ぼくらの太陽 1
夕暮れ時の赤に染まった河川敷を、黄色い塊が嬉しそうにコロコロと駆けている。時折チカリ、チカリと夕日を反射する光は首元のドッグタグから放たれているのだろう。それも相まって、まるで眩い閃光が自由に地上を遊び駆けているかのようだった。喜びを全身で表すその夕焼けにも負けない鮮やかな黄色の正体は、袖口の伸びたパーカーだ。土手の上を並んで歩く自分たちと、お揃いの。
「ずいぶんと元気に駆け回るなあ、あいつ」
周りに誰もいなくてよかったなーと微笑ましそうにその光景を眺めていたおそ松がのんびりと声を上げたので、カラ松は己の隣へと視線を向けた。空に溶け込みそうな赤色を着たおそ松の、黄色を見守るその顔は既に立派な温かい保護者のそれであったが、その口から飛び出してきた言葉は少しだけ不安に揺れていた。
「……なあ、本当にこれでよかったと思うか?」
「何だ、どうした今更」
赤と、青と、黄色と。連れ立って歩き始めた頃の空の青色そのままを身につけたカラ松は首を傾ける。一番最初に俺は止めたぞと言外に語られて、そうなんだけどさ、とおそ松は肩を竦めてみせた。
「やっぱ俺、お前らに首輪つけんの抵抗あるんだよ。姿かたちは俺とほとんど同じなのに、一方的に縛り付けてるみたいでさ」
「ああ……」
なるほど、とカラ松は納得した。納得して、やっぱり今更な事じゃないかと呆れた。そうして溜息を吐く青色パーカーの首元には、年季の入った赤い首輪。向こうで転げ回っている黄色いパーカーの首元にも、ほぼ同じデザインで真新しい真っ赤な首輪が光っている。赤色パーカーには無いものだ。
このやり取りは、それこそカラ松がおそ松と今まで暮らしてきて何度も交わされたものだった。そしてその度に、「飼いイヌ」は「飼い主」につらつらと言い聞かせている。
「おそ松、何度も言っているが俺達「獣人」にとって基本的に敬愛する飼い主からの首輪というものは、この上なく嬉しいものだ。例外はいるかもしれないが、俺は大多数の他の「イヌ」と同じようにお前から与えられたこれが誇らしい。あいつだって、今の飛び跳ねてる様子を見ればどう思っているかなんて一目瞭然だろう。アンダスタァン?」
誇らしげに胸を張って、首輪を指で弾いてみせたカラ松の背中側では、何よりもその気持ちを代弁する器官がふさふさと揺れていた。嬉しそうに揺れる犬の尾と、自己主張するようにぴくぴく動く犬の耳と、どうだと笑うカラ松の顔を見比べて、やがておそ松は気が抜けたように吹き出した。
「あーもー、お前のドヤ顔ほんと腹立つぐらい決まってて、悩む気も抜かされるわぁ」
「……それは褒められているのか?」
「褒めてる褒めてる。……そーだよなあ、あいつの面倒見るって決めたのは俺なんだから、こんな事でうじうじ悩んでる暇は無いよな」
ぐっと伸びをして見せたおそ松は、町の向こうに沈みこもうとしている太陽を見つめて、珍しく真剣な声を出した。それは太陽にか、己の胸へか、誓いを立てているような厳かな声色だった。
「正式にあいつの飼い主になったんだ、最後まで責任は持つよ。……首輪は、俺達人間のそういう誓いの証でもあるんだ」
カラ松はその横顔を見つめて、より一層尾を機嫌よく揺らした。普段は飄々としていて掴み所のないこの飼い主が、実は誰よりも責任感が強い「兄」である事を知っている。そんな男の飼いイヌである自分が嬉しくてたまらなかったのだ。出来る事なら世界中のイヌに「これが俺の飼い主だ!」と自慢してまわりたいほどの衝動が胸を襲う。遠吠えを上げたい気持ちを必死に押さえつけていたカラ松の隣で、照れたように鼻の下を擦ってみせたおそ松が気を取り直して一歩踏み出し、眼下で未だに一匹走り回っている新しい飼いイヌへと呼びかけた。
「おーい十四松ーっ!そろそろ帰んぞー!」
飼い主からの呼び声に、黄色いパーカー、十四松は敏感に反応した。ぱっとこちらに振り返ったと思ったら、猛スピードで駆け寄ってきて、そのままおそ松へと飛び掛かっていった。
「兄さん!兄さん!おそ松兄さあああああん!」
「うおおっ!じゅ、十四松、元気だなー!」
ぎゅうっと抱きついてきた十四松の体を思いきり受け止めたおそ松の身体が後方へと傾く。カラ松が慌てて背中を支えてやれば、すぐに体勢を立て直したおそ松は腕の中の十四松をぎゅっと抱き締め返した。ぶんぶんと振り回されていた十四松の犬の尾が、ちぎれるんじゃないかと心配になるぐらい激しく暴れた。
「ハイハイハイハハーイ!ボク元気でっす!」
「うんうん、良かった良かった。あ、首輪も大丈夫か?首とか苦しくないか?」
「全然へーき!ちょうどいいっす!」
にぱ、と満面の笑みで答えてみせた十四松は、少しだけその笑顔を翳らせた。伸びた袖に包まれたままの両手で、自分の首に下がる首輪を握ってみせる。
「……ねえ、おそ松兄さん」
「ん?どうした?」
「ほんとにいいの?……ボク、これ、貰っていいの?おそ松兄さんとカラ松兄さんの事、兄さんって呼んでいいの?」
弱々しい声で尋ねてきた頭は、目を合わせる事を恐れる様に俯いている。カラ松が、答えを間違えるなよと肘で突けば、分かってるよと頷いてから、おそ松が改めて十四松の体を抱きしめた。
「なに言ってんだよ、当たり前だろ?つーかもう確認したよな?これ渡すとき、俺がほんとにいいのかって聞いたら、お前うんって頷いたじゃん。それとも、ほんとは嫌だった?」
「っそんな事ない!絶対、ない……!」
「ならそれでいいじゃん!元々は俺が言い出したことなんだから、お前が良いなら良いに決まってんだろ!お前は、俺とカラ松の弟で、大事な家族の一員である、十四松だ!な?」
言い聞かせるようにぽんぽんと背中を叩いて、頭をぐりぐりと撫でてやれば、緊張していた十四松のぴんと立った左耳とぺたりと折れた右耳からほっと力が抜かれたのが傍で見ていたカラ松にも分かった。ぴたりと止まっていた尻尾も動きを恐々と再開する。おそ松の腕の中で、十四松はしばらく静かに、しっかりと飼い主からの言葉を噛み締めているようだった。そして、
「っ兄さん!」
「わ!なに……うひゃ!」
突然顔を上げた十四松が、目の前にあったおそ松の顔にぐっと自分の顔を近づけて、ぺろりと、その頬を舐めた。おそ松と、見ていたカラ松もびっくりして目を丸くしている間に、十四松はぺろぺろと懸命に主人の頬を舐め続ける。ばたばたと揺れる尻尾は、どこか緊張をはらんでいた。
