光しかない部屋
そして、気付いた。
この世界にはあまりにも、「光」しかない。
ルークはあの日のように中庭のベンチに座っていた。何もない、泥沼のように停滞していた空っぽの毎日の中でもこうやって同じように座っていた。しかしその目に映る景色は何もかもが違う。同じ場所のはずなのに、どこか別の世界の光景のようにルークには思えた。
真っ白に輝く空は、しかし雲が覆う微妙な天気では無い、快晴の中太陽が眩しすぎて白く思えるだけだ。荒れて朽ち果てていたはずの花壇では今、たくさんの生命が瑞々しく花咲く時を今か今かと待っている。その全てに色がついていた。無機質なモノクロの世界は最早そこにはない。目の前に広がるのは、目に痛いほど鮮やかな色を放つ美しい世界だった。
……美しすぎる世界だった。
「………」
ルークは無気力に足を投げ出したまま、視線を中庭の端から端まで彷徨わせた。誰の姿も無い。屋敷を巡回しているはずの騎士も、働きまわっているはずの使用人も、父も母も、ガイも、アッシュも、……あの猫も、誰も。
ある日突然ルークの目の前に現れた猫は、同じように唐突に姿を消した。いや、いつから現れなくなったか、そのきっかけは確かにあった。あの日からだ。あの珍しい赤い毛並みの猫が、同じ赤を持つ別の生き物に見えた、あの日。あの日から猫は、ルークの周辺から姿を消していた。きっと、逃げ回っているのだろうとルークは思っている。あの猫が敷地内から出て行ったとは考えていない。おそらくルークの視界に入らない場所に隠れこんでいるのだろう。そういうものなのだ。
そうしてルークは猫が現れる前の日々と同じようにぼうっと中庭を眺めている。この景色の中であの頃と変わっていないものと言ったら、ルークぐらいのものだ。
「……そうだ、俺は変わってない。変わってないんだ……」
ぽつりと呟く。眩しい世界、活力に溢れる景色の中で、ルークは一人頭を抱える。
「……何も変われてないんだ、俺だけ……」
太陽から暖かく優しい光が降り注ぐ中、その光から隠れるように身を縮こまらせる。零れた声は悲痛に掠れていた。とある確信めいた予感が、ルークをこれほどまで追い詰めていた。
世界から恥じるようにぎゅっと己の体を抱いてうずくまる耳にその時ふと、音が聞こえる。誘われるように、つられるようにゆっくりと顔を上げた。さっきまで誰もいなかったはずの中庭の中央に、誰かの背中が見える。優しくそよぐ風になびく栗色の髪が、動揺に震えるルークの心を優しく撫ぜる。ゆっくりと歩むその背中は、今にも綻びそうな花の蕾にそっと触れ、笑ったようだった。
「もうすぐ、花を咲かせそうね。あの殺風景だった花壇が嘘のようだわ……よかった、ちゃんと育ってくれて」
「……ティア」
名を呼べば、ティアが振り返りこちらを見る。その瞳はどこまでも優しくたわんでいた。何かに怯えるように座り込んでいるルークの元へ、そのまま何のためらいもなく歩み寄ってくる。
「ルーク、頑張ったわね。花壇の花、もうすぐ咲きそうよ」
「……別に、俺は何もしてないけど」
「そうかしら。あなたの努力もきっとあったと思うわ。ただ、自分で気づいていないだけで」
そうやって心から嬉しそうに微笑むティアの言う事が、ルークにはよく分からない。何もしていないのは紛れもない事実だからだ。この間、ティアが嬉しそうに見つめる花壇をここまで育て上げた人物がとうとう判明したばかりだ。ルークの口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「そうだな……似たような事なのかもしれない」
「ルーク?」
「この花を手入れしてたのは、アッシュだったんだ。俺はアッシュのレプリカだから、俺がやってもアッシュがやっても同一人物がやったって事にしてもいいのかもな」
ベンチの上で項垂れながらそう言えば、正面に立ったティアが腰に手を当てちょっと怒ったように見下ろしてくる。
「もう、そういう意味で言ったんじゃないわ。あなたも分かっているでしょう」
「じゃあ、どういう意味なんだよ……俺、本当に何もしてないんだって」
「だってここは、あなたの中庭じゃない。いくら私たちで種を蒔いて世話をしても、「ここ」に咲かせる意志がなければ花なんて咲かないわ」
