おそ松、次男?カラ松、三男?チョロ松、四男一松に、五男が十四松、そして末っ子六男トド松。これが、十四松の新しい兄弟だ。人間と獣人の入り乱れた不思議な兄弟だが、ちゃんと兄弟としてまとまってるように思うのは、十四松の心境の為か、それともまとめ上げるおそ松の手腕か。どっちだっていい。十四松は今、これ以上ないほど幸せなのだから。

「あーもう分かった!カラ松お前は一緒に来い!どうせこの間の任務の書類が残ってたから、後々話を聞くつもりだったし!一松はここで後片付けして待機!分かったな!」

チョロ松の声がする。どうやら一松とカラ松を物理的に離す事にしたらしい。一松をその場に残してカラ松をずるずると引っ張ってきた。涙目だったカラ松も、トド松を見れば慌てて挨拶をした。

「トド松、戻ってたのか!再会が遅れて寂しがってはいなかったか?望むならこの兄の腕の中に飛び込んでくるといい!マイリトルブラザー!」
「相変わらずイッタいねえ!遠慮するよ、まだ僕アバラ折って死にたくないから」
「ええっ……」

つんと軽く拒絶されて、カラ松はしゅんとうなだれた。引き摺られるままこちらにやってきて、慰めるように軽く肩を叩いたおそ松に「おそまつうぅぅ」と泣きついている。部屋の温度が下がった気がしたのはどうしてだろうか。そのまま二人と一匹は奥に引っ込む、前にカラ松が傍にいたトド松に何かを押し付けた。

「……ああそうだ、手土産を持ってきたんだった。ブラザーたちで仲良く分け合ってくれ、この俺のラヴが詰まった、」
「あーはいはいありがとねー」

無感動に受け取るトド松。耳と尻尾を垂れ下げてすごすごと奥の部屋へ入っていくカラ松の後姿を、十四松は少し気の毒に思いながら見送った。確かに噂に聞いていた通り、カラ松はネコたちとあまり仲がよろしくないようだ。特に一松。トド松はさらりと受け流してばかりいたが、心から嫌そうな態度では無かった。しかしカラ松から受け取った煌びやかな包みを開けて中を覗いた瞬間は、十四松が今まで見た事が無いような表情でくわっと叫んでいた。

「何これ?!ほんっとカラ松兄さんのセンスって壊滅的だよね!手土産もろくに選べないのかな?!」
「な、何が入ってたんすか?」
「あっ見てないの?いや当たり前か、見てたら止めるもんね。もー、おそ松兄さんもちゃんとチェックしてよねー」

ぶつくさ文句を言いながらトド松は手土産の袋をその辺にぽいと投げた。中身が気にはなったが聞けそうな雰囲気では無い。さっき隙間からちらりと覗いた限りでは、何やら顔のようなものがプリントされた布生地が入っていたようだったが。あれは誰の顔だったのだろう。
とりあえず、カラ松の手土産で絆そう作戦は失敗に終わったらしい。

「そんな事より、ねえねえ十四松兄さん、せっかく会えたんだからもっとお話ししようよ。一松兄さんはもう色々と聞いたんでしょ?」
「聞いたっていうか、おれがそいつに話して聞かせてた」
「あ、そうなんだ。じゃあ僕の事も話すよ。だから十四松兄さんの事も聞かせて。あ、十四松兄さんの昔の事じゃなくて、今どうやっておそ松兄さんとこで暮らしているかを中心に、さ」

トド松に手を引っ張られて、十四松は再びテーブルにつく事になった。一松とは正反対に愛想の良いトド松は、まずはそのまま自分の方からいろいろ話してくれた。
トド松は一松のように学校でおそ松たちと出会った訳では無く、この家でチョロ松の前任の保護施設支部担当のおばあさんと暮らしていたのだという。そこで昔から幼いながらに仕事を手伝ってきた事。おばあさんが引退し息子夫婦の元へ引っ越す事になった際、仕事の事もあるし住み慣れた場所から離れたくなかった事もあってここに一匹で残った事。そうして学校卒業と共に後任としてこの家に住むことになったチョロ松にそのまま飼われる事になった事。おそ松とはその縁で知り合い成り行きで弟にしてもらった事。その全てをスラスラと十四松に話してくれた。