「ちょ、ちょちょ、十四松っ?」
「兄さん!好き!」
「はっ?!」
「好き!兄さん!兄さん!好き!好き……!」
その切羽詰まった様子は、愛の告白と言うよりも不器用すぎる感謝の印である事におそ松もカラ松もすぐに気が付いた。まだまだ世の中に慣れない、自分の感情でさえ持て余す精神の幼い弟の姿に、きゅうと胸を打たれてしまうのは生まれついての兄だからなのか何なのか。おそらくイヌの本能からくる行為をその身に受け止めながら、おそ松はくすくすと笑った。
「だぁいじょうぶ、俺もお前が大好きだよ十四松ぅ」
「おそ松兄さん!」
「あははっくすぐってえってば!分かった、分かったから!」
「おそ松兄さん!好き!セクロスしよ!」
「分かった分かっ……ん?」
「じゅうしまぁぁぁぁぁつ?!」
今何か奇妙な言葉が聞こえたような、とおそ松が首を傾げている間に、カラ松が十四松を抱えて一人と一匹を引っぺがしていた。きょとんとしている十四松の両肩を掴んで、汗をダラダラ流すカラ松が軽く前後に揺さぶる。
「十四松?今何か変な言葉が聞こえた気がしたんだが、俺の気のせいか?ん?もう一回今の言ってみてくれないか?」
「えーとね、おそ松兄さんにセクロスしよ、って言った!」
「何故?!何故いきなりそこに結び付いた十四松っ?!そもそも意味分かって使っているのかお前はっ?!」
あ、聞き間違いじゃなかったんだ、と若干呆けたままおそ松が見守る中で、カラ松による十四松への尋問は続く。
「知ってるよ、セクロスはー好きな人とする事!だからボクおそ松兄さんとセクロスしたい!」
「ん、ん゛んー……!間違っては無い、間違ってはいないんだが!その、具体的に一体何をするのかは……」
「知らない!!細かい事考えないで本能のまま動けばきっと素敵な事が出来るよ!ってさっき一松兄さんとトド松に教えてもらったんだー」
「あああやっぱりあの二匹かぁぁぁ!十四松、あの二匹の言う事は真に受けちゃだめだ!いや、普段はいいんだけど、にやにや意地悪そうに笑ってるときの言葉は絶対だめだっ!」
カラ松が必死に言い聞かせている。嫌な思い出でもあるのだろう。面白おかしそうにおそ松が見守る中、何もわかって無さそうな十四松に、カラ松は息を整えて彼流の決めポーズを決めてみせた。
「十四松、あのネコ二匹よりも飼いイヌの先輩でありお前のエルダーブラザーであるこの俺、カラ松が!直々に飼いイヌの心得を教えてやろう!だからあいつらが教えてきたセクロスの意味とかそういうのは忘れるんだ、いいな?」
「分かった、いいよ!じゃあカラ松兄さん、セクロスってなに?!」
「……それはまた今度の授業の時だ」
純粋な瞳からすっと視線を逸らしたカラ松は、誤魔化すように大きく尾を振った。ただしその仕草が誤魔化すときのカラ松の癖である事を知っているのは横で吹き出すのを堪えているおそ松だけだったので、十四松は素直にこくりと頷いた。後で教えてもらえるなら、とようやく落ち着いたらしい。
期待にハッハッと尻尾を揺らす十四松の視線が、カラ松的にはまんざらでもなかった。昔から何かと馬鹿にされ続けてきたこのかっこつけた態度を、純粋に待ちわびられる事などおそらくほぼ初めての事だったからだ。この場でカラ松のパーフェクト飼いイヌ教室を開きたい心を抑えつけ、カラ松は今度は柔らかく、十四松の肩に触れた。
「全てを教えていたら夜が明けてしまう……これから毎日少しずつ教えてやるから、今は一番大事な事だけをお前に伝えようと思う。十四松、心して聞くんだ」
「あい!」
「良い返事だ。……飼いイヌにとって一番大事な事、それは、もちろん。……愛する飼い主を守る事だ」
対面する十四松の目が見開かれる。横で聞いていたおそ松からえっという声が漏れる。カラ松の顔は至って真面目なものだった。無駄にかっこつけたものではない、ふざけている訳でもない、真剣な力強い視線が、真っ直ぐ十四松を貫いた。
「いいか、十四松。人間は、俺達獣人よりもか弱い。時に寄り集まってひどい事やすごい事をしたりもするが、一人一人は基本的に俺達よりも脆い存在だ。そしておそ松は、人間だ。どんなに偉そうにしても、どんなに喧嘩が強くても、どんなに大きく見えたとしても、一人の人間なんだ。俺達を繋いで包み込んでくれる、誰よりも強くて弱い、俺達の兄さんだ」
「……うん」
「おそ松は俺達を「飼う」事で世間から守ってくれる。だから俺達は、この身でおそ松を守らなければならない。襲い来るどんな脅威からも、俺達飼いイヌが、家族が、おそ松を守るんだ。いいな?」
いや、そんな守ってもらわなくても別にいいんですけど、というおそ松のぼやきなど二匹の耳には入らなかった。矢に心を打たれたように固まった十四松が、ぎこちなく口を動かす。
「………、守れる、かな」
「ん?」
「ボクの、こんな手でも……あいする人、守れるのかな」
今は黄色の向こうに隠れた両手。決して外には出そうとしない二本の黄色を見下ろす体は細かく震えていた。一瞬うろたえたカラ松が何事かを伝えようとする、その前に、横から伸びてきた赤い腕が震える黄色をいともたやすく掴んでみせる。
「当たり前だろぉ?せっかく弟になったんだから、お兄ちゃんとして色々こき使ってやっからな、覚悟しとけよー?」
袖の中に隠した手ごと、心ごと。ぎゅっと抱きしめたおそ松が笑う。目の端に写る沈みゆく赤よりもずっとずっと、目の前の太陽は明るく笑って十四松を照らし出した。その光に溶かされるように、みるみるうちに伝染する笑顔。掴まれた両手を素早く動かし逆に掴み返して、お返しするように十四松も笑った。
「おそ松兄さん!ボク、おそ松兄さんの事守るからね!」
「うお、おおっ?!」
「どんな奴が相手でも、絶対絶対ずえぇーーーったい、守るからねっ!よろしくおなしゃーす!」
「いやだから、そんな守ってもらうほど俺命狙われたりとかしないからね?一般人だからね?聞いてる?ったくもーカラ松お前のせいで十四松までこんなんなっちゃったじゃん責任とれよぉ!」
ぶーぶー文句を言うおそ松と、尻尾を振って嬉しそうに抱きつく十四松。そんな兄と弟を見守りながら、カラ松も笑顔になっていた。暮れてゆく空の下で、赤と青と黄色が仲良くじゃれ合う今のこの時間が、何よりも愛しいものであると感じる。
