風見が指した






思えば周りの景色が音を立てて変わる時、そこには必ず風が吹いていた。







「今日は、風がありますわね」


ふと、目を閉じてそう言ったナタリアに、ルークも真似て目を閉じてみた。視覚を閉ざせば他の感覚が鋭くなるものだとどこかで聞いたことがある。果たしてその頬に感じたものは、そよりとわずかに空気の揺れる感覚であった。先ほどまで話に花を咲かせている状態では気付かなかったであろう微風だった。ナタリアはよく気付いたものだと感心する。


「確かに、吹いてるっぽいけど……かなり微妙な風だなあ。気持ちよくも何ともなくね?」
「いいえ、吹いている事そのものに意味があるのですわ」


何故だか嬉しそうにティーカップに口をつけるナタリア。この吹いているかも微妙な風を喜んでいるように見えた。どうしてそんな事で喜べるんだか、と首をかしげながら、ルークもまだまだ温かな紅茶をごくりと飲む。中庭で開かれた二人だけのお茶会は、そうして和やかに過ぎていく。いつもの事だった。
ナタリアはたまにこうして、忙しい公務の中ルークに会うためにお茶をしに来てくれている。どうせ来るならアッシュとお茶でもすればいいのに、と一度言った事があるが、その時は何故か怒られた。ルークに会いに来ているのに何故そんな事を言うのか、とお説教をした後、


「それにアッシュとは、外でも会っていますから」


そう言ってにっこり笑ったナタリアを見て、ルークもようやく納得したのだった。自由に外に出られるアッシュと違って、ルークの行動範囲はこの屋敷の中だけだ。ルークに会うためには屋敷へと自ら出向かなければ出会えない。何でわざわざ俺なんかに、と思わないでもないが、これ以上言うとナタリアが本気で怒りそうだったので有難くこの状況を受け入れる事にしている。


「そう言えばこの屋敷に、新しい住人が増えていたとティアに聞いたのですけれど」


お茶菓子に置いてあったクッキーを手に取って、思い出したようにナタリアが切り出した。カップを置いたルークが目を瞬かせる。


「ティアから?」
「ええ、この間会った時に。アッシュときたら、そういう事はわたくしに教えて下さらないんですのよ。随分と可愛らしい住人だったとティアが幸せそうに言っていました」
「ああー……まあ確かに、見た目はな……」


気まずそうにルークは目を逸らす。ルーク自身はあの赤い猫を可愛いなどとは思わないが、世間一般的には可愛い生き物に分類されるのだろうから肯定するしかない。ティアなんかはあの凶暴な性格すら可愛いなどと言っていたが。
ナタリアはルークの乗り気ではない態度など気にする様子もなく、好奇心旺盛な瞳できょろきょろと中庭を見渡した。


「それで、その子はどこにおりますの?」
「俺は知らねえよ。いつもどうやって過ごしてんのか、さっぱりだし」
「まあ!いくら安全な屋敷といえど、行動範囲ぐらいは把握して差し上げなくては、何かあった時すぐに探してあげられないではないですか!」
「いや、それこそ知らねえし!別に俺が飼ってる訳じゃないんだからさ」
「あら、そうでしたの?」


心底意外だ、という目で見られる。心外だった。相手は勝手に住み着いた可愛げのない野良猫(多分)だというのに、勝手に飼い主にされてはたまらない。確かに毎日、近づいてこないくせに視界の隅っこに入る位置でこちらをじっと見つめてきているが。その目つきはとても友好的なものではなく、むしろ恨みがましそうに睨み付けているようにすら感じる。俺がお前に何をした、と一回声を掛けてみたら、すぐさま逃げられた。訳が分からないままだ。
ルークはため息をつきながら、ミュウを思い浮かべていた。同じように勝手にまとわりつかれた生き物だが、あちらはまだルークへの好意を全身で表している分可愛いものだ。たまにウザったい事に変わりはないが、あの猫よりは何倍もマシだと思った。自然とこの間ティアと共に会った事を思い出す。
とそこで、二人きりのお茶会に訪問者が現れた。ガイが案内のために中庭へのドアを開けた隙間から元気よく飛び出し、真っ直ぐルークへと向かってきた。


「ルーク、お客さんだぞ……っと?!」
「ルークー!久しぶりー!」
「ぐえっ?!」
「こらーっフローリアン!飛びつく前にまずは挨拶しなさいっていつも言ってるでしょ!」


