水の流れと世界と







今までの人生は、水の流れと似ている。
大いなる流れに巻き込まれ、翻弄され、決して抗えぬまま、ただ先に進むしかなかった。
例え辿り着く果てが、消えゆくだけの泡沫だったとしても。







ルークへの訪問者は、例外なく予告も無しにやってくる。毎日特に用事も無いから結構なのだが、この時ばかりは事前に知らせてほしいとルークは思う。忙しいからとかではない、心の準備をするためだ。


「おおルーク、久しぶりだな!うちの可愛いルークとは毎日触れ合っているんだが、たまには大きい方のルークも可愛がってやらなきゃと思ってな!ほうら、面白い土産も持ってきたぞー」
「ひ、人を面白い土産呼ばわりとは失礼じゃないですか!私のような天才を土産だなんて……高級すぎて釣り合いませんよまったく!」
「……ジェイド……」
「すみません、私もさすがに止めはしたんですけどね。あの人も一応私の上司ですから、皇帝命令には逆らえなくて」


全然すまないとはカケラも思っていなさそうな顔のジェイドに、ルークはただ脱力するしかなかった。ジェイドはいい、しかし何故おまけにマルクト皇帝陛下とその土産の元六神将までついてくるのか。わしわしと豪快にルークを撫でてくれたピオニーは多分、ブウサギのルークにも同じように接しているのだろう。
ルークがいくら恨みがましそうな目で見つめても、ジェイドはどこ吹く風で取り合おうとしない。ピオニーをルークが苦手としている事なんて、この男は知っているはずなのだ。


「はあ……せめて外が晴れてたら、もうちょっと逃げられたのに」
「諦めなさい。今日はそういう運命だったんですよ」


しょんぼりと見つめる窓ガラスには、叩きつけられる雨粒によって波紋が次々と作られている。その向こう側に広がる中庭は、すべからく濡れそぼっていた。今までほぼ変わらなかったはずの天気は今日、珍しく雨を降らせていた。
応接室のソファにだらりと座るルークの肩を、ガイが慰めるように叩く。


「はは、珍しい天気の日に当たっちゃったな。まあ気を取り直して、陛下の相手を頼むよルーク」
「そんなの、ガイがしてくれよ……」
「いやあ、俺はもう日頃から相手させられまくっているからな。ここにいる間ぐらいは解放されたいのさ……」


ガイが遠い目をする。ちゃんとした貴族としての位を貰ったくせに使用人根性が染みついているこの親友が、普段から何かとからかわれている姿が容易に想像出来て、少しだけ元気を取り戻したルークはくすりと笑った。そもそも解放された先で今まで通りの使用人生活を送っているのだから最早仕方のない性分だろう。
そこでふと、疑問に思う。ガイはいつ、マルクトのピオニー陛下の元に行っているのだろうかと。
ガイが実は今は亡きホドの貴族である事と、マルクトに領地を貰い今は向こうで暮らしている事は、すでに知っていた。しかし今ガイはこのキムラスカにあるはずの公爵邸にてルークの使用人として働いている。よくよく考えてみれば、おかしな事だった。一体ガイはどうやって二つの国を行き来しているのか。そもそもどうしてガイはここにいるのか。


(俺がガイの正体を知ったのは、いつだったっけ?)


最初は知らなかったはずだ。でも今は知っている。確か何か、大きな出来事があったはずだ。それはいつの事だっただろうか。思い出そうとすればするほど確かに存在するはずの記憶が霞み、捕まえようと広げた指の間からするりと抜けていってしまう。記憶に逃げられていると思った。それとも、逃げられたと思い込もうとしている自分自身こそが、何かから逃げているのか。
このどうしようもない違和感の正体を知りたい。いいや知りたくない。怖い。二つの相反する気持ちに弄ばれるルークは、ただ茫然と外を見る。屋根や窓に叩きつけられる雨の音で、嵐とまではいかなくともなかなか激しい天候であることが分かる。分厚い雲に覆われた外は夜かと見紛うほどの暗さだ。
ザアザアとノイズのような雨音、薄暗い空、ぐっしょりと濡れた景色。ルークの気分は、まさに今の中庭と同じようなものだった。


「ルーク、どうした?ボーっとしてるぞ」


ガイに尋ねかけられて、ハッとルークは我に返った。最近このように奇妙な気分で考え込むことが多い。しかしそれを気取られたくは無くて、慌てて笑顔を作った。


「な、なんでもない!ちょっと外を眺めて考え事をしてただけだから」
「何だ何だ、この天気につられてアンニュイな気分になってるのかルーク。それならば、俺が元気づけてやろう!」