うりゃあっとおそ松に頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜられて、心底楽しそうに笑う十四松に、安堵の息がこぼれる。本当に、よかった。あの子があれほどまでに笑えるようになって本当に。良かった。まだまだ過ごした時間は短く、正式に飼いイヌと、兄弟となったのはほんの今日であるけれど。あんな風に屈託なく笑える姿に感謝さえ浮かぶほどカラ松は、そしてきっとおそ松も、この新しい弟の事を好いていたのだ。
あれは、何日前の事だったか。賑やかな兄弟たちの声を背景に、カラ松は空を見上げる。夜の迫りくる頭上には星も瞬き始めていたが、地上の光が眩しすぎて全く闇への恐怖を感じる暇も無い。安心して目を閉じて、この弟と初めて出会った日の事を思い出した。
ごくごく最近の事だ。それでも少なくとも、二週間以上前であった事は間違いない。
何故なら、二週間とは十四日間だ。
そして十四日間とは、十四松が「十四松」となるまでの、ささやかで掛け替えのない日々であったからだ。
あれは、時間帯は似ていたかもしれないが、燃えるような赤い夕焼けとは似ても似つかない灰色のぐずった空の下での事だった。
「カラ松、待った」
日課である散歩の途中。突然の静止の声に、ポケットに手を入れて歩いていたカラ松はしかし何の文句も言わずにぴたりと足を止める。何事かと視線を向けた先にあった隣に並ぶその顔は、じっと傍の路地裏を見つめていた。自分たちの住まうマンションから比較的近い、何の変哲もない住宅地の一角であった。つられて視線を移動させて初めて、薄暗い路地の向こう側に微かな生き物の気配を感じる事が出来る。ただの人間であるこの人がどうしてこの気配に気付く事が出来たのだと、感心とも呆れともとれない気持ちでカラ松はふさりと尾を振った。
くん、と嗅いだ鼻に仄かに鉄くさい匂いを感じて、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「おそ松」
咎めるようにカラ松が名を呼んでも、振り返った主人は笑顔のまま、鼻を人差し指で擦ってみせただけだ。何が潜んでいるかもわからない暗がりに、今まで歩いていた飄々とした足取りのまま向かっていってしまう。溜息を吐いたカラ松は、その後ろにぴたりとついたまま、辺りを警戒するように頭上のふさふさの耳を立てながら続いた。
犬の耳と犬の尻尾、それさえなければ普通の人間と同じ姿をしているカラ松は、人間とも犬とも違う「イヌ」と呼ばれる人種だった。姿かたち、歳の取り方や寿命はほぼ人間と同じで、そこに動物の耳と尾が生えている生き物が、この世界には少なからず存在している。彼らをまとめて世間では「獣人」と呼んでいた。カラ松もその中の一匹だ。動物の種類は多種多様に存在しているようだが、カラ松は世の中で最もオーソドックスな獣人の一種「イヌ」である。犬の耳と尻尾を持ち、一般的な人間より鼻が利き、野生の勘が働き、主と見とめた者に従順となる、日本でも良く見かける獣人だった。そしてイヌは、同じぐらい数の多い獣人の「ネコ」ともども、普通の動物である犬猫と同じく人間に飼われている事が大半だった。
カラ松はおそ松の「飼いイヌ」だった。人間に飼われている証拠として、その首には幼少の頃から赤い首輪が付けられている。それは、カラ松がおそ松とほぼ生まれた頃から共に育ってきた証だった。物心ついた頃からカラ松の主人は自分と同じ歳のおそ松で、そしてそれを疎ましく思ったことも、煩わしく思ったことも一度として無い。むしろ、「これは神が己に与えた輝かしいディスティニーなのだ」と胸を張って宣言できるぐらいに誇らしい事だった。つまりカラ松は、おそ松にこれ以上ないほど懐いているのだった。
そんな愛され飼い主のおそ松といえば、普通の人間だった。双子の兄として生まれ、両親がどこからか拾ってきたイヌのカラ松と小さな頃から共に育って、成人して一人暮らしを始めてからもカラ松を飼いイヌとして傍に置いてくれる、カラ松にとって掛け替えのない飼い主の青年だった。獣人の扱いは基本的に飼い主に一任されていて、獣らしく扱うか人間らしく扱うかは人間と獣人双方の同意の元決める事になっているが、おそ松はカラ松をほぼ人として扱い、日々接している。むしろ弟の一人として認識しているきらいがある。もっと飼い主の身を守る番犬的な扱いをしてくれてもいいのにとカラ松自身は思っているのだが、その主張が受け入れられた事は無い。
今も、また。普段は入り込まない路地の裏側なんて、どんな危険が待ち受けているかもわからないのに、心配するカラ松の忠告などお構いなしで先に立って歩いていってしまう。こういう時はせめて前に立たせてくれと何度言っても聞かず、おそ松曰く「一番前に立って弟の事を守るのは長男の務め!」なのだそうだ。昔から己の事を長男と豪語するおそ松は、獣人故に人間より身体の丈夫なカラ松でさえも弟扱いして庇護しようとしてしまう。どこまでも人間らしく対等に扱ってくれるご主人様に、カラ松としては嬉しいやら情けないやら、複雑な心境だった。
「野良獣人が飛び出してきたらどうするんだ」
赤いパーカーのポケットに両腕を突っ込んで前をぶらぶら歩くおそ松に、カラ松が諦めきれずに声をかける。実際、凶暴化した野良の獣人に襲われるケースは有り得ない事ではない。最近は飼っていた獣人を手荒に扱い、挙句の果てには捨ててしまう人間も増えていると聞く。その身に動物の血が入る事で身体能力が普通の人間よりも基本的に高い獣人に襲われれば、一般人では軽い怪我だけでは済まないだろう。カラ松はどんな状況であろうとも主人に怪我一つ負わせる気は無かったが、それでも用心するに越したことはない。
心配性な飼いイヌに、おそ松はけらけらと笑ってみせた。
「だーいじょうぶだって。ほら、だって、そんな元気もなさそうじゃん」
「えっ?」
ぱち、とカラ松が瞬きをしたと同時におそ松が足を止めた。視線は前方、建物と建物に挟まれて行き止まりになっている奥へと注がれたまま。後ろから同じ場所を覗き込んで、ようやくそこに何かが落ちている事に気付いた。