思いっきり飛びつかれ両手で締め上げられて、思わず口から空気が漏れる。視界いっぱいに広がる緑の髪と、聞き覚えのある少女の声に呼ばれた名で、この力の正体が何であるかを悟る。後ろから引っ張られて、すぐに離れた残念そうな顔にルークは笑いかけた。


「ほんと、久しぶりだなフローリアン。元気だったか?」
「!うん!すっごく元気だよ!」
「アニスも、元気そうだな」
「まあねー、どんな時でも元気いっぱいなのがアニスちゃんの魅力ですから!ルークの方は……」


フローリアンの隣に立ったアニスが、じっとルークの顔を覗き込んでくる。少し緊張してその視線を受け止めていると、満足そうににっこりと微笑まれた。


「うん、顔色よーし!ていうか前よりずっと良い顔してない?何かあった?」
「え?!そ、そうかな……」


確かティアにも似たような事を言われている。そんなに今の自分は前と比べて変わっているのだろうか。自覚は一切無いので、ルークは戸惑うばかりだ。
ガイが追加ですぐに用意してくれた椅子に腰掛けながら、アニスはナタリアにも挨拶をしている。


「ナタリアも久しぶりっ!はあ、最近忙しくてさあ、寝る間も惜しんで動いてるからなっかなかここに来れないんだよねー。ナタリアも忙しいんじゃないの?」
「確かに、やるべき事がまだたくさんありますわね。しかし大事な友人と会う機会ぐらいは、自分で作りますわ」
「むー、いいなあ。私も早く自分で時間が作れるような立場になれればいいんだけど……」


ぐったりとテーブルに顎をつくアニスが本当に疲れているように見えたので、ルークは慰めるためと、そんな忙しい合間にここまで来てくれたことへの感謝を込めて、その頭を優しく撫でた。びっくりした目で見上げてきたアニスだったが、すぐに嬉しそうに笑顔になる。憎まれ口でも叩いてくるかなと思っていたが、素直に受け入れられたことに少し驚いた。
アニスの向かいに座ったフローリアンが、それを見て反対側からぐいぐいと引っ張ってくる。


「あーっずるい!ルーク、僕も僕も!」
「はあ?ったく、仕方ねえな……ほら、よしよし」
「えへへー」


アニスを撫でる左手はそのままに右手でフローリアンも撫でてやると、すぐに満足そうに笑った。まだ子供だから撫でられるのが好きなのかなと考える。何せフローリアンは、7年しか生きていないルークよりもまだ後に生まれてきたレプリカなのだ。自分が何のためらいもなく兄貴面出来る数少ない相手である。
微笑ましい光景を眺めて、ナタリアも満たされたような笑顔になっている。さすがに「ずるいですわ!」とは言いださなかったが、少しだけ羨ましそうに見えるのは気のせいだろうか。


「フローリアンはいつ見ても無邪気で癒されますわね」
「うん。でも最近はちょっと賢い事言うようにもなってきたんだよ。導師の勉強とか自分でしたいとか言ってくるし」
「まあ、それではフローリアンは導師になる事を目指していますの?」
「んーそれはどうだろ。今はただ興味を持ってるだけって感じかな。フローリアンは頭良い子だけど……イオン様ほど導師に向いてるのかなあ」


イオン。その名を出す時、アニスの声がふわりと柔らかくなった。ルークも、名前と同時に思い出す笑顔に胸の中が暖かくなる。あんな別れ方をしてしまったが、温かな思い出はここにいつまでも残っている。忘れる事はきっとないだろう。

……あんな、別れ方?


(そういえば……イオンはどうして、いなくなってしまったんだっけ)
「ねえ、ルーク!」
「?!」


何かについて考えに没頭しそうになった所へ、フローリアンから声を掛けられた。はっと目を見開いたルークは、まるで眠りかけたかのようにぱちぱちと瞬きをして、こちらをじっと見つめるフローリアンへ視線を合わせる。


「ど、どうした?」
「あのね、ルークに聞きたい事があるんだけど、いい?」
「ああ……俺で答えられる事なら。言ってみな」


ルークが頷けば、フローリアンはやったーと手を広げた後、ことりと首を傾げた。


「ねえ、何でルークは、このお屋敷から出ないの?」
「……えっ?」


それは、予想していた質問とはまったく違うもので、思わずルークは目を見開かせていた。フローリアンは純粋な瞳で、静かにルークを見つめている。


「このお屋敷はとても広いけど、狭いよ?ルークが出てきてくれればもっと一緒に遊べるのに。どうして?」
「……は、はは。何だ、そんな事か。そんなの、簡単だ。だって俺は……」


だって、俺は?
ルークは静止した。今、何を言おうとした?どうして簡単だなんて言った?
だって、確かに簡単な問いだったはずだ。フローリアンが尋ねたような問いにいつでも誰にでも答えられるような明確で単純な答えを、かつてルークは持っていたはずだ。それは決して抗えない、ルークにとって絶対的な答えで、覆されることなどない強力なものであったはずだ。
その答えは、何だった?
かつて強固に縛り付けられていたはずのその答えは今、どこにある?


