ぼくらの太陽 2





次の日。つまり「14番目」がおそ松たちに拾われてから五日目。
昨日はあの後、一人と二匹でぎゅうぎゅうに引っ付いている間に何とか涙は止まって、スプーンを差し出されるがままおかゆを食べ切り、てきぱきと体の傷の処置をされ、布団に突っ込まれてそのままぐっすりと眠った。これほどまでに熟睡した事は今まであっただろうか。昨日は何時に目を覚ましたのか分からなかったが、今日はしっかりと朝の気配を感じる事が出来る。すっきりした気持ちで、「14番目」は改めて周囲の様子を確認した。
「14番目」が眠っていたのは、六畳ほどの部屋であった。ベランダが見える窓とリビングへと続いているであろう出入り口、そして押入れ以外の壁はタンスやラックが重なって並んで占領しているせいで狭く感じる。その中央に、二枚の布団がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。年代物の赤と青に分かれている布団の、赤い方に「14番目」は寝かされていた。しかも一匹ではなかった。もう一匹……いや、もう一人、同じ布団で「14番目」とくっつきあって眠っている。あまりの至近距離に「14番目」は驚いて身動きもとれなかった。むにゃむにゃ、と平和そうに寝顔をこちらに向けているのは「14番目」が勝手に太陽などと思っている人間……そう、おそ松だった。
何でボクはこの人と一緒に眠っているのだろう、と「14番目」が混乱していると、部屋のドアが開け放たれてひょっこりと同族が顔を覗かせてくる。彼は確か、カラ松だ。「14番目」と目が合うと嬉しげに耳を立ててにっこり微笑んでくる。

「起きたか、ホーリーナイト、グッモーニン!昨日よりも随分しっかりした表情になったな、よかった」
「???」

ちょっとよく意味の分からない部分はあったが、カラ松が朝の挨拶をしている事と「14番目」の元気そうな様子に喜んでいる事だけは分かった。答える様にそろりと起き上がろうとした「14番目」だったが、瞬時に横のおそ松が逃がさぬとばかりに腕を伸ばしぎゅっと抱きしめてきたので、抵抗する間もなく布団の中に逆戻りしてしまう。ぎょっとして視線を向けたがおそ松は未だ安らかに眠ったままだ。今の機敏な動きが、寝ぼけていたというのか。「14番目」は混乱を極めた。

「?!……?!」
「あー……すまないな、おそ松は寝坊助なうえに寂しがり屋で、いつも隣に寝ている者が起きようとすればそうやって抱きついて逃がさないようにしてしまうんだ。寝ぼけているだけだから、容赦なく起こしてくれていいんだぞ」

そんな事を言われても、人間の起こしかたなんて「14番目」には分からない。途方に暮れていれば、カラ松が助け舟を出してくれた。ずかずかとこちらへ歩み寄って来たかと思えば、「14番目」に抱きついて離れないその頭に、勢いよく手刀を落としたのだった。ぐえ、と悲鳴を上げたおそ松はさすがにすぐさま目を覚ます。

「いってえ!優しく起こせっていつも言ってんじゃん、この馬鹿力!」
「優しく起こしたらお前いつまで経っても起きないだろ。ホーリーナイトが困っているから早く起きてくれ」
「あーん聞いてよワンコーうちの駄犬が優しくなーい」

ワザとらしい猫なで声を出しながらおそ松がさらに抱きついてきて「14番目」はとことん戸惑うしかない。結局カラ松がおそ松の首根っこを掴んで引っ張り出すまで、布団の中でずっとおそ松にぎゅうぎゅう抱き締められたままだった。体の内側がぽかぽかどころかものすごく熱くて、自分はこのまま燃え上がってしまうんじゃないだろうかと「14番目」は密かに危機感を覚えるほどだった。さすが太陽だ。
しかしおそ松の腕の中は、それでも抜け出したいとは思わないほど落ち着く空間だった。もしかしたら今まで「14番目」が眠っている間、おそ松がこうして抱きしめてくれていたのかもしれない。覚えてはいないが、まるで顔も知らぬ母親に抱かれているような、そんな安心感さえあった。何て不思議な人だろうと、「14番目」は改めて思った。

「さあ、朝ご飯だホーリーナイト。今日は野菜もとろける栄養満点スープにしてみたんだ。食欲があるなら、昼にはもっと固形のものを食べてみるか」
「なあカラ松、どうでもいいけどさっきからそのホーリーナイトってのはなに?」
「フッ……決まっているじゃないか、こいつの名前さ。ダーク・ケルベロスは少し禍々しすぎたからな……この名には黒き幸、あるいは聖なる夜という意味が、」
「あいたたたた!どっちにしろ痛いよぉー!傷ついたワンコにトドメ刺すなって言ってんだろぉ!」
「えっ」

昨日と同じように、あーだこーだと騒ぎながらおそ松とカラ松は「14番目」の世話を焼いてくれた。昨日よりもずっと体力を取り戻した様子の「14番目」を見て、一人と一匹はにこにこと嬉しそうだった。おかしな人たちだ、と「14番目」は思った。自分を見て一体どんな嬉しい事があるものか、さっぱり分からなかったからだ。
結局その日は散々世話を焼かれて終わった。



六日目。元々体力のあるイヌであるうえに人、いやイヌ一倍丈夫であった「14番目」は、随分と調子を取り戻していた。巻かれた包帯はまだ目立つが、怪我も適切な処置をされて快方へと向かっているようだ。布団から上半身を起き上がらせて、「14番目」はそれをひしひしと感じていた。直接治療をしてくれているおそ松とカラ松もそれを知って、喜んでいた。

「食欲もあるし、これならすぐに怪我も治るだろうな」
「よかったなあワンコー!あ、でもまだ無理はすんなよ?もうちょっとしたら布団から出られるようになると思うからさ」

こくりと頷いた「14番目」は、ぱっと笑顔を浮かべた。「14番目」は学習したのだ。どうやらおそ松もカラ松も、「14番目」がこうやって笑顔になると何故だか嬉しいらしく、この上なく喜んでくれるのだった。まだまだ動けず、何も出来ない「14番目」はこうしてささやかにでも喜ばせる事でしかお返しが出来ない。だからなるべく、この表情をキープしようと思ったのだ。
にこにこと微笑む「14番目」を見て、自らも笑顔を浮かべたおそ松がぎゅっと抱きしめてくる。太陽は今日もとても温かい。

「んー!最初がずっと無表情だったから笑ってくれるとめちゃくちゃかわいーなーお前はー!でも大丈夫か?無理して笑ってないよな?」
「?」

尋ねられて、「14番目」は首を傾げた。おそ松がどうして心配そうに自分を見ているのかが分からなかった。今まで長い間笑顔を表に出さないようにしていたから、上手く笑えてなかったかな、と不安に思っていると、後ろからじっと様子を窺っていたカラ松が近づいてきて「14番目」の頭を撫でてきた。