一瞬カラ松は、失礼ながらそれを死体だと思った。狭苦しい路地の奥の奥に打ち捨てられたそれは、辛うじて服の体裁を残したボロボロの布を纏ったまま、己の身を守る様にぎゅうと体を丸めてうずくまっていた。あちこちから露出した肌も余さず傷つき汚れた状態で、赤黒く濡れたその存在は一見とても生きているようには見えなかったのだ。しかし先ほどから感じているこの微かな生きた気配と、目を凝らしてみればようやく気付ける程度に上下する背中を確認して、ようやくこいつは死んでいないのだと気付く事が出来た。ただしそれは今現在だけの話で、数刻もすればそれはカラ松の第一印象通りの末路を遂げるだろう。それほどまでに弱々しい呼吸だった。
ぺたりと伏せられた耳と、力なく地面に落ちる尻尾を見て、こいつは死にかけの獣人であるとカラ松は正しく認識した。しかも自分と同族の「イヌ」である。ここからでは首輪は確認できない。しかし飼いイヌであろうと野良イヌであろうと、この尋常でないほど傷だらけの状態が異常である事は明らかだ。出来るなら関わらない方が良い。何も見なかった事にして立ち去るか、それが出来ないならせめてしかるべき機関へ連絡して、この哀れなイヌの未来を託す事が最善だろう。薄情だなどと思うなかれ、この世は想像以上に物騒なのだ。己の身を守るなら、余計な事に首を突っ込むべきでは無いのだ。学校でもそうやって教わる事だ。
しかしカラ松はそれをすでに諦めていた。己の主人が、こういうあからさまな面倒事を避けて通るような殊勝な人間ではない事を、正しく理解していたからだった。
「おーい、お前、生きてるか?」
通りすがりに昼寝をしていた子犬に話しかけるかのような気軽さで、おそ松は傷だらけのイヌへと近づいていった。慌ててカラ松が止めるその前に、小さくうずくまるその体の目の前にしゃがみ込んでしまう。そうしてようやく判明するが、イヌはどうやらちょうど自分たちと同じぐらいの大きさであるらしい。隅っこに身を寄せているせいで、実際よりもその身体は小さく見えていたようだ。
つまりこのイヌは、成人男性ほどの体格を持っている。こんな瀕死の状態でも襲い掛かられれば危険だ。
「おい、おそ松……!」
「大丈夫だっつってんじゃん、この心配性。な、お前動ける?つーか起きてる?何もしないから、ちょっと顔上げてみ?」
どこまでも軽い声を掛けながら、おそ松が手の平を上にしてそっと右腕を差し伸べる。俯かせた顔を覗き込むように体を傾けて、ひたすら笑顔を向けるおそ松を。
カッと、見開かれた大きな瞳が貫いた。
「おそ松っ!」
カラ松がとっさに肩を持って身を引かせていなければ、おそ松はその右腕を根元から持っていかれていたかもしれない。イヌから一瞬にして放たれた一撃は、僅かにおそ松の腕の皮膚を傷つけて目の前を通り過ぎた。何て禍々しい武器だと思った。一際ドロドロに汚れたそれは、元の色なんて見いだせないほど生臭い血に濡れている。体を汚すものとは違い、おそらくそれは己の血では無いのだろう。おそ松を抱き込んでグルルと威嚇しながらカラ松は、相手を観察して目の前の武器がイヌの腕であるとしばらくしてから気付いた。
普通では無かった。通常イヌの手はほとんど人間のものと同じはずだ。力こそ強いがカラ松だってそうだ。しかし目の前のイヌの腕は、爪が異常に発達しているようだった。ただ伸ばしただけではああも凶器にふさわしい形状にはなるまい。爪の出し入れができる便利なネコのものとも違うそれは、指ほどに長く、コンクリートよりも固く、下手な刃物よりも鋭い、生命を刈るのに最適な腕だった。先ほどのスピードを見れば、力も申し分ない。何なんだこいつは、と、カラ松の尾は警戒にぶわりと膨らむ。
イヌは縮こまった体から伸ばした腕を、そのまま宙に静止させていた。ぽたりと爪の先から垂れ落ちた雫は、今しがたおそ松の腕を裂いた血の跡だろうか。見下ろせばおそ松の腕に四本の赤い線が入っていて、じくじくと痛そうに細い血を流している。結局傷つけてしまった己への不甲斐なさと、大切な人を傷つけられた怒りに、カラ松の気配と毛先がより逆立った。落とし前をつけねばならないと憤っていた。
そんなカラ松の腕の中から、おそ松はするりと抜けだしてしまう。あろうことか、今自分へ容赦なく攻撃を仕掛けてきた相手へ向かって再び歩み寄ったのだ。カラ松は怒りも忘れて情けない声を上げた。
「おそ松?!一体何を、」
「カラ松、お前は絶対手出すなよ」
身を乗り出しかけたカラ松をぴしゃりと打ったその声は予想外に静かだった。おそ松は恐れた様子も無くまっすぐイヌへと向かっていって、先ほどと同じように無防備にしゃがみ込む。鼻先にはイヌの腕があった。あまりにも危険な状態に、カラ松は上げかけた悲鳴を必死に喉の奥へ押し留めた。無暗にイヌを刺激しないように。それと、静止したイヌの腕がどうやら細かく震えている事に気付いたからだ。
イヌは震えていた。見開いた目でじっと己の掲げたままの腕を見つめて、小刻みに震えていた。それは何かに恐れているような姿だった。自分の腕が、恐いのだろうか。自分のものなのに。今確かに自分の力で振っていたものだというのに。そんな震える血みどろの腕を、躊躇いも無く掴む手の平があった。おそ松だった。
「大丈夫」
血で汚れた歪な腕を、柔らかな両手が包み込む。汚れる事も厭わないで、そのまま抱きしめる様に胸の内へ引き入れながら、おそ松はイヌへと笑いかけた。
「怖くないよ」
イヌはぎくりと体を強張らせた。そしてすぐに体力の無い体をそれでも逃れさせようとじたばたもがき始める。鋭い爪の生えた腕を抱き込んだおそ松が危ないと、カラ松は無意味におろおろと一人と一匹の周囲を行ったり来たりした。主人に絶対に手を出すなと言われているために、手助けする事も出来ない。おそ松は腕の中の凶器がどれほど暴れ回っても、決してその手を離すことは無かった。
「大丈夫、恐がんなくていいよ。大丈夫だから」
ただただそうやって腕を抱きしめて、蕩けるような優しい言葉をかけ続けて、どれほどの時が経っただろうか。次第にイヌの抵抗は薄れていった。タイミングを見計らって、おそ松の右腕がゆっくり、ゆっくりと伸ばされる。カラ松はその光景を固唾を飲んで見守った。緊張で耳がぴんと立っているのが自分でもよく分かった。
近づいてくる人間の指を、イヌはビクリと身を竦ませて見つめていた。その瞳は恐怖に染まりきっている。しかしもう、もがく体力も無くなってしまったようだ。イヌは絶望の表情で、おそ松の腕を迎え入れた。
