「えっ?」
パチッと目を覚ましたルークが見上げた世界は、光だけの満ちる空間ではなかった。仰向けに転がる視界には、雲一つなく広がる真っ青な空と、それを取り囲むように揺れる色とりどりの花々たちがいっぱいに映り込む。白に慣れた瞳と思考には鮮やかな色の乱舞が刺激的過ぎて、思わずぽかんと呆けた。視線だけを動かせば、大の字に横たわっているルークを途切れる事無く無数の花が取り囲んでいる。ここは、花畑か。一体どこの?
そもそも自分はどうして眠っていたんだっけ?
「……あれ?」
そこでようやく今までの事をすべて思い出したルークは、慌てて身を起こした。視線を上に上げる事で、辺りを見渡すことが出来るようになったが。映り込む風景は今までとほぼ変わらない。視界の半分を埋めるのは目に痛いほどの空の青さで、もう半分は赤や黄色、ピンクに白に緑や青まで、この世の全ての色がこの場に揃っているのではないかと思うほどの美しい花弁を広げる花々たち。花畑、なんて生易しいものではない。花の大地がどこまでも続いていた。これでは地平線ではなく、花平線とでも呼ぶべきだろうか。
果てしなく続く花の世界で、ルークは目覚めた。
「こ、これ、一体どうなって……」
「やっと目を覚ましやがったか、この屑」
「へっ?!」
呆然としていた頭に突然飛び込んできた自分以外の声。座り込んだまま振り返れば、鮮明な深緑の瞳と出会う。思わず目を見開いた。起きてから短時間で沢山の色と出会ったが、今こうして視界に入れる緑と、晴れた空に踊る長い真紅の髪が一番綺麗だと現実逃避のように考える。そうしたくなるほど、そこには信じられない人物が立っていた。
「あ……アッシュ?」
腕を組み、こちらを不機嫌そうな顔で見下ろしてくるのは、確かに己のオリジナル、アッシュその人であった。この顔だけは見間違えるはずがない。目に見える光景だけでなく、言葉に説明出来ない同位体としての心の奥底の繋がりによって、目の前に立っているのがアッシュ以外の何者でもないと確信する。では何故、ここにアッシュがいるのか。ここは自分の中にある自分だけの世界では無かったのか。
そこでルークは考えられるただ一つの可能性に思い至り、俯いて乾いた笑いを零した。
「……はは、あれだけ幸せな気分でいたのに、俺まだ未練が残ってたのか」
このルークの内側にある世界、そして今まで作り上げていた偽物の世界と仲間たちの事を考えれば、おのずと答えは出てくる。往生際の悪い心は、どうやらまたしても己の妄想でしかない存在を生み出してしまったようだ。花の海に座り込んだまま、ルークは力ない笑みでアッシュを見上げる。
「ごめんな、アッシュ。俺のワガママにばかり付き合わせちゃって……。そういや、中庭の花壇の世話を俺の代わりにずっとさせてしまっていたのも、アッシュだったな」
あの世界で出会った人々が皆ルークの願望で生まれた存在ならば、そうやって行動を仕向けていたのもまたルークなのだろう。申し訳なくなって、ルークは小声でごめんと謝る。たとえ今目の前に立っているのが同じように自分の願望で生まれた偽物のアッシュでも、一言謝っておきたかった。それと、
「……ありがとう。例えアッシュ本人じゃなくっても、俺の傍にいてくれて」
ずっと言いたかった礼を、添える。本当はこれだけじゃない、もっとずっと贈りたかった、伝えたかった言葉たちは山のようにあった。尋ねてみたかったことも、聞いて欲しかった話も沢山あった。しかしそれらを僅かにも叶える時間もないまま、二人の間は生と死に分たれてしまった。そういった未練が、ここに再びアッシュを出現させてしまったのだろうか。
「アッシュには迷惑だったかもしれないけど……最後にお前に会えてよかったよ。例え、お前がにせものだったとしても……」
そう言って笑って見せたルークを、ただじっと見下ろすアッシュ。ルークが言いたいだけ言って口を閉ざせば、ようやく動き出した。ぎゅっと普段の数倍眉間に皺を寄せた後、おもむろに拳を作った右手を振りかぶり、
「この……ド屑がっ!」
「いでっ?!」
ゴツン、と晴れ渡った空に響き渡るかのような小気味の良い音で頭に拳骨が振り下ろされた。予想だにしていなかった衝撃にルークは頭を押さえたまま、しばらく痛みを耐えてその場にうずくまる。じんじんとした痛みがわずかに引いていくのを確認してから、涙目でバッと顔を上げた。
「な……っにすんだよ、いきなりっ!」
「お前があまりにも馬鹿で屑でどうしようもない奴だから一発衝撃を加えて少しでも正気に返らせようとしたんだこの屑が!」
「な、何だとぉ?!」
「よくもまあ憶測で好き勝手言いやがって……ここがお前の世界で、俺がお前の妄想の産物だったとするならば、お前は俺に殴られ願望でもあったって事か、ああ?!」
「……、え?」