ティアが手を広げる先には、明日になれば満開になるだろう花々が中庭いっぱいに広がっている。咲かせる、意志。ではこの中庭は、花を咲かせたいと願ったというのか。あの命のないモノクロな景色は嫌だと。皆から譲り受けた種を芽吹かせ、育て、花を咲かせたいと。色を、取り戻したいと。
それを願った、意志とは。
「そういえば……あの子がいないわね」
ふと、ティアが辺りを見回した。誰の事を指しているのか、考え事に没頭していたルークは遅れて察する。思った通り、ティアは小首をかしげて尋ねてきた。
「ルーク、あの赤い猫はどこに行ったの?」
「……知らねえ。いつの間にかどっか行った」
「そう……」
名残惜しそうに中庭を見渡すティアはひどく残念そうだった。見つけたらまた撫で回したいと思っているのだろう。ルークは俯いた。喉まで出かかった言葉を、外に出すかどうか躊躇った。しばらくそうして固まった後、やっぱり耐え切れなくて口を開く。
「なあ、ティア」
「なに?」
「どうして……どうして、あの猫を可愛がることが出来るんだ」
その問いは、前に一度似たような事を尋ねていた。しかし今度の声には前の何倍も重く暗かった。ティアは少しだけ黙った後、ルークの隣にそっと座る。
「最初は私も、遠ざけていたの。理解が出来なかったから」
「……えっ?」
「でもそれは、理解しようとしなかったからだったわ。あの子の事をよく見て、理解しようとして、深く知っていくうちに……大事で愛おしい存在になったのよ」
向けられた笑顔は、嘘偽りのない心からのものだと、ルークにもよく分かった。胸の奥底がぎゅうっと締め付けられる。純粋に向けられる好意に、目を合わせられない。
「あいつに、そんな風に思ってもらえる資格なんて、無いよ」
「そんな事ないわ、ルーク。だってあの子は……」
「……っ」
「ルーク!」
無言で立ち上がって、歩き始めたルーク。背後から呼ばれるが振り返ることなく、真っ直ぐ中庭を横切る。向かう先は、我が部屋だった。逃げるように辿り着いたドアを開き、ぎゅっと目を瞑り、何も見ないように中へと滑り込む。誰も後についてこないように素早く後ろ手でドアを閉めた。そうして閉じこもるまで、一度も振り返らなかった。
ルークの背中を見送ったティアは中庭の中央まで追いかけたが、そこで足を止める。きゅっと何かに耐えるように眉を寄せた後、胸の前で手を合わせた。
「……ルーク……」
微かな切ない呟きの後、小さく澄んだ歌声が中庭に響く。慰めるように、寄り添うように流れてくるそれは、かつて今と同じように、守るべき者のために歌われたものだ。
そんな懐かしくも聴きなれた歌をドア越しに聞いたルークは。ずるずると床に座り込んで膝を抱える。頭の中と心がぐちゃぐちゃに混ざり合って、もう何も考えたくない。縋り付くようにただその歌声を聴いた。
ぼんやりと聴きながら唐突に気付く。さっき中庭で一番最初に自分を呼んだ音は、この歌だったのだと。
歌は、いつまで聴こえていただろうか。ルークは覚えていなかった。気付けば歌が止んでいて、ルークは自室のベッドに寝転がっていた。時刻は分からない。ただ部屋の中は屋根が付いていないか、それとも部屋の中に太陽が入り込んでしまったかのように明るかった。体感的にはもう丸一日こうして無気力に転がっていたような気がする。ルークがこうして自室にこもっている間に、誰かがここを訪れる事は無かった。
白い天井を見つめながら、ルークは考えていた。自分の事、みんなの事、あの赤い猫の事。そして……この世界の事。
「……おかしいんだ。この世界は」
仰向けに転がったまま呟く。今まで何の疑問も覚えることなく暮らしてきた場所。ここ最近、違和感を持つようになった世界。確かに存在しているはずなのに思い出せない記憶と、次々に訪ねてきてくれる仲間たち。その全ての意味について、考えていた。誰も答えるものはなかったたくさんの「どうして」に今、己で予想をつける。
この世界は。
「この世界は……俺に、優しすぎる」
誰も聞く者がいない独り言は、確かな音を持って小さな部屋に響く。聞く者がいないことなど、ルークは承知していた。この部屋だけではない。きっと、この部屋を出たとしても。
「この世界は、綺麗すぎるんだ……まるで俺が、そう望んだように」
声は最後震えていた。いつの間にかルークは、ベッドの白いシーツをぎゅっと握りしめていた。シーツも、天井も、壁も窓の外もクローゼットも、何もかもが真っ白だった。全てを包む清らかな白が、今のルークにはとても恐ろしかった。