「ルーク?」
「……っ!!」


心配そうに覗き込んでくるフローリアンから、逃げるように音を立てて椅子を引く。ガタンという大きな音に自分でもびっくりして、余計に混乱する。何も答えられない。答えが見つからない。どうして?


どうして俺は、屋敷から出られないんだっけ?



「……フローリアン、駄目だよ、あんまりルークを困らせちゃっ」


ピン、と。身を乗り出してテーブル越しにフローリアンの額を指で弾いてみせたアニスに、ようやくルークはハッと我に返った。ひゃっと声を上げたフローリアンは、赤くもなっていないおでこをおさえて情けない顔になる。


「うーっだってルークとももっと会いたいんだもん」
「気持ちは分かるけどもっ!フローリアンだってお勉強で忙しいでしょ?そんなに遊んでる暇はないよ!」
「あーっそうだった!」


アニスがフローリアンに言い聞かせている間に、テーブルの向こうからナタリアがこちらを案ずるような表情で話しかけてくる。


「ルーク、大丈夫ですか?」
「あ……ああ、うん……」
「頭を使う事は大事ですが、使いすぎるのもいけませんわ。急がなくともいいのです……ほら、風に当たって気分を落ち着けて下さいまし」
「うん……ありがとうナタリア」


ちょうど吹き付けてきた風に全てを預け、目を閉じる。冷たすぎない、強すぎないそよ風は煮詰まっていた頭の中を爽涼に吹き抜けていって、とても気持ちがよかった。額に滲み出ていた汗もこれで乾くだろう。
そこでルークは風の存在に気が付いた。そう、風が吹いている。最初ナタリアに言われなければ気付かなかったような強さのはずだったそれは、今明確に中庭を吹き渡っている。いつの間に吹き始めていたのだろうか。覚えがない。言葉を交わしていたアニスとフローリアンも口を閉ざし、しばし皆で風が渡る中庭を眺めていた。
しかしそんな穏やかな静寂は、すぐさま破られる事となる。


「あっ!」


ぴょんと突然椅子から立ち上がったフローリアンが、中庭の一角を指差して声を上げた。


「猫だっ!」


そのまま勢いよく駆け出していく。フローリアンが目指した場所に目を向ければ、確かに一瞬緋色の尻尾がちらりと見えた。静かに中庭を横切ろうとした所を運悪く見つかってしまったのか。アニスはすぐにフローリアンを追いかけ、ナタリアも背伸びをして立ち上がった。


「ちょっと待ってフローリアン!いきなり走ったりしたらこけちゃうよ!」
「どこ?どこにいましたの?噂の猫ですわよね?」
「フローリアンに捕まるかなあ、あいつ意外とすばしっこいんだよ」


ルークだけは椅子に座ったまま、皆の動向を眺める。フローリアンを止めるために傍に駆けたはずのアニスは、すぐに一緒に赤い猫を追いかけ始めた。すばしっこい猫は二人がかりでもなかなか捕まらず、前はあれをよく一人で捕まえたものだと密かにミュウに感心した。
やがてうずうずしていたナタリアが耐え切れずに参戦し、3対1の追いかけっこが始まる。ルークはやっぱり座ったままでその様子を見ていた。


「アニス、そっちに行きましたわよ!」
「任せて!うおりゃあーっ!……あーもうっ惜しい!」
「猫ちゃーん待ってー!」
「あいつらよく諦めねえなあ……」


きゃーきゃー騒ぎながらあっちこっちへ逃げまくる猫を追いかける三人に、ルークは呆れ半分感心半分といった気持ちだ。どうしてあれほどまでに追いかけるのか。どうして諦めないのか。不思議で仕方が無かった。
それから幾何かも経たない頃、とうとう猫は捕まる事となる。しかし捕まえたのはナタリアでもアニスでもフローリアンでもなく、たまたま通りかかったガイだった。