「笑顔っていうのは、本当に嬉しい時に浮かべるもんだぜホーリーナイト。お前は今、ちゃんと嬉しいって思っているか?」
「あ、その名前継続なんだ」
「おそ松うるさい。……なあ、俺達はお前が本当に嬉しいって思っている時に笑って欲しいんだ。偽物の笑顔なんてお前には似合わないさ……どうだ?」

フッ、と若干かっこつけて、それでも真剣な瞳で見つめてくるこの同族は、イヌとしての勘なのか「14番目」の心情を僅かでも理解してくれているらしい。「14番目」は考えた。笑顔、とは、嬉しい時に浮かべるもの。そうでなければこの人たちは喜ばない。意味がない。
少しだけ考えて、やっぱり「14番目」はにこっと笑った。自分が嬉しい時ぐらい、いくら「14番目」でもよく分かる。それは、今だ。あたたかな布団で眠り、丁寧に傷を治され、美味しいご飯を体調に合わせて食べさせてくれ、そして自分を見て笑ってくれる存在がそばにいる。そんな今以上に喜ばしい事があるだろうか。だから「14番目」は、何の遠慮も無く笑顔になった。なるほど確かにカラ松の言う通り、嬉しいのだと自覚すれば口元は自然とにっこり弧を描いていた。
それを見守っていたカラ松も、安心したように笑ってくれた。

「ああ、よかった。お前はちゃんと嬉しいんだな」
「え、ほんと?そいつ無理とかしてない?」
「見ろ、おそ松。あれが何よりの証拠だ。あそこだけは嘘をつけない事は、誰よりもこの俺が証明するぜ」

カラ松が胸を張ってどこかを、「14番目」の後ろ側を指差す。指し示す方向を眺めたおそ松も、すぐに納得した。

「あ、ほんとだ。よかったぁ、あんまりにこにこしてばっかだからちょっと考えちゃってさ。お前が嬉しいんなら、それでいいよ」

鼻を擦りながら笑うおそ松は、一体何を見て納得したのか。気になった「14番目」は自分の後ろを振り返って、それを見た。ああ、なるほど。これは誰が見たって納得せざるを得ない。
視線の先では、今の今まで眠っていたせいで少しぼさぼさになっていた「14番目」の黒い尾が、ぱたぱたとどこか嬉しそうに布団を叩いていたのだった。



七日目。「14番目」はすでに病人用でない普通の料理も難なく食べられるようになっていた。寝てばかりで少し筋肉の落ちてしまった己の腕を眺めるそこへ、おそ松とカラ松がリビングからやってくる。とっさに出していた腕を布団の中に引っ込めた。

「なあワンコ、お前も布団の中で寝てばっかはそろそろ飽きてきたんじゃね?激しい運動はまだ無理だけどさ、傷の方もだいぶ治って来たし」
「さすがブラザーだ、治りが早いな。どうだろう、向こうで共にランチといかないか?」

リビングを指し示され、断る理由も無い。「14番目」が頷くと、目の前の一人と一匹は顔を見合わせてにやっと笑った。まるでいたずらが成功したような子供みたいな笑みだった。

「そうと決まれば布団から出なくちゃな!んで、せっかく布団から出るんだから、いつまでもパジャマってのも味気ないだろ?」
「そこで、だ。快気祝いとまではいかないが、お前の回復を祝して俺達からプレゼントがある」
「そんな大層なもんじゃねーけど……じゃーん!これ、お前にやるから着替えてみてくれよ」

「14番目」がこの部屋で目を覚ましてから今まで、おそらくカラ松のパジャマを借りていた。何故おそ松のでは無いのが分かったのかというと、イヌの尻尾用の穴がズボンに空いていたので一目瞭然だった。今まで自分が着ていたものなんてボロくずのようになって着られたものじゃなかったのだろう。確認しなくてもそれぐらいは分かっている。
そんな「14番目」の目の前に差し出されたのは、目に眩しい色を持つパーカーだった。その色こそあまり見覚えはないが、胸元になぜか大きく松マークが入ったそのパーカーには、ものすごく見覚えがある。「14番目」は目の前でにこにこ笑うおそ松とカラ松を交互に見た。彼らがほぼ毎日のように身に着けている色違いのパーカーにも、同じ松模様がついている。パーカーはおそ松が赤色。カラ松が青色。そして己に差し出されているのは……黄色。

「俺達さ、あ、俺とカラ松の他にもあと何人かいるんだけど、この色違いパーカー持ってるんだ。これね、楽に着れて便利よ?結構ゆったりしてるからお前の傷にも触らないと思うし!」
「お揃いはちょっと恥ずかしい、そんなブルースプリングな気分でなければいいんだが」
「ブフー!なにそれ青春って意味?思春期って言いたいの?ウケるー!って言ってる場合じゃねえんだよ、今はワンコ!」

ウインクしてみせるカラ松を押し退けて、おそ松が黄色のパーカーを「14番目」の膝の上に乗せてくる。「14番目」が突然の事にぱちぱち瞬きをすれば、優しく微笑まれた。

「これな、袖がゆったり長めの特別仕様なんだ。これだったら普段は、腕とか隠しておけると思う」

ハッとしておそ松を見れば、照れくさそうに鼻を擦ってみせる。ずっとずっと、布団の中に隠し続ける腕の事を、おそ松は気にかけてくれていたらしい。怪我の手当てや体を拭われる時は我慢して腕を出しているが、恐怖心はどうしても拭えていなかった。凶器となる爪は切られていても、記憶にこびりつく肉を断つ感触は消えない。そんな忌々しい腕を他の目に触れさせることが、恐ろしくてたまらないのだ。そんな心を汲んで、おそ松は笑ってくれる。嫌な顔一つせず、「14番目」の腕が元々どんな風に汚れていたのか知っているはずのこの人は、毎日「14番目」の手を取って世話をし抱き締めて眠ってくれる。「14番目」の気持ちを考えて気遣ってくれる。揃いのパーカーを、許してくれる。
本当にいいのか、と戸惑いながら見つめれば、伝えたい事を正確に読み取ってくれたおそ松は頭をわしわしと撫でてくれた。