イヌの頭へ驚くほど優しく指先を触れ合わせたおそ松は、ごわつくその髪を繊細な手つきで撫ぜた。何度も何度も指の腹で撫でてから、手の平を使って柔らかく掻き混ぜた。あの温かい腕からの撫でられ心地はカラ松もお墨付きである。イヌは呆けた表情で、自分の頭を撫でる腕と、その向こう側に微笑むおそ松の顔を見つめていた。
「良い子、良い子」
大人しく撫でられている事を褒める様に、おそ松が笑う。イヌの身体からはいつの間にか、こわばりがすっかり溶けて消えていた。冷たい地面に横たわりながら、ひたすらあたたかな手の平の温度を与えられ続けている。体力の限界にあったのだろうイヌの瞼は今、とろとろと落ちかけていた。
そこにおそ松は、傷つき垂れた片耳に優しく触れながら、満面の笑みで問いかけた。
「なあ、お前俺んち来ない?悪いようにはしないよぉ?」
「………?」
「大丈夫、すでに一匹イヌっころがいるけど気は優しいやつだからさ、ちょっと痛いけど」
「おい」
「な?お前、行くとこないんだったら、うちにおいで」
イヌはじっとおそ松を見つめた。やがて目を完全に瞑る前、微かに頭を動かして、意識を落としていった。今のはまるで、おそ松の言葉に頷いたように見えた。
「よし今頷いたな?頷いたよな?っしゃーお持ち帰り決定ー!って事でカラ松、こいつ担いでくんない?」
「ほ、本当か?本当に今頷いたか?いやそれよりもおそ松、本気か?!」
イヌが気を失った事を確認して通常通り声を上げだしたおそ松に、カラ松が答えの分かりきっている事を恐る恐る問いかける。目を閉じてしまった頭をそれでも撫でてやりながら、おそ松は実にあっけなくうんと頷いた。
「どこのイヌかも分からない奴だぞ?こんな大怪我で、それにこの腕、明らかにただ事じゃない。わざわざおそ松が引き取らなくても、チョロ松に連絡して引き取ってもらえば……」
「それじゃあダメなんだよ、カラ松」
「どうして!」
いつもなら、そうしているのに。カラ松が困り果ててそう言えば、おそ松は少しだけ悩んでから、だってさ、と口にした。
「何かな、この手を離しちゃダメだって俺の第六感が囁いてんだよ、お前風に言うと」
「だ、第六感」
「そう。それにお前、こいつの声聞こえなかった?」
声?カラ松は首を傾げた。そういえばこの場に居合わせてから今まで、不思議とこのイヌの声を聞いた事がなかったな、と思い出した。あれだけ激しく抵抗していた時も、腕を振るった時も、不自然なほど鳴き声さえ一言も上げなかった。まるでそうやってあえて努めていたかのようだ。ぱちぱちと瞬くカラ松に、おそ松は微笑みながら言った。
「こいつ、助けてって言ったんだ。確かに俺に聞こえたんだ。……だったら、俺が助けてあげなきゃいけないだろ?」
イヌは名前を持っていなかった。なので、仮に自分の事を「14番目」と呼んでいた。彼がいた施設の人間が、たまにそうやって呼んでいたからだ。一体何の「14番目」なのかは知らない。ただ他の、イヌという種族名やら、グズやできそこないや化け物といった呼び名は、どうにも好きでは無かった。だから比較的マシな「14番目」を選んだだけだ。
「14番目」は物心ついた頃からそこにいた。他にもまだいたイヌたちと一緒に、高い高い壁の中でずっと暮らしていた。「14番目」は外の世界をほとんど知らなかったが、壁の内側で過ごす毎日が大変みすぼらしいものである事ぐらいは分かっていた。ボロの服しか支給されず、毎日決められた時間に決められた分の何が入っているかもわからない食事を取り、命令された事を何でも忠実にこなすしかない毎日。少しでも外れればお仕置きと称していくらでも殴られたし蹴られた。鳴き声を一つでも上げればうるさいと折檻され、少し笑うだけでも不快だとなじられる。そんな暮らしが一般的なものとかけ離れたものだと、いくらこの施設の中の事しか知らない「14番目」だとしても分かるというものだ。
しかしそんな暮らしを、「14番目」は当たり前のように受け入れていた。どんなに理不尽な扱いをされても、その世界しか知らなかったのだから仕方がない。自分はこのまま外に出る事無く、他のイヌの仲間と同じように途中で力尽きていつか死ぬのだろうと、漠然と考えていた。その日はいつ来るのだろうと、「ご主人様」たちに虐げられながら密かに待ち望んでいた。
そうして、運命の日はやってくる。「14番目」はほんの一欠片の優しさを知ってしまった。新しく入ってきた年若い施設の職員が、今までイヌ以下の扱いしか受けてこなかった「14番目」に微笑みかけ、優しく触れてくれたのだ。その職員はすぐに移動かクビになって姿を消してしまったが、一度知ってしまったぬくもりを忘れる事は出来なかった。「14番目」の日常だったものは、知ってしまった温度の前では嫌でしかない強制と暴力に成り下がってしまい、「14番目」は命令に背く事が多くなった。反抗的な「14番目」の処分はすぐに決定された。
施設に管理されたイヌの処分は、他のイヌたちによって施行される。今まで仲間だったはずの者たちにリンチされ、そのままトドメを刺されるのだ。今まで「14番目」も命令によって参加していた事だ。「14番目」の普通のイヌとは違う腕は、同胞や名も知らない生き物たちの血で汚れている。「14番目」はそれが恐ろしかった。優しさを、ぬくもりを知ってしまった「14番目」は、今までただ命令だけを聞いてたくさんの命を奪ってきた冷たい自分の腕が、恐くて仕方が無かったのだった。処分されるのは当たり前の事だろうと思った。それでも一度でいいから外の世界が見てみたくて、最後の力を振り絞って追っ手を振り切り、壁をぶち破り、外へ逃げ出した。
そこで「14番目」は、太陽と出会う事になる。
「大丈夫」
目前に迫る死の気配に、ようやく見る事の出来た外の世界の片隅でただじっと身をゆだねていた「14番目」を、強烈に照らし出した光。汚れた腕に触る熱に火傷してしまうと思った。あまりにも眩しい光が、穢れた自分の腕に触れる事で闇に染まってしまうのではないかと恐怖した。
しかし光は、「14番目」がいくら恐れようと、暴れようと、決して離れはしなかった。光は光のまま、清らかな色で「14番目」に寄り添い続けた。
「怖くないよ」