「よっ、と。ほら、捕まえた」
「シャーッ!」
「わあ、猫さんすごく怒ってるよ!」
「ははは、大丈夫大丈夫、ちょっと照れてるだけだよ」


中庭に足を踏み入れた途端、あっさりと猫を捕まえたガイ。牙を剥いて威嚇する赤い猫も、何となく本気で逃げ出そうとしていないように見えた。猫が捕まったのを見て歩み寄ったルークが、じっとりとガイを見る。


「ガイ、まさか……日頃こいつに餌をやって懐かせようとしてるんじゃないだろうな」
「なるほど、それでしたらガイがこの子をすぐに捕まえてみせたのも納得がいきますわ」
「えーっガイずるーい!」
「ずるーい!」
「そそそ、そんな事する訳ないだろ!ひっ人聞きの悪い!」


ガイが慌てる。その慌てっぷりがなおさら怪しい。四人分の目からじっと見つめられて、ガイはその両手で持った猫ごとお手上げした。


「いや……まあ、餌をあげようと試みているのは間違いないさ。でもこいつ、食べようとしてくれないんだよ。これは本当の事だ」
「え、そうなのか?」
「ああ。でも痩せている訳じゃないし、もしかしたら他の誰かが餌をあげているのかもしれないな」


俺を差し置いて一体誰が!と悔しそうなガイは放っておいて、ルークは赤い猫を見た。翡翠色の目が合った途端ふんと顔をそむけられる。可愛くない。しかしガイの言う通り、数日何も食べていない様子では無い。それにしては毛並みもつやつやで、身体も綺麗にしなやかだ。
フローリアンが瞳をきらきら輝かせて猫へと両手を差し出した。


「僕も!僕もだっこしたい!」
「え……ちょっとフローリアン、大丈夫?」
「うん、大丈夫!優しくだっこするから、ね?」
「そうだな……ちょっと抱いてみるかい?もう暴れてくれるなよ……」


ガイがそっと赤い猫をフローリアンに渡す。意外に上手に猫を受け取ったフローリアンは、満面の笑みで柔らかくぎゅっと抱きしめた。全員でハラハラと一人と一匹の様子を見守ったが、どうやらこれ以上猫が暴れる様子はないようだ。ルークは意外だった。てっきりすぐに、体をよじって猫が逃げ出してしまうと思っていたのだ。


「えへへ、可愛いねー」
「ほーんと、さっきと違って随分大人しくなっちゃったじゃん。フローリアン、次私にも抱かせて!」
「その次はわたくしでお願いします!」
「はは、モテモテじゃないかお前」


猫を抱くフローリアンも、順番待ちをするアニスもナタリアも、猫の頭を撫でるガイも、皆笑顔だった。
どうして。
ルークは考える。今日はたくさんの「どうして」と出会ったが、このどうしては猫が現れてから、ティアがこの赤い猫に触れてからずっと思ってきたことだ。
どうして皆、あの猫に触れたがるのだろう。あんなに逃げ回る、あんなに愛想のない、あんなに暴れるただの野良猫に。ルークにとっては可愛くない、むしろ遠ざけたい存在のあいつを。
あの赤い猫が皆に囲まれている姿を見ると、訳が分からなくなる。湧き上がってくるこの気持ちは何なのだろう。嫌な気持ち、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、怒りの気持ち、様々な気持ちが綯い交ぜとなってルークに襲い掛かってくる。こんな気持ちは、初めてだった。


「……あら?」


思考の海に沈んでいたルークの耳にその時、不思議そうな声が届く。反射的にそちらへ視線を向ければ、さっきまではしゃいでいたナタリアが猫から離れて足元を見下ろしていた。どうやら花壇を覗き込んでいるようだ。
突然声を上げたナタリアにルーク以外の皆も驚いたような顔をしている。代表してアニスが尋ねかけた。


「ナタリア、どうしたの?」
「ルーク、あなた……花壇の手入れをされましたの?」
「へっ?」


逆に尋ねられてきょとんとする。そうしてすぐ、以前からナタリアがこの中庭は殺風景だと嘆いていたことを思い出した。いつの間にか整えられて真新しい土が盛られている花壇を見て驚いたのだろう。しかしそれをやったのはルークではなく、名も分からない誰かさんだ。
ティアとミュウと気まぐれに種を植えた後、屋敷の人間にそれとなく尋ね回ったりしてみたのだが、誰も花壇の事は知らなかった。結局あの日から花壇はそのままで、ルークは世話はもちろん様子を見る事さえしていなかったのだった。