「違う……違うっ!俺にはこんな色、似つかわしくない!」
どこを見ても視界に入ってくる白から逃れるように頭からシーツを被る。いくら体を縮こまらせても、この白い世界からは消える事が出来ない。
「ふさわしくないんだ、俺には……!あんな、たくさんの蕾をつける花壇なんて!」
自分が育てている訳では無いからと、頑なに手を付けなかった中庭の花壇。本当は分かっていた。皆誰のために種を持ち寄り、それを植えてくれたのか。朽ち果て、それ以上何も起こるはずのなかった中庭で、想いの込められた種が芽吹き植物が成長していくにつれて、喜びと苦痛が同時に襲ってきていた。やめてくれ、と。こんな綺麗なものを受け取れるような存在ではないのだと。
「みんなに、ああやって笑いかけてもらえるような資格なんて、俺にはっ……!」
次々と屋敷から外に出ない己の元へ自ら訪れてくれる仲間たちは、まるで願望の塊のようだった。何も見ない聞こえないふりをして、何食わぬ顔で日常を過ごしていた卑怯者に、惜しみない笑顔を届けてくれる。ルークは身をよじった。最近はその事実からいくら目を逸らそうとしても、目の前に突き付けられる象徴が存在していた。
「俺は変われていないのに……!俺が、一番……俺を認められていないのに!」
脳裏に蘇るのはあの、いけ好かない赤い猫。じっと責めるようにこちらを睨み付けていた、緑の目。先ほどティアが言いかけた言葉を振り切ってきたのは、その続きを予想していたからだ。一番聞きたくない、認めたくない予感から、必死で逃げた。そんな、どうしようもない臆病者なのに。
あの後聴こえてきた歌は、どこまでも優しく響いていた。
「……俺は……」
シーツの中で、深く暗く沈み込むルーク。そんな頭に、その時ふわりと何かが触れた。とても柔らかく、慈しむように触れたそれは、誰かの手の平のようだった。
「ルーク」
名前を呼ぶ、優しい声。ルークはゆるゆると、シーツの中から顔を出した。目に入る光景はもはやいつもの自分の部屋ではない。逃げ込んだベッド以外は光の渦の中で、視界には白しか見えない。そんな光の中に、こちらを見つめて微笑んでいる顔がある。この白しかない空間の真ん中で、ベッドにうずくまるルークに寄り添うように腰掛けるその人。ルークはすでに、声でそれが誰だか分かっていた。
「……イオン」
泣きそうな声で名を呼べば、懐かしい顔がにこりと微笑む。こちらを安心させるように笑ったイオンは、しかしすぐに心配そうに眉を寄せた。
「どうしたんですか、ルーク。とても苦しそうです」
「イオン……苦しいんだ。俺にとって、この世界は苦しすぎる」
「どうしてですか。僕にはとても優しい世界に見えます」
「それがおかしいんだよ。俺に優しすぎるんだ。苦しかったことも何も思い出さずに、ただこの屋敷の中でのうのうと暮らしていける。皆が俺の所にわざわざやって来てくれる。あんなに俺と一緒にいようとしなかったアッシュまでここにいてくれるんだ。……そして、」
ルークが手を伸ばせば、温かな指が握ってくれる。微かに震えるルークを落ち着かせるように優しく甲を撫でてくれるイオンを、ルークが見上げる。
「もう……二度と会えないはずのイオンに、こうして会えた……」
「……ルーク」
「なあイオン、俺、お前とこうしてもう一度会って、話すことができてすっげえ嬉しいよ。でもさ……おかしいだろ?イオンは確かに俺の目の前で、この腕の中で、消えてしまったんだ。もう会えないはずなんだ。それなのにこうして俺の前に現れてくれるなんて……おかしいんだよ。俺に都合が良すぎるんだ」
必死な様子で訴えるルークを、イオンはどこか痛ましげに見つめる。一気にまくしたてたルークが肩で息をする合間に、落ち着いた声でまたルーク、と名前を呼んでくれる。
「確かにこの世界は、あなたの思っている通りのものかもしれません。しかし、この世界がこれほどまでに優しい世界なのは……あなたが、同じぐらい優しい人だから、ですよ」
「え……?」
「僕も嬉しいんですよ、ルーク。こうしてルークともう一度会って話す事が出来ている今が、とても幸せなんです。もしもこの世界が、真にあなただけに都合の良い世界であったら、この世界の住人とも呼べる僕はこんなに幸福を感じる事が出来るでしょうか」