何よりも恐ろしい醜い「14番目」の腕を包み込んで、恐くないと笑う光。あまりにも眩しかった。あまりにも熱かった。ああきっとこれが太陽なのだと、「14番目」は悟った。壁の内側にも日の光を浴びる事が出来る場所は僅かにあったが、その場に出る事は夜にしかできなかった。だからそれが、「14番目」が初めてその目に映した太陽であった。
太陽は大丈夫、恐くない、と繰り返し「14番目」に伝えた。頭に向かって伸ばされた腕は、殴られる事しか知らなかった「14番目」に初めての感触をもたらした。触れれば壊れてしまいそうな、こんな温度も存在するのだと、「14番目」は驚きで言葉も出なかった。元々、声を出す気は無かったけれども。
やがて力尽きた「14番目」に、太陽が何か話しかけてきたが、何と言われたかはよく覚えていない。うすぼんやりとした意識が、ひとつの単語だけを覚えていた。
「おいで」
最後に聞こえたその言葉に、上手く頷けていたか、「14番目」に自信はなかったけれども。「14番目」がこれほどまでに強く何かを望む事は、おそらく初めての事だった。
これが、最後だというのなら。ああ、傍に行きたい、と思ったのだ。
イヌは死んだら、空の上に昇ると聞いた。
それならボクはあなたの元がいい。優しく微笑む月でもなく、キラキラ美しい星でもなく、柔らかく温かい雲でもなく。こんなちっぽけなボクを最後に照らしてくれたあなたの傍で、永遠に微睡んでいたい。
どうか。どうかあなたの元へ連れて行って、ボクの太陽。
「14番目」の太陽は、何よりも鮮烈な赤色をしていた。
この赤が、次に空の上で目を覚ました時も、傍にいてくれますように。
そう願いながら、ゆっくりと、「14番目」の意識は暗闇に溶けていった。
これでもう、現世で目覚めることは無いだろう。
そう、思っていた「14番目」の予想は、一つを除いて大きく裏切られる。
ただ一つの、「赤い太陽の傍で目覚める」という願いだけが、まるで奇跡のように叶えられたのだ。
「……あ、起きた?」
「14番目」の目と鼻の先に太陽はあった。この光景を望んではいたがまさかこんなに近くにいるとは思わなくて、「14番目」は大きく目を見開いて固まってしまった。その間に太陽はこつんと額を「14番目」に合わせてしばらく黙り込んでしまう。近い。視界がぼやけるほど近くに太陽がある。「14番目」がぼおっとしている間に額を離した太陽は、「まだちょっと熱があるな」と呟いた。
「お前、覚えてる?連れ帰ってからもう三日も眠り込んでたんだよ?心配したんだからな、ったくー」
「おそ松、そいつ起きたのか?」
「おー、起きた起きた。まだぼんやりしてるけどな」
太陽の横から、別の誰かがひょっこりと顔を覗かせた。同族の匂いがする。彼も死んで太陽の元に導かれたイヌなのだろうか。「14番目」が目の前に現れた二つの顔を見比べていると、同族の方がフッと笑いかけてくる。
「どうした、ブラザー。この俺に見惚れていたのか?同族の視線さえ集めてしまう、俺……!」
「ブラザー?カラ松、こいつ、お前の生き別れの弟か何か?」
「ノンノン。言葉のアヤって奴だ。同じイヌ同士、魂の繋がるソウルメイト、兄弟みたいなもんだろう?」
チッチッと指を振ってみせる同族の首には、赤い太陽の色がぶら下がっている。飼いイヌである証の首輪だった。それでこの同族は太陽に飼われているのだと分かった。変なの、空の上の太陽もイヌを飼うんだ、と思ったら、自然とぱかりと口を開けていた。
「お、反応した?よかったなカラ松、お前の痛さにこいつも反応してくれたぞ」
「そうか、まだ痛みが残るのは気の毒だが、俺のかっこよさに反応できるのなら良かった」
「お前もこいつも痛いのは仕方ないな、まだ熱もあったし。まだしばらくは動けないけど、おとなしくしとけよー」
「……え、俺も?」
ぐだぐだと会話を繰り広げながら、太陽が「14番目」の頭を撫でてくれた。初めての時の驚きこそないが、ぽかぽかと暖かな手の平と感触に、目の前のこの人は確かに太陽だと実感する。「14番目」は息を吐き出していた。それは「14番目」が生まれて初めて吐き出す、安堵の溜息だった。
太陽の傍で、「14番目」は初めて味わう安心感に、そっと身をゆだねた。
「うん、まだおやすみ。ゆっくり休めよ」
前髪をかき分けて落ちてきたものは今までのどの感触よりも柔らかくて、「14番目」をあっという間に眠りの世界へと連れて行ってくれた。
悪夢も何も見ない深い眠りから再び覚めたのは、それからまた一日経った後の事だった。ようやく熱も下がったその日に初めて、「14番目」は自分の現在の状況を正確に把握することが出来た。
まず、どうやら「14番目」はまだ死んでいないらしい。太陽も本物の太陽ではなくて、同族は確かに同族だった。太陽は自分の事を人間のおそ松だと名乗り、同族はイヌのカラ松だと自己紹介してくれた。
「んで、お前の名前は?」
寝かされた布団の中でそう問いかけられて、「14番目」はとても困った。何せ「14番目」には名前が無いのである。
一応「14番目」は自分の事を仮に「14番目」とは呼んでいたが、あくまでも仮であり、これが名前と呼べるものでは無い事など分かっていた。困った「14番目」をじっと見つめたおそ松は、やがて鼻の下を擦りながら笑ってみせる。
「ま、お前が言いたくないんだったらいいよ。そうだなあ、じゃあ仮にワンコとでも呼んどく?」
「確かにこいつはイヌだが、そんな安直な……どうせならもっとかっこいいものを、例えば、地獄より舞い戻りし使者、ダーク・ケルベロスなんてどうだ?」
「あだだだ!カラ松お前、せっかく怪我が治りかけてるこいつのアバラ折る気かよ!」
「えっ」
何やら言い争いを始めた一人と一匹は都合よく勘違いしてくれたらしい。せっかく名前を教えてもらったのに何も返せない事を残念に思いながら、「14番目」はぼんやりと目の前でコロコロと変わる表情たちを眺めていた。何せ施設の者たちは名前を名乗らず、人間様の事は「ご主人様」と呼べとしか「14番目」に教えてくれなかったのだ。