「だからさ、僕はお仕事のためにこの家から離れられないんだ。それさえなければ、一松兄さんみたいにカラ松兄さんが心底ダメって訳でもないから、おそ松兄さんと一緒に暮らせるのにね。むしろおそ松兄さんがこっちに引っ越して来ればいいのにってずっと思ってるんだけど、あの人仕事したくないの一点張りでさ」
「トド松もおそ松兄さんが大好きなんだね!」
「そりゃあね!チョロ松兄さんに事前に気をつけろって言われてたけど、それでもダメだったもん。獣人の本能ってやつ?おそ松兄さんと一緒にいるとすごく落ち着くんだよね。ほんと、魔性の人間だよあの人」

それでも好きー、とトド松が耳をぴくぴく動かしながら笑う。気持ちはとてもよく分かるので十四松も勢い良く頷いておいた。この胸の内に燻る名前の付けられない想いを他の獣人もおそ松に対して抱いていると考えるのは、相変わらず何故だか面白くないと感じるが、それでもおそ松自身に抗いがたい魅力があるのは確かだったからだ。あれが獣人限定のものだというのが不思議でたまらない。
そこで十四松は、ふと気になった言葉を思い出した。今までおそ松と暮らしてきて、あまり馴染みのない言葉だったからかもしれない。

「おしごと……チョロ松兄さんと、トド松はここでおしごとしてるんだね」
「一応一松兄さんもね。この辺の猫たちみんなと仲良いから、情報収集とかしてくれてるんだよ」
「そっか、一松兄さんも!ボク、おしごととか何するかよくわかんないけど、すっげーね!」
「んーそれほどでもないよー。人間はほとんど仕事するものだし、獣人だって半数以上は似たような事してるから」
「そうなの?!でもおそ松兄さんは、おしごとしてるって言った事無いよ!ずっとボクと一緒にいてくれたし!おそ松兄さんはおしごとしてないのかな?」

十四松が首を傾げれば、トド松も一松もなんとも言えないような表情になった。何だろうこの言ってもいいのかな的な躊躇う空気は。そんな中で口を開いたのは一松だった。

「おそ松兄さんはクズニートだから仕方ないね、ヒヒッ」
「くず?にーと?」
「えーと、ニートっていうのは、働けるのに働く気がまったく無いクズで社会不適合者の事で……うーん、つまりおそ松兄さんは働くのが好きじゃないんだよ。それじゃダメだからってチョロ松兄さんが無理矢理うちの臨時職員として登録だけしてるけど」

やれやれと肩を竦めるトド松。十四松には、仕事の事も臨時職員というものも何も分からなかったが、どうやら仕事をしないおそ松が困った事であるのだけは二匹の表情や態度で分かった。ふんふんと頷く十四松に、ハッとしたトド松が尻尾を丸めて身を乗り出す。

「あ!でもまったく働かない訳じゃないんだよ?一応臨時職員だから、チョロ松兄さんが仕事回せばやってくれるし、だからそれでお給料も貰ってるし!最近仕事回してなかったのは正式におそ松兄さんから一定期間の休職の申請があってそれを受理してたからだし!実は借金まみれとか、気に入られた金持ち獣人に養ってもらってグータラしてるとかって訳じゃないから、そこんとこ勘違いしないでね!」
「う、うん?」
「ほんとだよ?十四松兄さんってなーんか変な誤解とかしそうで怖いなあ。俺がいない間に変な事教えんなーって後からおそ松兄さんに駄々こねられるのは困るんだよね……」
「うん、分かった、大丈夫だよトド松!」

十四松はどんと胸を張った。心配そうな顔をしている新たに出来た弟を、出来る限り安心させてあげられるように微笑んだ。

「おそ松兄さんがどんなにくず?でもにーと?でもしゃかいふてきごうしゃ?でも、ボクはケーベツしないよ!大好きだよ!っておそ松兄さんにも言っとく!」
「あああーっさっそく!余計な事を覚えてるしっ!クズとかニートとかわざわざ言わないでいいから!せめて僕から聞いたとは言わないでおいて!全部一松兄さんから聞いたって言っといて!」
「おいコラ末弟」

一松が報復にむんずと尻尾を掴んでみせれば、悲鳴を上げたトド松が「やめて!せっかく朝時間かけて毛づくろいしたのに!」とびーびー喚いている。確かにトド松の尻尾はつやつやと輝いていて手触りが良さそうだ。反対に一松の尻尾は頭と同じようにどこかぼさっとしていて、しかしそのボサボサ具合が逆にふわふわと温かそうに見えた。仲良しだなあと微笑ましくじゃれ合う二匹を眺めながら、十四松は自分の尻尾をぱたりと振った。

「トド松の尻尾すげーきれいだね!おそ松兄さんでもそこまできれいに出来ないよ、ほら!」
「……え、ほら、って、もしかして十四松兄さん、おそ松兄さんに尻尾毛づくろいしてもらってるの?」
「マジかよ」