「いや、俺じゃないんだ。誰が綺麗にしてくれたのか分からなくてさ……俺はこの間ティアとミュウと一緒に種を植えてみただけで」
「芽が、」
「……え?」
「芽が出ていますわ」


ナタリアが花壇の中を指し示す。目を見開いたルークは、ぎこちなく足を動かして花壇へ近づいた。こうして意識して花壇を覗くのは種を植えた日以来の事だ。どうせ何も芽は出ないだろうと思っていたのだ。水も何もあげていないのだから、出る訳がないと。どうせ世話なんてやった事がないし、と、初めから全てを諦めていたのだ。
そんな、ルークの瞳に。その瞳の色と同じような瑞々しい緑色が映り込む。ぽつぽつと一定間隔で小さな小さな緑の芽が、いくつも顔を覗かせている。それらはルークの記憶が確かなら、二人と一匹でスコップを手に一つ一つ種を植えていった場所から出てきている。あの種が、間違いなく芽吹いていた。
ルークが呆然と立ち尽くしている間に、脇から同じように覗き込んだフローリアンとアニスが歓声を上げる。ガイも感心したように笑った。


「ルーク、お前たちが埋めた種だろう?良かったじゃないか」
「すごーい!前に見た時はこの花壇荒れ果ててなかったっけ?ルークやるじゃん!」
「ほら、見て見て猫ちゃん!芽が出てるよー」
「……にゃん」


フローリアンに抱えられたまま同じように花壇を見下ろした赤い猫は、尊大な顔で一つ鳴いてみせた。猫の言葉なんて分からないが、何となく、やれば出来るじゃねーかみたいな事を言っているような気がする。
アニスに感心されたりガイに褒められるように肩を叩かれたりしても、ルークは少しも嬉しくなかった。植えただけで育てた訳では無いので実感が一切沸かないのだ。


「でもこれ、俺はまったく世話なんてしてねーぞ。ガイがやってるんじゃないのか?」
「いや?俺もこの花壇に手を付けたことは無いさ。ペールも代わりの庭師もいないし、他の使用人たちも花壇の整備なんてやっていないはずだがなあ」


よく見れば雨が降ったりしていないにも関わらず土もわずかに湿っている。少なくとも今日か昨日、誰かの手によって水が撒かれたのだろう。心当たりは、まったく無かった。
何となく犯人は、始めにこの花壇をこっそり整えた人物ではないかと思った。確証はないが、そうでなければ誰にも知られないようこっそり花壇の手入れをするような酔狂な人物が、この屋敷に二人以上いる事になってしまう。
ふいに、横からルークの手がガシッと力強く握りこまれた。びっくりして顔を向けると、決意とやる気にあふれるナタリアの顔と出会う。


「ルーク、わたくしも種を植えてよろしいですか?」
「……はあ?!」
「ちょうどこのように、わたくしも種をもっていますの。そこの開いている場所に、是非!」
「あ、私も私も!ルーク、いいでしょ?」
「僕もやるー!」


すかさず手を上げるアニスとフローリアンも、ナタリアと同じようにいつの間にか植物の種を手に持っている。一体この状況は何なんだ。助けを求めるようにガイを見るが、良い笑顔でガイも手の平を差し出してくる。その上に乗っているのは、もちろん。


「いいじゃないかルーク。場所も余っているし、俺もこの種を植えさせてくれよ」
「………。もう、好きにしろよ」


投げやりなルークの許可が出ると、どこに植えようとかどんな花が咲くだろうとかわいわい賑やかに話しながら揃って作業に入っていく。何故か一様に楽しげだった。
最近は園芸がブームでもあるのか。訳が分からないまま、ルークは皆が種を植える様子を後ろから見つめる。この種たちも芽を出すだろうか。花を咲かせるのだろうか。この何もなかったはずの中庭を、どのような色で彩るのか。

空を見上げたルークの途方に暮れたような顔に掛かる前髪を、少し強めの風が撫でていった。




「……風が、」


真夜中、誰もが寝静まる時間になっても止まない風。その風を受けて、宙になびく真紅の長髪があった。
中庭の真ん中で空を見上げた翡翠が、次に見つめたのは……狭くて小さな一つの部屋。その中で眠るお日様色の主を見通した瞳が、そっと細められる。


「ようやく、か」


その視線に込められた感情は。



14/06/18



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