そういえば、あれからあの施設はどうなったのだろうか。おそ松は昨日三日も眠っていたと言っていた。確かに傷の痛みや悪夢でうなされながら傍のぬくもりに宥められる、薄ぼんやりとした意識の記憶がそれほどの時が経っているのだと教えてくれる。逃げ出す際これが最後だからとかなり暴れた気がするが、あのまま「14番目」は死んだと思われているだろうか。どちらにせよ、施設は「14番目」を回収するためにこちらを探しているかもしれない。ぐるぐると、「14番目」の頭の中を嫌な想像ばかりが駆け巡っていく。
いやだな、と「14番目」は思った。せっかく、今はこんなにも暖かな場所で微睡んでいるのに、またあの暗くて冷たい壁の向こうに戻るのはいやだな、と。
「だーいじょうぶ、ここにいれば怖い事なんて何もねえよ」
内に宿った不安が顔に出ていただろうか、考え込む「14番目」の頭にふわりと、あたたかな手の平が触れる。慣れないそれにびくりと肩を竦ませてしまった「14番目」だったが、嫌がってはいない事は伝わったらしい。優しい笑顔で「14番目」を見下ろすおそ松は、撫でる手を止めることは無かった。
この手の平は不思議だ。初めて出会った数日前の時でさえ、この手に撫でられただけで無上の安心感が全身を包んだ。「14番目」は生まれて初めて、心から安堵していた。この人の言う事なら信用に値すると、無意識のうちに体の力を抜いてしまうほどだ。今この手に裏切られたら自分の命など一瞬のうちに奪われるだろうなと考えるが、それでも油断しきった体に力を入れようとは思わない。今までこんな気持ちになった事などなかった。ただただ、このままずっと撫でられていたいと心で求めた。
「……思ったより元気そうだな、これならご飯も食べられるか」
「そーだな、ここまではっきり眼覚めたなら大丈夫だろ。点滴より口から食べた方が断然良いみたいだし?よっし、カラ松頼んだ」
「ああ」
「ワンコ、お前起きられる?飯にしようぜ!」
カラ松が傍から離れて、おそ松が撫でていた手を離してそのまま差し出してくる。ごはん、と聞くと途端にお腹が空いた気がして、「14番目」は本能のまま目の前の腕を掴もうとした。そろりと布団の中から右手を差し出そうとして、途中でぎくりと動きを止める。
この手は駄目だ。汚れている。こんな汚れた手で、綺麗に輝く太陽に触れてはならない。同胞の血に塗れた己の腕を幻視して、あまりの恐れに「14番目」はぎゅっと目を瞑った。その間に布団の中に隠れていた腕は、容赦なく掴みあげられてしまう。
「っ?!」
「ほぉら、起き上がってみ?くらくらしない?って、あー、そうだ、言い忘れてたわ」
腕を取り肩を抱いて、おそ松は驚いて固まる「14番目」を優しく起き上がらせてくれたが、「14番目」はそれどころではなかった。いきなり腕を掴まれ、自分の腕が他のイヌと違い非常に危険な爪を持っている事を自覚していたので危ない!ととっさに腕を引き抜こうと込めた力は、その驚きによって霧散してしまっていた。今まで何故気付かなかったのか、「14番目」は布団から引っ張り出された自分の腕を見てようやく、そこにあったはずの爪が消えている事に気付いたのだった。
呆然とする「14番目」が何に対して驚いているのか、正確に把握したらしいおそ松が、頬をかきながら答えてくれる。
「お前の爪さあ、このままじゃ危険だったから、お前が眠っている間に俺達で切っちゃったんだよ。ごめんな?」
「……?!」
「あ、どうやってって顔してんね。ほんと固くて固くて、普通のイヌ用爪切りじゃ切れなくて参ったわ。だから伸ばしっぱだったの?実は身近に獣人関係に強いやつがいてさ、そいつに特別製の爪切り取り寄せてもらってこう、バツーンって。本人の許可も取らないまま悪いとは思ったけどさあ、あのままじゃまずお前が傷ついて危なかった所だったんだよぉ。許してくれよ、な?」
ご機嫌をうかがうように謝りながら、「14番目」の腕を離さず握りしめてくるおそ松の笑顔。「14番目」は隣にあるそんな顔と、己の腕と、弱々しく交互に見比べる事しかできなかった。「14番目」がいくら歯で噛み切ろうとしても一本も折る事が出来なかった忌々しい爪を、いとも簡単に切ってしまった事にも驚きだが、一番「14番目」が現在進行形で驚いているのは別な事だった。
この人は、「14番目」の元々の腕を知っている。血で汚れた禍々しい姿を、知っている。それなのにどうして、こんなに躊躇いも無く「14番目」に触れてくるのだろう。けがらわしいからと、施設の人間は決して素手で「14番目」に触れてくる事などなかったのに。今も熱いぐらいの手の平が、まるで見かけは普通の手のようになってしまった「14番目」のなだらかな爪の切れ跡を手持ちぶさたになぞっている。例え鋭さを失っていようとも、硬質なそれがもしもこのままこの手を傷つけてしまったら、と思うと恐ろしくて、「14番目」はおそ松の腕を振りほどいて布団の中に隠した。
「ありゃ。どした?やっぱ勝手に爪切られたのが嫌だった?」
添えられたままだった肩の手が宥めるように撫でてくる。「14番目」は首を横に振って否定したが、言葉に出して伝える事は出来なかった。お前の声はうるさいと、一声上げる度に殴られていた記憶がどうしても頭をかすめてしまう。そういえばどれほどの間、他人の前で声を出していないだろうか。言葉を忘れてしまわぬように、一匹のときだけは話し相手のいないお喋りをこっそりしていたのだけれど。
とにかく、触れられる事さえおこがましいような自分の腕を必死に隠していれば、おそ松はそれ以上無理強いしようとはしなかった。しょうがないなーって笑って、布団の上から「14番目」の腕をぽんぽんと叩いて、そしてそれだけだった。どうして尋ねたり、咎めたりしないのだろうと、「14番目」はあったかくなる胸と共に思った。
「待たせたなブラザー、この俺特製のホワイト・マイルド・ゴールデンライスが出来たぜ」
「おかゆな。ホワイトかゴールドかどっちかにしろっての。しばらくもの食ってないから、胃がびっくりしないように今日は軽く食べようなー」
やがて太めの黒い尻尾を得意げに振りながら戻ってきたカラ松は、いたってシンプルなほかほかのおかゆを「14番目」の目の前へ持ってきてくれた。湯気を立てるあたたかな料理は本当に久しぶりの事で、「14番目」は思わずごくりと喉を鳴らす。腕を隠したままの「14番目」の代わりにスプーンを手に取ったのは、おそ松だった。
「お前猫舌?や、イヌだからそれはない?まあどっちでもいいか」