思わずパチパチと瞬きをして、ぽかんと口を開ける。握り拳を作るアッシュは怒り顔で、ルークをきつく睨み付けてきた。しかしそこには、ルークの思い違いでなければ、憎しみのような黒い感情は込められていない。むしろ……。
「甘えるなよ……言っておくが俺は、この世界でお前の望み通りに動いてやった事など一度として無い!全ては俺が俺の意志でやった事だ、自惚れるな!」
「え……?な、何で……?」
「何でもくそもあるか!まだ分からねえのか!」
腕を伸ばしてきたアッシュは、ルークの胸倉を掴み無理矢理持ち上げる。座り込んだままの体勢では少々息苦しかったが、そんなものは気にならないほど驚愕に目を見開いて、ルークは目の前の顔を凝視した。至近距離で睨みあげながら、アッシュは言い聞かせるように口を開く。
「今、お前の目の前にいる俺は、幻の存在か?お前が作り上げた紛い物か?まさか分からねえとでも言うんじゃねえだろうな……」
「あ……」
「俺をよく見ろ。感じろ。俺は……何者だ」
ルークはアッシュを見つめる。感じ取る。思えば先ほどすでに分かっていた事だった。この花の世界でアッシュを見つけた時、感じたもの。目には見えない、おそらく世界中の誰も理解できないであろう感覚。完全同位体である、ルークとアッシュの間にだけ存在する、確かな繋がり。
言われてみれば確かに、あの仮初の世界でも。ルークがいくら話したいと願ってもアッシュはすぐに立ち去った。どれだけ花壇を整えてくれた人物を知りたがっても、名乗り出てくれなかった。あの世界でルークと対峙して、唯一笑顔を向けてくれなかった人物。ルークの願いによって動いていなかった、ただ一人の存在。
『本当にこの世界の全てが、あなたの思い通りでしたか?』
優しい友人の言葉が、頭をかすめる。はく、と口を開けて、ルークはようやく自分が今まで息を止めていた事に気付いた。胸倉を掴まれた息苦しさからではない。頭の中で辿り着いた答えに、あまりに驚いて。
「……アッシュ、?」
信じられないものをみるような目で、呆然と呟く。
「アッシュ……アッシュ、なのか……?」
震える声で名前を呼ぶルークに、返されるのは尊大な表情。
「……当たり前だろうが」
そうやって肯定して、少しだけ緩められた腕。ルークはそれを振り切って、目の前の身体を思い切り抱き締めていた。下からしがみついていったので身をかがめた無理矢理な体勢となったのに、アッシュは避けなかった。
「アッシュっ……!アッシュ、アッシュ……!」
瞳の奥から溢れてくるものもそのままに掻き抱く。腕の中の体温は、どこまでも本物だった。疑う心は最早無い。この魂同士が繋がる感覚が、紛い物の存在と結ばれるはずがない。答えは確かめる前に自分の中にあった。その衝動のまま、名前だけを繰り返す。
はあ、という溜息の後、後頭部に触れてきた掌はあまりにも優しい温かさで。
「そう、何度も呼ばなくても、どこにも行かねえよ」
「っ……うん……!」
アッシュはしばらく、ルークの好きなようにさせてくれた。一人で作り上げたこの孤独の世界に、実は一人では無かったのだという、とてつもない安堵。自分以外の体温を確かめるためにぎゅうぎゅうに抱きしめるその背中を、あやすように軽く叩いてくれる。その気遣いも、優しさも、ここに存在してくれているという今でさえが全て愛しくて、こみ上げてくるものに喉が詰まる。
青空の下、花に満たされた光景の中で、二人はそうしてしばしの時を過ごした。聞こえるのはたまにしゃくり上げるルークの声と、触れ合う場所から響く互いの鼓動だけだ。その事に、眠りに落ちる前に感じていた幸福を何倍にも凝縮したような感情が溢れてくる。ルークは瞳を閉じて、その感覚をかみしめた。
やがて、どれほどの時間が経っただろうか。ようやく落ち着いてきたルークは鼻を鳴らしながらもアッシュから離れた。衝撃の出来事に麻痺していた頭がやっと働き出して、ルークに疑問を浮かび上がらせていた。少し躊躇ったが、やれやれとようやく背筋を伸ばすことが出来たアッシュに、申し訳なく思いながらも尋ねてみる。
「で、でもアッシュ……どうしてここにいるんだ?ここって、いわゆる俺の内側の世界ってやつじゃないのか?」
「ああ……まあ、そうだな」
対するアッシュは少々歯切れが悪い。首を傾げてじっと答えを待っていれば、どこか気まずそうに視線を逸らしていたアッシュが覚悟を決めたように振り返ってくる。
「……っ、ローレライの奴が言ったんだ、この方法しかないだろうとな!」
「へっ?」
「体は奴の音素を使って何とか準備できるが、一度失われてしまった心には、もう一度生命の力を吹き込んでやらなければならないと!普通の人間ならおよそ不可能だっただろうが、完全同位体なら……一度お前の音素をすべて受け取った俺になら出来るだろうと言われてだな……そういう可能性があるなら、仕方がねえからやってやろうと思っただけだ!このまま消えられても俺の目覚めが悪かった、それだけだ!」