ピタッと動きを止めた二匹は、目を見開いて十四松の尻尾を凝視する。いきなりそんなに見つめられるとは思わなかったので、十四松は照れて自分の体に尻尾を巻きつけた。

「えーとね、ボク、自分で毛づくろいとか今までしたことなくて、へたっぴだったから。朝はいつもおそ松兄さんがおいでって言ってくれて、櫛で撫でてくれるんだよ!優しくてぽかぽかして気持ちいいよ!」
「何それ……くっそ羨ましい……おれも朝起き抜けにおいでとか言われたいんですけど」
「ほんとずるいよ……僕だっておそ松兄さんの一見雑に見えるけど実は器用で丁寧な手つきで毛づくろいしてもらいたい……」
「カラ松兄さんもねー、毎朝めちゃくちゃ羨ましそうにこっち見てくる!」
「「そうだろうよ」」

「よかったこれでクソ松まで毛づくろいしてもらってたら今すぐ殺しにいかなきゃいけない所だった」「同感ー」と言葉を交わしながらも食い入るように尻尾を見つめ続ける一松とトド松の姿に、十四松は口角がむずむずと上がっていくのを感じた。生まれて初めて抱く感情が十四松の中に生まれていた。嬉しい、と限りなく似たこの感情は何だろう。自然と胸を反らして、尻尾を誇り高く揺らして、もっと見てと口走りたくなるような、これは。今までこんなにも心が高揚したことはなかったのに。
まだまだ心の幼い十四松には考え至らない事だった。その高ぶる気持ちが、羨ましがる兄弟たちへ向かう優越感である事に。大好きなおそ松からの毛づくろいを自分だけが受けているという独占欲から来ている事に。ただしその本人は預り知らない心情は、人の心に機敏な兄と目ざとい弟には何となく気付かれてしまう事となった。
とりあえずここは単純に喜ぶことにしてくふくふ笑う十四松を、どこか生暖かいネコの目が二対、見つめてくる。

「えへへへへー」
「あー……意外とこいつ独占欲激しい奴なのかも」
「そうだね……その辺がカラ松兄さんと妙に合うのかもね……」
「カラ松兄さん?」

ふいに出てきた同族の兄の名に首を傾ける。そうだよ仲良しだよーと袖を振る十四松に顔を見合わせた二匹は、神妙な顔を向けてきた。どこか引き締まった雰囲気に気づいた十四松も、訳が分からぬままにピッと背筋を伸ばす。

「十四松、ちょっと聞きたいんだけど……お前、あのクソ……カラ松と上手くやっていけてる?睨まれたりいじめられたりしてない?」
「え?!ないよ、そんな事全然ない!」
「ほんとに?僕たちずっと不思議だったんだよね……あの独占欲の塊みたいなカラ松兄さんが同じイヌとはいえ、よく新入りをおそ松兄さんの傍に招き入れさせたなって」
「???」

一松とトド松は、カラ松が今までどれだけの獣人をおそ松から遠ざけてきたかをつらつらと語った。家に入れる事は絶対にしなかったし、好意を持って近づく事すら許さなかったと言う。兄弟となった二匹には兄としての自負なのか今あれだけ下手に出ているが、学生の頃のカラ松と一松の水面下の戦いはそれはもうすごかった、らしい。それを十四松は、どこか現実離れした話として聞いていた。我が家でのおそ松とカラ松と暮らす日常をどれだけ思い出しても、やっぱりピンとこない。

「うーん?カラ松兄さんはすっごい優しいよ。おそ松兄さんと一緒に怪我したボクをずっと看病してくれたし、分からない事もいっぱい教えてくれるし、いやなことされた事もないよ。最初から今日までずーっと!」
「うそぉ。やっぱりイヌ同士だからなのかな。それとも怪我イヌにはさすがに優しいとか?」
「あいつ同族とか関係なく毎回威嚇してたから。それにこいつの怪我だってもうほとんど治ってるみたいだし……すんなり兄弟になる事を、しかもおそ松兄さんに飼われる事を許すなんてやっぱりおかしい」
「だよねえ」

ひそひそと何故か声を潜めて話し合う一松とトド松を眺めながら、でも、と十四松は笑った。カラ松の話を聞いて、十四松の胸には安堵が訪れていた。

「カラ松兄さんが色んな獣人に威嚇しちゃうのは、ボク、なんだか気持ち分かる気がする!何でかって説明は上手く出来ないけど。それに、そうやっておそ松兄さんの事をずっと守ってたんだから、やっぱりカラ松兄さんはすげーと思うよ!ボクもそんなイヌになりたい!」