スプーンで掬い取った柔らかなお米から、おそ松はふーふーと念入りに息を吹きかけて熱を冷ます。そのままスプーンは、笑顔と共に「14番目」の目の前へと差し出された。
「ほい、あーん」
蕩けるような甘やかす声に、最初「14番目」は何を求められているのか分からなかった。ぱちぱちと瞬きをして目の前で己を見つめるおそ松とカラ松を見返していれば、おそ松の後ろ側からカラ松が、自分の口をあーんと開けて指を差してみせている。これは、きっと口を開けろと言っているのだ。ようやく気付いてあぐっと大きく開けた「14番目」の口内に、優しくスプーンが差し込まれた。このまま口を閉めていいのかな、と上目づかいにちらと窺えば、ニッと笑った顔が頷いた。
「14番目」が唇を閉じれば、スプーンはゆっくりと引き抜かれる。「14番目」の口の中に残ったのは、ほわりと淡い味を蕩けさせるお米だけだった。むぐむぐと一応よく噛んで、ごくりと飲み込めば、程よい温かさのおかゆはするりと喉を滑り落ちていく。空腹を訴えていた胃も、もっと別な場所で怯えていた器官も、ぶわりと満たされたような心地がする。固唾を飲んで見守っていた一人と一匹から、恐る恐る尋ねられる。
「……どうだ?美味いか?」
「あまり味はしないかもしれないが……」
「14番目」は大きく頷いた。確かに味は薄目かもしれないが、それは胃に優しいおかゆだからであり当たり前の事だ。それに「14番目」にとっては、冷えていない極端に苦かったり辛かったりしない、他に何も体を害するものが入っていない食事と言うだけで、涙が出るほど嬉しい事だったのだ。ぎゅうと己の顔に、特に口元に力が入るのを感じる。「14番目」が慌ててぎゅっと目を瞑って込み上げてきたものを耐えていると、どっと沸いた気配が目の前から伝わってきた。
「なあ!今ワンコのやつ笑ったよな!見たか?!」
「ああ!確かに笑った!よかった、ダーク・ケルベロス!ずっと無表情でいたから笑えないのかと肝が冷えたぞ……」
「フヒッカ、カラ松、その名前やめない?聞く度に笑えてくるんだけど」
「え……じゃあ一体何と呼べば……」
「あーでも笑ってくれてよかったよー美味かったかぁ?いっぱいあるからもっと食えよぉ?」
わいわいと盛り上がるおそ松もカラ松も、何故だか満面の笑みで喜んでいるようだ。「14番目」はあっけにとられた。笑うな、と「ご主人様」に命令されてから今まで、無意識に笑った事などほとんどなかったために自分が本当に笑っていたのか分からなかった事と、もう一つ。どうして目の前の一人と一匹がこんなにも喜んでいるのか、分からなかったのだ。
今、「14番目」が確かに笑ったとする。気持ちがあんなにもふうわりと緩んだのはほとんど初めての事だったので、可能性はありうる。しかしそれだけだ。「14番目」がおそらくぎこちなく笑っただけ。それだけの事に、目の前の人間とイヌはハイタッチをして喜んでいる。どうしてだろうか。今まで「14番目」が笑っても、イライラすると言われるだけだったのに。どうしてこの人たちは、それだけのことにこんなにも喜んでいるのだろう。
訳が分からなくなった「14番目」の目から、その時ぼろりと、何かが零れ落ちた。それは理解のできていない「14番目」の頭よりも先に、心が反応した合図だったのかもしれない。頬を滑り落ちる液体の感覚に、「14番目」は戸惑いに瞬きをする事しかできなかった。「14番目」よりも顕著に反応したのは今の今まで喜んでいたはずの一人と一匹だった。
「ぅえっ?!わ、ワンコ、今度はいきなり泣き出したんだけど?!どうした、どこか痛むのか?」
「ま、まさか、俺お手製のおかゆのあまりの美味さに涙が……?!ってそんな訳ないよな、うん、すまん。だからそんなに睨まないでくれおそ松……」
「ふざけた罰としてお前がワンコ泣き止ませろよカラ松。ワンコー、今からカラ松が超絶面白い事するからそれ見て泣き止めよ、な?」
「ええっ!え、えっと……そうだ、この俺のかっこよさを見せつけ陶酔させて泣き止ませる、『禁断のにらめっこwithカラ松』をやろうぜブラザー!ほぉら、にらめっこしましょ、この俺カラ松のかっこよさに見とれたら負けよ、あっぷっ……ギルティ」
「ブフーッ?!かっからっカラ松っ?!おまっ何してんの!ワンコ泣き止ます前に俺の腹筋とアバラを破壊するつもりなの?!ヒィーッこのイヌ相変わらずサイコパスすぎぃー!」
「な……しまった、泣き止ませるどころか傷つけてしまっただなんて……!許してくれおそ松、そしてブラザー!この俺の、ハリネズミのジレンマをっ……!イヌなのに!」
「もー変な事ばっかしてごめんなワンコぉー!泣き止めよぉー!」
「14番目」がぼろぼろと目から雫を零す間、周りでわーわー騒いだと思ったら、おそ松がぎゅっと「14番目」を抱きしめてきた。熱い。人間にここまで体を密着させられたのは初めての事かもしれない。おかゆの入った器を手におろおろしていたカラ松も、主人に倣って器を置いて上から一人と一匹をまとめて抱き締めてくる。さらに熱い。知らない生き物の匂いがこんなにも近くにあるというのに、恐れも嫌悪感も抱かなかった。むしろ、今までと段違いな安堵が「14番目」を襲う。
抱き締められながら泣き止め、泣き止めと連呼されて、「14番目」はようやくこの目から落ちていく雫が涙である事を思い出した。ずっと流さずに生きてきたから、とっさに思い出せないぐらい忘れてしまっていたらしい。自覚して、ひく、と喉をひくつかせれば、気付いたおそ松がさらにぎゅっと抱きしめてくれる。息が苦しくなるほどの熱の中、ぼろぼろと零れ落ちる「14番目」の涙が、当の本人が何故泣いているのかも分からないまま、しばらく止まらなかった。
どうして自分は泣いているのだろうと、ぎゅうぎゅうに抱き締められながら「14番目」は首を傾げた。今は体のどこも痛くないし、辛くもないし、悲しくも無い。むしろ体の内も外もぽかぽかと温かいぐらいだというのに、どうしてこんなにも涙が止まらないのだろう。
「14番目」はこの時まだ知らなかったのだから仕方がない。
涙とは、痛かったり辛かったり悲しかったりする時だけに溢れてくるものでは無い事を。
16/04/25
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