「なーに遠慮してんの、プレゼントだって言ったろー?うっし、さっさと着替えさしちまうか、カラ松ジーパン貸せ!」
「フッ、ここにあるぜ」
「?!?!」

そーれ、と襲い掛かられた「14番目」は、あっという間に身包みを剥がされて新しく着付けされていた。恐ろしいほどの手際の良さである。瞬きしている間にパジャマはパーカーに早変わりしていて、いつの間にか足を通していたジーンズの尻に開いてた穴からよいしょーと尻尾を引っ張り出されればそれで完成だ。ぶるぶると身を震わせ、久しぶりに自分の足で立ち上がった「14番目」は、恐る恐る自分の姿を見下ろした。
おそ松とカラ松とお揃いの黄色いパーカーに、ちょっときつめのジーンズ。パーカーの袖はおそ松が言っていた通り長めで、さらに「14番目」がぎゅうと引っ張れば指先まですっぽり隠れてくれた。しっかりと二本の足で立つ「14番目」の姿を上から下まで眺めて、おそ松とカラ松はどこか感慨深そうだった。

「お前最近寝てばっかりだったけど、ちゃんと立てたなあ、よかった!」
「ああ、最初路地裏で見つけた時と比べたら雲泥の差だ……ここまで回復して、ううっ、よかったな……!」
「カラ松、感動すんのはいいけど泣くなよ。なーんか俺まで込み上げてくるもんがあるじゃん!」

尾を振りながら目頭を押さえるカラ松も、その頭を軽く叩きながらも何度も何度もこちらを見て嬉しそうに顔を綻ばせるおそ松も、「14番目」の回復を自分の事のように喜んでくれている。「14番目」の胸にはかつてないほどの燃え上がる気持ちを抱いていた。
次々と沸き上がるそれをあえて言葉にするとしたら「感謝」だ。目の前の優しい人たちに、見ず知らずの自分にここまでしてくれる事への感謝を伝えたくて仕方が無かったのだ。ぎゅっと袖の中で拳を握りしめた「14番目」は、自然と口を開けていた。
それは、今まで他者に虐げられ、己を押し殺す事でしか生きる事の出来なかった「14番目」が、ある意味初めて心を許した瞬間であった。耳障りだと殴られる事を恐れて声を上げないようにしていた喉を、「この人たちなら大丈夫」という信用でもって震わせたのだ。

「……あ、」
「「えっ」」
「あ、りが、とう」

何年かぶりに他人の前で上げた声は、情けなく震えていた。それでもこの胸を満たす感謝が少しでも伝われば、と、「14番目」は精一杯笑った。伝わってさえくれれば、今すぐ殴られてもいいと思った。
「14番目」を見つめる二つの顔は、驚愕に目を見開いたまま数秒時を止めた。やはり迷惑だったか、と「14番目」が考えかけた瞬間、ワッと、目の前に赤が広がった。

「わ、わっわっワンコぉー!おま、お前今!喋った!ワンコが喋ったああああ!!」
「おそ松、落ち着け、気持ちは分かるが落ち着け……!」
「カラ松今聞いたか?!こいつ今、ありがとうって言った!確かに言った!!ワンコ、喋れない訳じゃなかったんだ、ちゃんと喋れたんだなあ!……よかったぁ」

苦しいぐらいに全身を締め付けられて毛を逆立てる。しばらくそのまま目を白黒させていれば、赤一色の視界に青が割り込んできて、ようやく締め付ける力が弱まった。ほっと一息ついてからようやく、今まで自分がおそ松に全力で抱き締められていた事に気付いた。足まで使って「14番目」に飛びついていたらしい。カラ松に何とか剥がされた格好のまま、おそ松は瞳を輝かせて「14番目」を見た。

「な!な!ワンコ、お前まだ喋れる?お前の声もっと聞きたい!もっと聞かせてくれよ!」
「えっ……」

「14番目」は焦った。まさかもっと喋れと言われる事になるとは思わなかった。「14番目」としてはたった一回、この気持ちを伝えられればいいと思っただけなのだ。しかしおそ松はワクワクと期待した目を向けてくる。それを押さえるカラ松もそれ以上止める事無く笑顔だ。まったくもって訳の分からない展開に、おどおどと戸惑う事しかできない。
混乱しながらも、「14番目」は一つの答えに辿り着いた。何故かはさっぱり分からないが、どうやら彼らは「14番目」が声を出したことに、こんなにも喜んでくれているらしい。

「あ……。……ぼ、ボクの、声で、いい、の?」
「お前のだからいいんだよぉ!」

お前ってそんな声してたのな!と心底嬉しそうに再び飛び掛かってくるおそ松を呆然と受け入れながら、その尻尾はふさりふさりと、嬉しそうに揺れていた。



八日目。「14番目」が朝起きてから夜眠るまで過ごす部屋が、寝室からリビングへと変わった。
昨日から今まで、「14番目」は今まで口を噤んでいた事が信じられないぐらいお喋りした。元来喋る事が嫌いでなかった「14番目」の喉は、枷が外れてどこかへいってしまったかのように次々と言葉を溢れ出させた。

「ボクね、名前ないんだ。おしえてあげられなくて、ごめんなさい」
「あのね、あのね、ありがとーございます。今までたくさん思ってて、言えなかったから、今たっくさん言うね。ありがとーございます!」
「体動かすの、好きだよ。かけっこだと、ボク、負けたことないんだ」
「この間、食べさせてもらった、茶色いやつ。からあげ?ボク、だいすき!」
「ねえ、あの鳥なんていうの?ボク、カラスしか知らなくて。あ、スズメっていうんだ、かわいいね」
「歌が好きなんだ。たまにね、ゴシュジンサマの部屋から聞こえてくるの、聞いてたんだ。一匹でいる時、何回かこっそり歌ったことあるよ」

その全てを、おそ松とカラ松はにこにこと、時に顔を曇らせながらも聞いてくれた。拾ってもらう前の施設の事は思い出すのも今は恐ろしくてあまり言えなかったし、尋ねられる事もなかった。本当は色々聞きたいんじゃないのかなと「14番目」もうっすら思うが、きっと自分に気を遣って尋ねてこないのだろうと思うとつい甘えてしまう。それともう一つ、「14番目」は気になっていても言葉に出せない事があった。
それは、怪我が治った後の、自分の事だ。そもそもどれぐらい「14番目」はこの家にいてもいいのだろう。きっと今すぐにでも確認しなければならない事だけど、「14番目」はとうとう口に出す事は出来なかった。

「おそ松、電話だ」

その日は、あまり聞きなれないプルルル、という電子音が部屋に響いた。最初にカラ松がリビングの隅に置いてあった機械を手に取って虚空へ向かって話し始め、すぐにおそ松を呼んだ。カラ松の言葉に「14番目」は、あの機械をたまにゴシュジンサマが使っているのを見た事があるなと思い出していた。確か、遠くの人と話す事の出来る機械だったはずだ。
カラ松は相手が誰かを言わなかったが、おそ松には伝えられなくとも誰か分かったらしい。受話器を受け取って親しげな声を上げていた。