さあ来い!と満面の笑みで両手を広げるピオニーに慌てる。そのまま羽交い絞めにされる前に、ちょうど視界に入ったディストへ話しかける。


「そ、そういえばディスト、アッシュとは会わなくていいのか?」
「アッシュと?何故ですか」
「だって、同じ六神将だったろ?」
「ああ、そういう事ですか。……別に、同じ所属だからと仲が良かった訳ではありませんからね。会えた時には挨拶ぐらいしてやってもいい、程度ですよ、ええ」


そう言いながらも少しだけソワソワするディスト。アッシュは拒否しそうだが、ディストは会えたら会いたいみたいな感覚なのだろう。友達が少ないと以前聞いたから(ジェイドは皆無だと言っていた)、仲良くなかったとしても六神将のメンバーは数少ない知り合いに違いない。


(ディストは六神将唯一の生き残りだもんな……)


寂しがっても仕方がないか、と納得しかけて、己の思考にまたしても違和感を覚える。今、自分は何と考えただろうか。ディストは「唯一の生き残り」だと、そう自然と考えていた。間違いなかったはずだ。他の六神将たちは皆もういない。どうしていないんだろう。どうして唯一の生き残りなんて意識があるのだろう。
だってもし、本当にディストが生きている六神将最後の一人だったとしたら……アッシュはどうなるんだ?


「ルーク」
「……!あ……」


またしても、ボーっとしてしまっていた。ルークを今度引き上げたのはジェイドだった。気付けばガイはピオニーに絡まれて必死に応対している所で、ディストは何故かプスプスと煙を上げた状態で床の上に伸びている。これは多分ジェイドがやったのだろう。周りでこれだけ派手に騒がれていたのにまったく耳に入ってきていなかったのか。改めてルークは己に愕然とした。
こちらを見つめるジェイドの瞳は、いつものどこかふざけたものでも、笑っていながら笑っていない恐ろしいものでもなく、わずかに心配の色を滲ませた真剣なものであった。


「顔色が少し悪いですね……体調が悪いんですか?」
「い、いや、ごめん、何でもないんだ。雨のせいかな、考え事に没頭しちゃってさ」
「……念のためです、簡単な診察をさせて下さい」
「え、あ、」


わたわたしている内に有無を言わさぬ力でジェイドが腕を取ってくる。逆らうと何をされるか分からないので、ルークはとりあえず大人しく従った。ジェイドはルークの手を持ち、脈を計っているようだった。


「……あっ」


唐突に、既視感が胸の内を襲ってくる。このような光景を、もう何度も味わってきた気がした。こうして向かい合わせに座って、ジェイドに体調を診てもらった事がある、はずだ。懐かしささえこみ上げてくる。しかし以前はどこでジェイドに診てもらっただろうか。持病を持っている訳でもないのに、どうして診てもらっていたのだろうか。
訳が分からぬ気持ちを抱え、ルークは顔を伏せるジェイドを見つめた。自分の生みの親ともいうべき人。彼なら、ルークのこの不可解な気持ちを説明してくれるだろうか。


「ふむ、確かに体調が悪い訳では無いようですね」
「……なあ、ジェイド」
「はい、どうしました?」
「俺……俺、最近ちょっと変なんだ」


言いにくそうに話を切り出したルークを、ジェイドが先を促すようにじっと見つめる。胸のつかえを取るように、喘ぐようにルークは口を開いた。


「最近になってからなんだけど、今みたいに変に考え込むことが多くなってさ。持ってる記憶と記憶に辻褄が合わなかったり、昔の事が妙に思い出せなかったり、言葉に表せられない変な気分になったり……とにかく自分で自分が変だって分かるんだ」
「記憶の辻褄が合わない、昔の事が思い出せない、変な気分、ですか……」
「うん。例えばこうしてジェイドに診てもらった事が昔もあるはずなんだけど、それがいつどこであったかを思い出せないんだ」