さすが飼いイヌの先輩だなー!と邪気の無い顔でにこにこ笑う十四松。その姿を、二匹のネコはどこか恐ろしいものをみるような目で見つめていた。やがてボソボソと、確認し合うように頷く。

「番犬二号か……」
「ああ、なるほど……素質見抜いたって事かな……」
「?にごう?そしつ?」
「お前はあいつに仲間として見出されたって事だよ」

ゴシューショーサマ、と一松に肩を叩かれるが、何故憐れみを含む視線を向けられているのか分からない。仲間として認められたのなら、それは喜ばしい事じゃないのかなあ、と一匹不思議そうに考え込む十四松なのだった。
そうしているうちに二匹の空気が変わっていた。今までどこか得体の知れない者を相手にするような緊張を孕んでいた雰囲気が、いつの間にか友好的なそれに変わっていたのだった。

「でもさあ、良く考えたら初めてあのサイコパス兄さんに対抗出来そうな逸材って事だよね。十四松兄さんにはこのまま頑張ってもらって、おそ松兄さんの一匹独占状態を崩してもらいたいよ」
「ああ、そりゃいい。クソ松と比べたらこいつの方が何倍もマシだ。十四松とならおれ、一緒に暮らせそう」
「え?えっ?」
「十四松兄さん!」
「十四松」

ガッシと二匹から両肩に力強く手を置かれて、思わず体が毛を逆立ててびくついてしまう。ワン!ととっさに鳴いたびっくり顔の十四松に、にんまりと笑ったネコ目が四つ、突きつけられた。

「十四松兄さん、僕たち兄さんの事応援するから、カラ松兄さんに負けないようにね!何かあったらすぐに相談してよ、助けになるから」
「怯むなよ、クソ松なんか殺すつもりでガンガンいけ。おそ松兄さん、あの人弟に弱いから、上手くいけばセクロスまで持ち込めるかもしれないぞ……フヒヒ」
「ちょ、一松兄さんそれはさすがに性急すぎるでしょ」
「んー?せくろすってなあに?」

聞きなれない言葉を尋ねれば、一瞬ぎくりと動きを止める二匹。しかし次に一松が浮かべた笑みは、この間絵本で見たいじわるな化け猫のそれと酷似していた。

「あー、そりゃあもちろん、大好きな人とする事だよ。超絶仲良しな人としか出来ない特別な事だからな、他のやつには言うなよ。深い事は考えずに、本能に任せて動けばお前もきっとおそ松兄さんと素敵な体験が出来るから、さ」
「そ、そうなんだ……セクロス、ボクもおそ松兄さんとしてみたいなー!どんなことだろう!」
「もー……僕は知らないからね」

ひひひ、と楽しそうに笑う一松に、トド松は呆れ果てた顔をしながらもそれを止めることは無かった。





それからしばらく三匹で和気あいあいと会話していると、ようやく奥の部屋からおそ松たちが戻ってきた。つかつかと足早に近づいてきたチョロ松が、己のネコたちをじろりと睨み下ろす。

「そういやお前ら、釘を差す事を忘れてたけど……十四松に変なこと吹き込んでたりしないよな?仲良くなっているみたいだからそれはいいんだけど」
「えーっそんな事する訳ないじゃんチョロ松兄さん!僕たちは仲良くお話してただけだもん、ねー十四松兄さん?」
「うん!一松兄さんとトド松といっぱいおしゃべりしてた!」
「そっかそっか、他の兄弟たちとも仲良くなれてよかったなあ十四松」

おそ松に撫でられて、十四松は嬉しさにわはーと尻尾を振った。そのまま抱きつこうとした所で、後ろに控えるカラ松がその手に何やら箱を持っている事に気付いた。

「カラ松兄さん、それなーに?もう一つのてみやげ?」
「ああ、これか?フッ、これは手土産じゃなくてな……そういえば俺の持ってきた手土産はどうした?ナイスなファッションアイテムだっただろう?」
「あれはねー、トド松がぽいって捨ててた!」
「捨てっ?!」

ガンッと目に見えてショックを受けたカラ松がふさぎ込む前に、おそ松がその手から箱をひょいと受け取っていた。両手いっぱいほどの大きさのその箱は、しかし見た目に反してそこまで重さは無さそうだ。表には何も書かれていないシンプルな白い箱だ。

「本当はラッピングでもしてやろうかなって思ったんだけど、どうせすぐにこの場で開けるしな。ほら」
「えっ?」

差し出されて、十四松はとっさにその箱を受け取った。やっぱり軽いその箱はあっけなく十四松の袖に覆われた手の上に乗っかる。何故手渡されたのか分からなくておそ松を見返せば、安心させるようにニッと微笑まれた。