「はーい、もしもし、お兄ちゃんだよー。……えー?ひっどいなあ、今俺ちょー機嫌良いんだから仕方ないじゃん、お前ももーちょっと愛想良くした方がいいよチョロちゃーん。……あーあーごめんごめん、分かったって。で、本題なんだけど、この間話したあいつの情報、集まった?……そう……」
「ずっと喋りっぱなしで疲れただろう、ライトニングサンダー。何か飲むか?」

何となくおそ松の会話を聞いていると、カラ松が尋ねてきた。この間飲んだあんまいやつが美味しかった、と一生懸命伝えている間に、おそ松の電話はいつの間にか終わっていた。ちなみにあんまいやつの正体はココアという飲み物だったらしい。



九日目。お喋りがようやく落ち着いてきた「14番目」は、リビングでゆったりとした時を過ごす。まだあんまり動くな、とも言われていたし、「14番目」自身も外なんかに出ていこうとは思わなかった。傷はもうだいぶ治ってきていたし、散歩程度なら難なく出来るだろうが、それでも「14番目」は外から目を逸らし続ける。
恐ろしいのだ。もうあの地獄のような施設から抜け出して一週間以上が経過している。あんなにも頑なにイヌたちを外に出さなかった奴らが、逃げ出した「14番目」をそのまま放っておく訳がないのだ。どんな形であれ、必ず追ってくるはずだ。そんな恐怖心が、「14番目」を縮こまらせていた。

「どうしたワンコ、寒いか?」

リビングの隅っこに座って震えていた「14番目」にいち早く気付いたおそ松が隣にやってきて、温めるように肩を抱いてくれる。あったかい。こうしておそ松のぬくもりに包まれているだけで、恐ろしい気持ちもどこかへ行ってしまうような気がした。気遣わしげに見つめてくるその顔に、「14番目」は首を振って笑ってみせる。

「だいじょーぶ、なんでもないっす」
「そう?それならいいけど……何かあったらいつでも言えよ。どこか痛いとか、何かが怖いとか、不安だって思ったりしたら、些細な事でもいいからさ」

まるで今の「14番目」の気持ちを読んだかのような事を言って、おそ松はにかりと笑う。その笑顔が目を瞑ってしまいそうになるぐらい眩しく思えて、「14番目」はつい尋ねていた。

「……どうして、ボクの事そんなに気にかけてくれるの?」
「ん?」
「ボク、名前だって無いし、コワイ所から逃げ出してきて……あ、あんまり人に言えないようなこと、してた。ボクの手、見たでしょ?それなのに、どうしてボクにここまでしてくれるの?」

ぎゅっと、パーカーの裾の中で拳を握る。突然こんな事を聞いて、どんな顔をされるか分からなくて思わず顔を伏せた。その頭に、ぽんと、優しく手の平が乗せられる。

「……結局お前のこっちの耳、治らないなあ」

残念そうな呟き。頭を何度か撫でた指が、「14番目」のふさふさ右耳をちょいと摘まんだ。ぴんと元気に立っている左耳と比べて、右耳はくたりと折れ曲がって元に戻らなかったのだ。「14番目」は特に気にしてもいなかったが、おそ松は耳を触る度にどこか残念無念そうだった。指先で耳を摘まみ撫でられ、くすぐったさに「14番目」はくすくす笑った。
……いや、違う、今はこんな笑っている場合では無い。ハッと「14番目」が気付いたのと、おそ松がゆっくりと口を開いたのは、ほぼ同時であった。

「なあワンコ。俺はさ、お兄ちゃんなの」
「……おにーちゃん?」
「そう。これ言ってたっけ?俺には双子の弟がいてさ、昔から一緒にいるカラ松も弟みたいなもんだし、他にも俺の事兄さんって呼んでくれる奴がいて、俺は常日頃からそいつらのお兄ちゃんしてるんだ。ま、いわゆる長男ってやつ?」
「ちょーなん」

自分に兄弟がいたのかも分からない「14番目」にはピンとこなくて、気になった単語をおうむ返しにする事しかできない。おそ松は笑って「14番目」の頭をまた撫でた。

「お兄ちゃんってのはな、弟に助けてって言われたらどーしても頑張っちゃうような生き物なの。んで、弟にはいつでも笑っていて欲しくなっちゃうわけ。理屈抜きで。だから何でとかどうしてとか、そういう理由は意味ねえの。あえていうなら、お兄ちゃんだからっつーこと!」

あっけらかんと言ってのけるおそ松に、「14番目」は首を傾げた。

「でもボク、おとーとじゃないよ。それに、たすけてって言ってない」
「ほんとに?」
「え?」

じっと見られたって、「14番目」は嘘を言っていない。太陽の弟なんて、もし本当にそうだったとしたら何て幸せな事だろうと思うが違うし、ずっと声なんて出してなかったのだから助けてなんて言う訳がないのだ。困惑して見返すが、おそ松はにっこり笑うだけだった。

「俺にはあの時確かに、助けてって聞こえたんだよなあ」

あの時とは、どの時だろう。尋ねる前に、おそ松は「14番目」の肩を自分側に引っ張って、頭を抱き込んできた。

「なあなあ、ワンコ、俺みたいなお兄ちゃん、どお?」
「わっ、う?」
「これでも物心つく前からお兄ちゃんやってきたベテランよ?弟の扱いに関しては右に出る者はいないぜー?何せ今俺の弟は……何人だっけ、えーとカラ松とーチョロ松とーチョロ松んちの二匹入れてー、ほら、四人いるんだぜ!もう大ベテランよ!」
「……俺はおそ松の事を兄貴とはあんまり思っていないがな」

盛り上がるおそ松に口を挟んできたのはカラ松だ。今まで傍に座って「14番目」たちの様子を見守っていたのだが、とうとう不服そうに声を掛けてきた。途端にえーっと眉を吊り上げたのはおそ松だった。

「何でだよカラ松!俺が何年お前のお兄ちゃんやってきたと思ってんの!小さいころからチョロ松とまとめて兄として面倒見てやってきたじゃんか!」
「だから、それこそ昔から言ってるだろ、チョロ松は本当の弟でも俺は弟じゃなくておそ松の飼いイヌ!お前が俺の事をあまりペット扱いしたくないって気持ちは嬉しいけど、それとこれとは別の話であってだなあ」
「やだもーん!お前もチョロ松んちのネコたちも俺の弟だもーん!獣人とかそういうの関係ないもーん!」
「いやだからおそ松のその気持ちはものすごく嬉しいけれども!」
「ワンコォー!お前なら分かってくれるよな、俺のカリスマ溢れるお兄ちゃん力!」