そしてそういう時、ルークは今まで味わった事のない気持ちを抱く。何故か分からない懐かしさ、訳の分からない焦り、腹立たしさ、何に対してか分からない喜びと、悲しみ。喜怒哀楽の全てを混ぜ合わせたような不可思議な己の気持ちを、ルークは消化も理解も出来ずに持て余していた。この屋敷で安穏と暮らしていれば抱く事が無いはずの複雑すぎる感情。そんな気持ちが何故自分に襲い掛かってくるのかが、分からない。
ルークのたどたどしい説明を、ジェイドは何も言わずに聞いていた。そうして少しだけ考え込んだ後、ゆっくりと尋ねてくる。


「それらは、いつから起こるようになったか分かりますか」
「え、えーっと、ほんのつい最近の事なんだけど……いつからって言われると……」


思い出そうとしたルークの脳裏に、とある色が閃いた。赤く燃え上がる炎をそのまま動物の形にしたような、薄く金色がかっている赤い猫。そしてそれは、ルークの思い出した頭の中だけの存在ではなかった。
部屋の隅、どこから入り込んだのか、こちらの様子を丸まったままじっと窺う緑の猫目があった。まるでルークが思い描くのを待っていたかのようなタイミングで視界に飛び込んできたあの赤い猫の姿に、思わず声を上げるのも忘れて目を丸くする。
ルークが突然黙って部屋の一点を見つめだしたのを見て、ジェイドもその視線を追う。しかしルークの次に猫の姿を見つけたのは、ジェイドではなかった。嬉々とした声が瞬く間に赤い猫へと距離を詰めていた。


「おっ猫!何だ、ファブレ家ではいつの間に猫を飼っていたんだ、可愛いやつめ!まあ一番可愛いのはうちのブウサギだがな!よーし、こっち来い!」
「へ、陛下、その猫はあまり人に懐いてなくて……って言ってる傍から抱き込んでる!うっ羨ましいっ!」
「おや赤い猫ですか、珍しい。しかも金のグラデーションまでかかってるじゃないですか。私が自由の身であれば今すぐ解剖なり何なりしてその色素の謎を暴いてやったのにっキーッ!」
「フシャーッ!」


ピオニーが赤い猫へ逃げる隙を与えない動きで抱き上げれば、すぐにガイとディストも近寄っていった。明らかに嫌がっている様子でじたばた猫が暴れるが、そんな事ものともせずにピオニーは撫でまくっている。それを羨ましげに見つめるガイに何故か無念そうなディストと、なかなかカオスな光景だった。
ジェイドも興味深そうに眼鏡を押し上げて赤い猫を見つめる。


「猫、ですか。ルーク、あなたが飼っているんですか?」
「いや、あいつはいつの間にか敷地内に紛れ込んでて……。……そういえば、あいつが現れてからかもしれない」


言葉に出すと、より確信した。確かにあの猫が姿を現せてからだ。今まで何事もなく続いていたルークの日常が、少しずつ変わっていったのは。


「うん、そうだ。あの猫が現れてからだよ。それから何か変なんだよな……」
「なるほど、そうですか。……あの猫が現れるきっかけが何か少なからずあったはずですが、まあ今はいいでしょう」
「えっ?」
「それでルーク。あの猫には何か感じるものはありますか?」


指を差され、ルークは慌てた。まさか猫について尋ねられるとは思わなかったのだ。
出来ればあまり考えたくはない。何故かルークはあの猫が苦手だった。しかしジェイドは逃がしてくれない。おろおろと視線を彷徨わせるルークの肩に、落ち着かせるように、逃げられないように触れてくる。


「何でもいいんです。今あなたが思った事を、正直に話して下されば」
「正直に、って言われても……俺は別に猫好きって訳じゃないから、他の奴がどうしてあいつをあんなに構いたがるのか分からないだけだよ」


言ってて自分で納得した。そうだ、それが不思議で仕方がないのだ。どうして皆、あの猫を見た途端嬉しそうに近寄っていくのだろう。ちょっとだけ珍しい色の、ただの猫だ。しかも懐いている訳でもなく、態度が悪く凶暴な性格の。それなのに牙を剥かれたり引っ掻かれたりしても離れないのはどうして、と毎回思っていたのだった。
そのの返答になるほど、と頷いたジェイドは、首をかしげるルークの目を真っ直ぐ見つめたまま言った。


「ではあなたは、あの猫がそうやって構われるに値しない存在だと思っているのですね?」


それは随分と意地悪な質問だと思えた。まるでこちらが無垢な猫を下に見ている悪い奴だと言われているような気がして、慌ててルークが反論する。


「そ、そういう意味じゃねーよ!ただ疑問に思ってるだけなんだって!どうしてそんな可愛くもない猫に皆執着してんのかなーって……」
「あなたはあの猫を可愛いとは思いませんか。一般的に猫という動物が可愛い部類に入ると知ってはいるでしょう」
「そりゃあ知ってるけど……でもだってあいつは……」