「え、ええーっとアッシュ、俺、何が何だか……つ、つまり、どういう事だ?」
「っだから!」
ルークが見る限り、アッシュは何故だか照れているようだ。ガシガシと己の頭を掻いてから、なおも言い辛そうに話を続ける。
「辛うじて残ってたお前の意識みたいなものに俺が働きかけて、ここまで力を注いでやったって事だ!お前はお前で妙な世界を作り上げて閉じこもっていやがるし、自分の一部をさらに閉じ込めて不安定な状態だったし、無理矢理干渉しても意味がねえ見守ってやれなんてローレライの野郎も言いやがるし……ここまで時間が掛かるとは思わなかったぞ、くそ!」
ルークはアッシュに貰った言葉を自分なりに必死に頭の中で噛み砕く。そうしてやっと手に掴んだ、その言葉たちの真意は。
「……あの、俺の中庭の花壇、整えてくれていたのは……」
答え合わせを求めるように見つめるルークに、アッシュは仕方が無さそうに答えた。
「心の中があれだけ荒れてちゃ、育つもんも育たねえからな……。言っておくが俺は、種を植えちゃいねえからな。植えたのは、分かっているだろ」
「……うん。分かってる……みんなが、植えてくれたんだ」
例えルークが作り上げた幻の存在でも。ルークの心に根を張り笑顔を覚えさせてくれたのは、今まで実際にルークと出会い共に生きてきた仲間たちである事に代わりはない。あの種は確かに、皆から貰ったものなのだろう。ルークの短くも濃い生に寄り添ってくれたそれぞれの笑顔から受け取った、大切な欠片たちだった。それらが今、ここに満開の花の世界を作り出した。ルークの荒廃していた小さな世界をこれほどまでにも広げ、無数の色で満たしてくれた。
その最大の功労者ももう、ルークは分かっていた。
「アッシュはずっと、見ててくれたんだな」
目を細めてもう一度花の大地を見渡す。ここが自分の世界だなんて信じられない。もうあの小さなモノクロの中庭を思い出す事さえ出来ない気がした。
この世界はルークの心だ。しかしルーク一人では、ここまで広げることは出来なかった。
「アッシュがずっと、手伝ってくれていたんだな」
言葉に出せばより嬉しさが募る。しかし同時に疑問も沸いてくる。まだこの疑問に、明確な答えはもらっていない。
「でも、どうして?どうして俺のためにそこまで……」
「……まだ言わせるのか」
視線を戻せば、心底うんざりしたようなアッシュの顔と出会う。その頬は、若干赤い。
「……うるさかったんだ」
「えっ?」
「うるさかったんだよ。人の記憶に居座ってぎゃーぎゃーと……大爆発だか何だか知らねえが、未練たらったらの記憶だけ残して逃げられても迷惑なんでな、何が何でも直接文句言ってやらねえと気が済まなかったんだ」
「俺……そんなに、未練たらたらの記憶残してた?」
「ああ。何ならもういっぺん見てこい、情けない声がはっきり聞こえるだろうよ」
どこからともなく風が吹く。青空を受けて輝く赤の髪をなびかせながら、アッシュは静かに言った。
「死にたく、なかったんだろ」
「………。うん」
「生きたかったんだろう」
「うん」
ルークは素直に頷く。己の心の中で、本当の気持ちを偽れる訳がない。ましてや、相手はルークの全てを見てきた人だ。嘘をつく事も誤魔化す事も思いつかない。
生きたかった。まだ死にたくなかった。自分たちの手で救った世界で、どんな人生が待ち受けていようとも生きてこの目で見てみたかった。今まで隣に立つことすらできなかった誰よりも近い半身と、並んで生きてみたかった。笑い合いたかった。それが出来ないと分かっていたから、無理矢理胸の内に押し込めていたけれど。
そんなルークの目の前に、手の平が差し出される。
「迎えに来た」
自分と同じ大きさの手の平を見つめ、ルークは視線を上げる。出会った瞳は、優しくルークを受け止める。
「帰るぞ、ルーク」
その言葉を受け取る障害は、もうすでに取り払われた。二人の間を隔てるものは何もない。
心にしっかりと根を張る花々が持つ色と同じ、新緑の瞳から再び溢れ出す温かな感情の雫。それを拭う事もせず、ルークは手を伸ばす。震える指先は同じ体温に包まれ、力強く引き上げられる。
立ち上がったルークを、アッシュが抱きしめた。
「……おかえり」
風が踊る。花弁が舞う。歓喜の涙を次々に零しながら、ルークが答えた。
「っ、ただいま……!」
世界が再び光で満たされる。しかしそこはもう、一人の世界ではない。
迎えに来てくれた、この腕に抱きしめる命がきっと、連れて行ってくれる。
帰ると誓った、約束の地へ。
二人で、共に。
そしてここが、還る場所
magica end
14/09/02
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