「14番目」が口を挟めない次元でカラ松と言い合いをしていたおそ松が唐突に抱き締めてくる。きっとチョロ松って人がさっき言ってた双子の弟なんだろうなと理解しながら、「14番目」はおそ松に向かって頷いていた。

「うん。すごくお兄ちゃんだなって、思うよ」
「おお、マジか、ワンコ……!」
「ボクもゴシュジンサマみたいなお兄ちゃんがいたらなぁ」
「……ストップ、ワンコ」

すると突然、おそ松が真顔になって「14番目」の言葉を止めてきた。何故だろうか、妙なプレッシャーを感じる。

「その、俺の事ゴシュジンサマって呼ぶのやめようって、前に言ったよね」
「え……で、でも、人間の事はそうやって呼ばなきゃだめって、ボク、昔教えられて、」
「俺はヤなの。そのクソ野郎に教えられた言葉は一旦忘れよう。んで、ちゃんと覚えて。俺の事はおそ松お兄ちゃんって呼ぼう、な?」
「さりげなくお兄ちゃん呼びを強要するな」

真剣に訴えかけてくるおそ松の頭をカラ松が叩く。「だってお前がお兄ちゃんって呼んでくれないんだもんー!」「思ってないんだから呼べるか!」「ひどい!」とまたしても目の前で始まった言葉の応酬を聞きながら、「14番目」はそっと目を閉じていた。そうすると顕著に感じるのは、未だぎゅうと抱きしめてくるおそ松の腕の熱だ。
『俺みたいなお兄ちゃん、どお?』なんて。問いに答えた言葉は紛れも無く「14番目」の本心であった。昔から弟だと豪語されている同族のカラ松が、これほどまでに羨ましくなるほど。

「……ほんとーに、そうだったらいいのに」

ぽつりと小さく呟いた己の弱々しいその願望は、誰にも聞かれていないと「14番目」は思っていた。



十日目。この日「14番目」はお喋りを少しだけ控えた。一度外に出たおそ松が持って帰ってきた紙の束を、どこか険しい表情でもくもくと読み込んでいたからだ。邪魔をしちゃ悪いと口を紡ぐ「14番目」に、カラ松が話しかけてくる。

「なあライトニングサンダー、お前は文字を読めるか?」
「え、う、うん、むずかしいのじゃなければ……」
「カラ松、いつの間にかまたワンコの呼び名変わってたけど、それ、ダサいの一周通り越してかっこよく思えてくるから怖ぇわ」
「フッ、そうだろうかっこいいだろ……えっ怖い?」

視線は上げないまま律儀にツッコんでくるおそ松は、どうやら書類を読みながらもこちらの話は聞いているらしい。すごいなあと思っていた「14番目」の目の前に、一冊の本が差し出される。

「それじゃあ、文字を書くのは?」
「……書いた事は、ないっす」
「それならちょうどよかった。文字、練習してみないか?何を隠そう俺もおそ松たちと一緒に昔から勉強していたくちでな」

今どきの獣人なら人間と同じように学ぶジーニアスも多いんだぜ、と、カラ松が尻尾をファサッと振ってかっこつける。「14番目」に手渡された本には、ひらがなドリルと書かれている。中をめくってみれば、お手本通りにひらがなを練習できるよういくつも書き込む枠が並んでいた。べんきょう、と「14番目」は口の中で呟いた。
最低限は読める様に、と文字の読み方は無理矢理叩き込まれた。しかしそれ以上は必要ないと教えられていない。あの施設での暮らしはそういうものだった。「14番目」のためでなく、「14番目」を管理する人間たちにとって有用であるか、そうでないか。そんな取得選択で育てられた。しかし今目の前に置かれた本は、「14番目」のために用意したものだと言う。「14番目」が学びたければ、使ってみてくれ、と。

「文字を書けるようになると楽しいぞ。俺もこの胸にあふれるパッションをたまに手紙にしたためる事があるんだが、あれはなかなかクセになるぜ……」
「ああ、あの意味不明なポエムの山な。いい加減整理しないと今度まとめて燃えるゴミに出すかんな」
「え……そんな……」

しゅんと耳と尻尾を垂れさせて落ち込み始めるカラ松を放っておいて、おそ松がにっと「14番目」へ笑いかけてくる。

「お前が文字書くの覚えたら、俺と手紙でも交換するか?ま、同じ屋根の下じゃ意味ねえけど!」
「安心しろライトニングサンダー、少し練習すればすぐにおそ松の字よりも読めるものを書けるようになるさ。おそ松の雑な字はいっそ芸術的ですらあるからな……」
「よけーなお世話だよ!」

「14番目」はにぱっと笑って、パーカーの袖越しに手渡されたペンを握った。手紙交換しよう、と言ってもらえたことももちろん、あれだけ厳しい顔をしていたおそ松が、自分を見た時だけは表情を和らげたことが単純に嬉しかったのだ。それを意識すると体にやる気がみなぎってきて、さっそく「14番目」はひらがなドリルを開いた。上手に文字を書けるようになったらきっと、あの笑顔が嬉しそうに華やいで褒めてくれるだろう。残念ながら今のおそ松は、再び書類に目を落として難しい表情に戻ってしまったが。たまに殺気すら感じる気がする。

「おそ松、眉間」
「いやだってこれ……読んだら眉間に皺どころじゃねえよ……お前も後で読んでみ、胸糞悪くて死にそうになるから」

ひそひそとやりとりするおそ松とカラ松から、たまに向けられる柔らかいような悲痛に濡れたような視線に、「14番目」はひらがなの練習をしながら首を傾げるしかなかった。書類の中身は結局、絶対に「14番目」は見せてもらえなかった。



十一日目。今日も文字を書く練習を熱心に繰り返した。早くちゃんと文字が書けるようになりたい事と、あとは今日は何故か、カラ松の方が機嫌が悪そうだったので、大人しくしていようと思ったからだ。

「カラ松、眉間」
「……無理だ。あんなの……人間がする事じゃない……」
「はあ。やっぱお前にも全部は見せないで、俺が要点だけ話して聞かせりゃよかったか」

落ち込んでいるのか、苛立っているのか、その両方なのか。カラ松は耳を力なく伏せながらも時折尻尾をパシンパシンと床に叩きつけながら、ままならない自分の感情を持て余しているようだった。「14番目」が不安そうに見つめていれば、おそ松が困ったように笑いながら頭を撫でてくれる。

「あー、ごめんな不安にさせて。あいつ、ちょっと辛いもん見ちゃってナーバスになってんだわ」
「……それって、昨日おそまつサマが読んでた紙っすか?」
「んんーその「サマ」ってのも止めて欲しいんだけど、まあ今はいいや。そうだよ。お前にはちょっと見せられねえんだけど……悪いな」