ふさふさの毛とか、綺麗な翡翠の目とか、気まぐれに動く尻尾とか、ぴんと立った耳とか。一つ一つのパーツが可愛いものだとは分かる。しかしあの赤い猫を全体的に見た時、そういう気持ちはさあっと一瞬で引いていってしまうのだった。自分でもよく分からなかった。


「可愛いという気持ちの代わりに浮き上がってくるあなたの感情は、何ですか?」


感情。今のこの、感情。ルークは己の胸に手を当てる。知らない事はまだまだ沢山ありすぎるほどだが、今己の中にある単語の中から一番この感情に近いものを、何とか当てはめられないか考える。
あの赤い猫を。生意気なあいつを。皆の好意など気付かないようにつんと無下にしているあの猫が。


「……認められない」


ぽつり、と。ルークは吐き出した。


「許せないんだ……認められないんだ、あいつの存在を……」


言葉に出してから、頭でもようやく理解出来た。この気持ちの名前。ちっぽけなただの猫に抱くにはおかしい感情だと理解はしているが、抑える事は出来ない。羨ましいとは違う、憎らしいとも違う、ただただあの猫がここにいて、皆の輪の中にいて、当然のように存在している事が……認められないのだ。
ジェイドは笑うことなく真剣な表情でそれを聞いていた。全てを見通すようにわずかに目を細める。


「あなたはまだ、許すことが出来ないのですね」
「……えっ?」
「そこまであなたを追い詰めてしまったのは……間違いなく、私たちなのでしょう」


眼鏡を押し上げたジェイドの表情が一瞬、苦しく悲しそうに歪んでいるように見えてルークは驚く。しかし一瞬後にはもうそれらを見出すことが出来なかった。しかしそれでも、いつものジェイドらしからぬ真剣な赤い瞳が向けられる。


「ルーク。あなたの感情はあなたのものです、他の誰かが変えられるものではない。あなた自身で変えていかなければならないものです。ただ、これだけは覚えておいて下さい」
「う、うん?」
「……私もあの猫は、可愛いと思いますよ」


今更かもしれませんがね、と呟いたジェイドの顔は、笑っていた。いつものあのうさんくさいものではなく、ほんの少しだけ柔らかくしたような。本物のかすかな笑みだった。
ルークはその笑顔に、自分がショックを受けている事に驚いた。今のジェイドの何にこんなにショックだったのだろうか。あの鬼畜ジェイドが可愛いなどと言ったから?いいや、そんな単純なものではない。少しだけ考えて、すぐに気が付く。ジェイドがあの猫を可愛いと言った事、その事にショックを受けていたのだ。
だって何故かルークは、ジェイドだけはあの猫を可愛がったりはしないだろうと根拠も無しに確信していたからだ。
視界の端では、赤い猫がとうとうピオニーの腕から抜け出すことに成功して、ああーという残念な声が上がっている。猫はこちらへ逃げてくると、少し距離を取ってその場に座り込んだ。それに気づいたジェイドが、静かに手を伸ばして金色がかった赤い頭に触れる。猫は逃げなかった。
そっと控えめに撫ぜる指は、見た事も無いような優しい動きで。気持ちよさそうに目を細める猫の姿に、何度目かもわからない「どうして」が浮かんでくる。まるで逃げるようにルークは目を逸らした。
逸らされた瞳は、自然と窓の外を見る。雨足は弱まることなく降り続けているが、その雨の向こうに今一瞬、何かが見えた気がした。


「……あれ?」


それは人影の様に見えた。思わずルークは立ち上がる。急いで窓際に近づき外を覗き込めば、薄暗い中庭の端、入口にやはり誰かがいた。誰かは分からない。雨と影で正体がつかめないその人物は、足早に中庭から立ち去る所だった。こんな雨の中、中庭で一体何をしていたのか。


「ルーク、いきなりどうした?」
「今、誰かがそこに……。っ!」
「あ、おい?!」


無性に正体が知りたくて、ガイの制止の声も聞かずに駆け出した。中庭へ続くドアをルークが勢いよく開けるのと、ちょうど向こう側のもう一つのドアへ人影が体を滑り込ませるのは、ほぼ同時であった。