イオンは片手にルークの手を握りしめ、もう片方の手を胸の上に置いて、ふわりと幸せそうに笑う。同じような笑顔を、ルークは幾度となく見てきた。先ほどティアが浮かべたものを始め、ここに訪れてくれた皆がそれぞれの笑顔を向けてくれた。
「僕も、他の皆も。こうしてここで幸せでいられるのは、あなたがそう願ってくれたからです。あなたがこの優しい世界に僕たちを招待してくれたからなんです。その事についてあなたが思い悩む事は無いんですよ」
「……っ!でも、イオン、俺、そんな風に言ってもらえるほど、優しい奴なんかじゃないよ……!もっと自分勝手で、臆病で、ワガママで、頭悪くてっ……全部放り出して逃げ出しちまうような、やな奴なんだ!」
「ふふっ、それは皆、少なからず持っているものですよ。完璧な人間なんて、存在しないんです。あなたは十分、他人を思いやれる優しい人だと僕は思いますよ」
今度はシーツ越しではなく、直接頭を撫でてくれるイオンの暖かさは、それこそ誰よりも優しいものだとルークは思った。辺りを包む光が増した気がする。
ベッドからむくりと起き上がり、正面からイオンを見つめる。情けなく打ちひしがれた表情に、イオンは変わらない笑みを向けてくれた。
「ルーク、優しいルーク。どうかもう少し、その優しさを自分にも向けてあげて下さい。あなたが幸せになる事を、自分自身に許してあげて下さい。こんな小さな世界でまでも、自分を追い込む事はないんです」
「……でも、俺は……」
「大丈夫、もうすぐです。あともう少しで、あなたは全てを認める事が出来る。もうあと一歩です。どうか、あなたの全てを許してあげられる時が来たら……抱き締めてあげて下さい。ずっと、寂しそうにしていましたから」
光がさらに増す。ルークの手を握るイオンもまた、光に取り込まれるように純白に染まっていく。嫌だ、と上げそうになった声を、寸での所で堪えた。ここで止めてはならない。まだもっと、この優しい友人と話していたかったが、永遠なんてある訳がない。何事にも、別れや終わりがあるのだ。
それはきっと……この世界にも。
「……最後に一つだけ、ヒントです」
ルークの視界から薄く儚く消えゆくイオンが、少々茶目っ気のある表情で指を立てた。いきなり何だと目を丸くする鼻先で、緑の瞳がにこりと微笑む。
「本当にこの世界の全てが、あなたの思い通りでしたか?」
「へ……?」
「あなたがこうしたいと願っても思い通りに動かなかった人が誰か、いたと思うんです。……その人の事、覚えていてあげて下さいね」
きっとあとにまた、会う事になるでしょうから、と。それだけ言い終えるとイオンは、瞬く間に光の中へその姿を消した。思わず伸ばした手の先にはもう、ぬくもりが触れることは無い。
「イオンッ!」
そうしてこの光の世界に、ルークだけが残された。いくら手を伸ばしても、いくら声を上げても、どこまでもルークは一人だった。気が付けばさっきまで寝ていたベッドまでどこにもなく、真っ白な光の中存在するのは正真正銘ルークただ一人だけとなる。
「……思い通りにいかなかった奴なんて、それこそあの猫ぐらいなもんだろ……」
ぽつりと呟く。そしてルークはあの猫が自分の言う事を聞かない理由も分かっていた。最早目を逸らす事は出来ない。消えていったイオンを追って膝立ちになった所から、ぺたりと尻をつく。この光まみれの世界にも座り込むことができる地面らしきものがあるのかと、呆然としたままの頭の片隅で考えながら、ルークは。
見開いたその瞳からいつの間にか、ほろりと一粒雫をこぼしていた。
「もう、分かってるんだ……この優しすぎる世界も、あの優しすぎる人たちも、」
パキリと。何かがひび割れる音がする。今までルークを優しく残酷に覆い隠していた何かが、立てる音。
「今まで俺に記憶を思い出させなかったのも、この屋敷に閉じ込めていたのも、あの、猫も、」
頬を伝う涙はそのまま、頭上を見上げるルークの視界で、パキパキと。光の世界が音を立ててひび割れていく。まるで稲妻のように広がるその勢いはもう、止まらない。
「この世界の全てが……俺の、」
ルークは顔を覆う。指の隙間から溢れた涙が零れ落ちた先もまた、光の裂け目が駆け抜ける。そうしてルークを取り囲むように全ての空間に入ったヒビが。
「俺の作り上げた、にせものだったんだ」
世界が、砕けた。
14/08/27
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