そうやって笑ってくれるおそ松も、やっぱり元気が無いように見えた。一体どんなことが書かれていたのかは分からないが、世話になっている人たちがこんなにも落ち込んでいるのだから何かしてあげたかった。少し考えた「14番目」は、何にでも使っていいぞと与えられていたスケッチブックに、昨日から猛特訓している文字を自分なりに丁寧に書き記した。
やがてそれが完成すると、おそ松とカラ松の元へと飛んで行った。

「おそまつサマ、からまつさん、これ、見て!」
「え……お、おお、ライトニングサンダー、お前もうそれだけ文字が書けるようになったのか……!」
「へえ、すごいじゃんワンコ!どれどれ?一体何て書いて……」

「14番目」が差し出したスケッチブックを覗き込んだ一人と一匹は、そのまましばらく固まった。「14番目」が必死に書いたその文章は非常に短い。たった六文字でしかないそれには、しかし「14番目」の精一杯の想いが込められていた。

『げんきだして』

「14番目」に笑顔を思い出させてくれた大事な人たちにも、ずっと笑顔でいて欲しい。そんな気持ちで、「14番目」もぱっと笑顔でスケッチブックを指していた。その体に、四本の腕が力強く巻き付いたのはすぐ後の事だった。

「う゛お゛おおおおん!らいとにんぐさんだああぁぁぁ!」
「へ?へっ?!」
「んもおおお良い子!!ワンコは良い子!!偉い子良い子!!!」
「???」

自分がちょうど弱まっていた彼らの涙腺を著しく刺激してしまった事など露ほどにも思わず、「14番目」は号泣するおそ松とカラ松に挟まれたまま、困惑するしかなかった。



十二日目。ただでさえ優しかった一人と一匹は「14番目」に甘々だった。特にカラ松が露骨で、おそ松に何度か頭を叩かれていた。

「ライトニングサンダー、腹は減らないか?喉は?痛いところとかないか?苦しくないか?悲しくないか?夜は眠れているか?毎晩子守唄でも歌って……あいだっ」
「カーラーまーつー、あくまでもいつも通りにっつったよなあ?」
「??ボク、元気だよ」
「そっかそっか、包帯も随分取れたしよかったなぁ」

深かった傷跡が未だ残っているが、傍から見ただけだったら「14番目」はほとんど全快状態だった。これだけ回復すればもう、他人からの世話も必要ないだろう。その事実は「14番目」の胸に重くのしかかった。いつまでこの家にいていいのか、聞けない質問が頭の中をぐるぐると渦巻く。
おそ松に電話が来たのは、そんな時だった。

「もしもし。……ああ……うん、分かった。やっとこの日が来たか。……ああ、明日、な」




十三日目。お昼過ぎ、おそ松は「14番目」の頭を撫でて、優しく笑いながら言った。

「なあワンコ、今日は俺達ちょっと出かけてこなきゃいけない用事があるんだよ。帰りが遅くなるかもしれないけど、それまでここで留守番しててくれね?」

今までどちらかが外出する事はあっても、「14番目」を残して両方が出かける事は無かった。初めての申し出に、「14番目」は耳と尻尾をぴんと緊張で伸ばした。留守を任されるなんて、ある程度信用が無ければ提案されない事だろう。ごくりと喉を鳴らして、恐る恐る尋ねる。

「ぼ……ボクでいいの?」
「は?いや、聞いてるのはこっちなんだけども……一人にするのは心配なんだけど大丈夫か?ごめんな、今日はどうしてもカラ松と一緒に行かなきゃいけなくてさ」

どうして謝られるのかが分からない。「14番目」としてはむしろ、今まで一匹で留守番も出来なくてごめんなさいという心境だった。「14番目」の見張り役にどちらかが残らなければならない状態は、さぞかし自由が無かっただろう。申し訳なく思って、自然と耳がしゅんと垂れ下がっていた。
そんな心情を、どうしてこの人は正確に読み取る事が出来るのだろうか。おそ松が慌てて「14番目」の肩を掴んで言い聞かせてきた。

「いや、お前何でか自然とネガティブに捉えてるみたいだけど、違うからな?怪我したお前を一人にしておくのが心配で俺達いままで残ってたんだからな?心配っていうのは、お前が何かしでかすんじゃないかって事じゃなくて、お前にもしもの事があったらっていう方の心配だからな?そこんとこちゃんと理解してな?」

おそ松があまりに必死なので、「14番目」もこくこくと頷いた。ほっとして手を離されても、胸の内に宿った熱が離れる事は無い。心配。おそ松は「14番目」の事を心配してくれていた。そう思うだけで、体内に炎が生まれたかのようにぼっと温かくなる。思わず黄色い袖に隠れた手で胸元を握りしめた。

「フッ、案ずるなブラザー。おそ松と俺は必ずお前の元に帰ってくる……これは決して破られる事のないプロミスだ。信じてくれていいぜ」
「んーそうそう、痛い言い方はともかく、俺達二人で必ず帰ってくるから。これは絶対、な」

パチンとウインクしてくるカラ松も、にっと笑って鼻を擦るおそ松も、しっかりとした目で「14番目」を見る。そこには決意が見えた。約束を違える事は無いと言う強い意志に、「14番目」も深く頷いて答えた。

「分かった。ボク、お留守番しとく。ぜったいぜったい、このおうち守るから」
「へへ、そっか。ありがとなあワンコ。そんじゃ、いってきます!」

最後に二本の腕が「14番目」の頭をもみくちゃに撫でて、二つの背中は玄関の向こう側へと消えていった。それを見送ってから初めて、「14番目」は何故おそ松もカラ松もあれだけ一生懸命「必ず帰る」と伝えてきたのか、理解した。
しんと静まり返った部屋の中。初めて過ごす一匹だけの空間は、あまりにも、寂しかった。

「……早く帰ってこないかな……」

今出掛けたばかりだというのに、「14番目」は早くもあの赤と青が己の傍に戻ってくる事が待ち遠しくなった。それを自覚して、思わず膝を抱え込んで顔を伏せる。
いつかは。怪我もほとんど治った今からなら遠くも無い未来、あの温かな色から離れなければならないというのに、いつから自分の心はこんなにも脆くなってしまったのだろう。今まで長い間、一匹だけで耐え忍んで生きてきた時には感じた事も無かった寂しさに、「14番目」は打ちのめされていた。
今はとにかく、惨めに縮こまるこの身を早く、あの温かな太陽に照らしだしてほしかった。