「っ待てよ!」


この雨の中でも声は届いていたはずだ。しかし人影は立ち止まる事のないまま姿を消し、無情にもドアは閉められる。ルークは衝動的にそのまま外へ飛び出していた。体に雨粒が叩きつけられるのも厭わないまま歩を進める。歩みを止めたのは、ちょうど中庭の中心に立った時だった。


「あ……」


ルークは気付いた。中庭の様子が、いつもと違う事に。
皆で植えた種が発芽しすくすくと成長していた途中の花壇だった。この雨ではもうすぐ花を咲かせる頃だった植物たちもやられてしまうのではないかと、少しだけ心配していた所だった。今日ずっと止まない雨に、もし野ざらしのままだったらルークの懸念通りになっていただろう。しかしルークの目に飛び込んできたのは、地面に倒れる植物たちではなく別の光景だった。
中庭の花壇全てに、雨風を避けるためのシートが被さっている。きちんと固定してあるようで、よほどの嵐でもなければ外れないだろう。しゃがみ込んで中を覗けば、葉を元気よく広げたままの植物たちが守られた状態で並んでいるのが見えた。雨が降る前はこんな状態では無かった。ジェイド達が来る前中庭を眺めている時もいつもと変わらぬ姿をしていた。では、いつ。


「……さっきの、あいつ」


逃げるように姿を消した人影。ほぼ間違いなく、あの人物がやったのだろう。そして多分、今まで何かと花壇の世話をしていたのも。やはり屋敷の中の誰かだったのだ。
雨の降りしきる中、ルークは人影の消えたドアを見つめる。あの人は何故花壇の世話をしてくれるのだろうか。自分が植えた訳でもない花の世話をする理由なんて無いはずなのに。そもそも始まりはあの人が荒れていた花壇を綺麗に整えてくれてからだ。一体、何故。
ふとその時、しゃがみ込んだままのルークの頭上に影が差す。すぐそばに、いつの間にかジェイドが立っていた。まるで雨など降っていないかのように涼しげな顔で、中庭を見回している。


「あの中庭がここまで。随分と賑やかになりましたね」
「ああ……うん。皆何故か色んな種を持参してきてさ、ここに植えていくんだよ」
「そうですか。奇遇ですね」
「……へ?」


前髪から雫を垂らしながら見上げたルークの視線の先、にっこりとジェイドが広げた手の平には案の定、大小さまざまな種らしきもの。まさかこの男まで持っているとは、とルークも呆れ果てた。


「この雨が上がったら私たちにも植えさせて下さいね」
「私たちって……もしかしてディストはまだしもピオニー陛下まで一緒に?植えさせるのか?」
「大丈夫ですよ、日ごろから畜産やってますからあの人」
「あのブウサギたちは一応ペットだろ……畜産って言ってやるなよ……」


まああの皇帝なら誰よりも張り切って取り組みそうだけど、とため息をついてから、ルークは空を見上げた。雨粒が直接目の中に入ってくるが、不思議と痛くは無い。むしろ気持ちが良いくらいだ。
いつの間にか、あれだけ激しく降り注いでいた雨の勢いは徐々に弱まってきている。これ以上天気が悪くなることはきっとないだろう。


「雨、止むかな」
「止みますよ。止まない雨なんて有り得ませんから」


ルークの独り言に近い呟きに律儀に答えてから、ジェイドはルークを見下ろした。


「さっき私が言った事を覚えていますか、ルーク」
「えっ?何が……」
「あなたの感情はあなた自身でしか変えられない、と言いました。しかし人間は誰だって、なかなか自分では変わることは出来ない。きっかけ自体は大体他者から与えられるものです」


ジェイドが何の事について話しているのか分からない。しかし自然とルークは聞き入っていた。聞かねばならないと思った。


「あなたにはこの中庭を整え、世話をし、常に良い方向へ動かそうとしている人物がいる。それは分かりますか」
「……うん、誰なのかは、分からないけど……」


その謎の人物が果たしてルークのために行っている事なのか、それは分からなかったが、頷いておいた。ジェイドは満足そうに頷いた後、安心させるように、励ますように、そっと笑った。


「後はルーク、あなた次第です」


ルークは不思議に思った。
この雨のせいだったのか。確かに笑っていたはずのジェイドの顔がまるで、泣いているように見えたから。



14/06/30



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