「それ、お前へのプレゼントだよ。開けてみな」
「え……ボクに?」

何で?と聞いてもにこにこ笑われるだけ。おろおろと周りを見回しても、カラ松もチョロ松も、一松もトド松も同じように微笑んでこちらを見ているだけだった。一体何なんだろうとドキドキしながらテーブルに箱を置いて、おそるおそる開けてみる。箱の蓋は簡単に開いた。
箱を開けて、中を覗いて、そこで十四松の動きは止まってしまった。瞳を限界まで見開いて、じっと箱の中身を凝視する。長い袖に隠れて見えなかったが、指先があまりの驚きに震えていた。どんどん息が苦しくなって、呼吸をする事さえ忘れていた事にようやく気付く。はっはっと何とか息をして、十四松は箱に入っていたものをゆっくり取り出した。
目に眩しいほどの真新しい赤が飛び込んでくる。光沢のある革の表面にはほとんど何の模様も無いシンプルなつくりだったが、一か所だけ、松模様がしっかりと刻まれている。当時首輪を購入する際ワンポイントだけ好きな模様を入れられるというサービスをやっていて、子どものおそ松が手書きで指定したものらしい。そう、カラ松が自慢げに説明していた首元に常に存在していた、真っ赤な首輪。それとほぼ同じものが、新品の状態でもう一つ、十四松の手の中に存在していた。

「チョロ松に頼んで特注してもらってたのがやっと届いたんだ。今日ここに来た用事は、これの受け取りだったってわけ」

おそ松が腕を伸ばして首輪に触れる。その指が示したのは、首輪についていたドッグタグだ。銀色のプレートにはっきりと刻まれた名前が、十四松にも読めた。

「松野十四松」

タグに描かれた名前を呼ばれて、十四松は顔を上げた。真剣な表情をしたおそ松が、未だ衝撃から立ち直っていないこちらを見つめている。おそ松がこんなにも真面目に、緊張している姿は初めて見た。対峙する十四松も思わず息を飲んだ。

「この首輪をつけたら、お前は正真正銘、俺の飼いイヌになる。これからお前がどんなに嫌がったって、俺の許可が無きゃ離れる事さえできなくなる。他にもたくさん、飼いイヌとして制限もついてくる。もちろん俺はお前の事を大事な弟として扱う事に変わりは無いけど……本当に、いいのか?飼い主が俺でいいのか?」

向けられる瞳が、最終確認だと告げている。ごくり、と喉を鳴らして見つめ返した十四松は、しかし躊躇う事無く深く頷いた。

「いいよ」
「十四松、」
「いいよ、お願い。ボク、おそ松兄さんがいい」

逆に懇願するように言葉を零した十四松に、おそ松も頷き返した。十四松の手から首輪を取り、首を見せて、と優しく声をかける。きゅっと上を向いて喉を晒せば、おそ松の手が仮に巻き付いていたスカーフを取り、首輪を持って掛けられた。
ずしり、とくる重さ。箱で持った時はあれだけ軽く感じたのに、今は途方もなく重く感じる。しかしその重さが何よりも愛しかった。おそ松の手が離れた途端に下を向けば、ちらりと揺れるドッグタグが確認できる。すぐにカラ松が手鏡を差し出して、十四松の姿を映してくれた。

「……あ……!」

そこに十四松は確かに見た。黄色いパーカーを纏った首元、そこにおそ松の色が輝いている姿を。カラ松とほとんど同じデザインの、羨ましく思っていたあの首輪が、十四松のものとしてそこに存在している事を。
ぱっとおそ松の方を見れば、満面の笑みを返された。温かくて大好きな手の平がぐりぐりと頭を撫でて、やさしく抱き締められる。

「これで十四松、お前は正式に俺の飼いイヌで、家族で、弟だ!これからずっとずーっと、よろしくな」

十四松は太陽の熱に包まれながら、歓喜に打ち震えた。これからずっとずーっと、おそ松は十四松の飼い主で、家族で、兄なのだ。この、十四松のために作られた首輪がある限り、いいやそんなものが無くたってきっと、ずっと。
周りの他の兄弟たちからも温かな視線を貰って、十四松はぎゅっと、愛しくてたまらない兄の身体を抱き締め返した。

「あいっ!ずっとずっとずっとずぅーっと!よろしくおなしゃっす!!」

元気よくお返事出来てはなまるぴっぴ!と真横で笑うおそ松を、ああ大好きだなあ、と十四松は改めて思った。






16/07/21


 |  |