ガチャ、と玄関の方から聞こえた音に、瞬時に耳をぴんと立てた「14番目」は激しく反応した。
辺りはいつの間にか真っ暗になっていた。おそ松たちが出かけてから、「14番目」は用意してもらった夕飯も食べずにずっと部屋の中で蹲っていたのだった。その身を襲う寂しさから逃れるように、しかし不届き者の侵入者や帰ってきたおそ松たちにすぐさま気付けるように耳だけは働かせて。正確な時間を「14番目」には把握できていなかったが、今がきっと深夜に当たる時間であろう事だけは分かった。

「ただいま……ワンコ、寝てんのかな?」
「きっとそうだろう、もうじき日付も変わる時間帯だ……ん?」

こそこそと小声で会話するそれは、間違いなくおそ松とカラ松のものだ。嬉しさに一度尻尾を振りたくりかけた「14番目」だったが、その鼻が嗅ぎ取った臭いにすぐさま身を固くする。
「14番目」は施設にいた頃から他のイヌよりも嗅覚が優れていた。そんな「14番目」の鼻が告げている。ある意味この身に慣れ親しんだその臭いは、決して彼らから臭って良いものではない。帰ってきたおそ松たちから、拭い去る事の出来ない争いの名残を感じ取ったのだ。どうして、と混乱している内に、部屋に上がり込んできた足音はすぐそばまでやってきた。

「……ライトニングサンダー、そこにいるのか?」
「え、ワンコそこにいんの?リビングで寝落ち?」

匂いをかぎ取ったか、夜目が効くのか。怪訝そうなカラ松の声が、パチッと部屋の電気をつける。一気に明るくなった視界にとっさに目を瞑れば、頭上から焦ったような声が降ってきた。

「あれ、起きてる?!おーいワンコ、もしかしてずっとここにいたのかよ?先に寝てて良かったのに……出掛ける前に言っておけばよかったなあ」

目の前にしゃがみ込んでこちらを覗き込んできたおそ松は、いつもと変わらぬ顔だった。向こうに立って心配そうに見つめてくるカラ松共々、一見怪我や争った形跡なんかは見当たらない。それでも「14番目」は己の鼻を疑わなかった。尋ねられた事に応える余裕も無く、伸ばされた腕の裾をぎゅっと掴んで驚く顔へと詰め寄る。

「ど、どこいってきたの?けが……けが、してない?」
「えっ」
「臭いがする。あんまり、血の臭いはしないけど……それでも、どこかでケンカ、してきたの?けがとか、してたらやだ。ボク、おそまつサマたちが痛いおもいするの、いやだ」

こみ上げるものを必死に抑え込んで「14番目」が訴えれば、きゅっと口元を引き締めたおそ松が一度だけカラ松を振り返った。目が合ったカラ松も決意したような顔で頷く。すると一人と一匹は改めて「14番目」の目の前に座り、正面から向き直ってきた。

「ワンコ。今からお前がびっくりするような事を言うかもしれないけど、よく聞いてくれよ」
「?うん」
「あのな。……お前はもう、元いた場所に帰らなくて、いいんだ」

びくり、と「14番目」の耳と尻尾が反応した。目を丸くする「14番目」に、おそ松は静かに頷く。カラ松は隣に座って、様子を窺うように見守っていた。

「俺の知り合いにな、獣人関係に強いやつがいるって前に言ったと思うけど、そいつについてって今日、お前がこれまでいたとこ制圧すんの見てきた。元々目を付けられてた違法の施設だったみたいだな。今まで証拠とか足りなくて手が出せなかったらしいんだけど、お前が眠っている間に色々調べさせてもらって、今回とうとう摘発出来たって流れだ。表向きは獣人の保護をうたってた施設で……って、今はこの辺の詳しい説明はいっか」
「あ……え……」
「……お前に何もかも黙って動いた事は謝る、ごめん。でも、どうしても、先にケジメ付けときたかった。お前を拾った人間の責任としてさ」
「施設の制圧は俺達も力を貸したんだぜ」

横からカラ松が付け足してくる。「14番目」の頭の中は真っ白だった。帰る場所が、もう無い。あの地獄のような施設は、おそ松たちが取り押さえた。あそこにはもう帰れない。帰らなくても良い。その事実がぐるぐるとまわるばかりで、上手く飲み込めない。あまりにも突然の事すぎた。目さえも回している「14番目」の姿に、おそ松は申し訳なさそうにその頭を撫でた。

「いきなりごめんな、混乱しただろ。……お前がどんな目に合ってきたのかは、簡単な資料でだけど、目にした。これも勝手に探ったりなんかして、悪かったと思うけど……」
「……いい、の?」
「ん?」
「ボク、もう、あそこに帰らなくて、いいの?」

呆然とした呟きに返されたのは、何よりも光り輝く笑顔だった。

「もっちろん!あんな場所に帰らなくたっていいし、無理矢理連れ戻したりするような奴もいない。だから、もう安心していいんだからな!」

ああ。やっぱりこの人は、「14番目」が一体何に怯えているのかなんて、お見通しだったのだ。自然と目元に溢れだしてきた何かを慌ててだぶついた袖で押さえつけた「14番目」は、すぐに次の恐怖に襲われる事となる。それはあの施設に戻されるかもしれないという恐れと共に、ずっとその胸の内に巣食っていた凍えるような気持ちだった。
帰る場所が無くなった「14番目」。それでは……それでは、「14番目」はこれからどこで生きていけばいいのだろう。壁の中で生きる事しか知らなかった「14番目」には、行く場所などどこにもないのに。
この部屋から、太陽の傍から追い出されてしまえば、どこにも。

「……さーて、んで!これからが本題なんだけど!」

「14番目」が沈みかけた暗い思考を断ち切るように、パンと高い音が鳴った。おそ松が両手を合わせた音だった。びっくりして顔を上げれば、変わらない太陽の笑顔がそこにあった。

「なあワンコ。前、俺がお前に聞いた事覚えてる?」
「……な、に?」
「俺みたいなお兄ちゃん、どうよ?って、聞いたよな」
「う、うん……?」

突然の質問に「14番目」は首を傾げる事しか出来ない。するとカラ松まで目元に手をあてて、なにやらかっこつけたポーズを取り始めた。

「それならこの俺もどうだ?世界一かっこいいイヌの兄貴だ……この上なく誇らしいと思わないか?」
「まーこういうサイコパスな兄がついてくるっていうのはマイナスポイントかもしれないけどさ、俺のお兄ちゃんパワーでむしろプラスになると思わねえ?な?」
「ま、マイナス……?!」

先を争うように詰め寄ってくる一人と一匹に、「14番目」はタジタジだった。何故今この質問を繰り返されているのだろうと疑問に満ちた頭に、その言葉はすとんと、入り込んできた。

「なあ、ワンコ。俺達と兄弟にならない?」

パチ、と瞬きをしておそ松を見る。にこにこと笑う赤色が、真っ直ぐ手の平を差し出してくる。

「お前が良いっていうんならだけど。カラ松と同じように、俺の弟にならない?」

え。えっ。助けを求めてカラ松を見れば、尻尾を振りながらにこっとこちらも笑顔を返される。

「つまり俺のようにおそ松の飼いイヌにならないかって事だ。こいつは意地でも俺たちをペット扱いしてはくれないがな」
「そーだよ、俺はお前らの事ちょっと耳と尻尾の生えた弟にしか見ないから。な、それでもいいなら、俺の事お兄ちゃんって呼んでよ。お前が嫌だったり、他に帰る場所があるってんなら、はっきり断ってくれてもいいから。でもそうじゃなくって、なってもいいかなーって思うならさ、お願い」

手の平は目の前に差し出され続ける。「14番目」がいくら瞬きをしたって、目を擦ったって、消える事無く「14番目」を待っている。視線をあげれば、太陽が「14番目」を見て笑っている。

「俺の弟になってくれよ」

ぼろ、と黄色に包まれた手に雫が零れ落ちた。室内なのに突然雨でも降ってきたのだろうかと一瞬思ったが、それが自分の瞳から流れ落ちているものだとすぐに気付いた。「14番目」は泣いていた。今までずっと、泣き方など忘れて生きてきたというのに、この部屋に来てから「14番目」は泣き虫になってしまった。ひく、と喉が鳴る。「14番目」に沢山の事を思い出させてくれた太陽は、それ以上のものを与えようと「14番目」を待ち続けている。「14番目」は心底困った。今まで十分温かかったのに、これ以上太陽の光に照らされてしまえば自分は焼け死んでしまうと思った。
でも、それでも良かった。

「っひ……ぅえ……な、りたい、!」

しゃくり上げながら、「14番目」は何とか言葉を紡ぎ出す。雨雲のように泣きながら、「14番目」の太陽へと懇願する。

「ボク、あなたのおとうとに、なりたいっ!」

長い袖から指を出し、差し出される燃えるような手の平を両手で包み込んで、「14番目」はあの時のように強く願った。
一番最初に、この太陽と出会ったあの時。心から願った想いをそのまま、祈るように口にした。

「ボクを、あなたのそばに、いさせて下さい……!」

身を切るような響きを伴ったその願いに、答えたのは太陽の抱擁だった。

「ああ。これからお前は、俺の弟だ」

正面からぎゅうと抱き締められる。「14番目」はとっさに赤いパーカーにしがみついて、顔を押し付けた。心がざわつくような争いの臭いの向こう側に、ここ数日で慣れ親しんだおそ松の匂いがする。吸い込めば、心が何よりも安堵した。当たり前だ、だってこの部屋にやってきてから「14番目」はずっと、この香りに抱き締められて眠っていたのだから。何よりも安心する太陽の匂いなのだから。



「よっし、晴れて俺の弟となるからには、名前を付けてやんないとな!」

いつの間にかカラ松も参戦してしばらく一人と二匹で強く抱き締め合った後、意気揚々とおそ松がこちらを見た。正式に弟となるまで我慢してたんだ、と嬉しそうに話してくれる。

「それなら俺もかっこいいのを考えておいたぞ。輝く黄色がよく似合うお前には……ヘリアンサス・サンブライトなんて、どうだ?」
「カラ松はちょっと黙ってて」
「案を出す事さえ拒否?!」

一生懸命考えたのに、と項垂れてしまったカラ松を撫でてやりながら、うんうん考え込むおそ松の様子をうかがう。やがて顔を上げた瞳は時計と、カレンダーを見つめた。カレンダーの見方はまだよく分からなかったが、赤い丸が朝起きる度に一つずつ増えていた事だけは分かる。それを見て、おそ松が満面の笑みで振り返ってきた。

「なあ、そういやいつの間にか日付が変わってるから、今日がお前と初めて会って十四日目になるんだな!」
「え?……じゅうよん?」
「そうそう。なんか超区切り良いじゃん。……そうだ、これにしよう!」

きゅっと、14個目の丸をカレンダーにつけてから、おそ松は鼻を擦って笑った。

「お前が俺達と出会ってから十四日っていう記念すべき数字と、俺達の名前から一文字取って……『十四松』!」

十四松。

「なあ、どうだ?十四松、って、どう?気に入った?」

十四松。十四松。十四松。
何の意味かも分からない、何の意味も無かった「14番目」という数字が、何よりの意味となって書き換えられる。
十四松。太陽に拾われて、太陽の弟となるまでの、大切な数字。太陽に与えられた名前。

「じゅうしまつ」

それが、初めて付けて貰った、自分だけの名前。


「……ん、気に入ってくれたなら良かったよ」

ぽんぽんとおそ松に頭を撫でられる。横からカラ松がタオルを持って来てくれて、優しく顔に押し当ててくれた。際限なく零れ落ちる雨でべしょべしょになってしまった顔面を有難く拭いていれば、元気の良い声が夜中にもかかわらずよし!と叫んだ。

「そんじゃ練習するぞ!俺は松野おそ松、お前のお兄ちゃんだ!お兄ちゃんは何て呼ぶんだ?ん?おそまつサマとか薄っぺらい呼び方じゃあ無いからな?わっかるっかなー?」

期待に満ちた目がじっと見つめてくる。お兄ちゃん。ご主人様でも、飼い主でもない、初めての人。戸惑いに視線を揺らせば、カラ松が口パクで正解を教えてくれる。その口から読み取った通り、はいっと手を挙げて答えた。

「おそ松兄さん!」
「せーいかーいっ!!」

ご褒美だーと頭をわしゃわしゃ掻き混ぜられる。すぐに解放されたと思ったら、二つ目の期待した瞳がすかさず向けられた。

「そして俺は松野カラ松、同じくお前のエルダーブラザー、兄さんだ!さあ、俺の事も遠慮なく思いきり呼んでみせてくれ、ニューブラザー……!」

きらきら、と輝いて見えるほどの視線に、再び手を挙げて答えてみせる。

「カラ松兄さん!」
「ザッツライト!パーフェクトだ!」

諸手を上げて喜ぶカラ松に、こいつあんまり兄さんって呼ばれないからなあとおそ松がくすくす笑っている。……さて、お次は、自分だ。一人と一匹の、新しい兄たちからの視線が集まる。

「んで、最後は俺たちの弟、松野十四松くん!」

貰ったばかりの名前は、それなのにどうしてか、ひどくしっくりとくる響きで。黄色に包まれた両手を挙げて、本日最後の涙をぽろりと一粒だけ零してから、「十四松」は声を張り上げた。

「はい!ボク、十四松です!」






16/05/03


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